第20話


■1月21日 朝、六日町の高校、保健室


 あれからしばらくして、本棚と薬箱とレースがかけられた机の横が、僕の学校での居場所になった。少し傷がある小さな灰色の机に教科書を広げて、パイプ椅子に座りながら読み進めていく。でも、ノートはずっと白いままだった。


 ストーブから聞こえるしゅんしゅんという音が、誰もいない保健室の唯一の音だった。

 冬の陽射しがカーテンからすり抜けて、戸棚に奥に置かれた薬品の瓶を、暗闇から浮かび上がらしている。

 病院の匂いがしていた。消毒液の澄んだ匂い。それは母の匂いでもあった。


 安心する。

 あたたかい。

 気持ちがいい。


 だから、教科書を広げていても、眠くなる。


 進まないノートを諦めて、浅荻先生がいないのをいいことに、僕はベッドに身を預ける。少しだけと言い訳をしながら、眼をつむる。


 三学期の始業式の日から、僕は教室に入れなくなくなった。それからずっと保健室で過ごしている。

 倒れたとき、浅萩先生がすぐにかけつけてくれて、何人かの先生といっしょに保健室に運ばれた。すぐに気が付いた僕は、心配する先生達に詫びる。そしてまた倒れた。結局、保健室で休まされ、急患で手が離せない母の代わりに、拓真のお兄さんが迎えに来てくれた。「忙しいときにごめんなさい」と謝ったら、拓真のお兄さんは「いいって。いつでも頼れ。もう弟みたいなもんだからさ」と笑ってくれていた。


 その夜、家に帰ってきた母は、僕から話を聞いて、静かに激怒した。それはもう低気圧通過中のときの吹雪のようにすさまじかった。母は学校に電話を入れた。何度も。厳しい言葉ばかり聞こえてきて、僕のほうがすくみあがる。最後に母は「保健室登校をさせて欲しい」と伝えた。僕の体の事情を知っている浅荻先生がうれしそうにしている声が聞こえたし、岩原先生は「仕方ないな」とだけ言って認めてくれたようだった。


 学校としては、生徒の悪ふざけということになった。該当する記事とコメントがすぐ削除され、それ以上の処分は何もされなかった。


 輝帆さんだけが生徒会を通じて学校の対応に抗議していた。僕のために輝帆さんが怒ってくれた。悪ふざけではすまないと、先生たちを叱っていた。


 僕はそのことが少しうれしかった。そして輝帆さんに謝り続けた。拓真に触れてしまったことに。

 輝帆さんは僕を安心させるようにやさしく笑ってくれた。


 「私は気にしていないから。気にしていたら拓真を好きになれないよ」


 それが笑うふりなのはわかっていた。気にしていないわけがない。あの日、拓真が輝帆さんから居場所がないと告げられたと言っていた。どうして僕のそばにいるとダメなのか、拓真は悩んでいた。


