ああ!昭和は遠くなりにけり!!
@dontaku
第6話
妹里穂が登場し、ますます賑やかになっていきます。
ああ、遠くなる昭和の思い出たち
淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂
第6話
6月に入るとジューンブライドということもあり披露宴での演奏依頼が増えてきた。第1、第2土曜日はそれぞれ老人ホームと保育園での演奏会があるため残りの土日で日程を調整する必要があった。
美穂の演奏には定評があるからだ。
遥香さんは既に選考会に向け信子のレッスンが始まっていた。
優太君のヴァイオリンの練習もあり、ピアノルームの利用頻度が高くなるため、信子の休日には遥香さん宅へ出向く形をとっていた。
確実に課題曲を自分のものにしていく遥香さんの演奏に微笑みながらレッスンをする信子。休憩時間に遥香さんがぽつりと言った。
「信子先生に教えていただいてすごく嬉しいです。でも、信子先生を美穂ちゃんから取ってしまっているような気がして・・・。」
信子は笑いながら遥香さんに言った。
「何を言ってるの。美穂は自分でしっかり練習しているわ。実は、私、美穂には付きっ切りで教えたことはそんなに無いの。美穂は楽譜を通して曲調や作曲者の思いを読み取ってピアノを弾いているみたい。だから私たちの練習方法とは全く違うの。遥香ちゃん、その辺を理解して私と練習して選考会とコンクールに臨みましょう。」信子の言葉に深く頷く遥香さんだった。そんな2人の姿をご両親もそっと見守ってくださっていた。
「あんなに真剣にピアノに向かう遥香を見たのは初めてだな。」
いよいよ今日からボイストレーニングが始まる。3人のスケジュールを考えて水曜日の夜とした。講師は音大の声楽科卒業の美里さんだ。
私たちの仕事の都合もあり3人の送り迎えが出来ないためわが家においでいただくこととなった。
美里さんは優香さんと同期で優香さんと同じ会社で一緒に働いているとのことだ。歌が大好きな朗らかな性格のお姉さんだ。
早速女子2人の歌声の素晴らしさに感動する美里さん。そして優太君の声にも大いに感動して、変声期を本格的に迎えるにあたっての注意点をいくつか挙げて説明していた。
ピアノルームに移動してレッスン開始だ。しかしその前に、グランドピアノの佇まいに心奪われる美里さん。一目でただのグランドピアノでないことが分かったようだ。「こんな名器に触れられるなんて!」
美里さんのレッスンにも力が入りそうだ。
ピアノルームが完全防音であるため19時から21時までゆっくりとレッスンを受けることが出来る。美里先生は会社が引けてから直接わが家へ来ていただいたようだ。
「美里先生、お住まいはどちらですか?」遥香さんが尋ねる。
「会社の独身寮なの。大丈夫よ。歩いて帰れるから。」そう答える美里さんだが美穂は知っていた。優香さんと同じ独身寮だからだ。優香さんは夜遅い日もあるため車で通っている。
女性の夜の一人歩きは危ないと信子と話していることを思い出したからだ。
「2人とも、車を呼びます。美里さんのお宅経由で遥香さん宅ということで。」
「あっ、いや・・・。」という2人の言葉を待たずに車を呼ぶ美穂。
電話口で名前と会員番号を告げる。一旦都心の本社にかかった電話を最寄りの営業所へ繋ぐシステムのようだ。車はすぐに見つかった。10分ほどで来てくれるようだ。
「お2人とも帰る支度をしておいてください。」そう言う美穂に素直にお礼を言う2人。
とても小学生らしからぬ素早い対応に感心する3人だった。「そうか!美穂ちゃんは音楽家の血筋だけでなく商社マンの血も流れているのか!」優太君はしみじみそう思った。
授業終わりのとある放課後。何時も音楽室からピアノを弾く音が流れてくるのを気にしていた二人。何度も同じところでリズムを乱しているせいだろうか、気になって仕方なかった。そっと3階の音楽室へ向かっていると音楽室を覗き込んでいる男の子がいる。二人に気付いた男の子は足早に去っていった。今度は二人で覗いてみる。3年生くらいの女の子が一生懸命にピアノを弾いていた。
「おじゃましまーす。」二人で声を揃えて部屋の中へ。驚いてこちらを振り向く女の子。美穂が話しかける。
「突然ごめんね。弾いていたのって「渚のアデリーヌ」ね。この曲好きなのね。」そう言われてこくりと頷く女の子。
「いいわ。お姉さんが教えてあげる。」そう言う美穂の言葉に嬉しそうに微笑む女の子。
