鰭を失くしたマーメイドは
しぼりたて柑橘類
第1話:無い鰭は振れない
「掛川さん、あなたの退部届は受理できない」
昼休みの少し賑やかな職員室の中でも、顧問の女教師の声は鮮明に響く。というか響きすぎて、休憩中の先生たちが揃ってこちらを見た。私の周囲5メートルは、水で満たされたように無音で息苦しい。
二人で作り出した気まずさに、顧問は浮かべた薄笑いを引き攣らせる。
「意地悪とかじゃなくてね、あなたの復帰をみんな心待ちにしてるのよ?後輩も指導して欲しいって言ってるし」
「はあ」
埴輪のように開いた口から、漏れ出た空気がたまたま相槌になった。書類の記入漏れが無かったか思い返しながら、なぜ退部届が容認されなかったかをぼんやり考える。
「掛川さん、最近大丈夫?退院してから、人が変わったみたいに元気がないけど」
「はい?」
「なんだか、ぼんやりしてるし顔色も悪いし。もしかして傷が痛むとか?」
困り眉とともに、心配そうな目が私に向けられる。建前に過ぎないだろうが、気を遣わせている。
仕方なく、社会通念上正しい返答を模索し始める。会話において、沈黙が許される約3秒。その間で顧問に心配も迷惑もかけず、期待もさせない建前を頭の中で探す。
しかし、思考能力は著しく鈍化している。例えるなら照明の消えた図書館で、うろ覚えの本を探し出そうとしている感覚。正しい言葉がどんなものか、そもそも正しい言葉とは何だったのかすら曖昧だ。
果てのない探索を続けるうち、次第にどこまでが暗闇で、どこからが本なのかすら分からなくなる。一面の暗黒は身体の境界すらも曖昧にしていく。
手探り足探り暗い図書館を進み続けると、どろり、と何かが足先に触れる。溶けた私の爪先だと気がつくのに、時間はさほどかからなかった。そうだ、私の爪先は、行先は。
「か、掛川さん」
顧問の声が響いて、職員室に引き戻された。蛍光灯の白さが眩しい。どれほどの間、私は白昼夢を見ていたのだろう。少なくとも三秒以上は確実に寝ぼけていたようだ。
「あー……そうですかね。元々こんなもんでしたよ。私なんかが戻ったって仕方ないですって」
苦し紛れに、中の下の返答をひねり出す。顧問の顔を見上げると、更に引き攣っていた。
「とにかく、もう少し考えて欲しいな。辞めることだけが選択肢じゃないから」
「はあ。じゃあ考えておきます」
相槌が肯定と見られたか。退部届は私の手元に帰ってきた。不備の無い申請を却下され、腑に落ちない助言をされる。のしかかった徒労感で気が遠くなるようだ。早く教室に戻って休み時間いっぱい寝ておこうか。
踵を返そうとした私の前で、顧問は大袈裟に手を打った。
「あ、そうだ。それとね、掛川さんにお願いしたいことがあって」
心なしか口角が上がっている。これは顧問が、厄介や頼み事をして来る時の癖だ。しかし、私にはもう何をする気力も、実力も無い。やり遂げる自信が無ければ断り切れる自我も無い。
「頼まれても、今の私には何も出来ませんよ」
判断材料を提示し、決定は上役に委ねる。
「あら。でもお相手には話通しちゃったから話だけは聞きに行ってもらえないかな?」
「……はあ」
口から出た息が、またも相槌になった。まさか先回りしたはずが、はるか先まで回り込まれているとは。なぜそこまで、使えない私を使いたいのか。
訳が分からずぼんやりと考えていたら、顧問が切り出した。
「C組のサルトリさんって人がいるんだけど、知ってるかしら」
「はあ。サルトリ?」
脳内変換に時間がかかったが、恐らく『申鳥』。校内新聞で字面を見たことがある。女子バスケ部だったような。
「そう、その子全然泳げないのよ。本人のやる気はすごいんだけどね。もうじき水泳の授業が始まるでしょ?その前にいい指導者が欲しいなーって思ってたのよ」
顧問の薄笑いを見て、呼吸が止まる。何となく話が読めてしまったのだ。
