第二夜
「今日は、身体を洗わせてほしい」
薔薇園の温室。芝生が敷かれたその上に、猫足のバスタブが置かれていた。
傍らには小さなガラステーブルが置かれており、保湿クリームやスクラブ、バスソルトや水差しなどが所狭しと並べてあった。ナユは常にこのバスタブを使用しているらしい。
「アタシ、薔薇が入ってないと嫌なの。だから、少し摘んでくださる?」
ナユがそういうので、私は意気揚々に腕まくりをして、一面に茂る薔薇の木から、一等新鮮そうな薔薇を見極めて、バスケットいっぱいに摘んできた。そしてバスタブにお湯を注ぎ、薔薇の花弁が無数に浮かばせると濃密な香りが温室に広がった。
「いい匂いね」
ナユは既に裸になっていた。真珠から作られたような肌を晒し、さくらんぼのように愛らしい飾りがそれを彩っている。
私はとっくにその体に夢中になっていた。片田舎の辺鄙な女ではお目にかかれない、正しく上等の女。いや〝物〟である。
私が触れてみようか、やめてみようかと悶々考えているのを尻目に、ナユはとっくにバスタブの中に足を入れ、全身を浸していた。
ナユはふと振り返り、温室内の薔薇を見た。
「綺麗に咲いてるでしょう。お客様に楽しんで貰えるように、しっかり管理しているの」
確かに、温室には薔薇が溢れていた。赤や白や黄色、色とりどりの花が咲き乱れ、優雅で華やかな香りが漂っていた。
私は未だ薔薇を摘むフリをしながら、ナユの背中を見ていた。その背は滑らかでシミひとつない。骨の形が分かるほどに痩せていて、肋が浮き出ている。大きな翼の為の空間も取ってあり、肩甲骨がくっきりと浮き──羽のある女が、世の中にはいるものなのだな。__と、私は感心した。
「うふふ」
ナユは笑った。
「見つめちゃ嫌。肌が焼けてしまいそう……」
私はぎくりとしてナユから目を逸らしたが、彼女は特に気にする様子もなく、振り返りもしなかった。まるで独り言のように呟いたのだ。
__やがて薔薇の花弁がお湯に沈んだ頃、ナユは思い出したように言った。
「貴方も入ったら?きっと薔薇の香りがして心地良いわよ」
「……いや。私は……」
と断りながらも、私は興奮していた。あの瑞々しい薔薇園の主であるナユに触れられると思うと心臓の鼓動が早まったし、この大仰なバスタブにも興味があった。
「ネ、いらっしゃいよ」
私は恐る恐るナユに近づいた。服を脱いで近寄る余裕もなく、正に目の前に大量の飯を出された空腹の獣の様に。
艶花ナユに、もつれ込む。惹かれ合う。手繰り寄せられる。_____
そうして遂に、肌と肌が触れ合う距離になっていた。
「貴方の手はあったかいのね」
私は怖気付いていた。それでも本能で薔薇の香りのする女体に手を伸ばし、その白魚のような手に触れた。柔らかい肌が指に吸い付いてくる。私の手が温かいからか、ナユは互いの指と指を絡めて握り始めた。
「アタシが薔薇だったら……貴方は私の茎を掴んで、引き抜いてくれるかしら」
ナユはそう言いながら、私の指に柔く爪を立てた。私はその痛みすら甘く感じながら、ナユの手を握る手に力を込めた。
「アタシが薔薇だったら……そのまま手折って下さる?」
ナユがそれを望むのなら、私は叶える覚悟がある。手折る準備ならとうに出来ている。
この美しき花の命を奪うことが許されているのなら、喜んでその生命を奪おう。枯れていく姿もきっと美しいだろう。その様を見せて欲しい。
「ナユ」
そう語ると共に、私は鼻血を垂れ流した。その血が湯に広がり、透き通っていた湯があっという間に真紅になっていく。それはさながら、薔薇が溶けてしまったように。
「あら、まあ」
ナユは手を差し出して、私の鼻血を掬った。
思いの丈を打ち明けた。ナユは短い笑い声を立てて、それを聞いていた。
「そうね……」
ナユは私の胸の中でクスクスと笑った後、そっと顔を上げて私を見た。濡れた瞳が宝石のように輝いている。睫毛に雫がついているのを見て、私はそれに口付けたいと心底思った。
「でもね、それは無理な話よ」
ナユははっきり言った。
「……どうしてなんですか?」
私が尋ねると、ナユは目を閉じて再びクスクスと笑った。
「何度でも教えてあげる。だって、私は〝物〟なのよ」
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