2月

第21話


■2月4日 夕方、六日町の高校、放課後の保健室


 その日も雪が降っていた。カーテンの隙間からは、大粒の雪が行き先に迷うように風に舞うのが見えていた。

 しゃがんで石油ストーブの火を消しながら、僕はため息をつく。


 まだ言えない。

 いつまでもこうしてはいられない。

 みんなに心配をかけている。


 でも、怖かった。


 言ってしまったら、もう戻れない。

 言ってしまったら、どう思われるのかわからない。


 僕はあいまいなままでいたかったけれど、もうそれもできなくなる。


 少しずつ自分が女になっているのを感じている。そして男の部分も残っている。


 学生服を来ている間は、制服のせいで男だとみられることが多かった。

 休みの日は、パーカーとジーンズぐらいの服装では、女の子と間違われていた。


 舞子先輩が言ってたように、お手洗いがとにかく困った。共用トイレがあるところにしか行けなくなった。気にせず男子トイレに行こうとしたら、出てきたたおじさんが驚いて、「あ、こっち違うよ」とやさしく教えてくれた。僕はそうやって、みんなに迷惑をかけている。


 ブラもするようになった。それはかわいいからというより、走ったり階段を下りるだけでも胸が痛くなるという実用的な理由で、つけるしかなかった。


 立ち上がると、僕はまたため息をつく。それから肩まで伸びた髪の先をつまむ。細くてしなやかな髪が、指先からすり抜ける。


 拓真が長い髪の女の子が好きだと言っていた。それを聞いてから、僕は髪を伸ばしている。


 あきらめようとしているのに、あきらめられない。

 そんな自分に嫌気がさす。

 輝帆さんの明るいやさしさが、僕の邪な想いをずっと締め付けている。


 リュックに教科書とノートを入れていたときだった。戸をノックする音がした。


 「はい、入れます」


 そう声を上げると、戸がガラガラと開く。顔を出したのは拓真だった。


 「もう帰るのか?」

 「うん、拓真は?」

 「今日はもう終わりだ。期末考査の結果がよくなかったから、早めに帰って勉強しとく。課題もたくさん出てるし」

 「なら、いっしょに勉強する? 課題は手分けしたら、早く終わるし」

 「ああ、いいが……。せっかくだから、俺の部屋でやらないか?」


 保健室に静けさが広がる。心の中に降る雪が、すぺての音を吸い取る。


 僕は必死に言い訳を考えた。勉強がしたいだけだから、拓真から誘ったから、何でもないんだから……と、ずっと言い訳を考える。誰に言うのかわからない言い訳を。ずっとひたすら……。


 だから、その一言を言うだけでも、今の僕には勇気がいった。


 「うん。いいよ」


 拓真がゆっくりと、うれしさに頬を染めていく。


 「そうか」


 いつもと同じように拓真は子供のように笑う。

 いつもと僕は違っている。体が変わっている。心も変わっている。


 どうしようもなく、僕は拓真を意識してる。


 言ったらどうなるのだろう。

 僕はもう女の子なんだよって。


 そのことに怯える。

 そのことに期待してしてしまう。


 舞子先輩の「私みたいにならないで」と言ってくれたときの寂しい笑顔が心に浮ぶ。


 助けて欲しい……。


 僕は拓真に見られないように、スマホの上で指を滑らした。



■2月4日 夜、拓真の部屋


 スキーの道具と本が散らばる拓真の部屋に、ガチャガチャとゲームパッドを叩く音が響く。K.O.の表示が出た瞬間に、拓真が叫んだ。


 「よっしゃー!」


 テレビに映るゲームのキャラクタが、優雅にかまえて勝利を宣言する。

 僕はぶーぶーと文句を言う。


 「あそこでハメるのずるい」

 「いいだろ。勝ったもん勝ちだ」

 「ええーっ! ひどい」


 ゲームをしてる。勉強するはずだったのに結局いつもと同じになった。

 三戦とも拓真が勝ったあと、僕はゲームパッドを拓真のベットに放り出した。


 「勝てないー!」


 拓真がふふんという顔をしている。


 「弱くなったな、奏太」

 「仕方ないよ。最近やってないんだし」


 拓真のところでしか、僕はゲームをしない。

 輝帆さんの手前、拓真の部屋へ行くことを避けてきた。1か月のブランクは、腕が落ちるにはじゅうぶんだった。

 動かなくなった指先を見つめて、僕は苦笑いする。

 仕方ないよね、もう……。


 拓真が立ち上がる。ベットに寝そべる僕を見つめている。

 ん? なに?

