お前だけは殴らせろ!!

猛木

お前だけは殴らせろ!!

   おまえだけは殴らせろ!!


 城甲 姐(しろつめ ねえ)は憤慨していた。親友が妙な教団に加入してから暴力的な男に豹変してしまったからだ。そこでその教団に何かがあると踏んだ姐は教団に単身で突撃することを決心する。


 そして現在。彼女は教団の教会の入り口の前に立っており、後は数歩歩むだけという状況であった。


「さて相棒。アンタが変わっちまった理由を確かめさせてもらうよ」


 目の前に佇む教会を前にして、この巨大な建物から漏れ出さんとする奇妙な何かを感じる。しかし、友人を救うためならばと覚悟を固め直し、歩みを進めて門に触れる。すると、


 数人の駆ける音がこちらに向かってきた。


「一体何の御用でしょうか」


 現れたのはきらきらと輝く装飾がされているローブを羽織り、フードを深くかぶった三人の男達。

 そしてその中の一人が姐を不審に思っているのだろうか、姐の頭から足までを舐め回すように睨みながら話しかけてきた。


「こちらアマァク警察本部の者です。近隣住民から行方不明者が最後にここに入っていったのを見た。という目撃情報があったので教会内を捜査させてください」


 姐は刑事であった。彼女が信者に話したことは全て真実である。しかしこの件は彼女の完全なる独断であり、姐は同僚と連携してなければ、裁判所から礼状を取ることすらしていないのだ。


 なのでもしも目の前にいる信者が、礼状を出せ、などと余計なことを言ったのならば、武力を用いて突破するつもりであった。


「ほう、警察手帳はお持ちですか? この頃警察に成りすましてこの教団に侵入しようとする輩が多いので」


 信者はなおも疑惑の声で問う。それもそうだろう、なんと言ったって今の彼女は単独であることに加えスーツを着ておらず下半身は戦闘服、上半身は突起した筋肉が目立つジャージというおおよそ刑事とは思えない服装をしているのだ。


 一般的なイメージ的にも刑事がスーツを着ているのは勿論。刑事は二人で一人が制圧、一人が応援要請といった具合で行動しなければならないのだ。この信者がこのことを知っていた場合、やはり彼女はその拳を用いてこの場を突破するつもりである。


 事を急いで教団に単独突撃という無謀な行動を起こしたことにより、ボロがあらゆる場所から出てきていることは理解していた。しかし、もう引き返せないところまで行動に移しているため、ただ堂々とするしかできない。


「これだ」


 姐は装わない低い声で威圧感を出しながら警察手帳を見せる。


「ふ、ふむぅ。妙な名前ですが確かに警察官の方のようですね」


 出した警察手帳に張り付くように、信者は瞳を忙しなく動かしていた。その信者の様子にこの目の前にいる者に教会内を嗅ぎまわられたくない、という空気をひしひしと感じさせられる。


「所内ではここに行方不明者がいるというのが有力視されていましてね」


 そこで少しばかり信者らに対してカマをかけてみることにした。


「!?」


 すると後ろの方にいた信者がビクッと体を震わせて反応を見せる。それに対してしめしめと思い、続ける。


「ほら。ここって悪魔崇拝をしているじゃないですか。だから一部では行方不明者が生贄の儀式に使われているんじゃないか、って言われているんですよね」


「はうっ!」


 姐から淡々と放たれた言葉たちは、首筋に刃を押し当てられるかの如く、信者らの不安を煽ったようで。体を震わせた信者が腹に拳を捻じ込まれたのかと思わせるほどの、声量交じりの吐息を吐く。その瞬間、


「ちょ、ちょっと待ってください。我らはジュラレ様を信仰していますが、ジュラレ様は人の生贄は要求しません!」


 警察手帳の提示を要求してきた信者が姐の進路を妨害する形で腕を伸ばし、焦りが漏れた声で語りかけてきた。この言動に姐は静かな笑みを浮かべる。


「『人の生贄は』ですか……」

「え……はっ!?」


 自身の失態を認知した信者はみるみる青ざめていく。この信者は人間を生贄にしていることは否定したが、彼は心の中にある真実を無意識に言葉で表していた。この『人間は』という言葉が、姐に『人間以外を生贄にしている』という真実に辿り着かせたのだ。


「な、何やってんだよ!」

「もう言ってしまったことなので、諦めましょ」


 温和に装った声で観念することを信者に勧める。


「ぐ、こんなふざけた格好をした刑事に出し抜かれるなんて」


 信者達は姐に対する侮辱とともに、膝から崩れ落ちた。


「ふざけた格好で悪かったね。だけど私も鬼じゃない。ひとつだけ提案をしようじゃないか」


 そこで姐は丁寧な口調から、女傑のような口調へと変化を見せ、うな垂れている信者の頬を掴みながら人差し指を立てて一つの提案をする。


「提案……だと?」

「中へと案内しなさい。この提案に乗れば私はこの口を閉ざす。もっとも、邪教と認定されて教団を潰されたくなければ選択肢はないようなものね」


 それは信者の口から現れた情報に目を瞑ってやる代わりに教会内に入れろ、というものである。これが職権乱用も甚だしいということはわかっていたが、ここまで来てしまったのならば手段は選べない。


「き、貴様をな、中へ入れるだと?」

「私の気が変わる前にさっさとしな。国家権力を敵にしたいのかい?」


 姐を中に入れるのが相当まずいと思ったのか信者は、このままでは舌を噛んで死んでしまうのではないかとこの場にいる全員に危惧させるほどに、葛藤に満ちた表情を顔に灯す。


「ぐぬぬ……何が国家権力だくそったれぇ…………分かった中に入れてやる」

「当然の決断ね」


 苦渋の決断。断腸の思いだったのだろうか、信者は口の端から血を垂れ流していた。


「だが、お前が妙なことをしないか監視させてもらうからな」

「クレイ! こんなのを中に入れたら碌でもないことが起きますよ!」


 警戒心が高く、姐を罵った信者はクレイというらしい。他の信者二人が、姐を教会内に招き入れようとしているクレイを制止する。


「黙れ! 選択肢はこの女の言う通り一択しかないんだ。だから少しだけでも被害を減らすために……」

「くっ、何でクレイが犠牲にならなければ」

「お前のことは一生忘れないからな」


 クレイは血の涙を流し、他二人の信者はそのようなクレイの肩を掴んで涙を流していた。


「さっさと中に入れな。全員まとめて凹ますよ」


 時間が惜しいというのにも関わらず、クレイらがお涙頂戴即興劇を始めたことに苛立ちを感じた姐は、わなわなと震える裏拳を見せつけながら脅迫し始める。


「分かったから待て。さて俺はこのクソ女を監視するからお前らは引き続き守っといてくれー」 


 脅しを受けたクレイは素早く状況を切り替え、警戒心の強そうな堅物から何も考えていなさそうな間の抜けた人物へと様変わりする。


「く、クソ女?」


 そして唐突なる暴言。クレイの変わりように鳩が豆鉄砲食ったかのように漏らしてしまう。


「ぱっぱと用事を済ませてくれよ」


 すると二人の信者は蜘蛛の子散らすように何処かへ走り去って行き、当のクレイは巨大な木製の扉を抑えながら、早くしてくれと言いたげな表情でこちらに手招きしていた。この瞬間から姐は、クレイが自身を完全に舐め腐っているということを理解する。


「アンタがそれを言うのかい?」

「あぁもちろん」


 それに対して困惑を顔に浮かべながらも、段々と手招きの速度を上げていくクレイの手の速度に苛立ちが比例して募っていった彼女は早足で教会に足を踏み入れる。


「思ったよりも小奇麗な内装ね」


 扉を越えて目に入ったものは、灰色を基調とした想像通りの場所であった。数十個の長椅子が一切の乱れなく均等に配置され、禍々しさがほんのり漂う何かしらの彫刻があしらわれた太い柱が五本配置されていた。


「思ったよりとはなんだ。思ったよりとは」

「そのままの意味だけど、にしても何か違う気が……」


 しかしその中で、気持ちの悪い違和感が脳裏にベッタリと張り付いてきた。そこで、顎に手を添えながら神妙な面持ちを浮かべてみる。


「違う気ぃ? そりゃあキリストを信仰しているわけじゃないからな」

「悪魔信仰だから?」

「ジュラレ様だ」


 クレイはフードを勢いよく取り、その神秘的なまでに真っ白な肌や髪を露わにしながら語気を強める。


「……はいはい、ジュラレね」


 その時目にしたクレイの信じられないほどに白い肌の色によって、強調されたブルーベリー色の瞳に吸い込まれるような気がして一瞬だけ面食らう。しかし、彼の容姿に動揺したことを悟られないためにそれっぽい何気ない返事をした。


「それよりここには礼拝堂しかないぞ。気が済んだのであればさっさと出て行ってもらうからな」


 しかし、そのような彼女の反応が気に食わなかったのかクレイは指先を姐に向けながら、そのように帰宅を促した。


「いいや、もう少し調べさせてもらう」


 それから姐は奥へと進み、祭壇に立ってもう一度全体に目を向ける。やはり何かがおかしい。長椅子、部屋を薄く照らす燭台ですら左右対称で同じ数設置されているにも関わらず。あの柱だけは右に三本、左に二本といった具合で、こちらから見て左手前の柱がなかったのだ。


 ここまで左右対称に拘っているというのに、柱という超重要部位に限って非対称にしてしまうのか。もしも姐が教祖であれば、最後まで対称にとことん拘るだろう。


 そこで、最初は六本目の柱があったのではないかと考えた姐は、六本目の柱があるべき場所に駆け寄る。すると、


「気になるかー? そこー」


 はやく出て行ってもらいたいが、ただ監視しながら待つことに飽きたのかクレイはしゃがみ込んで、床を観察しているこちらに近づきながら声をかけてきた。


「えぇ、何か足りない気がしない?」

「ここにあった柱のことか? これはお偉いさんだか、なんだかがブチ壊しちまったんだよ。一体なんでなんだろうな」


 クレイの言葉を聞く限り。予想通りやはりここには柱が立っていたようだ。そしてここにあったはずの柱はその”お偉いさん”とやらに破壊されてしまったらしい。


「クレイもその場に?」

「まぁそう。あのぶきみ……じゃなくてお偉いさんが『忌々しい』なんて言って、ここにあった柱を丸めちまったんだ」


 記憶を思い起こしながら話すクレイの声の中に垣間見える真剣さから、当時のその場で行われていた物事がおぞましく、それでかつ摩訶不思議だったということを理解する。加えてこの男は、どんな者を相手にしても舐め腐っているということも彼女は理解する。


