女王の番

黒須 夜雨子

第1話 女王の番

「君との結婚はなかったことにしてもらう」

いつものカフェで、いつものように会いに来た婚約者に、パトリックは婚約の解消を伝えた。

「そうですか」

嫁入りしていてもおかしくない年齢になっているというのに、婚約解消を告げられても反発することはない。

パトリックが好ましいと思う部分でもあり、時には苛立つ部分でもあるが、今日に限っては都合が良かった。

これならパトリックの思惑通りに婚約解消に至れそうなのだから。


目の前に座るのは、小さな商会を一人で営む娘、平民のレナータだ。

パトリックは子爵令息だが三男であるため、婿入り先が見つけられなかった代わりに、身分を問わず自由に結婚していいと言われていた。

そういったことから、小さいながらも王都にある商会という財産と、それなりに整った容貌のレナータを見初めたのは半年ほど前。

淡いミルクティーのような茶色の髪は、日の光の下限定でくすんだピンクブロンドに見えなくもない。煌めく宝石とは喩えられないが、平民にしては珍しい深緑色の瞳もパトリックのお眼鏡にかなう要素の一つだった。

平民の癖に貞淑すぎて手を出すのを拒む態度は気に食わなかったが、口数は少なく我儘やおねだりを言うこともない。

当時は妥協できる女が現れてくれたと喜んだものだが、今のパトリックには遥か雲の上へと手が届きそうな機会が訪れている。

平民相手なので多少の金を積んでやれば解消に応じるだろうと親に金を用意してもらっていたが、これなら少々金額を低く提示しても問題無いかもしれない。


「婚約の解消は構いませんが、理由はお伺いしても?

次の婚約者を探す際に、私に瑕疵が無かったことを証明しなければなりませんから」

レナータに言われ、自然とパトリックの鼻が大きく膨らむ。

「本来なら君に言う必要もないのだが、元婚約者としての誼だ。

その内国中に慶事として知れ渡るだろうから、教えておいてもいいだろう」

二人の婚約解消が知れ渡れば、いや、パトリックが婚約解消に至った理由を周囲が知れば、誰もが理解と同情をレナータに寄せるだろう。

何より尊き身分となるパトリックの相手を一時的にでもしていたのだから、レナータも次の相手には恵まれるに違いない。


これはまだ内示が出ていないので秘密なのだが、と抑えるどころか大きな声がカフェ内に響く。

広いカフェの中、数人がパトリックへと視線を向けたが、それは常識なく大きな声を出した非難を込めたものであり、すぐにそれぞれの歓談へと興じるために視線を戻していった。

