第27話


■2月22日 昼、奏太の家


 学校を休んで一週間が過ぎた。僕はまだぼんやりとしていた。母はそんな僕をずっと見守っていてくれている。洗い物をしたり、洗濯物をたたんだり、ご飯を作って母といっしょに食べたり、変わらない日常を過ごしている。

 それでも、僕は思い知らされる。


 お皿を泡まみれにしたスポンジで洗っているとき。

 自分のTシャツを畳んでいるとき。

 テーブルについて、箸を取ったとき。


 拓真に触られた頬のこと。

 拓真といっしょに話した本のこと。

 拓真と電車の中で過ごした日々のこと。


 拓真との日々がふとしたことで思い出す。そのたびに、僕はもう拓真といっしょにいられない現実を思い知らされる。

 目の前が白くなる。吹き荒れる吹雪の中に僕は沈んでいく。

 凍えて動けなくなった僕は、いつも舞子先輩が握ってくれた左手の温かさを思い出す。それを頼りにして現実に戻る。

 そんなことをずっと僕は繰り替えしている。


 乾燥機の中から洗濯物を取り出しているときだった。家のチャイムが鳴る。母はさっき急患が来て遅くなると連絡が来ていたし、宅配便は頼んでいない。不思議に思ってドアホンのモニターを見る。少しぼやけた映像に、輝帆さんと拓真の姿が映っていた。制服の上に雪が少し着いたコートを着ている。とまどう暇もなく、輝帆さんの声がスピーカーから聞こえた。


 「会える?」

 「えと……」

 「学校サボってきた」

 「え?」

 「早く入れてよ。私達、いま不審者なんだから」


 頭が回らないまま、僕は玄関のドアを開ける。


 「えと、なんで……」


 輝帆さんがすごく気まずそうな顔を僕に向ける。


 「奏太君、無防備すぎでしょ」


 そう言われて自分の姿を振り返る。ロンTに少し大きいもわっとしたカーディガンをはおっただけだった。下は下着しか履いていない。


 あ……。


 拓真の顔色と僕は同じになる。

 輝帆さんがいらいらと言う。


 「ちゃんと服着てきなさい。私が着せてあげようか?」

 「え、えと。自分で何とかします」


 あわてて僕は自分の部屋に戻る。よくわからなかったので、舞子先輩に選んでもらった黒いセーターとウールの長めのスカートを履く。


 「ごめん」


 リビングに行くと、テーブルの椅子にふたりはとりあえず座っていた。僕を見るなり、輝帆さんが拓真にほらほらという感じで声をかけた。


 「どうよ?」

 「どうって……」

 「奏太君、女の子として扱ってあげなよ」

 「それはわかるが……」

 「かわいい? かわいくない? どっち?」

 「……かわいいほうだと思う」

 「言質取った。ほら、奏太君は『輝帆さんよりかわいいの?』って聞かなきゃ」


 僕は立ったまま、座っているふたりをじっと見つめる。


 「そんなこと聞けないです」


 静かにそう言う僕に、輝帆さんは誰にも目を合わさずに言う。


 「もう。奏太君のほうがずっとやさしいよ」


 そんなことはない。僕は輝帆さんが好きな人を好きになった。やさしい人はそんなことしない……。


 カーテンの隙間から、雪が殴りかかるように吹き荒れているのが見えた。外は寒かっただろうと僕はようやく思う。


 「温かいの、飲む?」


 そうたずねると、拓真が「ああ」と一言だけ言ってくれた。


 とりあえずお茶を淹れることにした。電気ケトルのスイッチを入れる。浅荻先生から貰ったティーバッグをカップに入れ、湧いたお湯を注ぐ。


 湯気が立つカップをテーブルへ持っていくと「おかまいなく」と言いながら輝帆さんは、カップに手を伸ばしてすぐに紅茶を一口飲む。「今日はめちゃくちゃ寒くて。今季最大の寒気だって。ああ、温かいの飲むと生き返るね」と、輝帆さんははしゃぐふりをしていた。