「ふぅん」

「ありゃエスパーかなんかに決まってる。人間の業じゃない」


 クレイの言動は終始ヘラヘラしていたため、姐はそれらのことが冗談だと思って話半分で聞いていた。しかし、”エスパー”という単語が放たれたその瞬間、血相を変えてクレイの顔を真剣な表情でじっと見つめる。


「エスパー!?」

「うぉ!?」


 クレイは姐のその鬼気迫った様子に、鳩が豆鉄砲食った顔をする。


「その男はどんな見た目だったんだい?」

「み、見た目? なんというか、簡潔に言っちまうと、妙な仮面とつけて変な服装だったなぁ」


 姐の質問に対して最初は困惑した様子で言葉を詰まらせていたクレイだったが、すぐに人差し指を天に突き立てて言葉を並べた。


 姐はそのお偉いさんの正体に感づき俯き顔に力が入る。


「悪業……悪業 楽道(あくごう がくみち)」

「あっそうそう。確かそんなこと━━━━」


 その男は”悪業 楽道”。おかしくなってしまった姐の友人であり、仕事上の相棒でもある男。


「もう一発程度じゃ済まないかもな」


 彼女が教団に突撃するに到ったのは、教団にある”何か”を暴くため。それと、おかしくなってしまった友人を一発殴ってでも正気に戻すことだった。


 その昔。姐と悪業は特殊事件捜査係として犯人追跡を行い、数々の容疑者逮捕に貢献してきた。


 二人の間柄は深いもので厚い友情があり、姐は筋肉量が多すぎて女子っぽくないというコンプレックスについて。悪業は自身が超能力を持っていること。などの秘密を共有し合うほどの仲であった


 しかし、ある時を境に悪業は完全に変わってしまった。容疑者や犯人に対する暴力、一般人に対する荒々しい対応がより目立つようになったのである。以前からも丁重なものとは言えない行動の数々だったのだが、事件に関係のない民間人を殴殺しかける等の行為は今まで成したことなどなかったのに。


 その豹変振りに身を焦がさんとする程の怒りを覚えた姐。決して責任問題がどうという問題ではない。真に怒りを感じたのは、正しくあるべき悪業が悪の道に堕ちようとしているからだ。


 そこで不審に思った姐が他の仕事と並行して彼の豹変の時期と、彼の行動の軌跡を独自に調査したところ、悪業が過激な行動をとり始めたのと同じ時期に悪魔崇拝を行っている宗教に入信していることを知ったという訳だ。


 『現実は小説よりも奇なり』というべきだろうか、その並行して調査していた誘拐事件とこの悪業の一件がこの教団と関係があったようで、姐からすればそれは一石二鳥だったと言えるかもしれない。


 しかしそれと同時に姐には、悪業が命を以って償わなければならない悪行に手を染めているような気がしてならず。やはり、単に一石二鳥とはいえない状況。


「一発って、おい。刑事だからって、何でもしてもいいだなんて大間違いだぞ」

「いや、こっちの話だから気にしないでおくれ…………ん?」


 自身が殴られるのかと勘違いして身構えるクレイをそっちのけで床を調べていると、目にあるものが写る。それは紫に光る人の指の末節骨程度のサイズの四角柱台の何か。その瞬間、刑事の勘が閃く。


 記憶に違いがなければ、悪業は細かいものや機械類全般が苦手で、事故故意に関わらず捜査中に幾つかの機械を破壊してきて、彼がこれまでに書いてきた始末書は数十枚はゆうに超えていることを覚えている。


 そしてこの柱を破壊した者が悪業だと判明した今、姐はこの柱に何かしらの仕掛けがあったのではないのかと頭に浮かんだ

「あいつめ、そこんところは変わってないようだね」

「へ?」


 そこで、この紫色に光る四角柱台の何かこそに秘めたるものがあることを直感した彼女は、ニカっと不敵な笑みを浮かべながら、大袈裟に腕を振り上げ直線的に指先をそれに放つ。その瞬間。


「……揺れている?」

「地震だ。逃げないとまずい、崩れるぞ!」


 教会全体がゴゴゴと気味の悪い低い咆哮を発しながら、その体を揺らし始める。

 

 唐突に発生したこの異常にクレイは困惑する姿を見せながらも、建物の崩壊を予見した彼は姐の腕を引っ張って避難しようとする。


「待ちな」


 しかし姐はその手を振り払い、姿勢を低く保って教会内に起こるであろう変化を見逃さぬべく、振動する教会内で瞬きすらせず辺りを見渡していた。


 一見、姐は冷静に見えてしまうだろう。しかし、彼女はこの不安感を煽る揺れも相まって焦っていた。これから明るみに出るであろう教団の正体がうわさ通りの教団だったとき、”お偉いさん”である悪業に手錠をかけなければならず、首を吊るさせる一押しになってしまうかもしれない、というこの状況が姐を焦らせていたのだ。


 この教団をこのように調査しているのは姐一人。もしも悪業が誘拐殺人に関与していたとしても、短い期間にしてもその真実を隠すことは出来るだろう。しかしそのようなことはできない。激しく闇を照らす己の正義がそれを許さないのだ。だからこそ、なんとしても真実に辿り着いて、悪業は事件に関与していなかった。という真実を知りたがっていたのだ。たとえその可能性が限りなく低くても。


「祭壇が動いている」

「ちょ……おい!」


 揺れが収まろうとしている最中。瞳は横にスライドする祭壇を捉え、気持ちが先走った姐は祭壇に向かって走る。


「なるほどね」


 その時、姐は地下へと続く人二人が横に並んで歩けるほどの広さをもつ階段を発見する。どうやら先ほど彼女が作動させた紫色の何かは、この階段を隠していた祭壇を動かすための仕掛けなのだったらしい。


「これは一体?」

「行くぞ」

「……ま、待て」


 五拍ほど遅れてクレイがやってきたかと思えば、彼は不思議そうに姐に声をかけた。そんなクレイの様子を見るに、信者である彼ですらこの地下室の存在を認知していなかったようだ。


 この先にこそ二つの事件を解決する何かがあることを確信していたこともあり、クレイに有無を言わさず段差に片足を乗っける。


「監視はいいのかい? 私はきっと、余計なことをするよ?」


 階段の先の闇を覗きながら、足を止めているクレイに話しかけた。


「い……かん……する」

「ん?」


 酸素のない肺から無理矢理捻り出したかのような未熟で拙い声に、異様な雰囲気を感じ取り、視線をクレイへと移し聞き返す。すると、


「い、いやな予感がするんだよ」


 彼は下唇を噛みながら小刻みに震え、一歩を踏み出すことに躊躇していた。


 一体どのような事態に陥れば、あれほどヘラヘラしていた男がここまで真剣で恐れを感じさせられるのか、姐は発生したこの相違性にクレイを心配すると同時に、周りに何かがあるのかと警戒心を強める。


「だ、だってよ~」


 そして終には過呼吸を起こして床にへたり込んでしまう始末。それが自分の性分だというのか、彼女は素早くクレイに駆け寄り背中をさすりながら声をかける。


「しっかりしな」


 そうして数十分の時が経ち、クレイの中で考えがまとまったのか、彼は呼吸を落ち着いた一定のリズムへと戻して口を開き始める。


「……さっき言ってたよな。この教団が行方不明者を儀式の生贄にしている、ってよ」

「そのような話が挙がっているだけの話よ」

「それが現実味を帯びてきやがったんだ」

「どういうこと?」

「わからねぇか? この地下へ続く階段からプンプン臭ってくる鉄の匂いをよ~」

「……」


 話を聞く限り、地下室は鉄の匂いで充満しているらしい。しかし、彼よりも地下に近い位置にいる姐はその異様な香りを知覚することはなかった。

 絶望せぬことを幸と思うべきか、それともクレイの心を理解できずに不幸というべきか、今現在彼女は鼻を詰まらせており、この地下室に対する危機感は彼の感じるもの程ではなかった。


「まさか、鼻が詰まっているとか、バカなことを抜かさないでくれよ!」

「……」


 なんともいえない姐の反応に、クレイは不審に思ってそのような言葉を吐くが、図星である。悲しいことに図星であるのだ。図星を突かれた姐はクレイの背後で気まずそうに自身の唇を横に引っ張っていた。その瞬間、クレイがこちらに振り向く。


「お、おま……マジかよ〜クソ女だな~」

「確かに鼻は詰まっているが、クソ女と言われる筋はない!」


 姐の表情を見て全てを理解したクレイ。先ほどのシリアスな雰囲気は何処へやら、彼は姐を罵りつつ間の抜けた雰囲気を作り出す。


「ふっ……まっ、いっか。早くいこうぜ」


 この教団が誘拐殺人に手を染めていないという可能性を完全に拭いきれていないのにも関わらず、クレイは先程の調子を取り戻し立ち上がって階段の方へ向かって行く。


「いいのかい?」


 度重なる豹変具合に姐は驚きを顔に出し、間の抜けた声でクレイに訊く。


「それは確かに気になる所だが、お前が妙なことをしないように監視しないとだからな〜」


「そうかい。なら、遠慮なく行かせてもらうよ」


 目の奥に存在する何かにクレイの思惑を知った姐。彼女は落ち着きのある笑みを浮かべながら常闇の階段をクレイとともに下る。


 その道中。階段を一歩下るたびにグチャ、グチャと気持ちの悪い粘着性のあるものが、靴底と床を繋ぎ合わせようとしていた。視界が悪いが故にそれの正体は判明することはなかったが、クレイが険しい顔で鼻を摘んでいるのを見ているとやはり碌なものではないことは確かだろう。


 七十歩ほど段を下り、目が慣れた頃二人は古そうな木製の扉を見つけた。横幅は人一人分、縦は百八十五センチ程で姐が際で通れる程度。そして扉に近い位置にいたクレイが輪のノブを掴む。しかし、


