現実
私が彼女に会おうと決意したのは、二十三、四の時の、確か夏の終わり頃で御座いました。
私の地元は電車は一時間に一本。バスは二本しかなく、見渡す限りに青々とした水田が広がり、秋になれば多くの稲穂が頭を垂れます。
季節によっては、トマトやら胡瓜やらマクワウリが実り、畑に彩りを添えております。
周りに良く言えば、自然で開放的ではありますが、自分に悪く言えば、閉鎖的な土地でした。
地元の住民とはほぼ顔見知りで、会話をしない日はないくらいに距離感が近いのです。
そこの大地主でありました祖父と結婚した祖母や、その娘の母が惜しげも無く自分達の家の事情を周りにひけらかすものですから、家の事情は全て筒抜けの状態であり、家族にしか伝えていなかった事でさえ、住民に会えばその話を振られるのです。
息子が○○の大学へ進学した。曾祖父が死んだ。○○という会社に入社した。祖父が死んだ。息子が彼女と別れた。……田舎では、自らの不幸話と娘息子、孫の自慢話しか娯楽がないのです。
田舎に生まれてしまえば、噂の種として扱われる他ないのです。私はもう、既にそれに対して割り切っておりましたから、特に抵抗などしませんでした。
「あんた、誰ね」
「お父さん(祖父の事でしょう)が居た頃、○○って所に行ったの、覚えてる?凄く楽しかったねえ。また行きたいねえ」
「アンタ、そろそろ結婚とか考えとるん?何よその顔。心配して言っとるんよ。私、孫の顔見てからポックリ逝きたいわあ」
と、口を開けば何度も何度も話した事を繰り返し尋ねてくる曾祖母。
亡くなった祖父の面影を未だ忘れられずに、過去の思い出を必死に掘り返す祖母。
顔を見合わせれば、結婚や恋愛について語る母。母に至っては、年上と付き合った方が女は幸せになれると毎日豪語している。何故なら母は年下と付き合って結局離婚して失敗しているからだ。(父は既に再婚しているようである)
そんな三人とほぼ毎日揃って夕食を食べているが、まあその時の空気が地獄絵図である。
曾祖母は耳が遠いので祖母がキンキンと大声で尋ねられた事に対して答え(低くゆっくり話してはどうかと言ってみたが返事は無く)祖母と母は近所の奥さんの不妊について、噂話つまみに批判し異端だと笑う。
息苦しいまま夕食を足早に終え、私は自室に籠るのです。何も聞いていなかったようにして。
しかし一度、この家族を全て否定してしまいたいと思った事がありました。
私はこの田舎から出ていく為に死ぬ物狂いで勉学に励み、都会の大学に入り、卒業して直ぐ企業に勤めました。ですが、どうしてもその企業に馴染めず、何が原因だったのか分からないまま私は適応障害に陥ってしまい、引きこもりとなってしまい、果てに一人で生活をするのも苦しくなったその時、あの田舎に帰る事を決意したのです。
母親と祖母は何も言わず、ただ虚ろな目をした私を出迎えてくれました。その何とも言えないむず痒さやら恥ずかしさは今も頭にこびりついております。
人目を気にしながら、母に付き添われながら田舎をひっそりと出て心療内科に通ったり、一年以上引きこもりの生活を続けて漸く、私は働ける状態に戻りましたので、何とかしがみついた村役場の仕事で今は生活をしています。
ある日の仕事帰りの事です。
母と隣のおばさんが何か話をしている所を見かけたのです。いつもならば気にしないのに、その時は何故か異様にその二人が気になったのです。見つからない範囲でひっそりと二人の話に耳を傾けると、どうやら私の話をしているようなのです。
「○○さんの息子さん、何か病気だったの?」
「病気じゃないわよ!適応障害ってやつ」
「適応障害?初めて聞いた」
「なンかさァ、いっちばん酷い時なんか、朝起きたら洗面台の前で蹲ってたり、急に泣き出したり、部屋で暴れはじめたりしててさ」
「え〜ッ!怖いね!」
「ありゃ適応障害っていうモンじゃないかもね。私、殺されるか思ったもん」
「思う思う!そんな急に暴れられちゃあね」
「あ〜、早くまた家出てってくれないかしら。おばあちゃん二人の世話もして息子の世話もして、私の幸せ何処に行ったのって感じだわ」
私の頭は真っ白になりました。
あの日、出迎えてくれた母の顔を、記憶の隅から必死に手繰り寄せようとしました。
何度も、何度も何度も何度も何度も、あの日の母の顔を思い出そうとしているのに浮かんでくれないのです。
指先が冷えていく感覚。見放されている恐怖。
母に縋る温もりを手放す決意。
私は涙を流しながら、必死に走って家に帰りました。自室に付くと勢い良く扉を閉めて、力が抜けたのか私はズルズルと床にへたり込みました。
緊張の糸が解れたのかしれませんが、母に夜な夜な辛い悲しいと相談していたのが馬鹿らしい。あんな人を信じるのではなかった、と後悔と失望が大量に私に押し寄せてきました。
もう家族を信じるのはやめよう。もう誰も近寄らないでくれ……。
そして私は、再び引きこもりになってしまったのです。
