人生最大のピンチ

こむぎこちゃん

第1話

 電車の走る音が、規則正しく車内に響いている。

 穏やかな昼の日差しが、座席に座る俺の背中を照らす。

 ……だが、僕の心臓はものすごいスピードで脈打ち、冷や汗もだらだら。内心全く穏やかではない。

 自分を落ち着かせるためにメガネをくいっと直そう……として、手がからぶる。

 そうだ、今日はコンタクトなんだ。

 そんなことさえ忘れてしまうくらい、今の僕には余裕がなかった。

 人生最大のピンチと言っても過言ではないだろう。


 こんな……こんな、結婚相手の両親に初めて会うなんていう大事な日に……靴下のつま先が破れた……だって……っ⁉


 落ち着け。

 まずは落ち着くんだ諒太郎。

 計画は完璧だったはずだ。

 手土産もちゃんと用意してあった。

 挨拶前日の仕事を早めに終わらせられるよう、以前から調節もしてきた。

 そして前日は、家に帰ってからゆっくり今日の脳内シミュレーションをして、早めに眠りにつく。


 ――はずだった。


 そう。

 すべては、早く業務を終わらせた僕に目をつけて仕事を追加してきた上司のせいだ……っ!

 早く帰るどころかいつもよりはるかに遅くなってしまった僕は、疲れ切って服を用意する気力もなく、倒れこむように眠りについた。

 そのうえ、目覚まし時計をかけ忘れるという大失態までおかしてしまったんだ。

 幸いそこまで遅くならずに起きられたものの、大慌てで着替えを用意し、髪をセットしなければならなかった。

 そのせいで靴下にまで気を配る余裕がなかったんだ。

 以前から、つま先がもう少しで破れそうな靴下があるのはわかっていた。

 きっと、駅まで走ったことでとどめを刺してしまったのだろう。

 まだ使えるからとそのままにしていたことが、こんなところで裏目に出るとは……。

 どうすべきだろうか。

 服屋に寄るか?

 いや、そんな時間はない。

 だいたい、自分の服装にこだわりがないせいでどこに店があるのかすら知らない。

 なら、せめてコンビニにでも……。

 いや、靴下なんてどこにでも売っているものじゃないだろう。


 ……詰んだ……。


 これはもう、理歩さんの家でスリッパが出ることを願うしかない。

 ふつうは出される……よな?


「あっ! おはよ~、諒太郎くん」

 駅の奇妙な形のモニュメントの前で、理步さんがぶんぶんと手を振っている。

 僕は動揺を悟られないよう、平静を装って理步さんに手を振りかえした。

 理步さんとは、大学のミステリー同好会で知り合った。理步さんと僕は、性格は真逆に等しいものの、共通の趣味が多く、話をするのがとても楽しかった。

 それから、話すと色々あるんだが……とにかく色々あって、今日に至る。

 理步さんをがっかりさせたくない。

 絶対に、隠し通さなければ……!

「じゃあ早速、いこっか。案内するね」

 若干緊張した様子で、理歩さんが歩き出した。


「……理歩を頼んだ、諒太郎くん」

 理歩さんのお父さんの言葉で、僕ははっと我に返った。

 テーブルについてからの僕の記憶はほとんどない。

 玄関で無事スリッパは履けたものの、つい気になってしまってドキドキしっぱなしだった。

 だが、周りの様子を見る限りきちんと挨拶はできたのだろう。

 何十回、何百回と脳内でシミュレーションしたんだ。たとえ意識が飛んでいようとも、それだけは大丈夫だったはずだ。

 ほっと一安心していると。

「そうだ。娘からよく聞いていたんだ、君は将棋が得意なんだってね? 実は私も好きなんだよ。一局どうだい?」

 そう言って指さしたのは……畳の部屋。

 まずい。今スリッパを脱いだら、靴下の穴が見えてしまうかもしれない。

 何とか……何とかして、この場をくぐり抜けなければ……っ!

「えっと、今日は――」

「ちょっとお父さん、将棋なんてやってたらすっごい時間かかるじゃん!」

 見切り発車でなんとか畳の部屋を回避しようとした僕の言葉を、理步さんの声が遮った。

 理歩さん、ナイスっ!

 僕は心の中で理歩さんにグッジョブする。

「理歩の言う通りよ、お父さん。今はそういうタイミングじゃないでしょう」

「そうそう! じゃましないでよね」

「そ、そうか……。それでは、またの機会に」

 娘の言葉に簡単に折れる父親。

「は、はい、ぜひ!」

 僕は首がとれるほど大きくうなずいた。

 た、助かった……。

「そうだ、アルバムを見せたらどう? 確か理步の部屋にあるはずだけど」

「そうだね。行こ、諒太郎くん!」


 理步さんに促され、僕は二階の理步さんの部屋へ。

 入り口近くは床だが、部屋の大部分を占めるのは……カーペット。

 どうしよう。

 僕がスリッパのまま入り口に突っ立っていると、じっと理步さんに見つめられた。

「諒太郎くん」

「……は、はい」

 いつもとは少し違った声色の理歩さんに、僕も少し緊張する。

 まさか……。

「ねえ。今日の靴下……どうかしたの? まさか、穴が開いていた、とかそんなんじゃないよね」

 ……ばれている。

 なんで、どうして……。

 疑問には思うが、これからのことを考えると、正直に謝るしかない。

「……ごめん。実は待ち合わせ場所に向かう途中で、つま先に穴が――」

「両親との顔合わせのときに、いったいどういうつもり? 穴が開いた、靴下、なんかで――っ」

 そのとき、理歩さんの言葉が唐突に途切れ、震え始めた。

「えっ、ちょ、大丈夫で――」

「……ククッ……あー、もうムリっ!」

 そう叫んで、理歩さんは爆発したように笑い始めた。

「おっおもしろすぎない!? 両親とのあいさつの日に、靴下に穴が開いちゃうなんて。しかも気にしすぎて時々挙動不振だし!」

 声を上げて笑う理歩さんに、僕は理解が追い付かずおろおろ。

 一段落したところで、僕は恐る恐る理歩さんに声をかけた。

「えっと……怒って、ない?」

「全然? そんなんで怒ってたら、この先どうなっちゃうのよ。それに、いつもよりはちゃんとしてるじゃん」

「いや、それはまあ……」

 確かに僕のいつもの格好は、髪も起きたときのまま、服は一番に手に取ったもの、という適当な服装しかしていない。

 それに比べれば断マシではあるが。

「……いつから気づいてた?」

「んー、今日最初に会った時から足元を気にしてたし、何かあるのかなーってうすうす。確信を持ったのは、お父さんに将棋やろうって言われた時だよ。スリッパ、脱ぎたくなかったんでしょ」

「おっしゃるとおりで……」

 僕は両手を上げて降参の意を示した。

 さすが、ミステリー同好会一の推理力を自負するだけある。

「……ごめん、こんな大事な日にちゃんとできなくて」

 うつむく僕に、いいのいいの、と理步さんは明るく言った。

「そんなに落ち込まないでよ。うちの親も、気づいたって別に気にする人じゃないし」

 それに、と言うと、理歩さんは少し頬を赤らめて言った。

「そういう、真面目だけどちょっと抜けてるとこも含めて……好きになったんだからね」

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