第2話:別に鰭が無くたって
部活の顧問から『申鳥』なる生徒の水泳指導を頼まれた帰り、廊下で転倒しかけた私を助けてくれたのはC組の女生徒だった。
ゆっくりと体勢を立ち上がり、会釈する。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「いやいや!次移動教室で、たまたますれ違っただけだから!」
低い声の彼女は、はにかみつつ謙遜した。人徳溢れる姿勢に感心しつつ、彼女の言葉に密かに焦った私は腕時計を見る。
次の授業まであと5分、彼女が移動教室の準備をするのも納得だ。出席日数と常に睨み合う私にとって、遅刻は死活問題。
「重ね重ねごめんなさい。そろそろ授業ですし、失礼します」
「そっか、気をつけてねー!」
友達に囲まれる彼女に手を振り返し、お礼もそこそこにその場を後にした。
教室一つ分ほど歩き、耳元の静寂さに気がついた。廊下を壁伝いに歩きつつも、気を取られるのは底抜けに明るい彼女のこと。
今も背後から、友人と楽しげにおどける声が聞こえる。あまりの眩しさは、私の前に黒々と影を落とすほどだ。私はこれから一人、暗がりの中を歩いていくのだ。やはり、誰かを助けるなどできやしない。
一人、鼻をすすって廊下を歩いた。
※
3時間経って、放課後。私は部活前の空き時間を狙ってC組に出向き、件の申鳥さんを探すことにした。水泳指導を自ら辞退するためだ。
指導が不可能なのは自明の理だが、顧問が彼女に過剰な期待をさせたかもしれない。であれば一刻も早く撤回し、至らない私を謝罪しなければならない。
だが私は今、C組の引き戸の前で逡巡し立ち尽くしている。どうしても引っかかり、気になるのだ。
どうして申鳥は泳げるようになりたいのか。
仮に泳げなくても普通の人は微塵も困るまい。教師に相談し、その教師から白旗を振られようと前を向き、なお泳ぎたいと願うほどの信念が申鳥にはあるのだろう。
何か必死になる理由があるとして、それを無下にして断る程の決意が私にあるだろうか。いや、無い。
とどのつまり、私は怖いのだ。決意の強い人間と対面することで己の弱さが露呈し、これ以上叩きのめされるのが怖くて仕方ない。
やはり引き返そうか。引き返して早々に帰り、上手いことすれ違ったふうを装うべきではないか。そして明日顧問に辞退する旨を伝えるのだ。いや、そんなことをして申鳥を待たせてしまってはどうする。彼女にも部活がある。一度大義名分と現状の確認のため、教室の中には入るべきだろう。
「……はぁ」
脳内のわだかまりを吐き去り、決意として身を固めた。引き戸に手をかけて、思い切って開いてみる。
覗き込むように中を見渡してみたが、2年C組の教室にはあまり人がいなかった。これは申鳥捜しも望み薄かも知れない。と、少し安心した自分が嫌になる。
さて、教室に残った数人はそれぞれ机に向かって自主勉強に打ち込む人、机を椅子がわりに腰掛けて話している三人組。そのさらに奥の窓際の席に、先程助けてくれた女生徒を見つけた。
これはちょうどいい、C組の知り合いもおらず申鳥への連絡手段もなかったところだ。彼女には申し訳ないが仲介してもらおう。
「失礼します。申鳥さんに用事があって来ました」
侵入が容易になる魔法の言葉を唱え、彼女の席の前に近づいていく。
遠巻きに見ていては分からなかったが、彼女も勉強しているらしい。教科書とノートを見比べては頭をかいている。蛍光ペンを持つ手は、テーピングでグルグルに巻かれていた。掴まれた時感じたのは、これの固さだったらしい。
彼女の視界に映るようそっと机の上に手を添えて、上がった顔に手を振った。
「お勉強中すみません。先程はありがとうございました」
「えっ、わざわざいいのに!直接お礼言いに来てくれたの!?」
勉強を中断させた人間にまで笑顔を振りまけるってどういう人間性なんだろう。正直見ている目が焼けそうだ。燦然と輝く彼女に罪悪感を感じつつ、私は首を横に振った。
「実は申鳥さんという方を探していまして。C組に知り合いが居ないので、もし良ければご紹介して欲しいなーなんてふてぶてしいお願いを……」
そう言って合わせた手を、彼女はさらに大きな手で覆った。一瞬にして私の両手から自由が奪われ、軽く戦慄する。
が、彼女の屈託のない口角と透き通る目を見て肩の力は独りでに抜けた。
「あなたが先生の言ってた掛川ちゃん!?すっごく会いたかった!!」
今にも抱きつく勢いの彼女から一歩引き、念の為確認する。
「もしかして、あなたは申鳥……さん?水泳を教わりたいっていう」
