3月
第28話
■3月3日 朝、奏太の家
ずっと考えていた。
僕は何になれば良いのだろう。
そのためには何をあきらめないといけないのだろう。
拓真の悔しそうな顔を思い出してしまう。
絶望よりもひどいことを僕はしてしまったんだ。
あんなに……。
あんなにそばにいたかったのに……。
眠ることができなくなった。
僕は眠ってはいけないと自分を責めるようになった。
何度も寝返りを打つうちに、朝を迎える。
そんな日を何日も過ごし、ますます自分の体を壊したくなっていた。
それを踏み止まっていられたのは、母と舞子先輩のおかげだった。
舞子先輩とはずっとメッセージのやりとりを続けていた。笑った話とか、猫の動画とか、そんなことをずっととりとめもなく送り合っていた。なんでもない会話を続けてくれることが、僕にはうれしかった。
母はできるだけ家にいるようにしてくれた。僕は申し訳なくて、ずっと謝っていた。
心配した母から、一度病院へ来なさいと言われた。睡眠剤を飲んででも無理に寝ないと、体も心も持たないと、医師の声と母の声で言っていた。
拓真と輝帆さんからは、連絡はなかった。
そっとしといてくれているのだろうと僕は思った。
嫌われたのではないと思いたかった。
眠れない夜は、舞子先輩に握られた手の温かさを思い出していた。
つらくなったら手を握り締めて、その温かさをつかもうとする。
だから、いまもそうしている。
ベッドの上でぼんやりと座っていた。カーテンの隙間からは朝陽が漏れていた。
何度目の朝だろう。何回こうして朝を迎えるのだろう。
つらかった。
だから、また左手を握り締めている。
ドアをカチャリと開ける音がした。なんだろう。母は病院に行っているのに。人の気配がする。ドアをじっと見つめる。
「やあ、奏太。起きてたのかい」
舞子先輩だ。
ベージュのお嬢様ぽいコートを着ている舞子先輩が、にまにまと僕のそばへ近づいてくる。
「どうして? なんで舞子先輩が?」
「ふふふ。これのおかけだよ」
舞子先輩が手にした銀色の鍵を僕に見せつける。
「合い鍵を君島先生にもらってたから」
にまにまと舞子先輩は笑ってる。何をされるのかわからなくて、僕はあわてて毛布を自分の体に引き寄せる。
「あの、いま僕……、あっ、ダメっ!」
舞子先輩は容赦なく毛布をひっぱる。
いまの僕は寝間着に使っているTシャツ姿のままだった。その下を見られるわけには断固として避けたい。
「だ、だめです!」
「知らん」
あっというまに、僕から毛布を奪い去る。
「ちょっと、舞子先輩!」
「今日は温かいよ。どっか行かない?」
「でも……」
「はい、着替える。ほら、ばんざい!」
「え?」
「ばんざい」
言われたとおりに手を上げる。舞子先輩がTシャツの袖をつかむと、あっという間にひっぱって脱がした。
「え、ちょっと! 服、返してください!」
「なんだ、下着付けてないのか。さては裸族の一員だな」
「違います!」
「同性だから気にすんな」
「気にしますよ!」
「武士の情けだ。下着は自分でつけなさい」
武士って……。もう。
僕は仕方なく、手で胸を隠しながら、引き出しに向かう。しまっていたアッシュグリーンのブラを取り出す。穏やかなレースが少しかわいらしいと自分でも思ってる。母が言ってた通り、僕の胸はだいぶ大きく育った。習った通りにカップと胸の間に手を入れ、胸をブラに収めていく。
僕を眺めていたはずの舞子先輩が、いつのまにかクローゼットの中を開けていた。
「よし、これ着て。ゆるいタートルのセーターがすごい似合うな。下はスエードなキャミワンピね。だっぷりとしたカーディガンを羽織らせたら、ほら、かわいい。あ、でも、もっとかわいくするから」
「ちょっと待てください。僕はまだ……」
舞子先輩の手が僕の頬をつかむ。
「なんだ、これ。クマひどいな」
「えと……」
目を背ける僕に、舞子先輩は何も言わなかった。消えた笑みの代わりに、舞子先輩は僕へ言葉を投げる。
「死にたいとか思ってんでしょ?」
「それは……」
目を背け続ける僕に、舞子先輩はため息をつく。