「なぁクソ女。訊きたいんだがいいか?」

「タイミングが壊滅的だが、まぁ構わないよ」


 あまりにも状況を考慮していないその発言にクレイは裏切ろうとしているのか、と考えて訝しげな表情を浮かべる。


 しかし身長が十センチ以上離れているクレイに力で負ける理由が何一つ思い浮かばなかったため、質問することを許可する。


 なお、すでにクソ女という蔑称で呼ばれても気にしなくなってしまった。


「俺ってよー。気味が悪くねぇか?」

「気味が悪い?」 

「ほら、俺の────」

「なにが言いたいのかわからないけど、このやり取りは不穏だねぇ。かなり」


 どのような言葉が放たれるのかとクレイの動きを見て警戒していたが、そのような意図不明な言葉に気が抜けてしまいつい肩を落としてしまう。


 しかし、クレイは伝えたいことを伝えきれていなかったようで、彼はこちらに振り返って自身の真っ白な顔に人差し指を向けながら続ける。


「違う! 俺が言いたいのは……こ、この顔だ」

「顔……あー」

「……」


 その瞬間クレイの言葉の意図が、彼の白すぎる肌についてだということを理解し始めた姐は微妙な表情を浮かべる。


 その表情に、食らったものがあったのかクレイは色味を感じない肌によって強調されたブルーベリー色の目を伏せる。


「最初その顔を見たとき面食らったさ」

「……」


 姐から発せられる正直な言葉にクレイは未だに口を閉ざし続ける。しかし、


「その見た目で何があったかはわからない。でも、みてくれなんてただの飾り、こうも話してれば、ほら、そんなもの気にならなくなる」

「……!」


 姐から発せられたその言葉が余程奇怪だったのか、クレイは目を見開いて姐の表情を見つめ始めた。


「前言撤回。やっぱりその目は慣れないね」


 しかし、みる者全てを吸い込むその目には未だに慣れることは出来ず、先ほどの自分の発言と矛盾していることを承知で、視線を逸らしながら気まずそうに壁に向かって声を発する。


「俺の唯一の自慢なんだけどなぁ……」


 そして唯一の自慢である瞳の色に対して『慣れない』と言われたクレイはしょぼんとした声色で呟く。


「それより早く行くよ」


 この先に待っているであろう光景に身構え、姐の声はまた一段と真剣味を帯びる。


「だな~」


 耐え難い微妙な雰囲気に晒された二人はさっさと扉を抜ける。


 目の前には真っ赤なカーテンがあり、姐がそれを少しずらすとその隙間から肌にベタっと張り付く気持ちの悪い湿気た空気がこちらへとなだれ込む。すると、たちまち瞼はそれの侵入を阻むべく目を隠すことを余儀なくされる。そのため、二人は極限まで目を細めて室内の様子を伺うことにした。


 左右の壁には邪教らしく横一線で均一に燭台が並べられているため、今まで通ってきた階段の間よりかは明るく視界は快適なように感じる。もっとも、それはあくまで薄目を強要されなければの話なのだが。


「なぁクソ女、奥に何かがある。真っ正面の奥だ」


 最早、階段にいたほうが何かしら見ることができるのではないか。イライラしながら、片方の口の端を引きつらせて歯を見え隠れさせていると、隣のクレイが探る声で彼女に声をかけた。


「正面?」

「あぁ、ありゃ人か? でも床に足がついていないんだよな~」


 クレイの見つけた人がどのようなものかを探すべく、紙の厚みの如く目を凝らす。それと同時に何で見えるんだろうか、などと余計なことを脳裏に浮かべる。しかしその疑問はクレイの顔を思い出したことにより理解する。


────────白かったよな。


 クレイの表情は、純白の絵の具ですら敵わないほどに白い。そして、フードをとった時に眩しそうに目を細め、瞳孔を小さくしていたのを見るにおそらく彼は色素が異様に少ないという性質を持つアルビノ。


 どこかで聞いた話。アルビノは色素が少ないが故に一般人が屁とも思わない光でも、閃光を直視するかのように眩しいと感じるらしい。


 なので、暗いところにいることが多いという。だから闇に慣れているクレイは、この室内の状況を伺えることができたのだろう。


「……ん?」


 頭の中でそのように結論付けていると、目が慣れたのか彼女にも室内の光景が見え始めてきた。すると、クレイの言う通り奥には、万歳のポーズをして宙に浮く人型の輪郭が見え始めてきた。


「それと、なにか聞こえるね」

「あぁ奥からだな~」


 それと同時に彼らは、この静寂な空間内に水滴がポタポタと垂れてくる音が響いてくることに気づく。


「行こう」


 そうしてこの広間に人がいないことを確認し、カーテンをぴしゃりと勢いよく大きくずらし、歩を進める。


 底の厚い靴底は今までの硬い感触とは一変、やわらかくつるつるとした何かを踏みしめた。


 踏まれたその何かは、姐に対して文句を言うでもなく沈黙を続けている。しかし、それを踏んだ瞬間とてつもない罪悪感が彼女を襲い、自己嫌悪が背骨を伝い脳が冷える。


 それが何かを理解しているわけではない。しかし、やってはならぬことをやってしまったかのような気がして呼吸の間隔が狂う。

 

 彼女の好奇心は奥にある人型のものから現在足元にあるものに向き、視線を落とす。


「ッ!?」


 視線の先にあったものは紛れもなく上半身。そして今踏んでいたものは、それから飛び出す小腸。彼女は眼球に張り付く瘴気をものともせず、呆けた表情で床に広がる惨劇をただ目撃し、何があったのかを推測していた。


「日河……?」


 床に転がっている男の顔を見るに状態はかなりよく、これの正体は”日河 床常(ひが とこつね)”職業医者ということを姐は理解する。この男は先月から捜索願が出され近隣住民が目撃したという行方不明者はこの男であり、そして姐がここに赴いたもう一つの理由であった。


 そして日河の死亡が判明した今では、姐がこの場にいる公的な理由はもうない。もしクレイがその気ならば彼女は即刻帰らされるであろう。


 しかし、当のクレイは日河の下半身と思われるものに夢中で、静寂に溶け込むばかり。その瞬間姐に電撃伝う。


「奥のやつは……!!」


 踏み込んで一歩の地点ですら、このように無残な死体が転がっている。ならば奥に存在する万歳の姿勢で佇むアレは一体何なのか、最早答えは考えるまでもない。姐は大きく溜め息をついて奥へと進む。


 一歩一歩足を着地させるごとに聞こえる水面を叩く音を耳にしながらも、目撃してしまう。腹を割かれ、そこから血液らしきものを一定間隔で垂らす苦痛の表情を浮かべる人間の姿を。


 死後どのくらい時間が経っているのか、蛆虫こそ湧いていないが状態が悪く、誰が誰なのか判別できない。しかし乳房が見えないあたりこのホトケ様が男性であるのは確かだろう。


「おい! 置いて行く────ほぁ!?」


 続いてついてきたクレイは、これまた残虐的に殺害された遺体を見てしまい、驚愕で妙な叫び声を上げる。


「おいおいおいおいおいおいおいおい。何で死体があるんだよ~」


 そして情けない声で取り乱す。


「それは私にもわからない。ただ……」

「ただ?」

「もう少し、ホトケ様が積みあがるのは確かだね」

「ちょ、刑事さん?」


 姐から放たれたその言葉の意味が理解できていなかったクレイ。


 だが全身を震わせ、鋭い血管を額から浮き出させている鬼を連想させる姐の姿を目撃し、彼女の殺気を読み取った彼は姐に対して恐れを抱き、終にはいつもの『クソ女』ではなく『刑事さん』と呼ぶようになってしまう。


「ところで、他に何か見えるかい? 目が痛くてね」


 果てしないまでの怒りによって痛覚が戻ってきた。眼球に張り付くものを瞼で拭きとりながらクレイに問う。


「お、おう」


 彼は抑え気味の声で返事をし、監視カメラのようにゆっくり首や腰を捻りながら目を細めたり、少し大きくしながらじっくりと周りを観察する。すると、


「あった」


 まもなくそれは見つかった。


「どこだい?」

「そこ」


 という声とともに、クレイが指差したのは姐の方向。つまり、吊るされた屍の右隣の位置だ。


「また扉だ」

「そうかい……」


 彼が見つけたものは扉。その言葉にまたなのか、と言いたげな声を発する姐。しかし彼女は見えていなかった。その己の姿で見る者全てに警鐘を鳴らさせる扉を。


 赤錆が目立つ鉄製の扉には、被害者から奪われたであろう頭蓋と、二本の上腕骨が床から百六十センチ前後の高さに海賊旗の如く貼り付けられ、赤色で強調された文字で『我が神に愛想尽かされること望まぬ者触れるべからず』と明らかにこの先に何かあり気なのが見て取れる。


 それと同時に、この扉からは小動物や小心者程度なら失神させることが可能であろう殺気を放っており、彼の脳はこの扉に触れることは最早、近づくことすら躊躇していた。


「なぁ刑事さん、俺はここを通れない。だからこの先はアンタ一人で行ってくれ」


 脳みそが殺意に干渉されたのかクレイは扉から目を背けつつ、姐の監視役を放棄すると突然宣言しだした。


「怖いのか?」


 クレイのその奇行に疑問を感じた姐は彼の方に目をやり、無愛想な声でただ一言問う。


「毎度止めちまって悪い……だが、この先だけは本当にダメなんだ! 奥になにかがいる、とかそういうのはわからねぇ。ただ、この先がドス黒い何かに包まれてやがることは確かなんだ」


 声を荒げるクレイの足は静かに震えその顔はこの先にあるであろう苦難を先に感じているのか、それともここで立ち止まってしまう自分に対して怒りを沸かせているのか、歯を食いしばって息苦しい表情を浮かべていた。


「そうかい。なら、私から一つだけ提案をしようじゃないか」


 その時。クレイの様子や表情、そして言葉の節々に感じる言葉の詰まりから言わんとしていること、心の中に秘めたる『恐怖』を理解し、人差し指を立てて一つの提案をする。最初に出会ったあの時のように。


「?」

「この先は私一人で行く。そしてお前は上へ戻って応援を呼びな。死体があったとなったら十分くらいですっ飛んでくるだろうね」


 その提案の内容は自身が一人で突撃する代わりに、この教会の行為について通報しろ。というもので、この瞬間から姐の頭の中で未来が映し出され始めていた。これから死ぬか殺すかの戦いが繰り広げられるという未来を。


「ま、待て。一人?」

「あぁ、この先には私の親友がいるかもしれない。だから一人で行く、構わないだろ?」

「構わないが、ここ見て希望なんて湧かないだろ」


 クレイの言う『ここ』とは、残虐的な屍ひろがるこの広間のことであり、悪業との関係を彼に伝えていないこともあってか彼の表情は哀れみを帯びている。


 次に、クレイの両肩を掴みながら話す。


「希望なんてもうない。だけど、私はやらなければならないの」

「……」


 肩にほとばしる圧迫感、本気の目、覚悟に満ち満ちた声をその身に受けたクレイは姐の、たとえ苦に満ちた未来がその先にあろうとも人は突き進まなければならない。という心情の片鱗を知り黙ってうなずく。