「そう!めちゃくちゃカナヅチで、先生から苦笑いされた、申鳥!」
とても大きな声で、彼女は言った。信じられない程の熱量がある人だ。先生は私との対消滅でも狙っているんじゃないだろうか。
勢いに負けて視点を下にやると、彼女のノートには世界史の人物名がずらりと書かれていたことに気がついた。類まれなる努力の跡が無数に並んでいる。予想通り、純真な意欲の奔流に心が軋んだ。
止まりかけた思考で、話の軌道修正を試みる。彼女の力にはなれないと言うために、彼女の真意を探らなければならないのだ。
「随分、勉強熱心なんですね」
しかし意気込むあまり、事実確認は僻みのようになってしまった。申鳥もキョトンとした顔で私を見つめている。
「今のは文字通りの意味と言いますか。水泳の他に勉強でも努力されていて、すごいなって意味で」
「ふっ、全然。人並にできるくらいまで頑張ってるだけ。話聞いただけじゃ、全く分からなくてさ」
慌てて撤回しようとしたら、彼女は小さく吹き出して、ノートを閉じた。そして静かに私の方を見つめる。
「体育以外、赤点ギリギリなの。やばいよね、二年の夏なのにまだ一年生のとこやってんの!こんなに報われないと逆に笑えてくる!」
申鳥の顔は口角こそ上がっていたが、先程までの光はくすんで見える。両手に貼られたテーピングが、とにかく痛々しかった。
申鳥の徒労感の片鱗が私の中に侵入して暴れ回る。胸どころか、喉から口まで全部張り裂けそうだ。その感情を私は知っている。痛いほど知っている。
どんなに全力で足を漕いでも思うように進まず、体の軸はぶれて幾度となくレーンを仕切る浮きで体を擦り剥き、挙句の果てには溺れかけて一人泣いた夜。
知らぬ間に下唇を噛んでいた。
「……なんで泳ぎたいの。そこまでして」
「えっ?」
「こんなに頑張っても報われないのに。なんで、もっとやろうとするの。しんどいでしょ」
目の奥の痛みに気を取られ、全部言いきってから敬語が抜けていることに気がついた。
申鳥は私の顔を見るなり、挙動不審に当たりを見回してから窓の方を向く。
「私、どうしても小学校の先生になりたくてさ」
そして、申鳥は信じられない程にか細く囁いた。
「小学校の先生か……」
どこかで聞きかじった話を、掘り返してみる。確か所によっては水泳とかの指導もするから、泳げていた方がいいんだっけ。
申鳥は、つらつらと続ける。
「私ね。小学校の頃から勉強全然できなかったし、徒競走はいつもビリ。でもね、上手くできなくても楽しかったんだ!それでいいって教えてくれたのが小学校の先生だったの。
下手の横好きなりに続けてたら、好きなこと全部諦めなくて良くなったの!」
「好きなことを……諦めなくていい」
ゆっくりとその文句を反芻する。
私はいつから、水泳部を辞めようとしたんだろうか。包帯に巻かれた爪先を見た時?思うように泳げず溺れかけた時?補講中に水泳部が練習する掛け声が聞こえてきた時?
分からない。だが確かにいつからか、私は足先から腐りきって自壊していたのだ。何もかもを諦めて呪詛を振りまいていたと、今更気がついた。
「でも私、めっちゃ馬鹿で。水泳は何度やり方聞いても全然できなかった。そしたら掛川ちゃんに相談してみたらって言われて、今泳げるようになりたいって思ったの」
「……なんで今?なにか理由があるの?」
「もう、掛川ちゃん真面目すぎだって」
率直に返すと、申鳥の頬は少し綻んだ。
「ちょっとでもやりたいならさ、別に今すぐで良くない?掛川ちゃんが良ければだけどさ」
手を差し伸べ、私に笑いかける。
目と鼻の中間が、不意に熱くなった。
悔しさはある。挫折しても立ち上がろうとする心意気など、私はとうに無くしていたからだ。確かに私は、彼女の善性と比類なき熱量に打ちひしがれている。
だが、身を溶かす暗闇に一筋の光が差したのだ。もしも許されるのなら、壊れかけの自尊心が霞んでしまうくらい眩い目の前の光に、手を伸ばしたいと思った。
……私もやりたい。光の方に進みたい。
震えながら光に手を伸ばす。絡み合った迷いをを少しづつ振り解き、進むべき方向に手を伸ばす。
だが、それだけでは足りない。ただ進むだけでなく、一時の強い力が必要だ。もう後戻り出来ないくらい強い決意が要るんだ。
私は申鳥の手を強く握り、前向きに倒れるように机にもたれかかった。
そして大きく口を開くのだ。
「きっとあなたに、泳ぐ楽しさを教えてみせる。私が今、やりたいから」
爪先の向く先が、ようやく見えた。
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