 それから僕は拓真から少し距離を置こうとした。拓真に伝えたら、それはみんなのせいだと思ったようだった。


 「奏太、大丈夫だ。気にするな。俺も選手を止めるときにさんざんやられた。みんな良かれと思ってやっている。だからこそ、たちが悪い」


 拓真にはわかっているのかもしれない。だから、みんなのせいにしたのかもしれない。僕は何も言い返さず、そっと拓真から離れた。


 目を開ける。

 保健室の模様が入った白い天井が見える。腕を頭の上に置き、僕は静かな空気に息を吐く。


 寂しかった。


 しばらく拓真とは別の電車で帰っている。輝帆さんは「そんなことしたらみんなに負けたことになる」と言ってくれたけれど、僕は固く断った。


 大きくなってきた胸は、体を横にするだけで存在を意識させる。輝帆さんに僕の体のことを知らせたら、きっと僕に怒り出す。こんなふうには言ってくれなくなる。


 もう言わなきゃいけない。

 もう……。

 でも、もうちょっとだけ……。


 ガラガラと戸が開く音がした。僕はすぐ跳ね起きた。

 目の前にいたのは、舞子先輩だった。


 「あれ。奏太君、ひとりだけ?」

 「浅荻先生は職員会議があるそうです」

 「なら、ここ使っていい? 次、体育だから着替えたいんだけど」

 「はい、えと……。僕は、このカーテンの後ろにいますから」

 「見たかったら見てもいいよ」

 「だ、だめです」

 「何言ってんだか。もう奏太君だって上半分は同じ体でしょ?」

 「でも、だめです……」

 「そっか」


 にんまりと笑った舞子先輩が、ベッドの周りのカーテンを閉める。僕は白い布の中に閉じ込められた。

 制服が擦れる音をさせながら、舞子先輩は僕にたずねる。


 「奏太君、やっぱり教室にいるの無理?」

 「はい、まだ少し……」

 「気にするな、って思うけど、むずかしいのもわかるよ」


 スカートがぽさりと落ちる音がした。見えていないのに、それがスカートだとわかってしまう僕に自己嫌悪する。ごまかすように僕は舞子先輩へ聞いてみる。


 「舞子先輩には、こんなことあったんですか?」

 「うーん、そうだな。女性化が始まった頃、男の友達に胸を触られてね。ほかにもいろいろあって我慢してたけど、なんかあれでダメになったな。その友達、人気者だったから、私が誘惑したんだろうってことにされちゃって。でもね。そのときに輝帆がブチぎれて、かばってくれた。かっこよかったな、あいつ。いまもそうだけど」


 輝帆さんの怒った顔が心に浮かぶ。それからやさしく笑ってくれている顔も。


 「輝帆さんは、僕を許してくれています……」

 「許す、許さないなんて、ないんじゃないのかな?」

 「でも……」

 「奏太君はさ。もっとがっつきなよ。石打拓真のそばにいたいんなら、輝帆のことは考えないほうがいいのに」

 「そんなこと、できません……」

 「なんで? 輝帆と同じ女になるんだよ? 自分を見なよ」

 「もっと、できません……。僕は輝帆さんに迷惑かけてばかりいるから……」


 ばっとカーテンを勢いよく開けられた。

 そこに下着姿の舞子先輩がいた。


 「ほら、見なよ」

 「や、やめてください……」

 「どうして目を背けるの? 君と同じ姿なんだよ?」


 わかっている。でも、見られなかった。

 舞子先輩がカーテンの中に入ってくる。目を背けたままでいる僕の手を取ると、自分の胸に当てた。僕はびっくりして前を向く。


 「やっと見た」


 舞子先輩のにんまりとした笑顔といっしょに、青いレースの下着が目に映る。それは、白くて細い舞子先輩の体に、花が添えられているように見えた。

 男だったことはみじんも感じさせない、きれいな女の子の体だった。僕はいやらしいことより、かっこいいとか憧れとか、そんな思いをしてしまった。


 ガラガラと戸を引く音がした。


 ふたりで「「あ?」」と変な声を上げて戸のほうへ振り向く。


 拓真がいた。呆然とした顔を僕達に向けていた。


 「す、すまん。鍵が開いてたから」


 僕はすぐにカーテンを閉めて、下着姿の舞子先輩を隠す。それから僕だけカーテンの外に出ると、うわずる声で「どうしたの拓真?」とたずねながら、舞子先輩が脱いだ制服を、かけていた椅子から手に取る。


 「いや、あれだ……」


 真っ赤になった拓真が、言葉を探す。舞子先輩の制服と手提げに入った体操着もいっしょに、カーテンの奥へと押し込める。それからあらぬ考えになる前に、僕は拓真へ声を上げる。