そんな世界で、私の心を唯一救ったのがあの〝艶花ナユ〟だったのです。
深夜だったでしょうか。訳も分からず泣き続けていた私は、SNSやゲームをする事も出来ないくらい疲れ果てていました。
でも、何か手を動かしたいかもしれない。とスマートフォンを手に取り、脳を阿片で浸したみたいに頭をぼうっとさせながら、百件以上も溜まったメールをただただ削除していました。
どれくらい削除していたでしょうか。フ、と目に止まったメールが一つあったのです。
件名は『〝ホワイトルーム〟より愛をこめて』とだけ。ファイルと共に送られていました。
はて、何か詐欺だったりするのかしらと私はすぐさま思いました。
いつもならば件名だけを読み、不要だと思えば直ぐゴミ箱に移動させるのに、こればかりは開かずにはいられなかったのです。
思い切ってエイヤとメールを開き、ファイルを押すと、とある一枚の絵画が現れました。
白色のカウチに横たわる女__。豊満な肉体は滑らかな曲線を用いて、優雅でエレガントな印象を醸し出している。
胸の飾りは、纏う白色の絹で隠れてはいるが、乳そのものは露出しており、ほぼ見えているが下品な印象はなく、婀娜っぽい姿なのです。
そして、キッと劈く様な赤色の唇と巻かれた髪が、やけに私の視線を奪っていきました。
正しく〝女神〟と言ってもいいくらい、その絵は芸術的に仕上がっていたのです。
その絵画を見て、私は一瞬で心を奪われてしまいました。枯れ果てた砂漠で遂にオアシスを見つけたみたいに、荒んだ私の心が癒されていくのを感じるのです。
作品タイトルには『女王・艶花ナユ』とだけ書いてあり、他に作者名や解説などは記載されていませんでした。
この〝ホワイトルーム〟という所にさえ行けば、艶花ナユという女に会えるのではないか?と考えた私は、この足で〝ホワイトルーム〟に向かう事を決意したのです。
ネットで〝ホワイトルーム〟と検索をかけてみるもそれらしいものはヒットせず、では艶花ナユではどうかと検索しても、此方もそれらしいものは出てきませんでした。……もう途方に暮れるしかありません。
あんなに麗しい女は一世一代二度と出会えません。嗚呼、どうか、私の目に、あの艶花ナユの御姿を映してはくれませんか。と私は何度も何度も神に願いました。
__すると、そんな様子を見兼ねたかの様に、数日後にあの〝ホワイトルーム〟からもう一件メールがやってきたのです。
其れはどうやら……住所のようなのです。そして最後に『貴方にお会い出来るのを楽しみにしております』と添えられていました。
私は、その文章が移された液晶目掛けて、ジットリとした口付けを数秒行いました。
燻らない筈の、艶花ナユの香りを惜しげにするようにして。
次の日。早くに目を覚まして顔を洗って、軽度の食事をとった後、私は逃げる様にしてバスの始発に乗り、都会に住んでいた頃に使用していたICカードに残高があったのでそれを使用しながら電車を乗り継ぎ、何時間もかけて、漸く都会の大きな駅の中心に立っておりました。
朝早く出た筈なのに、日はとっくに落ちていました。
散々迷い、散々他人に体をぶつけられながらも駅の入口に出ると、夜だというのに昼間くらい人でごった返していました。久々に見るとは言え、田舎と比べると異質な風景です。
さて、念願の〝ホワイトルーム〟に足を運ぼうと私は足を踏み出しました。
しかし、〝ホワイトルーム〟の住所をいくら知っていても、何方に向かえば辿り着けるのかまでは分かりませんでしたので、地図アプリにその住所を読み込ませ、睨めっこしながらフラフラと右往左往しながら歩き始めました。
駅を出て真っ直ぐ行って、青と白のコンビニが見えてきたらその手前で右折。そこからまたすぐに竹林が見えてくるので、中の道を抜けて、また開けた場所に出るのでしばらく歩く。
飲み屋街に入ると赤提灯が二個ぶら下がった店があるのでそこで左折。……そんな迷路のような道案内を数分されると、漸く〝ホワイトルーム〟らしき建物が見えてきました。
〝ホワイトルーム〟は確かに名に相応しい、窓一つない白塗りのコンクリートの建物でした。
豪奢な黒い扉の上には、英語で〝ホワイトルーム〟と書かれたネオンが光っており、上を見上げてみますと透明なドームが見えます。
窓が無い事だけを抜けば、他の建造物と何ら変わらない筈なのですが、何故かそこだけ世界から切り離されているかのような違和感があります。
「此処が〝ホワイトルーム〟か……」
私はその異様な雰囲気に圧倒されながらも、ゆっくりとその建物に近付いていきました。
ですが、いざ〝ホワイトルーム〟に入ろうものなら、私は気が引けたのです。
何故なら、店に入っていく男共は皆、上等な背広に身を包み、派手な緑の髪や、青の髪をした人で、顔に堂々と墨を入れているのです。しかも揃いも揃って顔が良いし、金を持っている人間に見えるのです。
対して私は、草臥れた文字パーカーで、かかとは踏みペタンコになったスニーカーを履き、無精髭を生やしております。