「……私には無理です」
逡巡の後、決死の思いで辞退する。
「何言ってるの、水泳部副主将さん」
即座に却下された。
「去年県大会で決勝に残った選手で、後輩から信頼されるくらい面倒見も指導の要領も良くて、オマケに同学年の子だから最高の人選だと思うけどな」
顧問は三本、指を立てて目を輝かせる。
「その三つのうち、二つは過去の話じゃないですか。それに水泳初心者の指導なんかしたことないです」
「あなたが歩んできた経歴の話よ。今は自信が無くなっていても、あなたは軽々やってのけた。その揺るぎない事実を、私は信じている」
殺し文句みたいな言葉を、真っ直ぐに私を見ながら放った。不可解さと重圧で息が詰まっているので、ある意味死にそうだ。
「爪先のない怪我人に、過度な期待をしないでください」
「期待だけじゃない。面接でエピソードとして言えるし、出られなかった体育のレポートと追加で、これも評価対象にすれば評定も上がるよ?win-winだ思うんだけど」
「そ、それは」
評定という言葉に心が大きく揺らいだ。休んだ上、体育への参加も厳しい今、留年のリスクは少しでも避けたい。
だがしかし、今の私が初心者の指導なんてできるだろうか。そもそも私と申鳥は互いを何も知らない。
「……考えさせてください。本人と話してから決めます」
そう言って顧問に頭を下げ、職員室を出た。去り際までにこやかに手を振る顧問の姿は、見ないフリをした。
昼休みの雑踏を、廊下の壁を伝いながら慎重に避ける。教室までの道は、去年より遥かに長く険しくなった。
春先の交通事故で爪先を欠損して、早二ヶ月。傷は塞がったが、足先で踏ん張らずに歩く感覚には慣れない。一度躓くとそのまま転がりそうになる。傍目から見れば、平坦な道で転んだ人間。体の汚れを払っている時、ただ自分という存在がつくづく嫌になる。
オマケに、怪我をしてから何をしていいか分からなくなった。爪先がなくなって、水泳選手としての私は過去に取り残されたのだ。水泳一本だった私の人生の軸は、足の指とともに潰えた。
加えて、指が残らず欠けて素足は芋虫のようにグロテスクだ。我ながら見るに堪えない。当然、外で靴を脱ぐことなどできず、プールに運ぶ足も無くなった。
スイマーはよく魚に例えられる。が、足と鰭を同時に失った私はもはや人間ですらない。
行き先すら自分の足だけで決められず、壁伝いに遅々と歩む姿がその証左だ。爪先がどこを向いているかも分からない今、私は何を信じればいい。
失ってばかりの私に教えられることなど、何も無い。やはり辞退しよう。
思い切って踵を返した時、体の軸が前に傾いた。詰め物が入っている靴に、つま先があると勘違いしたのだ。
「──あ」
倒れゆく体から取り残されて、結んだ髪が宙を舞って後ろに流れる。この足になって、何度も転んだがこの感覚は慣れない。
利き手は壁に取り残され、後ろに伸びている。気を抜いていたので左手は遊んでいる。経験則から考えると、受身の取れないまま胸と腹、場合によっては顎も床にぶつけるだろう。
床の目地が迫る、目と鼻の先まで。顎だけではなく顔面からぶつかりそうだ。そうなると痛いんだよなあ。
しかし、どうやっても避けられないのだ。観念した私は目を瞑り、重力に身を任せ──。
「──あぶなっ、セーフ!」
少し低い声が頭上から響くと、私の顔は床スレスレのところで止まっていた。何者かが倒れる寸前私の腕を掴んだのだ。布の巻きついた、グローブのような大きな手が私の手を包んでいる。
三秒遅れて、理解する。私の右腕をガッチリと掴んだのは、ガタイのいいショートヘアの女。胸元の名札には『2-C』と書いてあった。
「ライン際取るの、得意なんだよね!」
そいつは、聞いてもいないのに得意げだった。
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