第一章:欲望の呼び笛と黒い商人

プロローグ:呼び笛が鳴る街

ヴェニラの町が沈黙を忘れたのは、いったいいつからだったのだろう。


そこかしこを行き交う人々のあえぎ、領主りょうしゅ代理の横暴おうぼうへの不満のささやき、そしておそいかかる魔物の噂――

それらは溶けきらないさびのように街じゅうにこびりつき、

やがて苛立いらだちや絶望を生むのを誰も止められなくなっていた。

笑い声よりもうめきや低い怒声のほうが、いまでは耳障みみざわりになりつつあるのだから。


◇ ◇ ◇


朝のいち

石畳いしだたみの広場の真ん中では、小汚こぎたない毛布の上に野菜やパンくずを並べた露店が、

持てる限りの元気な声で客寄せをしている。

本来なら店を構えるには税がかかるが、こういった“毛布露店”を取り締まる可能性もある。

とはいえ、明日の飯すら危うい住民が多いこの町では、

細かいルールを守ることよりも今日を生き抜くことが優先されるのだ。


「買ってくれよ! 今朝摘みたての野菜だ。ちょっと穴あきだけど、まだ食える!」

「へえ、摘みたてねえ……けど、少しれてそうに見えるんだが……」


疲れ切った客と店主てんしゅのやり取りは、

喜劇でも悲劇でもない、ただの“日常”そのもの。

人々はわずかな笑みを交わしながら、生きるために取引している。


――そんな光景を、少し離れた場所で見つめる青年がいた。

アキラ。

短く整えた黒髪に、やや華奢きゃしゃな体格。

異世界を意識したのか軽鎧けいがいを身につけ、肩には使い古した剣をぶら下げている。

その顔には、どこか穏やかな笑み。


「やっぱり、ここも人が多いなあ……前の世界とは比べものにならないけど、似た生活感があるのが妙に面白い……」


この世界に転生して日が浅い彼は、

町の人々のたくましさに戸惑とまどいながらも、なぜか温かさを感じていた。

しかしそんな彼に、周囲しゅういから声がかかる。


「そこの兄ちゃん、棚をひっくり返しちまうから、もうちょい離れてくれ!」


アキラは慌てて謝罪しゃざいする。

まだ異世界の常識を、すべて身につけているわけではないのだ。


◇ ◇ ◇


アキラには密かに抱いている野望がある。

――この町で“英雄”と呼ばれるようになりたい。

自分が何者かになれると、どこかで信じているのだ。


それは、生前に満たされなかった“承認欲求しょうにんよっきゅう”の延長。

気づけば、その欲望が胸の奥でじわりじわりと熱を帯び始めていた。


ヴェニラの町では、境界を越えた先で魔物の出没しゅつぼつが増え、

領主代理のバルトが厳しい増税ぞうぜいで人々の生活を圧迫あっぱくしている。

ほんのわずかずつだが、貧困層は増え続け、町の雰囲気はささくれ立っていた。

その状況を見てアキラは思う。


“自分なら解決できるはずだ”という自負心が、どうしても捨てきれない。

「魔物から町を守って名声を手に入れ、ついでに領主の腐敗をただして……」


こんな考えは傲慢ごうまんかもしれない。

けれど止まらない。

もしこの町でたたえられれば、転生前の平凡な人生を払拭ふっしょくできるかもしれない――

そんな思いが胸をめぐる。


と、不意に鼓動が速まった。

町の空気が、ざわり、と一瞬だけ揺らいだ気がした。


「ん……?」


露店は相変わらず客を相手にしているが、通りの先で何やら騒ぎが起きているらしい。

人々が一方向に集まっていくのが見えた。

アキラは好奇心に駆られ、そっと様子を探る。


聞こえてきたのは、城門付近に“イノサーベル”と呼ばれる猪型魔物が出現したという情報。

町の衛兵えいへい仕留しとめたというが、現場には派手な戦闘痕が残されている。

剣の斬撃ざんげき跡に加え、炎で焼いたような痕まで……

普通の装備しか持たない衛兵に、そこまでの力があるだろうか?


「……もしかして、誰か別の人が戦っていたのか?」


魔物を倒したのであれば、町の人々は驚き、喜ぶだろう。

自分もそんな活躍をして“ヒーロー”と呼ばれたい――

アキラがそう思ったとき、衛兵の一人が悔しげにつぶやく声が聞こえた。


「くそっ、またか。あの転生者か何かが倒してくれたんだろ。俺らの手柄も報酬ほうしゅうも消えちまう……」


すでにこの町には、アキラ以外の“転生者”らしき者がいるらしい。

仲間になれれば心強いが、もしそいつが自分より強く、すべての名声をさらってしまったら……?

地球時代からの劣等感れっとうかんが首をもたげ、アキラは胸騒ぎを覚える。


◇ ◇ ◇


その時、不意に風が吹いた。

朝の澄んだ空気に、ほんの少し甘いようなにおいが混じった気がする。

まるで、誰かがこの町を“ぎまわっている”かのような、ぞくり、とする感覚。

振り返ってもそこには、露店の人々と城壁じょうへきだけがある。


「……気のせい、かな」


アキラは首を振り、再び歩き始める。

だが、その瞬間、背筋を冷たいものが走った。

闇の中からこちらを見透みすかす視線――そう思わせる、言いようのない悪寒おかん


一体、この町ヴェニラに何が起こっているのか。

――まだ、誰も知らない。


ただ確かなのは、“領主代理の圧政あっせい”や“貧困ひんこんの深刻化”、“転生者の存在”が入り乱れ、

そのうえ漆黒のコートをまとった“商人”がひそんでいるということ。

その商人は囁くだろう。

「ああ、あなたの欲望を叶える商品があります。

 代わりに、お代は“あなたの欲望”を少々……」と。


この不穏ふおん予兆よちょうは、町のあちこちで種火のようにくすぶり、

やがて大きな炎となって燃え上がるのかもしれない。


◇ ◇ ◇


朝市あさいち喧噪けんそうは絶え間なく続いている。

熱気と、人々が隠しきれない不満や恐怖きょうふ

それらをはらみながら、ヴェニラの一日は回転し始めた。


“自分もまた、その車輪に巻き込まれていくのだろう”

――アキラは薄々そうさとっている。

それでも嬉しそうに笑ってしまう自分に、思わず苦笑をらす。


「なんだかんだ言って、ここで英雄になれるかもしれない……よし、行ってみよう!」


そう言って、胸を張りながら陽の光へ踏み出した。

だが、微かにしのび寄る影には気づいていない。

漆黒のコートを纏う“商人”の気配と、誰も知らない“契約けいやく”の呼び笛が、

アキラの運命を大きくゆがめようとしていることを――。


(プロローグ:呼び笛が鳴る街・了)

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