現実、更に。

しかし、私は家に帰って一息ついてから、ナユを我が家に出迎えるのに金が十分でないことを、フと気が付いたのです。

それに、曾祖母、祖母、母の事もスッカリ忘れていました。

恥ずかしながら、ナユを手中にできるのがなんとも嬉しくって浮かれてしまっていたのです。

なんていったって、艶花ナユという女は薔薇の温室で生きている女なのです。

あたたかな部屋で白のカウチに横たわり、心地の良い夢を見て、目を覚ます。

傍らには薔薇の花束にチョコレート。柘榴がのった銀皿に苺のシャンパン。魅惑的なドレスに絶えず眩く宝石がある。

〝ホワイトルーム〟から出たナユが、貧相で何も無い我が家にやって来たとしてその生活に耐えられるのかと考えると……可哀想でしょうが無いのです。

__彼処よりも、豪華で、幸福な、そんな空間を与えてやらなきゃ__。

私は急いで、鞄の中から財布を取り出し、中にいくら入っているかを確かめました。

財布には驚いたことに、中には百円玉が五枚と十円玉が十三枚しか入っていなかったのです。

私は思わず息を飲みました。「なんてこった!」という具合に。

口座はどうだったか。と私は慌てて箪笥から通帳を取り出し、中を開いてみますと、其方には数百万程ありました。

会社勤めの時は仲の良い友人もいなかったので、遊びに行くこともなければ大きな買い物をすることもなかったので金が溜まっていたのです。こればかりは過去の自分に感謝する他ありません。


だとしても、まだ足りない。

認知症の曾祖母の口座から金を取る。

まだ足りない。

祖母の箪笥貯金から金を取る。

足りない。

深夜、母の財布から金を取る。

まだ足りない。

つい〝うっかり〟して、曾祖母と祖母、母を一酸化炭素中毒で一気に無くし、保険金を得る。

これでようやく足りたのです。


私はかき集めた金を全てナユの為に注ぎ込みました。

家の離れに建てられた、かつて曾祖母が若い頃に使っていたという可愛らしい洋館。……こぢんまりとして〝ホワイトルーム〟には敵いませんが、温室もついていました。

そこに幾千本の薔薇に、雪柳、紫陽花に撫子、そして向日葵を一杯に植えて、ナユが寂しくないようにしました。

中心には猫足のバスタブなんかも置いたりして、いつでも一緒にお風呂に入れるようにして……。

ナユを出迎えるのに十分は万全でした。

「ナユ。これでまだ楽しい夢が見られるよ」


__翌日、未明。

K・ナチスに準備が整ったと連絡すると、直ぐに艶花ナユ誘拐の計画についての連絡が入りました。

明日、いつも通りに温室に入り、何らかの方法でナユの意識を奪い、〝ホワイトルーム〟の横に車を置いておくのでそれを使って家へ帰れ、と。かなり薄っぺらくて他人任せのような計画でしたが、手助けを受ける身でしたので、あまり強くは言えませんでした。


「女王のお客様ですね。どうぞ」

〝ホワイトルーム〟の入口に立つ黒服は、私に対して何の違和感も持たず迎え入れた。扉の先にはいつもの美少年が立っている。

入れないのであれば無理矢理でも侵入する気でいたので少し拍子抜けしてしまった。

だが今となってはどうでもいい。今日で〝ホワイトルーム〟を傾けさせるのだ。

いつもの様に目隠しをされ手を紐で縛られ、最上階へ向かうエレベーターに押し込められる。あの四日間、心臓は飛び出そうなくらい鼓動が激しかったと言うのに、今は酷く冷静だった。

軋む音を立てながら、温室の扉が開かれる。

ナユはあの日と同じ白いカウチに腰掛けていた。周りに四、五人ほどの男女を連れて。

__此方に全く興味無いように、ナユは自身の爪をカチカチ鳴らし、ピタリと止め、次に手をひらひら揺らして五人を退散させた。

「処刑の邪魔をしましたか」

「いいえ、構わないわよ」

「……お元気そうでよかった」

「貴方もね」

軽度の挨拶を交わした後、沈黙が流れる。

ナユは普段のような雰囲気をまとっておらず、これから起こることを悟っているようだった。

少し時が経って__その静寂を破ったのはナユだった。

「攫いにきたの?」

「ええ、そのつもりで」

「ふぅん」

ナユは興味無さげに相槌を打った。

「結論から言うけど無理よ。私は行けない」

「……何故ですか?」

「簡単よ。アタシはここに居続けるべき〝物〟だから。そして〝女王〟でもある。けれどそれは、〝ホワイトルーム〟だけの事。此処から出ていけば、それ以外の何者でもなくなってしまう」