それに対してパトリックは理由のない不満を抱いたが、気持ちを切り替える。

今日の彼は寛容だ。

周囲の愚かな人間達では想像のつかない、高貴な身となるのだから。


「清龍国ヴァルゴグラーチェの女王陛下に、運命の番として見いだされたのだ」

さすがに驚いたのか、普段から表情をあまり変えることのないレナータが少しだけ目を丸くしてパトリックを見てくる。

周囲にいる人間は他人の話に興味が無いのか再度視線を向けることはなかったが、レナータの態度だけでもパトリックは満足した。

「運命の番、ですか」

そうしてから少し考えるような素振りを見せる。

「販路を得ていないので詳しくはないですが、ヴァルゴグラーチェは大陸の端を渡った大きな島国ですね。

以前にとある商会の伝手で商品を仕入れたことがあります。

陶器への絵付けが美しかったと」

それから、とレナータが諳んじるように言葉を続ける。

「彼の国では龍民と呼ばれる長寿の種族がいるとか」


商人の、それも平民ならば得られる情報もそれ程度だろう。

女王陛下が身に備えている王族としての品格、長く生きることからの風格、そのくせ可憐な少女のままの姿など知ることすらないままだ。

貴族として最後の機会だからと夜会に連れて行かれなかったら、パトリックも会うことないままに見知らぬ国のお伽噺だと、絵空事のように思っていただけに違いない。

あの美しい方が番であるパトリックを見つけ出したのは奇跡であり、同時に運命だったのだ。


「女王陛下は龍民の長である方だ。

そしてヴァルゴグラーチェでは血の濃淡で大きく差が出るが、大抵の民が『番』と呼ばれる魂に刻まれた相手が存在する。

彼の君は長く生きる中で何度も同じ魂を持つ番を見つけ出しては、傍に置いているのだ。

今代の番は私だった」

パトリックが言えば、レナータが頷く。

「そういう理由でしたら承知しました。

双方の合意による、婚約解消で構いません」

レナータの表情は普段の澄ましたものに戻っている。

手も出さないままに手放すのは少しだけ惜しい気もしたが、パトリックには永遠の乙女の愛と富と権力が待っているのだ。

レナータぐらいの容姿なら他にだっている。女王の寵愛を得た後に、必要であれば隠れて愛人でも持てばいい。


「勿論、こちらの一方的な都合で婚約を解消するのだ。

君が平民といえど、私は誠意を見せるべきだと考えている。

相応の慰謝料を払うつもりだ」

二つ用意していた小切手の、少ないほうを渡してやる。

しげしげとそれを見つめた彼女は了承したように頷いた。

「ありがとうございます。

せっかくですから頂いた慰謝料を資金に、ヴァルゴグラーチェの品々を取り寄せたいと思います」

ハーブティーの淹れられたティーカップの縁を撫でるレナータが思うのは、早くパトリックと結婚しなかったことの後悔だろうか。それとも幸運を手にしたことへの嫉妬や羨望か。