先ずは弾いて貰う。どこかのピアノ教室に通っているのだろうか、序盤は結構スムーズに弾いていける。さびに入る辺りでリズムが狂ってしまうようで、そこがなかなか上手く弾けないようだ。
「ここはね、こう弾いているでしょ。でもここから別の曲になると思ってみて。一瞬間をおいて気持ちを切り替えるの。別の曲だって。」そう言いながら弾いて見せる。美穂の余りの上手さにびっくり顔の女の子。
さっそくそのパートを弾いてみる女の子。あっという間に引っ掛かりを克服した。顔を明るくして喜ぶ女の子。
「うふっ、すごい!すごい!あっという間に出来るようになったね。」両手を叩いて喜ぶ美穂。そんな様子を席に座って見守る優太君。
「さすが美穂ちゃん。教えるのが上手いなあ!」感心する優太君の後ろのドアがそっと開いた。音楽の先生だ。先生は優太君に音楽室の鍵を渡すと「終わったらキーボックスに戻しておいてね。あんまり遅くならないようにね。」そう言って静かに部屋を出て行った。
17時のチャイムが鳴り、3人で音楽室を出る。鍵を返しに行っている優太君を待ちながら美穂が自己紹介をする。そして目の前にいるお姉さんがピアノコンクール第1位の美穂だと知り飛び上がって驚く女の子。
「戻ってくるお兄さんは優太君。ヴァイオリン第1位のお兄さんだよ。よろしくね。」
「わあーっ!どうしよう!わ、私は里穂と言います。今日はありがとうございました。」そう言って深々と頭を下げる里穂ちゃん。
戻ってきた優太君にも自己紹介をする里穂ちゃん。
「お二人のおかげで良い想い出が出来ました。実は私、今月末で転校するんです。何処へ行ってもひとりぼっちだけど・・・。」寂しそうに話す里穂ちゃんに事情を聴く美穂と優太君。里穂ちゃんのご両親は仕事をしながら全国を転々としているそうで、なかなか友達も出来ず、いつも一人で過ごしているという。
「里穂ちゃん!うちにおいでよ!ママに頼んでみる!」美穂の言葉に驚く里穂ちゃん。そして直ぐに笑顔になった。
そうとなると美穂も信子も行動が素早い。里穂ちゃんのご両親とお会いして里穂ちゃんをお預かりすることになった。取り敢えずは住民票だけをわが家に移し同居人ということからスタートした。
大喜びなのは美穂だった。急に妹が出来たようなものだからだ。
日常生活が変わるも里穂ちゃんは次第にわが家に馴染んでいった。
里穂ちゃんは何時も美穂と一緒に行動していた。遥香さんとも打ち解けて昔からの知り合いのように思えるほどだった。
普段の音楽活動を見てもらうために老人ホームと保育園の公演、結婚式場での演奏などについて行きその様子をしっかりと見学していた。特に結婚式場では食い入るようにモニターの美穂を見つめていた。里穂ちゃんは老人ホームではホーム長さん、事務のお姉さんを始めとする職員さんたちそして学校長さんのお母さまに、保育園では園長さんを始めとする保育士の皆さんに自己紹介をした。意外と社交性を発揮して私たちを驚かせることもあった。
里穂ちゃんのレッスンは信子が担当した。信子が言うには“乾いたスポンジがどんどん水を吸収するみたい”に理解度が高くめきめきと上達して行きそうだと喜んでいた。幼い頃の美穂の様だとも話してくれた。そんな里穂ちゃんはまだ人様からお預かりしている子だ。早く“パパ、ママ”と言ってくれる日を心待ちにしている信子と私だった。
わが家では手狭になってしまったピアノルームをどうするかが話題となっていた。欲を言えばもう2部屋欲しいところだ。優太君、優太ママ、遥香さんも交えて意見を述べ合った。遠慮がちな里穂ちゃんに信子が優しく話しかけた。
「里穂ちゃん、気にしなくていいのよ。以前からこの問題は起きていたの。でも実際には中々進展しなくて。里穂ちゃんが来てくれて、それがきっかけでやっと前向きにこうして検討することが出来たのよ。」静かにうなずく里穂ちゃん。そんな里穂ちゃんをぐっとハグする美穂。
「色々考えているんだけど、今のピアノルームの上に建て増しする方法、庭にピアノルームを新築する方法と候補を挙げてみたんだけど、建築基準法をクリアできないんだ。どこか別の物件となると遥香さんを含めて4人の移動手段に限界があるし。」私が問題点を指摘する。
「私、自転車に乗れます!」里穂ちゃんが明るく発言した。
「うふふ。里穂ちゃんはお転婆さんね。でも、事故やけがのことを考えると自転車やバイクの利用は避けたほうが良いわ。」残念そうに信子が説明する。暫く沈黙が続く。
「表に出すとダメって怒られちゃうんでしょ?だったら地下室にすれば?」里穂ちゃんのひらめきに一同目が覚めた。そうか、地下!その手があったか!