「何をしたかったのかはわからないが、この後刑事さんが無事だったらどっか飯でも食いにいこう」


 彼はそう言葉を残し、そのまま階段を駆け上がり始めて行った。姐はそんなクレイを見送ることなく、扉の前まで歩む。そしてノブのない一枚の扉に掌で触れ、押してみる。


「開かない」


 しかし、それはただ沈黙を貫くばかりでうんともすんともいうことはなく、ただ立ち尽くすのみ。そこで、胸元と同じ高さに貼り付けられた髑髏を発見し、中腰になってこの扉の開閉に関与してそうな髑髏と目を合わせてみる。


「流石にもう面倒だね…………待てよ?」


 髑髏を見つめようが何も情報を得らず愚痴を零す。しかし同時に彼女の頭に妙案が浮かんだ。


「さっさと終わらすかね」


 それは扉の破壊。開けられないのならばいっそ扉を破壊してここを通ってしまおう、と彼女は考えたのだ。


 同行者がいない今なら破壊行為に及ぼうが、文句を言われることはない。


 もっとも、悪業がここにいれば面倒な謎解きを行おうともせず、誰よりも早くにこの扉を破壊することを提案しただろう。


「ふっ」


 姐は扉の前に足を肩幅に開いて半身で佇み、腰を捻じってゆっくりと右肩を後ろへと下げる。


 そして肩に溜まった力が抑えきれないまでに高まった瞬間、影すら追いきれないほどの速度で拳を前へ突き出す。


 すると扉はダダンッという鈍い音をたて、土手っ腹に風穴ができていた。そして姐が拳を引き抜くと仕掛けが壊れたのか、同時に扉も開いた。


「こっちのほうが早いね。あいつの気持ちがようやくわかったよ」


 謎の仕掛けを破壊し障害を取り除いた姐は先へと進む。


「あら?」


 その先にあったのは廊下。壁や床は純白に輝き、三メートルほどの高さにある天井にはびっしりと蛍光灯が敷き詰められ、部屋は彼女の目を焼かんとするほどに明るかった。


 まるで、先ほどの間に広がっていた血みどろの惨劇がなかったかのように、ここがこの世を越えた場所だと思わせるようにこの廊下はなにもない。


「この先にきっと真実がある……お前が無関係であることを願うよ」


 無を感じる空間で彼女は左拳を眼前に掲げ、悪業が加害者か被害者であることがほぼ確実だと分かっていたが、薄すぎる希望を胸に願っていた。そしてまた歩みを進める。


「もしもあいつが無事だったら、また一緒に……無理よね」


 希望が喉まで出かかっていたが、これから待ち構えているであろう現実がそれを腹に引きずり込む。


 悪業が加害者であるだろうという悲惨な現実が。それからそのような流れを数十回繰り返した後、眼の前に無駄に広々とした空間が現れた。その空間はやはり白く明るく、部屋の中心には大きな木製の机と革の椅子があった。誰かが座っているようだ。


「ジュラレ教教祖かい? 日河 床常と他数名の殺害容疑で緊急逮捕する」


 そしてこちらに背を向けながら座っている者に対して殺人容疑で警察手帳を掲げながら緊急逮捕を宣言する。


「…………」

「どうしたんだい? 黙りこくったって逃れられないよ」


 しかし、それは身動き一つとることも音を出すこともせず、ただ黙っていた。


「早くしな!」


 無駄な時間に業を煮やした姐は、椅子の背もたれを掴んで豪快に引いて鎮座している者ごと床に叩きつけた。しかしその瞬間、ありえないものを目にする。


「死んでいる」


 倒れている男は眼球、口、鼻あらゆる穴から血を流していた。だらんと力なく垂れた手に目をやるとそこには五本の指はなく、血の滴るまん丸のゴム鞠と化していた。


 恐らく手を圧縮する拷問にでもかけられたのだろう、その惨さの過程は苦悶を灯すその表情が示している。


 今もなお滴っている血を見るに、トドメを刺されてからさほど時間は経っていないらしい。この死体を目撃した姐は、今どういう危機に自身が置かれているか理解していた。


「近くにいるね」


 ここが隠し部屋であることを踏まえれば、余計なリスクを潰すためにも道は一つであることは確実だろう。そしてその道は姐とクレイが通ってきており道中人影はおろか、隠し通路の出現を知らせるあのおぞましい地鳴りも聞こえなかった。つまるところ、殺人犯はこの部屋に隠れている可能性が高い。


「出て来い!」


 姿が見えぬ犯人に対して発したその怒声は部屋中に響き渡り、何度も反響していた。その時、


「なんでアネキがこんなところにいるんだ?」


 聞き慣れた声が上から聞こえた。


「悪業?」


 声の主は姐が捜し求めていた男、悪業 楽道だった。彼はいつものホッケーマスクを装着し、超能力で天から降りてきては姐から五十センチメートルほど離れた位置に着地する。


「これは悪業がやったのかい?」


 どこか高揚感が零れている悪業に、死体に目配せしながら毅然とした態度で問う。


「……あぁ、そうだ。やっと、やっと俺はやり遂げたんだ。これで俺はもう一人でも寝れるようになる。奴らを恐れなくて済む」


 すると彼は喜び狂った様子で答えた。いつも淡々と話す彼からは考えられないその異様なまでに感情の籠もった声色に、意表を突かれ目を見開いてたじろぐ。


 だが友人として、相棒として話を何としても聞かなければならなかった姐はすぐさま体勢を整える。


「こいつと何があったっていうんだい?」


 悪業が答える。


「こいつは殺さなければならなかった……いや、それ以上は話す必要はない」

「なぜ?」


 言いさした悪業に姐は続けるように促す。しかし、


「だから言えねぇよ」

「そうかい、じゃあ話を変えよう。本当に”相棒が”こいつを殺ったのかい?」

「同じ事を言わせるな。この俺が拷問の末に殺した」


 悪業がこの男を殺害しているのは確実にわかっていたし、何かしらの罪を犯していることはここに来る前からも覚悟していたことだった。しかし、どうにもそれを信じられない自分がいることも確かだった。


 単純に悪業が犯罪者を追う刑事だから犯罪を犯さないだろう、という考えもあるのだが、それよりも長年共にいた経験からしてありえなかったのだ。


 姐から見て彼の行動には幼い所がありながらもその信念には悪を憎む気持ちが強く、自身が悪しき行動をとることに過剰に恐怖し、嫌悪しているほどだった。


 その嫌悪具合は凄まじいもので、犯人を追跡している時でさえ信号に従ってしまうほど。しかし信じるも信じられぬも状況が状況。自白もあれば他の容疑者もいないわけで刑事として、この場にいる者として為さねばならないことがあった。


「悪業 楽道。お前を殺害容疑で緊急逮捕する」


 それは悪業を逮捕することである。拷問の末の殺人それも警察官に為されたものであるため、世論と裁判官からのイメージは超最悪。下手を打たなくても処刑されてしまってもおかしくはない、とこの後の展開を姐は見据えており、その言葉には淀みがあった。


「いやだと言ったらどうする?」


 それは悪業も重々承知だったようで、彼はマスクの隙間から覗く眼光をギラリと姐に向け、抵抗の意を示す。


「そうかい。なら、武力をもって制圧するよ!」


 警察という悪を追う職業にも関わらず、一般人に危害を加え。残虐に殺された人々を助けもせずに。一人の人間を殺害した挙句、今では罪から逃れようとしている悪業。


 これによって強い憤りに感情を支配された姐は声を荒げては軽く拳を前に握って構える。その構えは顔の前で腕を短く畳んだオーソドックススタイル。そしてそれは絶対に許さない、という心構えを行動に移したものでもある。


「いつも俺とアネキの喧嘩は引き分け、決着をつけるついでにやってやる。丁度いいことにここは広いしな」


 悪業もやる気なようで、声こそ落ち着いているが両手のひらをこちらに向けた柔術のような奇怪な構えで待ち構えている。


「悪業!! お前だけは殴らせろ!!」


 動いたのは姐。素早く悪業に接近し怒り任せの全力でかつ、プロボクサー顔負けの無数の閃光パンチを放つ。しかし、その攻撃の全ては最低限の動作で躱されてしまう。それでも拳を放つがそのたびに躱され、的確に隙を突かれては顎を執拗に狙われる。


 思い返せばいつもそうだった。彼は犯人などと銃撃戦になったとき、姐と殴り合いの喧嘩になったときは最後の一撃までは決まって無傷。その動きはまるで人の思考を読んで攻撃先を読んでいるかのように打たれる前に躱している。


「まだ超能力を隠してるようだね!」

 荒々しく手足を動かしながら姐が問う。

「……!?」


 図星を突いたのか悪業の動きが一瞬鈍くなる。


「ふっ、やはりアネキには敵わねぇな。そうさ、頭ン中全部お見通しだぜ」


 しかし次には軽く身を翻して、拳を弾きつつ距離を大きく離し、終いには笑い声を漏らしていた。


「能力がわかれば多少は戦えるかも」

「やってみろよ」


 次に動いたのは悪業。彼は三歩離れた位置から姐に向かって手をかざす。その刹那。

「グッ!」


 バキバキッというけたたましい音とともに左手に鋭いものが駆け巡った。すぐさま左手に目をやると、そこには記憶に新しいものがあった。


「ぐああああああ!!」


 現実を知ると痛みがより鮮明になる。左手には平たい掌や五本の指はなく海栗のような、肉から骨が突き出すスパイクボールと化していた。姐はすぐさま絶叫し左手を庇いながら崩れ落ちる。


 左手はもはや痛みを超えたおぞましい感覚に支配されていた。そしてこの瞬間から悪業がただの喧嘩ではなく、血で血を洗う殺し合いを行おうとしていることを姐は再理解する。


「…………これ以上やっても無駄だ。もう俺の勝ちでいいだろ?」


 決着は決まったも同然。そう思ったのか悪業がこちらに近づいて手を差し伸べる。


「……」


 親友として悪業を逃がしたい、苦痛によって心が傾くのを感じる。しかし、それでいいのかと自問自答する自分もいる。


 ここで悪業を逃がしてしまえば成してもいない罪を教団に着せられ、悪業という存在が必要以上に穢されてしまうかもしれない。ならばどうするべきか、姐はそれを理解していた。


「本当に勝てると思っていたのかい?」


 それは絶対に諦めないこと、絶対に悪業を逃さないことだ。差し伸べられた手を振り払って立ち上がる。別に痛みが消えたという訳ではない。ただ、今立ち上がらなければ、一生後悔に苛まれ自身の生き方に支障が出ると考え、立ち上がらない理由などもはやなかった。