未練がましくパトリックに関連付けられる品々を買おうとするレナータに、自然と嗤いがこみ上げる。

未練たらしい素振りを見せる彼女に自分の中の価値が上がっていく気がする。そうして手の届かなくなったパトリックを思い出すがいい。


「ああ、そうだ。代わりと言ってはなんだが、君の商店で卸していると贈ってくれた香水があるだろう。

あれを譲ってくれないか。女王陛下に褒めて頂いたのだ。

これについても全て譲ってくれるならば、定価以上の金額を支払おう」

パトリックは自然に見えるよう、本来の目的を口にする。

レナータとの婚約解消は決定事項だ。オマケ要素でしかない。

それだけならば使用人を寄越して代理で伝えさせるだけでも良かったのだが、彼女から贈られた香水は個人が趣味で製造しているらしく、他の商店では見つからなかったのだ。

女王陛下が気に入られたのなら用意するのは当然のこと。

ヴァルゴグラーチェで女王陛下の王配になれば、贅沢が約束されている。

新しい香水も女王陛下と一緒に選べばいいだけ。だが、それまでは彼女に気に入られる要素は多いだけいいと判断したのだ。

「構いません。誠意を見せて頂いたのですし、円満な婚約解消です。

お代は頂かず、ヴァルゴグラーチェへ向かわれるパトリック様への餞別といたしましょう。

後ほど誰かに頼んで届けてもらいます」

「恩に着る」

これで話したいことは全てだ。

支払いはこちらで、というレナータの言葉に甘えて意気揚々と店を出た。




***




「上手くいったみたいですね」

満足そうな顔で去っていく元婚約者を見送るレナータに影が落ちた。

そちらへと目を向ければいたのは、この国でならどこでも見られる茶色の髪と瞳をした青年だ。

「ベッカーさん」

好青年といった雰囲気だが平凡な容姿をしている、どこにでもいるような青年である。

ごく普通の平民の青年は、パトリックが先程まで座っていた席に着く。

どことなく暗い表情は彼の持つ朴訥とした雰囲気にそぐわなかったが、どちらも気にかけることなどなく注文を取りに来た店員に追加の注文を終えた。

待つこと暫し、二人の前にそれぞれの飲み物が置かれたところで、黙りこくっていた青年が口を開いた。


「上手く騙せたようですね」

「そうみたい」

レナータはポケットから取り出した香水瓶を、テーブルの上で転がす。

歪な曲線を描きながら、危なげなくベッカーの手元にまで転がっていった。

「残りも全て購入してくれたから、暫くは騙され続けるんじゃないかしら」

青年は瓶を取り上げて、少なくなった中身を揺らした。

どことなく所作が美しい。

平民の中でも裕福な家なのだろうかと思うが、貴族でもないレナータではよくわからないことだ。


「一応確認しておきたいのですが、先程の彼は身代わりとしても差支えない程に、報いを受けるべき人なんでしょうか」

青年の問いにレナータは僅かに首を傾げるだけに留めた。

高貴な者を騙すことになると知っているのに目の前の青年は依頼したのだから、相応の覚悟があると思っていたようだが、なんだかんだと人が良さそうなのは雰囲気だけではなかったらしい。

「あの男、婚姻をチラつかせた何人もの女性に手を出した挙句、本気では無かったと言っては捨てていたみたい。

抗議した彼女達に対して子爵家は、平民風情がとまともに取り合わなかったと聞いているわ」

噂の真偽は確認しなかったが、レナータとの婚約中にも多数の女性に声をかけていたのは知っている。

そんな彼が婚約者のレナータにだけお金を払ったのは、番となった女王への心証を悪いものにはしたくないのだろう。

パトリックが高位の貴族であったならば、禍根の無いようにと全員殺されていたに違いない。


「それが適正な判断かと言われたら、個々の主観によるものだから何とも。

だって平民で女性という立場であれば、誰もがパトリックを悪人だと悪しざまに罵るだろうけど、貴族の男性から見たら?