今日は信子が家にいる、ということで学校終わりは優太くんと優太ママのヴァイオリンの練習日だ。夏の高原合宿に向けての独奏曲の練習がメインだ。優太君も美穂同様に着実にレパートリーを広げつつあった。何を弾いてくれるのだろう。
その合間に信子は美穂と里穂を連れて何時もの大型スーパーへ出かける。
里穂は楽器店店長さんとは初めてのご対面だ。しっかりご挨拶できる活発な子だ。来店の目的は里穂のピアノ選びだ。「うそ!自分のピアノを買ってもらえるなんて!」そう言って膝を震わせる里穂。嬉しかった!とにかく嬉しかった!
「わあーっ!ピアノさんがたくさん!」
3人で並んで置いてあるピアノを1台ずつ弾いていく。3人それぞれの耳と感性で選んでいるのだ。それぞれ音色や鍵盤のタッチ感が異なる。それに初めて気づく里穂。自分にしっくりくる音を出してくれるピアノを探すのだ。一通り店内にあるピアノ全てを弾いてみた。だが3人が納得できるピアノは無かった。美穂は自分のピアノが納品されたことを思い出した。3人で仕事場へ戻っていた店長さんに声を掛ける。「倉庫を覗いても良いですか?」
今度は大きな倉庫にあるピアノを見に行く。近郊の各店舗のピアノが集積、保管されており顧客の預かり品以外はすべて購入可能だ。
台数が多いため2組に分かれて探していく。
美穂と里穂のコンビがとある1台に目を止めた。早速里穂が弾いてみる。試し弾きの曲は「渚のアデリーヌ」、そう初めて音楽室で出会った時に里穂が練習していた曲だ。倉庫に里穂の弾く「渚のアデリーヌ」が流れる。それに気付いた信子が合流して音を吟味する。
3人で頷く。合格のようだ。しかし、ピアノ探しはまだまだ続く。すべてのピアノを弾いてみたいは3人の共通する思いだった。今度は信子が「渚のアデリーヌ」を弾き始めた。そこへ駆けつける美穂と里穂。そしてまた3人で吟味。こちらも合格だ。
全てのピアノを弾き終えて候補として残ったのは2台だ。どちらが里穂に合っているのだろうか。里穂が奏でる「渚のアデリーヌ」に耳を傾ける信子と美穂。どちらとも決めかねる3人。店長さんに来てもらい2台の音を聴いてもらう。「うーん!」店長さんも決めあぐねていた。
「ちょっと待っていてくださいね。」そう言って戻っていく店長さん。その間2台のピアノを弾きまくる3人。曲を違えて聴いてみてもやはり決められない。
「いっその事、2台買いましょう!」突然の信子の発言に驚く美穂と里穂。「今度出来るピアノルームは2部屋。美穂と里穂のお部屋よ。そこに1台ずつ置きましょう。」そう言うが早いか2人を連れて店長さんの元へ。店長さんはあいにくどこかと電話中だった。
電話を終えた店長さんがにこにこ顔で3人に話し始めた。
「1台は新築のお祝い、もう1台はピアノ教室大繁盛の御礼としてお納めさせていただきます。」3人とも唖然としていた。それもそのはず、3人ともそれぞれのピアノの値段をしっかり見ていたのだ。
しかも2台ともこちらのメーカーの最上位機種だ。
「いや、それは困ります。」信子が言う。
「信子さん、うちの広報が言うには皆さんが波及する宣伝効果は大きいのです。ピアノを習うお子さんも劇的に増え、それに伴ってピアノ自体も売れました。その感謝の気持ちだということでお受け取りいただけないでしょうか?」そう言ってくださるお店側の熱意に負け2台のピアノを譲っていただくことにした。
美穂と里穂は事の成り行きに目をくりくりさせて驚いていた。
更にサプライズが!