 拓真はずっと膝の上で手を組んでいた。前に置いたカップから上がる湯気をずっと見つめている。


 「あの、どうして……」


 輝帆さんがカップをテーブルに置く。


 「奏太君、拓真から話しは聞いてるから」

 「そう……ですか……」

 「私達、どうしたらいいのかな」


 輝帆さんが不思議な表情を僕へ向ける。笑っているのか泣いているのか、僕にはわからなかった。


 またチャイムが鳴った。ドアホンの小さなモニターに映っていたのは、岩原先生だった。僕はあわてて玄関を開ける。


 「あの……」

 「元気そうだな、君島。良かった」


 玄関先に並んだ靴を岩原先生はちらっと見る。


 「君島。おまえのお母さんに話があるんだが、在宅されているか?」

 「えと……、急患が入ったようですが、もうすぐ戻ると……」

 「なら、少し中で待たせてもらっていいか? 今日は冷えてな」

 「あ、その……」


 岩原先生を止められなかった。リビングで拓真と輝帆さんと鉢合わせしてしまう。


 「おい、なんでおまえらがいる。授業はどうした?」


 輝帆さんが大げさにお腹を手で押さえる。


 「お腹が痛くて」


 しれっとそう言う輝帆さんに、岩原先生は頭を抱える。


 「あとで話を聞く。おまえたちは席を外せ」

 「どうしてですか?」

 「君島と学校のことで話がある」

 「先生も奏太君を女の子として扱ってください」


 岩原先生は顔をしかめる。


 「それはむずかしいな」

 「どうしてですか? だって、もう体は……」

 「それでもだ。学校全体に混乱が起きる」


 輝帆さんが立ち上がる。低い声で先生に怒りをぶつける。


 「なんですか、それ」

 「君島の体のことを生徒に伝えたら、混乱するということだ」

 「言ってみないとわからないじゃないですか?」

 「言ってみた結果が舞子だろうが。よく知ってるおまえが何を言う」

 「ああ言うほうが悪いんです。生徒会権限でよく生徒全員へ話して、奏太君を傷つけないようにします」

 「天野沢、おまえはいつも理想論ばかりだ。そんなにものわかりがいい奴ばかりじゃないぞ」

 「じゃあ、どうするんです?」

 「うちの学校では扱いが難しい。それを今日、伝えに来た」


 岩原先生の言葉に、輝帆さんの表情が変わる。


 「自主退学でもしろって言うんですか?」

 「そうだ。それがお互い傷つかない」

 「先生はバカですか?」

 「教師に向かってバカとはなんだ」

 「バカでしょう? たかだか生徒一人の性別が変わっただけなんですよ? どうして奏太君が辞めないといけないんですか?」

 「うちの生徒は500人いる。大勢の生徒が問題なく高校生活を過ごせるように、学校にはそうする責任がある」

 「そのうちのひとりが奏太君なんですよ!」

 「また生徒たちが憶測でデマを言い合うぞ。また君島が倒れるんだぞ! おまえはそんなことをしたいのか!!」


 怒鳴り合うふたりに、拓真が口を開く。


 「なんで奏太の意見を聞かないんですか?」


 岩原先生が座ったままの拓真へ顔を向ける。


 「なんだ、それは」

 「ふたりとも本人の意見を聞かないで、勝手に想像して、勝手に決めようとしている。俺も選手を辞めたとき、それがつらかったからわかる」

 「無視するだろう。そういう問題じゃないんだ。多くの生徒がどう思うかで……」


 拓真がドンとテーブルを叩いた。


 「だから言ってる! 勝手に決めつけるな!」


 カップが音を立てて倒れていく。転がるカップから、まだ湯気を立てているお茶がテーブルの上に広がり、フローリングの床へ流れていく。


 激昂した岩原先生が拓真へ近づく。


 「おまえ……。おまえこそなぜわからんか。なぜ、誰もわからんのだ!」


 拓真が立ち上がる。

 つかみ合おうとする。


 嫌だ……。

 もう嫌だ。