多分若気の至りぐらいで済まされて、優しい貴族様だったら少しばかりのお金を握らせて泣き寝入りさせるか、気のいい金持ちならば愛人にでもしてやるからと言うでしょうね」

立場によって罪は姿を変える。いつだってそういうものだ。

「平和な街で人を殺せば殺人犯、けれど戦争で殺せば英雄。

何もかもが矛盾を抱えている。

こういうことは自分の中で折り合いをつけられるかどうかだから、さっきの質問には答えようがないとしか」

貴方次第ねと返された言葉に、青年はカップの表面を見つめる。


カップへと手を伸ばす。琥珀色のハーブティーが不安げに揺らめいて、まるでパトリックの将来を暗示しているようだと何とはなしに思う。

ふふ、と笑いがこぼれた。

パトリックにはついぞ見せなかった笑み。

「彼、色々知ってると言わんばかりの顔をしていたけど、本当にちゃんと知っているのかしらね」

都合のよいことばかり聞かされて、あまり知っている様子ではなかったけれど。


運命の番は絶対的な存在。

どれだけ離れていても、相手を感じて追い求める強い絆。

龍民は絆を強く感じられ、逆に人間はその感覚が若干薄いというけれど。

最も力の優れた女王が自身の運命をすぐに見つけられないはずがない。

彼女がパトリックを偶然見つけられたという状況になるほどに番の在り処がわからないのは、

「彼女の番は魔女の呪いによって魂を分かたれたこと」

だから女王は番を上手く見つけられなかったのだ。




***




300年程前、ヴァルゴグラーチェの女王の番に起きた悲劇は、長く生きる龍民ならば知っている。

当時の番は誰にでも博愛精神に満ちた行動を取る、優柔不断な性格のせいで、女王は常にやきもきさせられていた。

転んだ少年がいたら走り寄っては立ち上がらせ、王宮で迷った令嬢がいれば案内役を務める。

誰かが困っていると聞いたならば、手を差し出さずにはいられない。

それもこれも、番が他国の人間という『番の絆』を感じにくい種族のせいだったのだが、龍民としての感覚しか知らない女王には理解のできないこと。


自分だけを見ていればいい。自分以外へ愛を振り撒かなくてもいい。

全てが自分と番だけでいい。

そして恋に狂った愚かな女王は、番には自分のことだけ考えてもらおうと、一人の騎士に当て馬の役割を命じたのだ。

けれど、女王に恋縋る道化役を命じられた騎士は拒否した。

騎士には既に番がいたからだ。

相手を悲しませるくらいなら死んだ方がマシだと断る騎士に、既に狂気の淵にいた女王はまともな判断ができなくなっていた。

周囲にいた常識的な家臣たちも、当然番が優先されるのだと女王を諫め、誰も彼も女王の苦しい気持ちを理解してくれない。

自分の言うことを聞いてくれない。こんなに辛くて悲しいのに番すらも理解してくれないのだ。

女王に残されたのは怒りだった。

そして女王は、感情のままに騎士を殺害した。

番への愛に揺るがぬ騎士を一人、二度と番に会えぬよう魂ごと引き千切り、気のすむまで弄ってから殺す。

女王の間に残されたのは狂気と惨状を物語る死体。

我に返ってから反省をしたものの、けれど殺された騎士の番は許さなかった。

殺された騎士の番は有名な魔女で、彼女は圧倒的な力で兵士たちをなぎ倒して女王のいる場へと辿り着き、女王とその番に呪いをかける。


「私の番と同じように女王の番の魂を引き裂いた。

一つに戻すためには全ての番を揃えなければならない」


この時から、女王は番の存在を感じ取りにくくなった。




***




空になったカップは終わりを予兆するかのよう。

「私は対価さえ払えるならば特にこだわりなく依頼を受けるのだけど、どうして依頼したのか聞いてもいいかしら?」

追加注文を伺いにきた店員に断りを入れたレナータは、同じように断ったベッカーを見る。

「番としての愛情が希薄になったとか?」

依頼を受けた時に特に聞かなかったこと。

レナータは対価さえ払えばと特に詮索するようなことはしない。

それは他の魔女も同じだろう。


この世界で魔女は決して少ないわけではない。

けれど、魂を分かつほどの力を持つ者などそうそういない。

魔女にできることは、医者に診てもらう程ではない病の初期症状に合った薬草を煎じたり、少しだけ人の心を読んだり、明日の天気を予想したり。

力がある魔女でも胡散臭い惚れ薬を作ったりや、動物を使って誰かを監視する程度のものだ。

レナータがしたことはベッカーの育てた花や彼自身の体液で香水を作っただけ。そして婚約者だったパトリックに譲っただけ。


だから質問は本当に気まぐれだった。

偶然、女王の番に依頼された魔女の好奇心。

レナータの問いに、ベッカーは痛みと苦しみを堪えるかのようにくしゃりと顔を歪めた。

「二度、殺されたのを覚えているからです」

レナータが僅かに眉を上げる。

「私は魂を分かたれてからの生で、二度、彼女に殺されたのです」


トビアス・ベッカーが女王に殺されたのは覚えている限りで二度だ。

生まれ変わったベッカーは希薄な絆となった女王に見いだされた。

番と言われてもピンとくるものがなかった自分を、それでも彼女が見つけてくれたのが嬉しくて。

彼女を幸せにしたいと思ってついていったら、女王は自国へと連れ帰るなり、ベッカーの前世であった者を自室に連れ込んで殺した。

血の上に転がりながら見上げた女王は、「一人ではやはり駄目か」と言うと一人勝手に泣き始め、ベッカーは痛みと混乱の中で短い人生を終了した。


次に生まれ変わったときには一つ前の記憶がなかった。

ただ、再び女王に見いだされた時に酷く不安な気持ちになったことから本当に付いて行っていいのかと悩んだが、当時のベッカーは貴族社会に生きていることから家のためだと思い引き受けた。