「今度ピアノの新しいシリーズが発表されるのですが、そのCMに遥香さんと、美穂ちゃんの2人で出演していただけないかということです。後日直接担当者からご連絡がいくかと思います。どうぞよろしくお願いいたします。」そう言って店長さんは満面の笑みを浮かべた。
3人は衝撃を受けしばらく呆然と立ち尽くしていた。
その日の夜、信子の携帯が鳴った。千夏さんからだ。世間話の後、驚きのオファーが!音楽隊員の募集ポスターに美穂と優太君に出演して欲しいとの依頼だ。公共性のある仕事のためピアノメーカーのCMの話をする信子。千夏さんはうんうんと頷きながら聞いてくれた。
「大丈夫、特に制限はないわ。」その言葉に安心する信子。明日にでも2人に話してみよう。
翌日、学校から戻って来た2人に音楽隊のCMの話をする信子。
「えええーっ!」驚く二人。帰ってくる途中でピアノのCMの話で盛り上がっていたことに加えての話だったからだ。
夕方からはボイストレーニングの日だ。それまでに各自の練習を行う。特に美穂と優太君のコンビネーションに魅了され吸い込まれていくような里穂。間近で聴くヴァイオリンの調べに酔いしれる。
夕方になると遥香さんを迎えに行った信子が戻って来た。
リビングに入って来た遥香さんはにこにこ顔だ。
「遥香さん、皆に見せてあげて。」信子に言われて皆の前に差し出したものは“運転免許証”だ。自慢気の遥香さん。そう、遥香さんは4月で18歳になり教習所に通っていたという。そんな訳で、皆で免許証の遥香さんの写真を見てみることに。
「大体、凶悪犯っぽく写るってよく聞いているけど・・・。」変な期待を持ちながら優太君が覗き込む。「うわあーっ!何これ!アイドルのブロマイドじゃあないですか!」そこには笑ってはいないもののおすまし顔の遥香さんが映っていた。皆、手に取って驚いている。
「うふっ。ママのもみたいな。」美穂が言う。
「うん。私もママのが見たい。」里穂が続けて言う。
「!」一瞬間が空いた。「里穂ちゃん今、な、何て言った?」優太君が里穂に尋ねる。見る見るうちに信子の目が潤む。美穂も遥香さんも小躍りしている。里穂が初めて”ママ”と言ってくれたのだ。
思わず里穂を抱き上げる信子。泣きながら里穂にほおずりする。
「やだ、ママ。恥ずかしいよ。」恥じらいながらそう言う里穂は幸せだった。
6月第3週の土曜日、この日は音楽隊のポスター撮影の日だ。
信子と里穂と優太ママも一緒に撮影スタジオへ向かう。車内は大盛り上がりだ。特に里穂は優太ママとも気が合うようで3列目の後部座席ではしゃいでいた。郊外にある写真スタジオに着く。普段着のままで良いとのことで何時も通りの出で立ちの二人。
私たち4人は見学者ということでスタジオの隅から撮影風景を覗き見ることとなった。小1時間ほどして音楽隊の制服を着た二人が登場。思わず声を上げる優太ママ。信子も両手を合わせてじっと二人に目をやっている。里穂も私も二人の晴れ姿に思わず見入っていた。
5,6名のスタッフが付き、カメラマンさんの指示通りにポーズを取る二人。遅れて千夏さんと合流、撮影を見守る。
「おーい!千夏っちゃーん!」カメラマンさんが千夏さんを呼んだ。スタッフ全員でモニターを食い入るように見つめる。写真の出来栄えを確認しているようだ。一通り確認が終わるとディレクターさんの一声が。「はーい!オーケーです!お二人ともお疲れさまでした!」
「皆で二人を囲んで記念写真を撮りましょう。」千夏さんの掛け声でカメラマンさんに撮っていただく。だが撮り終わってもカメラマンさんが動かない。そして千夏さんを呼ぶ。
「この子!だれ?」そう言ってカメラのモニターを指差したのは里穂だった。「美穂ちゃんの妹さん、里穂ちゃんよ。」そう説明する千夏さん。
「この子、撮りたいんだけど、良いかどうか聞いてきて。」カメラマンさんはそう千夏さんにお願いした。早速千夏さんに事の経緯を説明された信子と私は少し時間を貰い里穂の実母に連絡を入れる。この時点で籍は未だうちには入っていなかったためだ。直ぐに実母と話が出来了解を頂いた。
