第5話 「君は、結婚はしないんですか?」
ホテルへ戻って来た後、ロビーでお茶を呑みながら武田が唐突に訊ねた。
「君は、結婚はしないんですか?」
グループのメンバーはもう皆、部屋へ戻ってロビーに残って居るのは紗由美と武田だけだった。
それまで淡々と話していた武田の口調が急にぎこちなくなった。
紗由美はこれまでにも好きになった男性や愛し合った相手も二人や三人は居た。だが、その誰とも結婚というところまでは進まなかった。紗由美が臆病だったこともあるが、人生の全てを賭して共に生きたいという心が震えるような相手に巡り逢わなかったことがその大きな要因であった。
今、紗由美には或る予感があった。その予感は杭州の西湖遊覧の時に既に感じていたものである。
紗由美は、自分はもう若くはない、と思っている。青春は既に七、八年前に終わっている。
「いつも若い人たちに囲まれて暮らしていますし・・・」
それほど淋しくもないし結婚をあまり意識することも無い、と言う心算だったのが、言葉はそれとは裏腹に紗由美の本心の方を吐露していた。
「でも、夜など一人で本を読んで居たりすると、ふと、傍に誰か居てくれたら良いな、って思うことは有りますわ」
武田が不意に、話を変えるように、言った。
「僕はワインが好きなんです」
「えっ?」
「甲州の赤ワインも旨いし丹波の白ワインンも美味しい。よく買いに行くんですよ、美味いワインを捜して、彼方此方へ」
「お酒がお好きなのね?」
「甘いものも好きですよ、金沢の羊羹や名古屋のういろう、東京のかりんとうやマロンパイ・・・和菓子でも洋菓子でも、何でも来い、です」
そう言って屈託無く笑ったが、武田の眼の中には何か光り輝くものが有った。
「君のような人とグラスを傾けながら芳醇なワインを呑む、そんな生活が出来たら最高だな、って、今、思っていますよ」
その光景が紗由美の目にも浮かんだ。ダイニングテーブルの上に幾つかの手料理を並べ、白や赤の円やかなワインを口に含む。言葉は交わさなくても、そうやって向かい合っているだけで秋の夜も決して長くは無いだろう。
「奥様ともそうやって愉しく過ごされたんですか?」
紗由美は嫉妬だと気づいてはいなかったが、心が情緒不安定になっていた。武田が亡くなった妻とそうした幸せな夜を過ごして来たのかと思うと、羨ましく切なくもあった。
「妻は身体が弱くて・・・。結婚してから程無くして闘病生活になりました。それまでは丈夫で元気溌剌だったんですが・・・最初は腎臓を患い、それは二年ほどで回復しましたが、その後、膵臓癌が発見されて、それからはもう入退院の繰り返しでした」
「・・・・・」
話を聴きながら、紗由美は次の言葉が継げなかった。
「転移していないことをひたすら願いましたが、三年目に再発して、それからはもう手術の繰り返しで、身体を切り刻まれて・・・」
「・・・・・」
「妻も可哀相でしたが、僕も辛くて寂しい毎日でした」
伴侶の居ない家は、新婚家庭であっても、いつも何処かに隙間風が吹いていた、と武田は述懐した。
暫くして、武田が冗談めかして微笑った。
「君に逢って煩悩が湧いて来ました。もう一度青春が欲しくなった思いです」
青年のようなはにかみが武田の表情に在った。
「無論、若い頃の青春とは違うでしょう、然し、青春は何も若い時だけのものでもないでしょう。少なくとも僕は今、青春真っただ中にいる気分ですよ」
彼の言葉が紗由美の胸を熱くした。
「でも、私はもう若くは無いわ、きっと後悔することよ」
「若くは無いのは僕の方です。でも、僕の身体が若い青年のように君を抱き締めたいと願っているんですよ」
ロビーの照明が落とされる時間が来て、二人はエレベータに乗った。
武田は紗由美の部屋の前まで従いて来た。
「おやすみなさい」
挨拶をしてドアの鍵を開けた。紗由美は一人部屋だった。
武田がすいと部屋に入って来た。自然な形で紗由美は武田の腕の中に立った。武田の顔が近付いて来て紗由美は処女のように全身が慄くのを感じた。
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