こんな身なりでは店に入店するのを断られるに決まっている。と愚鈍な私でも察してしまう程でした。
最低限の金は持って来ましたが、生憎新しく服を買う余裕は無いので私は踵を返す事に決めました。
今回は運が無かった。今回は諦めるしかない。こんな私の前に、あの絵画が届いただけ幸運だと思わなくてはならない__。
そう隠しきれない絶望と向き合いながら、私は〝ホワイトルーム〟に背を向けました。
「緊張しているのかい?」
「……え?」
__すると、白のスーツを身に纏い、首に薔薇の刺青を入れ、髪をセンター分けにした濡羽色をした男が目の前に現れたのです。
私が虚を衝かれたようにその男を見つめると、男は微笑みながら話を続けます。
「〝ホワイトルーム〟に遊びに来たんだろう?開店時間には一寸早いけれど、部屋には案内してもらえるだろうから、此処に突っ立っていないで、一緒に入ろうじゃないか」
「いや、あの……」
「ン、どうしたんだい」
私が何かを喋ろうとすると、男は何かを察したのか手で口を押え閉ざしました。
それから数秒程経った後、男は再び口を開きます。
「君が挙動不審なのは、身なりを気にしているとか、金を持ち合わせていないとか、〝ホワイトルーム〟が〝そういう店〟だって知らなかったからかな?」
「!」
男の発言は全て的を得ていました。
私が内心を見透かされた事に動揺していると、男は笑みを強めて口を開きます。
「君はどちらかと言うと、この業界の人間と言うよりは……〝たまたま〟見つけて〝ホワイトルーム〟に遊びに来た客の方だ。それは服装や雰囲気を見ていれば分かるよ」
「……そんなに分かりやすいですか、私」
「そういった視線に敏感な人なら、すぐに分かってしまうだろうね」
私はその言葉を聞きながらも、この男が何者なのかが気になって仕方がありませんでした。
ただ者でない事はその風格から薄々分かっていました。
一般人で無いのなら一体何者なのか__。
私が頭を回転させていると、男は名乗る事もなく「ついて来てくれ」とだけ言い残して歩き出します。
「イヤ、私は貴方が先程申し上げたように、金を持ち合わせておりませんので、帰ろうと思っているのです」
「なんだい、そんな心配で君はチャンスを手放すのかい?折角来てくだすったんだ。私に払わせてはくれないか?もてなしをさせてくれ」
「そんな!私は裕福な生まれではありませんで、後から返せと申されても返す事ができません。どうか、冷やかしなら、他所でやってくれませんか」
私がそう言っても、男は一切歩みを止める事はありませんでした。
その背中を追いながら「本当に結構です」と何度も何度も断りました。しかし、男は「良いから」と言って全く聞く耳を持ちません。
もう勝手に帰ってしまおうかと私は一瞬考えましたが、この男が何者であれ、金を払い、〝ホワイトルーム〟に案内してくれて、〝艶花ナユ〟に会えるのであれば、それに越した事はないと思い至りその背を追う事にしました。
私も案外、都合の良い方に傾く人間なのです。
そして入口らしき場所に辿り着くと、そこには警備員なのでしょうか。しかし、警備員としては少々派手な格好をした男性が二人立っていました。
一人はアロハシャツにサングラスという、こんな場所にそぐわないラフな格好で、もう一人はスーツを着ているのですが、シャツは着ておらず、体に彫られた刺青を堂々と見せびらかし、髪を豪快に刈り上げていました。
どちらも屈強な体つきをしていて、厳つさが滲み出ています。
二人は無線イヤフォンをつけており、そのイヤフォンを分けて一緒に使っているのか、「その曲嫌いだから飛ばして」と互いに言い合っていました。とてもじゃないですが、警備員のそれには見えない二人組です。
アロハシャツの警備員(?)は此方の存在に気が付いたのか「K様」と声を掛けました。
「お久しぶりです。……其方の方は?」
「私の友人だよ。初めて〝ホワイトルーム〟を利用するんだ。通してくれるかい?」
「申し訳ありませんが、たとえ友人であっても身ボディーチェックを受けていただかないと〝ホワイトルーム〟にご案内はできません」
「なんだい、私の友人にそんな事をさせるのかい?不躾な坊やだ。……君も〝物〟になるかい?」
「お待ち下さい。K・ナチス様」
段々と凍てつく空気に割り込んできたのは、バニースーツを着た美少年でした。
「お話は伺っております。__お客様、此方へ。女王の御前にご案内いたします。……K様はお待ちください。別の者が対応いたします」
「なんだい。私は置いてけぼりかい。……いや、いいさ」
K・ナチスと呼ばれた男は少しだけ不貞腐れると、また直ぐに表情を取り戻し笑顔になって私の方を見ました。
「 なァ友人。〝ホワイトルーム〟を楽しんできてくれ。君が此処から出ていく時、どんな顔をするのか楽しみでしょうがないからさ」
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