 「嫌ァァァ!!」


 みんなが僕を見た。

 荒い息が止まらない。

 もう止まらなかった。


 「教えてよ、先生! 僕はどうしたらいいの?」


 岩原先生は僕から顔を背ける。


 「教えてよ、輝帆さん! 僕、男だったことは変わらないよ……」


 輝帆さんは僕から目をそらす。


 「拓真、僕は……僕はどっちなの?」


 拓真だけが僕を見てくれた。


 「奏太、落ち着け」

 「男とか女とかもう嫌だ! 嫌だよ……。なんで、こうなるの!」

 「奏太……」


 拓真がそばに来る。手を差し出す。僕はとっさにその手を払いのけた。


 「触らないでっ! 拓真には輝帆さんがいるんだから!」


 拓真が唇をかみしめている。手を震わして必死に何かを我慢している。それは選手を辞めるときにも見せたことがない絶望の表情だった。


 そんな思いを僕は拓真にさせてしまった。


 もう、嫌だ。

 全部、嫌だ……。

 なにもかも……。


 僕は座り込んだ。吹雪のような渦巻く気持ちに自分を見失う。どこにいるのかわからなくなる。


 玄関を開ける音がした。母だった。リビングを見るなり、僕達へたずねる。


 「どうしたの?」


 誰も答えなかった。

 僕は床を見つめたまま、「ごめん。お母さん……」とだけつぶやくように言う。

 母がみんなに頭を下げる。


 「今日のところはお帰りください。岩原先生、後日、私のほうから学校に伺います」

 「わかりましたが……」


 母が医師になったときに見せる、誰にも有無を言わせない毅然とした話し方で、みんなに告げる。


 「どうか、お帰りください」


 拓真がリュックを手に取る。その様子を見て、母が少しやさしい言葉へ戻す。


 「拓真君もごめんね」

 「いえ……。こちらこそすみませんでした」


 母が座ったままでいる輝帆さんへ声をかける。


 「天野沢さんですよね」

 「はい」

 「奏太からよくうかがっています」

 「私は奏太君に学校を辞めて欲しくないです」

 「でも、今日は帰ってください」


 母が無言で輝帆さんを見つめる。輝帆さんは負けたように立ち上がる。


 「はい……」


 岩原先生は何かを言っていた。職員会議がどうとか、保護者からとか。母はそれを僕へ聞かせないように、廊下へと岩原先生を押し返していった。


 3人を母が見送る間、僕は冷たいリビングの床に座ったままでいた。


 僕、拓真にひどいことを言った。

 そばにいて欲しいのにひどいことを言った……。


 みんな、この体のせい。

 女になってしまった、この体のせい。


 この体を壊したい。

 一刻も早く壊したい。

 僕はふらふらと立ち上がる。


 包丁なら。

 紐なら。

 あと……。


 気付いたら母に抱き締められていた。

 消毒液の匂いがした。それは子供のころから知ってる安心の匂いだった。

 ようやく僕は、自分が何をしようとしていたのかわかった。


 「ごめん、お母さん……」


 母が僕の体をぎゅっと強く抱きしめる。


 「学校なんかどうでもいい。私は爽太の味方。奏太が幸せならそれでいい」


 それは医師ではなく、母として僕だけに向けられた声だった。


 「嫌になった、奏太?」

 「うん……。僕が僕じゃなくなっていく……」

 「ゆっくりでいいの。奏太はやさしすぎる。いつも他人を大切にしてしまうから。だから、まず自分が幸せになることを考えなさい」

 「でも……。そのせいで僕は拓真にあんな顔をさせたんだ……」

 「いいの。いまはいいから」

 「でも……」

 「お母さんは待っている。奏太が幸せを選ぶことを」


 母の手が離れていく。僕は母の顔を見つめる。その微笑みの奥には、凍える雪が降り積もっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る