「ったくアネキらしいな。自分の正義に真っ直ぐなヤツで、しかもバカが付くほどのお人好し。本当に馬鹿だな」


 悪業は不機嫌そうに言葉を吐く。


「私にはアンタをここで止めないといけない理由があるんでね」


 明らかに辛い状況だが、姐は下手な笑みを浮かべて不屈の精神を見せ付ける。


「てめぇはいつも真っ直ぐが過ぎンだ! だから一緒にいるとしんどいんだよ!」 


 すると悪業は声に怒気が籠り、その拳を姐の腹に叩き込む。


「ガクもすぐ手が出ちまうのもどうかと思うけどね」

「あっ」


 しかし、鋼すら歪ませる悪業の拳は、鍛え抜かれた姐の強固強剛堅牢な腹筋の前では音を立てることもなくピタリと張り付くのみ。


 姐はその一瞬の隙を逃さず、すぐさま悪業の手首を掴んだ。そして宙に悪業を持ち上げ、床に叩きつける。


 鈍い音が部屋全体に響き渡ったが、咄嗟の判断であるが故に致命打を与えることはできなかった。しかし、まず一撃入れられたことに姐は一度舞い降りてきた流れを掴むべく気を張って構える。


 その刹那。


「刑事さん大丈夫か?」


 声が発された方向に首を捻ると、応援と共に駆けつけてきたクレイと警察官たちの姿がそこにはあった。


「あぁ、あとはこいつを制圧すれば大丈夫さ」


 とりあえず事態が悪い方向に向かわないことを悟り胸を撫で下ろす。


「城甲刑事。ところでなぜ、悪業刑事とやりあっているんだ?」


 しかし次の瞬間、ドスの効いた声が耳に響いた。


「せ、正義警部……」


 その声は上司である正義 正義(せいぎ まさよし)警部のものであり、その瞬間自身がこれまでほぼ不法侵入の状態であることを思い出し、おでこに汗が垂れる。


「はぁ、事情は後で聞くから今はさっさとやっちまえ」

「感謝します」


 姐と悪業の血みどろな姿を目撃した正義警部は呆れた顔でシッシと手を振る。


「あぁちくしょう。一瞬意識がぶっ飛んでた」


 姐が構え直すと同時に悪業は肩に乗っかった床の破片を払い、外れた右肩を戻しながら立ち上がる。


「続きをやるよ。ツキがこっちに回ってきたみたいだ」

「そりゃどうかな?」


 今度は同時に距離を詰め、互いが打ち互いが躱すを繰り返す。受けたダメージの総量は左手を潰されたこちらの方が遥かに酷いものだったが、この攻防において姐は笑みを零し、それに比例するように悪業の余裕はなくなりつつあった。そして、脇腹を狙った回し蹴りを悪業が大袈裟に下がって対応したことによって、二人の距離はまたもや大きく離れる。


「思ったんだけどさ。頭の中見えているのに攻撃を外すって、おかしな話じゃないかい?」


 悪業の隠された超能力の正体の見当がついてきたので、歩きながら問い始める。


「余裕がねぇンだわ」

「喧嘩してて立場が悪くなると、いつも相棒は不機嫌になるね」


 このときの姐の声は過去を懐かしみ、これから失くすものを目にするかのようなものだった。


「ふん」


 二人の距離が短くなった瞬間。両者、拳や足を相手に突き出す。先ほど同じ盤面、ただ違う点があるとするならばそれは、


「ぅっく!」


 拳が命中し始めたことだ。


「ほら言った。ツキはこっちに回っているってさ」


 姐は痛みに耐えつつ無理矢理ニカッと笑ってみせる。


「ば、ばれちまったか。どうりで視えないわけだ」


 腹部に拳が捻じ込まれ、状況が悪くなっていることを知っていた悪業だったが、負けじと余裕気な声を発す。


 もっとも片や、顎が砕けかけでかつ、左手が潰れて使えない。片や、利き手の方の肩が外れたばかりで攻撃すらままならないという両者とも余裕はない状況。


「頭の中を見れるだなんて嘘言いやがって、本当は危機回避ってやつでしょ?」


 悪業が挑発に乗って拳を腹に当てた瞬間から、彼のもう一つの能力が思考を読むことではないことは分かっていた。しかし、知るべきことはそれだけではなく、本当の能力を知ること。


 そこで、姐は先ほどの攻防で鉄を砕く拳、あばらを砕く蹴り、威力を抑えた拳を放ち、対する悪業の動きを観察していた。そして威力を抑えたときの動きが、前者二つを躱すときに比べて異様に動きが鈍くなるのを見抜き、手を抜いた攻撃なら命中すると踏んだのだ。


「大正解だ。アネキの拳をまともに食らっちゃ死んじまうの知ってっから避けやすかったんだがな。だが、ネタが割れたとて、戦えなくなる俺ではないぞ」


 悪業は一呼吸を置き、姐の左手を潰したあの構えをとる。


「そんなの、私が一番知ってるさ!」


 対して姐は身に纏っていたジャージを引きちぎる。そして、サラシで胸の上から腹の下まで巻かれたその上半身を露わにした。


「また何か思いついたのか?」


 警戒するような声で悪業が言う。


「アンタの超能力を防ぐ方法を思いついたんだ」


 一枚の布になったジャージを腕に巻きつける。


「服を脱ぐのがか? アネキのお色気作戦なんて効くわけがねぇ!」

「殴るよ」


 溜め息を吐いて呼吸を整えた姐は長い一歩で一気に悪業の眼前に現れ、顔面を狙った拳を放つ。


「視えた!」


 しかし、力加減を間違え足を滑らしてしまった。その瞬間攻撃は躱され、右頬に全力の拳を返される。姐は殴られた勢いのまま頭から倒れてしまった。脳が激しく揺れ、頭蓋に深いヒビが入り、左腕の感覚が完全になくなったことを悟る前に気を失う。そして、その体は力なく地に伏した。


「城甲刑事……」「刑事さん?」


 おおよそ生物から発されてはならない鈍音を耳にした刑事達とクレイは、信じられないものを見る目で、血に塗れた姐をただ見つめる。


「チクショウ!! 能力を知ったところで対策出来なきゃ……意味が、意味がねんだよ!!」


 想定外の致命的な一撃を加えたこと悪業が声を荒げる。しかしその声の中には吐きそうな、具合が悪そうなものが含まれていた。


「何が、何が『防ぐ方法を思いついた』だよ! このクソッた────」


 悪業がそう咆哮しているその頃、


***************


「やっぱりアネキには死んでほしくないな」


 姐が目を覚ますと正面には空になったグラス。そしてテーブルに突っ伏している悪業がいた。


「……?」


 先ほどまで悪業と戦っていたはずなのに、突然変わった辺りの雰囲気に黙りこくってしまう。


「俺には親とか兄弟とか血縁者が一人もいない。だがもし、家族の名を挙げるならアンタの名前なんだろうな」

「!」


 悪業のプロポーズらしき言葉を聞き、この空間の正体を思い出した姐はハッとする。そして咄嗟に口を開く。


「プロポーズするならもっと雰囲気を作ったらどうだい? もっとも、どんな雰囲気でもお断りだけどね」


 と、ここは昔に姐と悪業がコンビを組んで間もない頃に訪れた居酒屋。悪業の発言も空気も何もかも当時とまるっきり同じだったため、この空間について思い出すことができた。 


「ちげぇよ。でも、そんぐらいアネキが大切だ」


 記憶に間違いがなければこの時、悪業はしこたま酒を飲んで泥酔していた。原因は数時間前、追い詰められた犯人が近くにいた悪業に向かって発砲し、それを姐が庇ったからだ。


 あの時は運よく銃弾が脇腹を貫通しただけだったものの、あと数ミリでも着弾地点がずれていたら死んでいた可能性があったのである。


「そうかい?」

「だから、だからいの……ちはたいせつに」


 流石に酔いが回ってきたのか悪業は呂律が回らなくなり、目を半開きにさせて睡魔と戦っていた。


「あんときは飲みに誘いたかっただけだと思ってたけど。今これを見せるってことはきっと、本心だったんだね」


 姐は立ち上がって出口の戸をガラガラと音を鳴らしながら開ける。その先にあったのは光。勘が間違っていなければ、ここから出ればこの走馬灯のような空間から出られるだろう。


 その先にあるのは天国、それかそれともまた違う場所なのか、この先に待ち受けるものが分からないままだったが一歩歩みを進める。しかしその時、


「おれがしぬまでは、いかないでく……れ」


 とても弱弱しい声が背後から聞こえる。姐が振り向くと寝ている悪業のマスクの穴から声が漏れ出ていた。


 姐は当時、悪業との関係性はただの相棒と言うばかりだった。しかしやはり、彼女も悪業を家族に近しい存在としてみており、その声を無視することは出来なかった。出来るはずがなかった。


「『俺が死ぬまで行かないでくれ』か、また助けにいくから待ってな」


 姐はやわらかな笑顔を浮かべながら寝ている悪業を背負って、知らぬはずの裏口から外に出る。


************


 姐は地に大の字で伏したままゆっくりと瞼を広げ、現世に自分が戻ってこれていることを知る。


 そして先ほどの攻撃のせいなのか頭がぼーっとし、左腕に感覚がなくなって動かなくなっていることも悟る。


「なぁ……アネキがこうなっちまった以上よぉ。次はテメェらの番だってことは分かってンだろうなぁ!?」


 鮮明になっていく視界と聴覚でこちらに背を向け、怒り狂い警部たちに怒号を吐く悪業を捉える。姐には悪業が何故このように憤怒しているのか不思議でならなかった。


 しかし、このまま自分が倒れていれば警部たちに危害が加わることだけは理解していたため、姐はよろよろと静かに立ち上がって、悪業の肩に手を置く。


「私が……どうなっちまったって?」

「ッ!?」


 予想外の展開に素早く体を回し絶句する。それもそうだろう何故なら今の姐の姿は凄まじいもので、左腕は力なく垂れ、左手のモーニングスターや口からは大量の血が滴り、右頬は真っ黒に変色、右瞼は衝撃によって開かずにいる。まさに事故死体火葬寸前といった風貌をしていたのだ。


「まだ……よ。す、少なくともその顔面を殴るまでは、ね」

「あれが警察でよかったな」


 拳を構え大口を叩く姐だが、少しでも気を抜けば後ろからぶっ倒れてしまう状態であり、何とか気合と根性と決意だけで意識を保っていることは彼女自身も含めその場にいる全員が察してた。