 「違うからね、絶対そういうんじゃないからね」

 「わかってるが、なら、どうして……」


 舞子先輩がカーテンの端をつまんで、顔だけ出した。


 「拓真君は、奏太君の様子見てこようと思ったんでしょ? ラブラブだね」

 「いや、ちが……」

 「寂しくて仕方ないんだろ?」

 「それは……、そうだが……」

 「正直者め。輝帆に言いつけてやろう」


 にやにやと言う舞子先輩に、僕はぷんすかと怒る。


 「舞子先輩! とりあえず服着てください!」

 「あはは。はーい」


 舞子先輩がカーテンの奥へと引っ込んだ。

 まだ顔が赤い拓真に、僕はいらいらとしながらたずねる。


 「拓真、授業は?」

 「いや、心配だったから……」

 「僕は大丈夫だから。教室に戻ってよ」

 「なあ、本当に舞子先輩と付き合っていないのか?」

 「だから、違うって……」


 ガラガラとまた戸が引く音がした。


 「輝帆さん?」


 僕の声に、舞子先輩がカーテンから出てきた。脱いだ制服をまた着ていた。舞子先輩が輝帆さんのほうへ歩き出す。通りすがりに「もうサボる」と僕へ告げていく。


 「やほ、輝帆。元気してた?」

 「ええ。舞子先輩も元気そうですね」

 「拓真からのろけ話を聞いてたよ。髪が長くて胸が大きい女が好きなんだって」


 拓真が今度は青い顔をする。まるで信号機みたいだなと僕はぼんやり思った。


 「おい、違うって」

 「こら、拓真。どうしてそういうことをぺらぺらと喋るの? 私には言わないのに」

 「だから違うって」


 痴話げんかを始める拓真と輝帆さんに、舞子先輩が名探偵のように真実を伝える。


 「うん、違う。だって輝帆は知ってる。髪を伸ばしてるでしょ? それは拓真のためなんでしょ?」


 輝帆さんが赤くなる。それから手をわきわきとさせて、舞子先輩へ近づく。


 「先輩……。言うようになりましたね。指導対象です!」


 舞子先輩へ襲い掛かる輝帆さん。脇腹を重点的にくすぐりだす。舞子先輩が身をよじりながら、嘘くさい悲鳴をあげる。


 「きゃー。生徒会の横暴だ!」


 輝帆さんと舞子先輩が笑い合う。たわいもなくふざけている。


 いろんな想いをふたりで過ごしたのに、いまでは友達でいる。

 僕はそんなふたりをうらやましく思った。


 拓真は困りながらふたりを見ている。それからあきらめたように微笑んだ。

 僕はそんな拓真の横顔をちらりと見てから、リノリウムの白い床を見つめだす。


 このままでいたかった。

 このままの4人でいたかった。

 本当に心からそう思っていた。


 でも……。

 僕は変わってしまう。


 ガラガラと戸を引く音がした。

 今度は白衣を着た浅萩先生だった。僕達を見ながら不思議そうにしている。


 「あらあら。あなたたち、なにしてるの?」


 輝帆さんは悪びれもせず、明るく言う。


 「奏太君のお見舞いです」

 「まだ授業中でしょ?」


 怒られると思った。でも、浅萩先生は笑い始めた。


 「なら、ついでにお茶していかない? 佐伯さんからいい紅茶貰ったの」


 舞子先輩がひょこと、浅萩先生の机の一番下にある引き出しを開ける。


 「それなら私は秘蔵のクッキーを出すしかないな」


 浅萩先生があらあらという顔をする。


 「舞子さん、バレないように私物を置いてね」

 「もちろんです。ここは私の隠れ家みたいなものですから」


 うん、僕は知らなかった。そんなところにおやつがあるだなんて……。

 僕より舞子先輩のほうが、保健室の先輩だったとわからされた。


 浅萩先生が電気ケトルでお湯を沸かす。それからメモリが印刷された紙コップを机の上に並べた。これは……と思ったら、すかさず浅萩先生が「新品だからね」と僕達に釘を差す。外国語が書かれたティーバッグを、紙コップのなかに入れて、湧いたお湯を電気ケトルから入れる。ほのぼのとした湯気が立ち上ると、紅茶のいい香りが保健室の中に満ちていった。


 みんなが椅子を持ち寄る。舞子先輩がみんなにクッキーを薦めている間に、浅萩先生がティーバッグを空いた紙コップへ取り出し、みんなへ手渡した。

 拓真は紙コップの上のほうをつまむように手にした。

 僕は袖口でそっとつかむ。


 それから「いただきます」と小声で言うと、一口飲む。花のような香りが、ふわっと口の中を抜けていく。


 おいしい……。


 顔を上げると、みんなほわりとした表情をしていた。きっと僕も同じ顔をしている。


 自分の丸椅子に座りながら浅萩先生がお茶のコップを手にする。飲みながら拓真のほうへ顔を向ける。


 「石打君の腰は、もう大丈夫なの?」

 「はい、大丈夫です。部活も問題ないです」

 「良かったわね。最初、車椅子生活だと言われていたものね。やっぱり若いからかしら」

 「うちの温泉も効きました。先生も良かったら」

 「あら、さすが旅館のご子息。商売上手ね。今度婦人会の集まりがあるの、相談に乗ってくれる?」

 「もちろんです」

 「天野沢さんもいい旦那さんを持てて良かったわね」


 輝帆さんがうつむく。「あ、いえ……。まだ早いです」と照れたように笑う。

 舞子先輩は輝帆さんを見ながら拗ねたように言う。


 「いいなあ。私もお嫁さんになりたいわ」


 その軽く言った言葉の重みに、僕はとまどう。


 僕と舞子先輩は女の子だけど女の子じゃない。そのことに折り合いをつけようとしている日々を過ごしている。そんな僕達にお嫁さんになる日は、来るのだろうか……。


 顔を上げると舞子先輩が僕を見つめていた。僕と目が合うと、安心させるように舞子先輩はやさしく笑いかけてくれた。僕はその温かさを受け取ると、どこか恥ずかしくなって、紙コップから上がる湯気を見つめてしまう。