女王は二度目のベッカーを王宮に連れて行き、王の番として手厚い待遇を用意してくれた。

生国以上の生活を送り、新しい土地に馴染もうと言語を学び、女王の支えになろうと公務の手伝いをする。

女王は忙しいせいか余り会うことはできなかったが、四季の美しい国で穏やかな時間を過ごせることにベッカーは満足していた。

けれど、月日が経つごとに女王の表情には焦燥や苛立ちといった感情が浮かぶようになっていく。

疲れているのかと気持ちの安らぐ香草や花々などを取り寄せてみたりするものの、彼女の憂いが晴れることはない。


そして数年が経ち、唐突に呼び出されたベッカーは他の番と引き合わされて、初めて魂が六つに分かれていることを知ったのだ。

じわりじわりと立ち昇る不安。他の彼らも同じ表情で女王の様子を窺っている。

ここにいるのは五人。

後一人が見つからないのだろうか。

だから彼女は苛立っているのだろうか。

ならばなぜ、彼らは呼び出され、そして女王の間から出る扉は堅く閉ざされているのだろうか。

何も言えず、ただただ女王を見つめる五人を見つめる彼女が溜息を一つ。

一人足りないがこれだけ集めればなんとかなるかもしれない、と言った後に起きたのは惨劇だった。

一番近くにいた者を手に掛けたのを皮切りに、次々と番である彼らは殺されていく。

「次こそは」「今度こそは」と口にしながら殺めていく女王の目にあるのは狂気だけで、そこに理性も愛も感じられることなどなかった。

彼女にあったのは執着だと思いながら、そうしてベッカーは再び死を迎えることとなった。


「──ですので、私は行かないのです。

今世の私は平民でしかなく、それゆえしがらみもない。

殺されるとわかっていて向かう者などいないでしょう」

「今回も殺されるとは限らないのでは?」

ベッカーが飲み終えたカップをテーブルの端に寄せ、少し身を乗り出してレナータの手首を掴んだ。

「知らないとは言わせない、オルガイーズ」

オルガイーズと呼ばれたレナータは目を眇めて彼を見返す。

「どうして」

「別に思い出したのは二度殺されたことだけじゃない」

ベッカーが思い出したのは全てだ。

「なぜ私達が殺され続けるのか。

あの日あの時、あの場で女王を呪った貴女なら知っているでしょう」


レナータは、いやオルガイーズは覚えている。

番を失う痛みを。力ある女王の行いは魔女の呪いと等しく、千々と引き裂かれた魂が形を留めることすらできずに消えていく様を。

女王を呪ったことを後悔はしていない。

あの日から彼を探し続けても、オルガイーズが番に再び巡り合うことなどないのだから。

「ええ、私は確かにこう言ったわ」

喪う苦しみなど生温い。


「私の番と同じように女王の番の魂を引き裂いた。

一つに戻すためには全ての番を揃えて、女王自らの手によって殺さねばならない」


女王にかけた呪いが最悪なものだと理解していても。

レナータは決して許さない。


「それで?知っていたのなら他に頼むことがあったと思うのだけど。

魂を戻してほしいとか、それとも苦しまない毒が欲しいとか言うべきだったのでは?」

今この時を逃れても、あの執念深い女王は探し続けるだろう。

「いえ、どれも貴女は断るでしょう。

私も愛情はあったし番への感情は教わっていたので、大切な存在だという理解はしています。

あの時も今も、彼女の番としての絆を感じることはあまりないのですが、そんな番だった私から見ても女王の行為は許されることではなかった」

ベッカーの言葉に大きく息を吐く。

「ええ、断るでしょうね。当然だわ、私の番はもういないのだもの。

大体これだけ長く呪われたものを、今更解呪しようなんて不可能よ」

女王だけ呪いを解けば、中途半端な呪いだけが番に残されてしまう。

魂を一つに戻すには、互いにかかった呪いはそのままである必要があるのだ。


「まあ、依頼は終わったのだしもういいわ」

伝票を掴んで立ち上がる。

これでまた暫くは女王も番を見つけることはできない。

そしてベッカーが見つかろうが知ったことでもない。