「もう。今日は化粧ポーチを持ってきたから。少し化粧させろ」
「いえ……僕は……」
「いいから、させろ。おまえをかわいい女の子にしてやる」
顔を覆う僕の腕を、力づくで舞子先輩が退けようとする。握られた手は、ほどこうと思えば、ほどけるほどの強さだった。
でも、僕はそうはしなかった。
舞子先輩が僕の手首を片手でつかんだまま、腕をコートのポケットからポーチを取り出す。器用に片手でチャックを開け、中身をベッドの上にぶちまける。
口紅のスティックのようなものを手にすると、舞子先輩が僕にのしかかってきた。僕はベッドの上に押し倒される。舞子先輩が握った僕の腕を、頭の上に持っていく。
「こら、暴れんな」
「なんで……」
「このクマ、コンシーラー効くのかな」
「ちょっと、舞子先輩」
「ほら、顔はこっち向けて」
「でも……」
「あ、ちゃんとクマ隠れた。よしよし。それにしても肌がきれいだな。元々女の子じゃなかったのか?」
「違います……」
「眉毛描くから。逃げんな」
じりじりと逃げようとしていた僕を、舞子先輩が抑え込む。僕は思わず「きゃっ」という声を漏らしてしまう。あまりに女の子な声をあげたことに、すごく恥ずかしくなる。
「こんなの……ひどいです……」
「いいから化粧させろ。眉毛は整えているな。えらいえらい」
「でも、僕は男なんです……」
「他人なんて眉と髪の長さで女だと認識してくれるから。もうだいぶ髪が伸びたじゃないか。肩下まで伸びてるから、男だと思う人なんかいないよ」
「そうかもしれないですけど……」
「ほら、できた」
腕をひっぱられて、体を起こされる。その場で座り込むと、舞子先輩から手鏡を渡された。
自分を見る。
女の子がいた。
あの日感じた違和感は、もうどこにもない。初めて自分で自分のことをかわいいと思ってしまった。
「奏太はちゃんと女の子だよ」
そうだけど……。でも……。
舞子先輩が僕から手鏡を素早く取り上げる。
「よし、奏太。外行くぞ」
「待ってください。まだ、外は……」
「今日は晴れてるから。行こうよ」
舞子先輩がベッドから降りる。壁にかけといたコートを取ると、僕の手に押し付けられた。舞子先輩はじっと僕を見ている。コートを着るまで、僕を見ているつもりなのだろう。仕方なく僕は袖を通す。
舞子先輩にスニーカーを履かせられ、腕を引っ張られて、僕はマンションの外へと出た。
青空だった。
澄んだ青が空いっぱいに広がっていた。
陽射しが痛いくらいだった。
積もった雪からの光が目にまぶしい。
ずっと水の音がしている。雪と道路の間に隙間が空いて、そこを伝わるように溶けた雪が水になってきらきらと流れている。
舞子先輩が僕の手をつかむと自分の腕に持っていく。
「怖かったら、私の腕にしがみついていいからな」
あまり怖くない。僕と舞子先輩しかいないから。でも、僕は「うん」と言って、その腕をつかんだ。そうしたほうがいいと僕は思った。
家の前の坂道を少し道を下ると、舞子先輩の車が止まっていた。僕は舞子先輩の腕から手を離す。どこへ連れて行こうとしているのだろう。舞子先輩は悩む暇なんて、僕に与えてくれなかった。ドアを開けて、僕の手をうやうやしく取る。
「さあ、お姫様。楽しいデートの時間ですよ」
そうおどけてくれる舞子先輩に、僕はとまどう。仕方なしに車へ乗り込む。運転席にいる長谷川さんが、バックミラー越しに僕へちょこんと頭を下げた。
「お久しぶりです、君島様」
「ご迷惑を……おかけしたかもしれません」
「いいえ、まったく。私はいつでもお嬢様と、お嬢様が好きな方の味方ですよ」
反対側のドアが開く。すぐに舞子先輩が乗り混んできた。シートベルトを締めながら、長谷川さんへ行く場所を伝える。
「越後湯沢の駅のほうで降してくれる?」
「迎えに行きますか?」
「あとで電話する。ダメならタクシー乗るから」
「わかりました」
車が動き出す。足元から氷からではない、少し柔らかい音がしていた。僕はそこからようやく春を感じていた。
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