 対して悪業は硬直。姐は死にかけ。クレイは二人の戦いに惹きこまれている。そして正義警部は火のついていないタバコを咥えながら、二人の行く末を眺めていた。


「生きてたのか……だが、これ以上やるなら確実に死ぬぞ」


 指をこちらに指し、若干震えた声で悪業が言い放つ。


「アンタを救うまでは死なないよ」


 ボロボロな声で姐が言う。


「俺を……救う?」


 懐疑的かつ低い声で悪業が問う。


「仲間として相棒として、そして家族として道を踏み外し……いや、違うね。苦しんでるお前を助けるんだよ」

「か、家族…………ふ、ふん、死にぞこないのくせに口が減らねぇな」


 悪業は困惑を払拭するように強がった声を発しつつ三歩後ずさりし、最低限の間合いをとる。


「ひ、左半身の感覚が……なくなってきた。死ぬにしろ死なないにしろ、次がラストアタックね」


 死神の鎌が自身の首にかけられていることを改めて認識した姐はジャージを握り締め、左半身が脱力したが故に、出来損ないのオーソドックススタイルをとる。悪業はじっと姐の姿を捉えた後に、掌を開き超能力の発動条件を満たす。


「もう楽になりやがれ!」

「こっちのセリフよ!」


 悪業が声を荒らげ腕に血管が浮き出たその時、超能力が飛んでくることを予測し、残った右足にかかる負担など気にせず床を蹴り潰し、射出された弾丸の如き動きで飛び悪業の頭上を通る。


 その場に存在する何者も、目に映ったものを脳内で上手く処理できずにいた。その刹那の間で、姐は通り抜けざまに悪業のマスクにジャージを被せ、ジャージの端と端を頭の後ろで固く結んで視界を奪う。


 これこそ姐の考えていた超能力を防ぐ方法だった。まず一つ、これまで悪業が超能力を使うとき、掌をかまえては瞬きすらせずに標的を狙い圧縮していた。


 ならば、その視界を覆って狙えなくさせてしまえばいいと考えたのだ。次に、どうやら危機回避は『視えない』という発言があるのを聞くに、目でその先で起こる危機を目に伝達するのだろう、と考えたのだ。これによって悪業の視界を絶ち、こちらに分がある肉弾戦に持ち込めるというわけだ。


「邪魔くせぇぞ!」

「マジ?」


 しかし憶測は大きく外れる。なんと悪業は瞬時に、姐の前ですら前で外したことのない仮面をジャージごとを床に叩き捨てたのだ。しかし作戦が失敗したとはいえ、うろたえている余裕はない。悪業を振り返ってかまえ直す間に姐はバランスを崩さずに片足で着地し、殺した勢いを再起させた。今度は露わになった悪業の顔に右拳を突き出す。


「これでおしまいだ悪業ォ!!!!」

「視えたぜアネキィ!!!」


 この時の姐には加減をしている余裕はなく全力の拳を突き出していた。そうすれば当然、悪業の”危機予知”が発動するわけで、視界と感覚で拳の軌道とその結果を感知し、左頬を掠りながらも回避してもう一度姐の右頬に凶悪な拳を放つ。


 しかし姐も無策で殴っているわけではない。この攻撃は危機予知を発動させて相手を慢心させるためのフェイクであったのだ。


 悪業が動きに変化を見せたその瞬間右腕を素早く引き戻し、その衝撃でスパイクボールが射出。それはこちらに向かってくる拳の下を通って交差し、悪業の顔を殴りぬける。


「ッ!」「クッ!」


 見事に決まったクロスカウンターで悪業の脳を揺さぶる衝撃が響き、突き出た骨に頬が貫き倒れる。一方、姐の左手には電撃のように素早く確実な苦痛が現れ、肉が裂け骨が砕け使い物にならなくなったことを悟る。


 **************


「終わったか……ふぅ、死者が増えずに済みそうだな。しかし、私たちも始末書を書かないといけないかもしれんな。ガッハッハッハ!」

「えぇ」


 決着を見届けた正義警部はタバコに火を着けては豪快に笑い、その発言を聞いた周りの警察官はどんよりとした吐息を漏らしていた。


「それよりあの刑事さんは大丈夫なのか!? アンタ上司だろ、さっさと回収しなくていいのか?」


 一方で興奮の余韻が残っていたクレイがすぐさま姐に駆け寄ろうとする。しかし、


「待て」


 正義警部がクレイの進行方向を腕で塞ぐ。


「何すんだ! あれは明らかに緊急事態だろ……って力強すぎだろ!」


 その腕を退かそうとする彼。しかし正義警部の鍛え上げられた腕の重量は凄まじいもので、筋肉質な体をもつクレイが全重量をかけても動かせなかった。


「あいつらはコンビなんだ。少しは話す時間をやってもいいだろう? 若造」


 正義警部が諭すように話すが、最後に憎まれ口を叩く。


「うるせぇよおっさん! だけど、確かにその方が良さそうだ」


 その時目に映ったのは脱力し倒れている悪業の姿と、それを抱き起こそうとする姐の姿だった。


 二人は文字通り死にかけで、面と向かって話す最後の機会だろう、と考えた彼は周りの刑事たちと同じように、少し離れた場所でただ黙って待っていた。


 **************


「つ、ついに負けちまったな。これで決着がついた」


 初めて見た悪業の顔は血まみれで今できた傷のみならず、古傷のようなものがよく目立っていた。


「そうだね。でも、怒りに任せて戦ってたら私が負けてたよ」


 しかし姐はこの時間を邪魔してしまうような気がしたのでその傷には触れない。


「怒り……そりゃ怒るよな。俺が人を殺した訳だから当然だ」


 その声はとても静かだった。


「そうね」

「すまない」


 悪業が申し訳なさそうな表情を見せ顔を背ける。


「ところで、なんであの男を殺したんだい?」


 悪業に抵抗の意思がないことが分かった姐は核心に迫る。


「俺は復讐を果たしたんだ」

「復讐?」


 真剣な表情でこちらをみつめる悪業。一方姐は、彼の口から初めて聞いた言葉に呆けた表情を浮かべてしまう。


「俺は、俺はヤツに人生の半分以上を奪われ、挙句の果てには口に出すのもおぞましい拷問を受けたんだ」

「拷問仕返したってわけね」

「俺は十五年も自由を奪われたわけだから。まだまだ生ぬるい方だとは思うがな」

「十五年!?」


 ”人生の半分”という言葉から長期間の間監禁されたということは分かっていた姐だが、数字にされるとその衝撃は大きくつい声を荒げてしまう。


「フッフッフ。驚くよな、そりゃそうだ」


 驚いた姐の様子を目にした悪業は感情のない笑いを零す。しかし姐はそのような悪業に向かって、力の篭った表情に変えながら口を開く。


「何でそれを教えなかったんだい。私達は家族同然なのに何故?」


 コンビとなって長年が経ち互いに信頼し合っていた仲であったのにも関わらずその過去について一度も相談せず、殺人までに至ったことに怒りを覚えていたため、その声はとてつもなく低くなり恐ろしいものになっていた。


「だからだよ」


 しかし悪業は萎縮することなく、ただ一言冷静に答えた。


 「なぁ、アネキは俺の過去を知った今、いつも通り接せるか?」

「とうぜ……」


 すぐに問いに答えようとするが、嘘をつくことが出来ずに口をつむぐ。


「そうだよな当然だ。もう俺の姿は”バカやる相棒”から”可哀想な被害者”になっちまったもんな……だから、話したくなかったんだ」


 その声は攻め立てるものではなく、どこか悟りを感じさせるものだった。


「すまないね」

「さて話を戻そう。俺は物心ついた時から、ここみてぇな真っ白な空間で生きてきた。ご存知の通り、超能力の研究だったらしい。そんでもって俺が殺した男はこの邪教の幹部であり、今は姿を消した異能力研究所の研究責任者ってわけだ」


 悪業は天を仰ぐ


「あぁ、これでやっと俺は一人でぐっすり眠れる」


 そして悪業は穏やかに目を瞑った。


「確かに、悪業は一人じゃ寝られなかったね」


 どんな夜も悪業は一人だと寝ることが出来なかった。そのため彼がぐっすり睡眠を取れるときは二人で張り込みをしているときか、深夜に姐の部屋に忍び込んで寝ているときのみ。そして、家に忍び込まれるたびに悪業を引っ叩いていたことも思い出す。


「もう引っ叩かれることもない。まぁ、寝れるなら何度やられても構わないがな」


「あれは……もう勘弁して」


 潔さげに言い切る彼だが、最後のほうは満更でもない声を発しており、姐は素早くつっこむように言葉を吐いた。


 これまで部屋に忍び込まれるたびに悪業を引っ叩いて平常心を装っていたが、その本心では寝転ぶ彼を見つけてはまるで幽霊を見つけた子供のように驚愕し、叫びかけていたのだ。姐が本気で嫌がるのも無理はない。


「体中痛ぇけど、気分だけは最高だよ。ホントにな……イテテテテ」


 悪業はそう笑いながら穴の開いた頬をおさえる。


「ならいいよ」

「?」


 そう悪業が話すと姐は優しい顔で一言呟く。


「もうやりたいこと出来たんだったら許すよ……でも、後悔はないんだね?」


 そして一言問う。ただその表情とは反対にその心は疑いに満ちており。一度、思ってもいないことを言うことで彼の真実を引き出そうとしていた。


「…………分かってんだろ。後悔しかねぇよクソが」


 すると重い声で悪業が話し始めた。


「俺は復讐のために生きていた。復讐を果たしちまったら全てを失うのもわかってた。だが、復讐が果たせれば何でも良い。そう考えてた」

「そうなのかい」


 悪業の表情、呼吸のリズム、不動の眼球から話していることが虚偽ではないことが分かる。 


「復讐は俺の全てだった。顔を洗っているときも歯を磨いているときも、追跡中も飯食ってるときも床で横になって、意識が途切れるその瞬間も全てだ。だが……」


 言葉を積み重ねるごとに彼の声は潤んでいく


 「だがな……だがな……アネキと組んでから失いたくないものが増えちまった。」

「ふうん」


 思った以上に現れた悪業の真意に姐は冷静を装いつつも、驚いて声を漏らしていた。


「昔は全てを捧げる覚悟で刑事になったのに、いまじゃあ何も失いたくなくて復讐自体も諦めかけてたんだぜ? 笑えよ面白いだろ……」


 左手で自身の目元を隠し、言葉の後には笑い声のようなものを発し。そして、その手の隙間からキラリと光が輝いた。己の情けなさからなのか、それともこれから失うものが分かっているからなのか、姐にはそれが後者であると分かっていた。そして、