「成程。つまり、此処から出れば、貴方の価値は無くなるのですね」

「そうよ」

「それなら尚更、都合が良い」

私はその場に飾ってあった薔薇模様の瓶を掴んで、ナユの頭に勢い良くぶっつけたのです。

ナユは血を流しながら、スローモーションの様にゆっくり床に崩れ落ちました。

砕け散った瓶の破片がナユの皮膚に触れる前に私はナユの腕を掴み、手中に収めました。

「これで私だけの〝物〟になってくれましたね」

ナユの裂けた頭部からは止めどなく血が溢れており、私はそれを隈無く舐めとってやりました。

「さあ、行きましょうか」

来た時と同じ様に温室の扉が開かれる。

事前にK・ナチスからもらった〝ホワイトルーム〟のマップを見て、エレベーターに乗り込み一階へ下る。

そして何故か奇妙な事に、エレベーター傍で待機している美少年にも、檻の中の〝物〟にも、沢山の黒服にも誰にも会う事がなかったのだ。

出来すぎた幸運に恵まれ、私とナユは其の儘誰にも見つかること無く〝ホワイトルーム〟から出ることができました。


私とナユは、K・ナチスが用意した近くのパーキングに停められた車に駆け込みました。

ナユを後ろの座席に座らせて、肌触りの良いブランケットをかけて、恰も寝ているかのように見せかけると、逃げるように車を走らせて私の地元へ戻りました。


そして、実家の離れの洋館に閉じ込めてやりました。勿論、逃げられないように手枷足枷を嵌めて、行動の自由さえも奪いました。

ナユが目覚めたら、混乱して泣いてしまうのでしょうか。私の名前を叫ぶのでしょうか。それとも私への恨み言を叫ぶのでしょうか?

けれどもうその声は誰にも届かないのです。だって周りには誰も居ないのですから。

それに泣いていたとしたら、直ぐに私が飛び込んで慰めてやるのです。もう大丈夫だと、もう泣かなくても良いのだと教えてやるのです……。

そんなナユを想像すると興奮して眠れませんでしたが、その日は久方振りにぐっすりと眠る事が出来ました。


ナユを洋館にただただ閉じ込めるのは、最高級品であったナユへの冒涜であるだろうと、私は献身的にナユの世話をしました。

〝ホワイトルーム〟に置かれていた物とは色が違いますが、赤色のカウチソファやら、アメジストのネックレスやら、ガーネットの指輪、上等なシルクで作られたガウン。……毎晩良い香りのする湯で全身を洗い、洗いたての美しい服を見に纏わせ、髪を薔薇の花やレースのリボンで可愛らしく飾ってやる。

そういった生活を毎日続けていると金が湯水の如く消えていくので、私はK・ナチスに紹介してもらった金融屋で金を借りたり、腎臓を売ったり、回してもらった肉体労働の仕事を受け入れられるだけ全て抱え、毎日残業をしました。

__当然、そんな献身がのめり込みすぎたのか、無理が身体に良い筈もなく、私は過労により倒れて病院へと運ばれてしまいました。

「__さん、これ以上は命に関わります。どうか身体をご自愛ください」

医者からそう告げられ、私は止む無く仕事を辞めざるを得なくなりました。それと、何日か入院した方が良いとも言われたのです。

しかし、それはナユの面倒を見る人間がいなくなってしまう事を意味します。私がいないとナユは生きてはいけません。

ですが、確かに疲労困憊していたのは本当なのです。私の体は正直いって限界でした。

__何日かだけならば、少しだけならば、休んでも良いのではないか。今まであんなに尽くしてきていたのだから__

そんな考えがよぎっていました。

「少しばかり、厄介になります」

私のその答えを聞くと、医者は直ぐに了承してくれました。


入院中、私は自分の手を見つめていました。

掌を天井に向け、少しまたじっとして、その手を鼻の近くに持ってきて、スンと匂いを嗅ぎました。

__手は洗えば全て元通りになるのだと、ナユは言っていたのに。

私の手には、死臭が強く残っておりました。


それから数日して私は無事退院し、ナユの様子を見に真っ先に洋館へと向かいました。

__既にお分かりでしょうが、そこにはもう、ナユの姿は無かったのです。

血痕はおろか、ナユに与え続けた金品や服飾品さえも忽然と消えておりました。

まるで神隠しのように。


そこで漸く私は気が付いたのです。

嗚呼、そうかと。例え姿形が女体の〝物〟に金品を貢ごうとも、それが〝女〟になる事はないのです。結局は〝物〟ですから、何一つとて私の献身は無意味だったのです。

__私はただ、〝物〟ではない、〝艶花ナユ〟を手に入れたかったのだと。

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