 ずっと見られている。

 不思議に思って僕は体を起こす。いまそれに気づいたように拓真が言う。


 「喉が乾いたな。なんか飲みもん取ってくる。奏太はなにがいい?」

 「コーラある?」

 「たぶんある。待ってろ。すぐ取ってくる」


 拓真が静かに部屋を出ていく。

 入れ替わりに鈴の音をさせながら、猫のフェリシアが入ってきた。ベッドにトンと上がると、僕に白い体を擦りつける。

 僕はフェリシアの体を抱えて、そのままこてんとベッドに倒れた。


 「ねえ、フェリシア、どうしたらいいと思う?」


 言わなきゃと思って、言えなかった。

 もう胸のふくらみは、どうやっても隠せないところまで来ている。


 フェリシアは抱き抱える僕の腕を、全身で突っ張って逃げ出そうとする。


 「嫌がるなよ。おまえだって僕と似たもの同士じゃないか。去勢されているし。男の子なのに女の子の名前を付けられているし……」


 似たもの同士……。

 あっ。

 僕は、そばにあるスマホに手を伸ばす。

 舞子先輩から連絡が来ていた。僕はいまのうちに返事を返す。


  ――どうした? やっと石打拓真に言えたのか?

  言えなかったです。

  ――どうするんだ? もうバレるぞ。

  もう少し、もう少しだけ。

  ――バカな奴。こうなったらすっぽんぽんになって、既成事実でも作ったらどうだ?

  何言ってるんですか、先輩!

  ――抱かれたいくせに。

  もう! それ以上言ったらブロックしますよ。

  ――はいはい。でもさ、奏太君はもう少し自分がしたいことをしなよ。他人に気遣ってばかりだぞ。

  それは……。仕方ないじゃないですか……。

  ――どこまで私と同じなんだか。

  はい?

  ――なんかあれば連絡しろよ。助けに行くから。


 本当に助けてもらえるのだろうか、という気もする。それでも、舞子先輩とこうやって文字を行き交わせていたら、少し気が楽になった。


 胸の上に乗せたスマホを両手で抱え込む。逃げ出したフェリシアがベッドに戻ると、僕のそばでころんと転がり、お腹を天井へ向けた。


 ドアが開く。拓真が戻ってきた。お盆の上にふたつのガラスのコップに氷とコーラが入っている。レモンの輪切りも添えてある。

 僕はベットから起きると、差し出されたお盆からコップを受け取る。


 「ありがとう、拓真」

 「店仕様にしてきた」

 「きれいだよ。いつでも調理場に立てるね」

 「まだまだだ。まだ兄さんには負ける」

 「でも、調理師免許は取るんでしょ?」

 「まあな。そっちの勉強もしなくちゃな」


 拓真がコーラをぐびりと飲む。すぐ空になったコップを自分の机に置く。

 僕のほうを見ないまま、拓真がたずねる。


 「奏太、風呂は入ってくか?」

 「今日はもう帰るよ」

 「早いな」

 「お母さんが早めに病院から帰ってくる日だから、遅くなる前に家へ帰りたくて」

 「わかった。体は大切にしろよ」

 「うん……」


 静かな空気が、部屋の中に満ちていく。

 僕はコップに浮かぶしゅわしゅわとした泡を見ながら、できるだけなんでもないようにして、ひとりごとのように言う。


 「拓真は僕のことが心配なの?」

 「当たり前だ。体はともかく、最近ひどく落ち込んでるように見える」

 「そっか……」


 僕の体のことを話したら、もっと心配させるかもしれない。

 そう思ってしまったら、ますます言えなくなった。


 拓真はただ黙って、そんな僕のそばにいてくれた。


 時間が過ぎていく。

 溶けた氷が奏でるからりとした音が、少し寒い部屋に響いていく。


 いつまでもこうしていると、輝帆さんに迷惑をかけてしまう。拓真にだって……。

 椅子に座ったまま見守っている拓真へ、僕は笑うふりをしたまま顔を向ける。


 「そろそろ行くね」

 「ああ」


 拓真が立ち上がる。大きな手が僕へ伸びる。また頭を撫でられると思った。


 でも、その手は僕の頬に触れた。

 ひんやりとした冷たい手が僕の頬を包む。


 「おまえのほっぺた、餅みたいだなと思って」


 僕は少し驚く。それから少しうれしくなる。


 僕に触れたかったんだ。

 拓真も言い訳を言うぐらい、僕に触りたかったんだ。


 それだけでじゅうぶんだった。


 輝帆さん、ごめん。

 これで最後だから。


 僕はそっと頬を包む手に、自分の手を重ねる。

 少しだけ目をつむり、拓真の手のひらの感触を、僕の思い出に変えていく。


 それから僕は怒ったふりをする。

 拓真の想いに気付かなかったふりをする。


 「ひどい。そんなに柔らかくないよ」


 僕はそっと重ねた手を離す。拓真の手もいっしょに離れていく。


 「ああ、そうだな」


 拓真が僕に向けた笑顔は、いつものとは違っていた。子供の頃の無邪気な笑顔とは違っていた。

 寂しそうに見つめる拓真の目には、静かに雪が降っているように見えた。

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