「フフフフ……アッハッハッハッハ!」


 姐はめちゃくちゃに笑った。悪業がドン引いた表情を見せ左手をどかしてしまうほどに、姐は笑って見せた。


 その唐突なる奇行に遠巻きで佇んでいる警察たちの肩がびくっと動く。


 笑い終え、目線を落とした姐は心臓に響くほどに大きな声で言い聞かせる。


「それが覚悟って? 笑わせるな! 覚悟ってのは大切な者や愛するものを守るとき、自分が犠牲になるかもしれないって状況で固めるものでしょ!?」

「お、俺にはそれ――」


 悪業は声をかけてくるが、その声の続きを聞くつもりはない。


「確か全てを捨てる覚悟って言ったね!? 迷いがあるんだったらそんな覚悟やめちまえ! そもそも悔いが残ったらそれはただなんも考えてなかっただけだよ。得るものも失うものも、誰かを悲しませることも……私が悲しんだことも」


 両者とも言葉を重ねるたびに声が潤んでいく。両者が何を失うのかを理解しているからだ。


「ち、ちくしょう……ホント……ホントにアネキは変わんねぇ。自分の正義に真っ直ぐなヤツで、しかもバカが付くほどのお人好し。こんなときでもよ……俺の相棒であることがもったいねぇって思えるほどに、お人よしなんだな」


 悪業の声が大きく震える。


「大ばか者が……」


 この時点で二人は感情を抑えきれなくなり、それぞれの感情を爆発させながら涙をボロボロと流していた。


「本当は一緒にいてしんどいなんて思ったことはねぇんだ。やっちゃあいけねぇことしてるくせに、未だにおめおめと一緒にいようとしている俺自身への自己嫌悪でしんどくなっていただけなんだ」

「あぁ分かってるさ。分かってる」


 顔をぐっしゃぐしゃにしながら泣く二人。二人の絆を知っていて、それにつられたのかその場にいた正義刑事は威厳を残そうとしているのか腕を組んでいたが、その目からは大量の涙を流している。


 クレイはそんな正義警部の腕に寄りかかり鼻水を流しながら泣いていた。それから三十分の時が経ち、落ち着きを取り戻しつつあった悪業が口を開く。


「はぁ、こんなに悲しませちまってよ……最低だったな」

「えぇ。私が会ったなかでダントツのクソ野郎だよ」


 このとき悪業の目にはなにか覚悟が確かに灯っていたが、姐は感情の整理が追いておらず気を抜いていたこともありそれを見逃していた。


「でも、これで最後になる」

「……最後? なにをするつもり?」


 しかしその言葉から不穏な雰囲気を感じ取り、声を震わせず、涙の中から放たれる眼光を鋭くして問う。


「もうだめだって分かったんだ。俺はすぐ見るべきモン見れなくなって、大切なモン傷つけちまう」

「なにをい――」

「ほら! それでも助けようとする。いつだって危険に飛び込みにいく! だから俺が生きてるとお前も確実にダメになっちまう、現にもう左手はもう動かないんだろ? それも俺のせいだ」


 自身の頭に右掌を当てている悪業の行為を制止しようとするが、彼はそれを遮って悲しいほどに決意で籠もった声で続ける。


「俺は今から俺の脳みそをクラッシュゼリーにして蘇生不可能になる。アネキの言葉通りなら、これが俺の覚悟だ」

「ば――」

「じゃあな」


 音はしなかった。しかしその瞬間に、抱えていたものは動かなくなった。それはただ口から流れる液体のように重力に従ってだらんと垂れるのみで、無茶苦茶する思考もあのばかみたいな声もあの光る目もそこにはいない。


 ただあるのは瞳孔を開いた悪業の抜け殻だけがあった。


「バカ野郎が……生きる算段あってなんぼだろうが」


 心の中は悲しみで満たされているのにも関わらず不思議なことに涙は出なかった。そして悪業から垂れるよだれを拭って、近くに落ちていた仮面を穏やかな表情を見せているかつての相棒にかぶせ、その足でとぼとぼと帰路につく。しかしその道中で見聞したであろう警察官や正義警部、クレイの表情や言葉。そして、その他の全ての情報も含め頭の中には入らなかった。


 ***************


 記憶がはっきりした頃には、外は真っ暗で酒瓶片手にベットで寝そべっていた。上体を起こして酒瓶を振る。すると残りは底を覆う程度で、体の火照り具合、気分の悪さから一気に一升を飲み干してしまったことを理解する。


「私らしくもないね」


 そしてもう一度後ろに倒れる。悪業が罪を犯し自害したことが夢であることを願ったが、左手を見るにそれは叶わない。その時、


「?」


 ズボンに入れたままだった携帯電話にブーブーと通知が鳴り始める。ぼんやりと画面に目をやると、正義警部からメールが来たことがわかる。


『   白甲刑事へ

 今回の事件解決に当たり心と体に一生残るであろう傷を負い意気消沈しているであろう

傷が治るまで職場にはこなくていい、だからゆっくりしっかり傷を治して来い

だが今日の夜明けから毎日、私か他の職員がおまえの家に訪問させてもらう

朝昼晩しっかり飯を食べろ

 追伸

彼の告別式はきっかり一週間後の朝十時に執り行うから必ず来ること

 追伸の追伸

おまえに迷惑をかけられたと言う顔の白い男が会いたがっていたから住所を教えといた』


「そんな気分じゃないんだけどね……でも病院にいかないとね」


 そう呟いた姐は目を瞑り眠りにつく。幸い疲労と酒の力があってか左手の苦痛も、喪失感も睡眠の障害とならず夢を記憶にできないほどに眠った。


 気がつくと瞼が光に照らされ、目を開くと部屋はすっかり明るくなっていた。しかし次の瞬間、自分史上最低最悪な寝起きを経験することになる。間もなく、鋭痛が左手や頭を突き刺し、鈍痛が顎からじんわりと広がっていき体中が溶けるように熱くなった。


 昨日あれほどの攻撃を受けたわけだから当然なのだが、さっきまではショックや酒で一時的に痛みを忘れており、その存在を忘れていたのだ。姐は苦痛のあまりにうめき声を漏らし、身を丸める。


「ちくしょう……」


 このままではおそらく一週間後に式に出るどころか、そのまた一週間後には自分が棺桶に入ることになる。重く鈍い上体や足に力を込めてベッドから起き上がり、素早くシャワーを浴び病院へと向かった。


 全く乾かせていない短めの髪。おおよそ人がすべき形を成していない左腕。苦によって血走った目。それらは道行く人々の視線を釘付けにする。しかし、それらを気にしているほど余裕などなく、ただひたすらに病院へと向かう。


 そうして目的地に着いて自動扉を越えると、なんと都合のいいことか。顔なじみの医者とばったり鉢合わせる。


「久しぶりだね。元気にしてた? ちなみに私は満身創痍だよ」

「……」


 すると、姐の姿を死んだ魚の目で捉えた顔なじみの医者”八ヶ条 一”(はっかじょう はじめ)は口をパクパクさせ始めた。しかし次の瞬間


「重症だ!」


 と声を張り上げたかと思えばすぐに近くの職員たちに『あなたは担架を持ってきてください!』や『担架が来たらそちらの八人は、私の案内のもと彼女を緊急治療室へ運ぶのを手伝ってください』など素早く的確に協力を仰ぎ、あっという間に姐を持ち上げる。


 緊急治療室へ向かっている道中、体重一四〇キロは流石に重かったのか八方からうめき声が聞こえ、姐は罪悪感を感じながら気を失う。

 

 ******************


「やっぱりアネキには死んでほしくないな」


 声を耳にしながら姐が目を覚ますと、正面には白ワインで満たされたグラス。


「死んだ……のか?」


 ここでの様子は記憶に新しい。今姐がいるのは死に瀕した際に訪れたあの居酒屋だ。しかし今回は正面にいる悪業はテーブルに突っ伏して寝ておらず、マスクを外して困惑した表情を浮かべながら対面に座っており、何かが微妙に違うようだ。その時、


「まぁ、とりあえず飲もうか」


 正面の悪業が記憶にないことを声に出してき、それに困惑して声が出なくなっている姐に新しく酒を注いだグラスを差し出す。


「色々聞きたいことはあるが……まず、再開するには早過ぎないか? 見た感じ、俺の葬式すら終わっていないようだが」


 やはり悪業は苦しそうな様子を見せながら問うた。


「えぇ。まだ二十四時間も経ってないわ……ところでここは?」


 悪業の問いに答えながら、周りを見渡して問い返す。ただ、姐にもここが何処かというのは完全に分かっていないわけではなかった。


「手に力を入れて視界がテレビの電源が切れたときのように、プツン真っ暗になったあと。映画館で俺の人生を振り返っていた。だが、気づいたらここにいてアネキのこと見てた」


 ため息を吐いて悪業は続ける


「おおよそ死の世界とかそういうのだろう。ただ、天国ではないのは確かだ」


 そう話すと悪業はグラス仰いでまた、溜め息を吐く。そして姐はそんな彼の言葉に疑問を持つ。


「私を見ていた?」

「そうだ。それを見てみろ」


 すると悪業がさきほど差し出したグラスに指先を向けたので、姐はグラスの水面に目をやる。


「一体これは?」


 そこには、ベットの近くにある大量の機械に繋がれ、横たわっている人を中心に囲い込むように大人数の医師と看護師が忙しなく動き回っている映像が写っていた。ありえない事象に姐はその鋭い目をまん丸にして驚いていた。


「アネキをみんなが必死こいて助けようとしている様子だ。かれこれ何時間もこうしてる」

「ッ!!」


 その言葉に次は口がぽかんと開いてしまう。夢を通じて悪業と再会したかと思えば、よもや自分自身も死に直面していると気づいたからだ。


「まだ死んじゃいねぇから安心しな。ただ……どちらにせよ峠はそう長くない」


 悪業が自分のグラスに白ワインを注ぐ


「だからアネキはさっさとあっちに帰ることだな」

「そうね。元気そうでよかった」


 彼にそう促された姐はゆっくりと立ち上がり、裏口に向かおうとする。


「待ってくれ」


 しかし、何故か悪業が声で引き止める。


「なんだい?」


 姐は体を捻ってそんな彼の顔をみつめた。


「あっちに戻ったら、俺のことなんかを気にして腐らずにアネキの正義を貫いてくれ」


 その表情は放たれた声と同じように、眉間がしわくちゃになるほどに力強い。そして、その目は希望に満ち満ちている。そのような意思を伝えられれば、たとえ違う道を志していたとしても答えは決まったようなものだ。