 浅荻先生が「あ、そうそう」と舞子先輩に声をかけて振り向かせる。


 「舞子さんは進路どうするの? 進学希望がなくて受験しないって聞いたわよ」

 「少し自由になる時間が欲しくて。考えています」

 「そう。いい方向に向かうといいわね。何かしたくなったら言ってちょうだいね。先生、味方になるから」

 「ありがとうございます」

 「舞子さん美人だから、モデルとかどう? 先生のいとこに芸能事務所で働いている人がいるの。紹介するよ?」

 「私、人が苦手なんで……」

 「あちらの世界には、いろんな人がいるのよ。気にしないでいいから」


 何も言わないで微笑む舞子先輩がいる。拒絶するように微笑んでいる。

 僕達はいろんなほうの人なんだ。そのことに気付いたのは、僕と舞子先輩だけなのだろう。


 暖かい保健室に、雪が降る前のざらざらとした空気が流れていく。


 予鈴が鳴った。

 浅荻先生が立ち上がり、空いた紙コップを机の上にことりと置く。


 「ほら、あなたたち。次の授業には出なさいね」


 みんな立ち上がる。僕は「片しておくから」と言って、みんなから空いた紙コップを集める。

 拓真が紙コップを渡しながら僕へ言う。


 「奏太、今日はいっしょに帰ろう」


 ちらっと輝帆さんを見る。それから気軽に言う拓真に、僕は怒ったふりをする。


 「こら。輝帆さんといっしょに帰りなさい」

 「もう平気なんじゃないか? どうせ噂なんかすぐに消える」

 「そういう問題じゃなくて。輝帆さんを大切にしなよ」


 拓真がきょとんとしている輝帆さんを見つめる。


 「まあ……わかった」


 拓真は「ごちそうさま」と言いながら保健室を出ていく。

 通りすがりに輝帆さんが、僕にだけ聞こえる小声で「奏太君、ありがとう」とささやく。


 これでいい。僕はそう思うようにするけれど、心の中に冷たい雪が降り出す。それを止められないでいる。


 着替えで少し乱れた髪を手ですきながら、舞子先輩も廊下に向かって歩き出す。すれちがう僕へ聞こえるように舞子先輩は声を上げる。


 「石打拓真はいくじなしだな。奏太君も、輝帆も」

 「あの、舞子先輩……」

 「ああ、違う。私もか」


 舞子先輩がガラガラと戸を引く。そのまま振り返りもせず保健室の外へ出ていく。その後ろ姿を見送ると、急に凍てつくような寂しさに襲われた。


 そうだよ、舞子先輩。

 僕はいくじなしなんだから。


 僕はあきらめたような気持ちになって、集めた紙コップを保健室の小さな洗面台へ持っていく。飲みかけを流し、下にある小さなゴミ箱に紙コップを捨てる。


 静けさが戻った保健室に、先生が新しくお茶を淹れてくれた。どこかのおみやげの余りっぽい湯飲みから、清々しい緑茶の香りがしていた。

 机に置かれた紅茶の紙箱を浅萩先生が手に取ると、そのまま僕へと差し出す。


 「君島君。この紅茶、もらってくれる?」

 「いいですけど……」

 「年取ったせいかしら。日本茶のほうが好きになっちゃって。でも、紅茶が好きだって周りは知ってるから、結局紅茶ばっかり貰っちゃって。こういうのって言い出しにくいのよね。奏太君もきっとそうよね?」


 何を言おうとしているのか、僕にはわかった。

 女性化したことを、僕がいつまでもみんなに言わないからだ。


 「はい……。そうかもです」

 「からかってきた子は気になる?」

 「それは……。僕がそうだったから仕方ないです」

 「先生は仕方ないとは思っていないの。人によってはその程度のからかいで、って思うかもしれないけれど、奏太君は嫌に思ったなら、それは仕方ないじゃだめ。ちゃんと怒らないと」


 そんなことしたくはなかった。

 みんな僕が悪いんだから。

 僕が拓真にあんなことしてしまったから……。


 「学校はみんなのことがあるから、奏太君に保健室登校を薦めるしかないの。でもね。奏太君を好いてくれる人は、話してくれるのを待ってるんだと思うよ」


 僕は自分の膨らんでいる胸を手で押さえる。


 「もう待てないんでしょうか……」

 「体がだいぶはっきりしているからね。雰囲気も変わってきてるし。ああ、そうだ。お母さんからはトイレとか体に関することは教わった?」

 「はい……」

 「性転換症の子は、しゃがんでおしっこをするだけでも挫折する子が多いって聞くから。奏太君は女性化の進行が早いぶん、心の整理が付きにくいかもしれない。でも、味方になってくれる人には、何かが起きる前にちゃんと話したほうがいいと、先生は思うよ」


 ちゃんと……。

 ちゃんとってなんだろう……。


 胸がある男の体。

 ちゃんとしていない体。


 このあいまいな体と揺れている心では、答えはずっと出せない。

 僕は、この白くて暖かい部屋で、そう思い始めた。

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