女王を許してはないが、彼女が番を見つけて戻したとしても、これ以上に何かする気もない。

失ったものが戻ることはないのだから。

「手を離して」

けれどベッカーの手は離れない。

「貴女の気に入る対価を払います。

だから、もう一つだけ依頼を受けてください」

これにはさすがにレナータも睨みつけるが、暗い影を残したままの彼が目を伏せてから、再びレナータを真っ直ぐにみる。


「私には記憶があると言いましたね。

二度の人生だけではなく、その前の記憶も」

「ええ、そうね。

でも、それが?」

吐き捨てるように答える。

ベッカーの望みは叶えた。この依頼は全て終わっている。

「あの時、私は確かに六つの魂に分かれました。

そして魂が欠けた状態の私はすごく不安定だった」

なのに、この手を振り払えない。

「そうでしょうね。だからギリギリ崩れることのないように六つに分けたのだもの」

レナータが師匠から教わった魔法だが、適正な数を割り出すのに、何人もの死刑囚で試したと言っていた。

だから、不安定ながらも彼らは次の生を受けて生きていられる。

魂を失っては復讐にならないから。

「だから、あの場で私は本能的に魂の安定を求めて、消えていくだけだった違う魂の残滓を引き寄せたのです」

言葉の真意を掴もうと、レナータは言葉の続きを促すようにベッカーを見つめる。

「貴女が見つけられない程に本当に微かなもので、それでも彼はずっと貴女の名を呼び続けていました」

そうだ。あの時のレナータはベッカーと初めて会ったし、誰にも名乗ることをしなかった。

あの場でオルガイーズという名を知っていたのは、

「私の中には貴女の番の魂が、本当にわからない程度に残されています」

事切れていたレナータの番だけだ。




***




ヴァルゴグラーチェの女王がパトリックを連れていって暫く、番と呼ばれた男性達と共に、彼女が自死によって身罷られたという話が大陸全体に広まるのに、そこまでの年月は経たなかった。

小さいながらも貿易が盛んな商業都市の郊外、小さな雑貨屋に投げ込まれた新聞にも一面で掲載されていた。

それを拾い上げて青年は歩き出す。

庭にいる淡いミルクティー色をした髪の女性に渡せば、大きな文字で書かれた見出しを見てから興味無さそうに視線を外した。

「死に逃げたところで、何も元通りにはならないのに」

「それでも苦痛からは一時的に解放されるんだ、オルガイーズ」

あの国でベッカーを名乗っていた青年が、どかりと荒っぽい所作で向かいの席に座る。

彼はもうベッカーではない。

オルガイーズの最愛の番だ。


彼は自身の魂を苗床にして、オルガイーズの番の魂が主となるよう依頼してきたのだ。

「もう殺されるのも逃げるのもしたくはない。

けれど。これだけされても彼女を憎むことができないから」

疲れ果てた顔は若いはずなのに年寄りのようで。

「いつか彼女と会って話をしたいと思う日がくるまで、どうか姿を隠してほしい」


そうしてベッカーの魂は眠りに就いた。

彼の気持ちが落ち着くのがいつなのかはわからないが、女王が再び生まれ変わったときに六人揃えられる可能性は低いだろう。

今回はたまたまベッカーだけだったが、何度も殺された番が女王の無情さを記憶に残したまま生まれ変わるかもしれないのだ。

次は何に生まれ変わるかはわからないが、番の認識が希薄な種族になれば拒否されることもある。

それに女王であるから世界中を探せたのであって、次に無力な平民に生まれ変わることもあるのだから、彼女は今世よりも行動は制限されるに違いない。


二人分のカップにお茶が注がれる。

大昔に二人が飲んでいた茶葉は、国の象徴が喪われようとも変わりなく輸入されて手元に届く。

柔らかな春の新芽にも似た色に、オルガイーズは少しだけ笑ってカップに触れた。


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女王の番 黒須 夜雨子 @y_kurosu

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