「当然よ。最後に会えてよかったわ」

「ふん、いい知らせを待ってる」


 二人は少ない言葉を伝え合った。それらは一見、他愛のない言葉に聞こえてしまうが、姐には明日を生きる希望と、己の正義を貫き通す決意。そして、誰にも負けない新たな強さを与えた。


 そして裏口の取っ手に手をかけた瞬間、またもやその視界は暗黒に染まる。


 **************


「お前と彼女は一緒のところにいけないよ」


 先ほどまで姐がいた所をぼんやりと見ながら悪業が白ワインを煽いでいると、背後から透き通った声が話しかけてきた。


「これでいい。あいつはこれから小さいことも、でかいことも達成するんだ。俺のせいで支障がでちゃよくねぇ。これが、あいつとの絆を裏切った俺ができる唯一の……」


 もう姐には合えない。


「彼女が来たときにはどうするの?」


 声はまだ問う。そんなことは俺が一番分かっている


「答えたくないか。まぁ……賢明な判断だな。覚悟はいいかな?」

「あぁ」


 そう答えた瞬間。体が燃えるように熱くなる。足元から頭まで登りあがらんとする、このほとばしる真紅の炎が俺の身を焼くたびに思考が薄れてゆく。身が焦げ、落ちてゆくたびに、これまで生きていた証、記憶が薄れ、俺の魂が静かに蝕まれてゆく。俺が消えてゆく、そんな時でさえ頭にあるのはアネキとの思い出。覚悟をしていたのに大粒の涙が目から溢れる。


「アネキの言う通り、これは確かに覚悟じゃなかったな」


 願わくば幸せだったあの時に戻りたい。後悔と忘却そして、死の間際まで誰もが感じることがないであろう痛みに襲われていた。


「       」


 しかしその時、謎の声が私を包んだ。


 ******************


 ピーピーピー、という等間隔で耳に突き刺さるような音で気がつく。何度か瞬きをして、視界がクリアになるとそこには見慣れた白い天井があった。


「おっ、やっと目覚ましやがったか。この筋肉女が」


 そうして、すぐ隣にスタンバイしていたのか、ハジメが死んだ魚の目をして抑揚のない声で声をかけてくる。


「す、すまないね」


 長い時間気を失っていたのか、声がかすれて出にくい。


「ったく。ボロボロで来たかと思えば、いきなり倒れやがって。せめて緊急治療室まで自分の足で歩いていくか、体重落とすかしてから倒れろってんだ」


 ハジメは不快そうにそう言い、続ける。


「にしても、どうして生きているんだ?」


 言動こそ物騒なハジメだが、そこには悪意が微塵もないように見える。どちらかというと、この状況を不可思議に感じているようだ。


「どういうことだい?」 

「いや、別に手を抜いていたとかそういうことじゃない。動ける医師、看護師を全員招集して厳戒態勢で挑んだ」


 その時、ハジメの目に生気が宿り、声に強い抑揚が現れ始める。


「だからじゃないかい?」


 そう問うてみるが、彼は首を横に振って否定する。


「我らの努力敵わず。お前は一度、心肺と血液循環、脳機能が停止した。いわゆる死亡状態になった」

「し、死亡……」


 自身が死んだという衝撃の事実を聞かされ、脳内が真っ白に染まり、青ざめていく。しかし、そんな姐を無視しながらハジメは興奮気味で続ける。


「それから六分ほど経ったか、臨命終時を宣言しようとしたその時、死んだはずのお前が手を挙げたんだ」


 彼の興奮はまだ続く。


「そっから、色々機械つなげてみたら、あらびっくり。バイタルが全回復していたんだ。まさに、十世十代の奇跡だ」

「そ、そういうことだったのね」


 冷静を装ってそう返事をするがその実、背筋が凍り、冷や汗が頭から背中にかけて流れてくるほどに焦っていた。なんといったって、死の狭間を彷徨っていたのだから。


「ところで、悪業の野郎はどうした?」 


 そうして興奮が収まったのか目の生気は消え、声の抑揚もなくなっていった。


「お前がこんなだから連絡してみたんだが、応答がない」

「……」


 その問いに対して姐は俯いて沈黙で答える。空間に静寂がながれ数十秒の時がたったその時、ハジメが目を見開いてハッとした表情を浮かべ、その顔をこちらに向ける。


「まさか……まさか、あいつは死んだのか!」


 姐は黙って首を縦に振る。


「いつかはこうなるとは思っていたが……で、犯人は捕まったのか?」


 ハジメと悪業は旧友であったということもあってか、彼の性分を姐よりも理解しており、声は荒げていても冷静さは保たれていた。


「その犯人ってのが問題なのよ」

「権力者か?」

「いえ、なんというか、もっと信じがたくてややこしい」

「何をもったいぶっているんだ? さっさと教えてくれ」

「……」


 殺人犯は悪業であり、自害した。その事実をどのようにして伝えようかと思案し、そのために言葉を濁して時間を稼いでいた。しかし、直接的に物事を話すのが普通だったのが故に、遠回しでかつ相手を悲しませることのない言葉など出てこなかった。


「はぁ……まずは──」


 そのため、姐は観念して死体部屋以外の出来事を話す。悪業の復讐のこと以外の教団のことから今に至るまでの全てを話した。


「そうか、あいつはやり遂げたのか」


 全てを知ったハジメは多くの感情が入り混じった複雑な声で呟いた。


「知っていたのかい?」


 悪業の特殊な事情を知っているかのような、その意味深な言葉を吐いたハジメを睨みながら問う。


「まぁな」

「そうかい」

「……」

「……」


 といっても、この問いに意味はない。知っていようが知っていまいが、止めようが止めまいが、あのときの悪業はもう止まれなかっただろう。それはもう過ぎた話なのだから。


 二人はこの静かで、どんよりとした重苦しい空気で満たされる空間の中で沈黙した。


 ************


 簡素で暗く、多くの人が集まるこの部屋の奥には棺と、周りにその中の男とその人生を称えるように多くの花が添えられている。しかし、誰かのミスなのか、それとも時と場合も考えられぬ者による趣味の悪い悪戯なのか、紫色のセイヨウマツムシソウもその中に混じっていた。


 死人へ手向けるには不向きなその花を、おもむろに右ポケットに詰め込み、正義警部は近くを通りかかった部下に声をかける。


「そろそろ始められそうか? ところで、城甲刑事を見たか?」

「いえ。時間的には丁度いいのですが、いらっしゃらないようなんです」

「そうか」


 この度天に向かう悪業の相棒で、本当はもっと早く来るべき姐が、時間ギリギリであるのにも関わらず、未だに到着していないという、その答えに顔色が自然と険しくなる。


「はっ! えーと、じゃあ私はこれで」


 すると部下はそそくさとその場を離れ、席に着く。


「メールを見なかったのか?」


 その様子を見て、時間が来てしまったことを悟った正義警部は急いで着席し、閉じられそうになっている巨大な入り口のほうを注視する。その瞳は巨大な体に象られており、姐の姿を捉え次第、声をかけてやろうとした。


「……くっ」


 しかしその気遣いも空しく、間もなく扉は完全に閉じられた。その時、


「ちょっと……開けさせてね」


 閉じられたはずの扉はバコンッ、という激しい衝撃音とともに扉が全開になり、強い光がこちらに向けられる。そして、その光の中心には右掌をこちらに向けている巨漢が存在していた。

 

 **************


「遅れてすまないね。相棒」


 その巨漢とは姐のこと。さすがに悪業との戦いの傷は一週間では癒えきらず、頭部も含めて服で覆われていない部分の全てが包帯で覆われている。


「大丈夫なのか?」


 正義警部はそのような風貌をしている姐に駆け寄り、心配した様子で声をかけてきた。


「なんとか間に合いました」


 このとき、私は無傷だ、と言わんばかりの声を発した。しかしその実、強力な痛み止めを投与されたのにもかかわらず、なおも体中を駆け巡る鋭痛に、表情が鬼を連想させるほどに歪んでいた。


「無事ではないようだがな。まぁ、止めても参加はするのだろう?」

「私は誘いを断れるほど強かではないんですよ」


 痛みを堪えて冗談を言ってみせる。


「愚問だったか……最前列だ」


 相手はやはり警部と言うべきだろうか、隠し事はお見通しだったようだ。しかし、別にこちらを阻止する様子はなく、最前列の席の方へと指差し、自分の席へと戻っていった。


「行こう」

「あぁ」


 姐は隠れていたハジメに肩を貸してもらいながら堂々と前へと歩み、そして着席した。


「限界を感じたらすぐに教えろ。俺の合図ひとつで救急隊がすっ飛んでくる」

「ええ」


 それから間もなく葬儀が始まった。どうやら、彼が信仰していたジュラレ教式で葬儀が行われるようで、ジュラレ教の制服を身に纏った男が棺桶の前へと立ち、仰々しい口調で話し始める。


「我が兄弟よ。お前は与えられた使命を達成し今、父の元へと帰るのだろう。しかし、また彼は新しい使命を受け戻って来る。だから、今は彼の旅立ちを祝おうではないか」


 と、その言葉にその場にいる全員が、異文化との出会いに目をまん丸にしてポカンとしている。しかしその男は続ける。


「さて、一人づつ前へ出て彼との思い出を思い起こしてください」


 最初に促されて立ち上がったのはハジメだった。彼は最初困惑している様子をこちらに見せてきたが棺桶を前にした途端、棒立ちで目を瞑ったまま沈黙し始めた。その時間は永久に思えるほどに長く、それだけでハジメと悪業の関係がどれほどのものだったのかが伺えた。


「備えとけ」


 そうしてハジメが帰ってくると、その閉じた瞼にはキラリと光るものがあった。


「えぇ」


 悪業には生まれながらにして家族はいない。だから次は自分であった。男に促され、ゆっくり立ち上がり棺桶の前に立つ。やはりというべきなのか、悪業の傷だらけでありながらも安らかな表情を見ていると、出会ってから七年間の記憶が滝の如くなだれ込んでしまい、一向にその場を離れられる気がしなくなる。


「……」


 出会ったときに彼に対して感じた妙な不安感。数々の事件を共に解決したこと。これまでに話した他愛もない会話。その全てが全て鮮明に現れる。どれほどの時間が経ったのか、明確にはわからないが相当の時間が流れたのは確かだろう。


 そして、自分の席に戻る間際に一言。ジュラレとやらの元へと帰っていった悪業に伝えるように、決意を固めるように、最後につぶやく。


「私の正義は……この世を、正直者が笑顔になれる世の中にすることだよ」


 


   お前だけは殴らせろ!! FIN

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お前だけは殴らせろ!! 猛木 @moumoku

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