千夏さんに伝えると「そういう事情があったんだね。」と信子の対応を理解してくれた。
里穂も理由が分からずいたが、とりあえず「はい。お願いします。」と快い返事をしてくれた。一旦撤収しようとしていたスタッフさんたちが再び集合する。
普段着姿の里穂にライトを当てる。照明係さんが徐々に明かりを暗くしていく。「よーし!そこ!露出測って!」カメラマンさんの大きな声に少し驚きながらもポーズを決めていく里穂。
「うそ!さっきと表情がまるで違う!」千夏さんが声をあげる。
「ほんと。何時もの里穂ちゃんじゃない。」優太ママも同じ様に声をあげる。ポーズごとに決め顔を作っていく里穂。美穂の可愛らしさとはまた違う小学生の表情だ。だんだん乗ってきたカメラマンさん。それに合わせてスタッフさんたちも大忙しだ。里穂は嫌な顔一つせずポーズを決め続けている。里穂の意外な才能を唖然として見守る信子と私だった。
「よーし!オーケー!里穂ちゃんお疲れさま!ありがとうね!」怖いと思っていたカメラマンさんの優しい声に嬉しそうにお礼を言う里穂。スタッフの皆さんから拍手が起こる。
丁度その時着替えを終えた二人が戻って来た。
「えっ?どうしたの?何の拍手?」状況が把握できない二人だった。
皆さんにお礼を言ってスタジオを後にした。久しぶりの千夏さんを一緒に乗せてわが家へ戻る。千夏さんは撮影の立ち合いのためだけに来てくれたようだ。里穂は優太ママと千夏さんに挟まれて急なモデルに対応できたことを褒められて照れ臭そうだった。
それにしても二人の姿は凛々しかった。
「写真選びにもぜひ参加して頂戴ね。」千夏さんの言葉に「はい!」と元気良く返事をする二人だった。
途中で回転すし店に立ち寄る。総勢7名の団体様だ。大人と子供たちとに分かれて陣取る。子供たち3人にはご褒美として好きなものをたらふく食べてもらいたかった。それに応えるようにそれぞれ好きなものを次々に注文していく。周りのお客さんたちが驚くほどの勢いだった。特に里穂は突然のモデル撮影だった緊張から解放されての爆食だった。優太君が心配するほどの食べっぷりを披露していた。
美穂は大好きな玉子焼きのお皿を並べてそれを肴に握りを頂く何時ものスタイルだ。
優太君は大好きなマグロを中心に大トロ、中トロ、中おち、軍艦巻きを楽しんでいた。
私たち大人は音大卒業者が3人揃ったことで昔話に花が咲いた。
ピアノ専科の信子、ヴァイオリン専科の優太ママ、管楽器専科の千夏さんとそれぞれの音大時代の話が弾んだ。話を聞いていると音大時代の3人はかなり目立っていたようだ。特に千夏さんは豪快なエピソードがあるようだ。
「千夏ったらさあ、音大祭の打ち上げで酔っぱらっちゃって、繁華街の交差点で“進軍ラッパ”を吹いたんだよね。」
「そうそう!通りかかった中年のサラリーマンさんたちが10人近く立ち止まって“敬礼”しちゃってさあ。」と3人で大笑いだ。
それを聞いていた隣の子供たち3人もつられて一緒に大笑いとなった。やはり学生時代って良いものだと思った次第だ。
わが家に戻り、リビングで再度談笑する。皆で紅茶を頂きながらよもや話に余念がない。そんな中、ピアノルームで二人による演奏を披露することになった。完璧なスタジオと化したピアノルームに感心し、グランドピアノに釘付けとなる千夏さん。
「こ、これって!音大のホールにあるピアノ?えっ?違うの?」とかなり動揺している。信子が経緯を説明すると納得したものの音が気になるようだ。
美穂がピアノの前に座る。併せて優太君がヴァイオリンを構える。そのヴァイオリンにも目を遣り驚く千夏さん。
美穂の力強い演奏が始まる。グランドピアノが歌い出すような出だしだ。続いて優太君のヴァイオリンが鳴り響く。かなりの迫力だ。
演目は「チゴイネルワイゼン」だ。千夏さんは目を閉じて二人の演奏に浸っている。曲が終わると真っ先に立ち上がり拍手をくれた。
「素晴らしい演奏だったわ。二人とももうプロと言っても良いわよ。本当に素晴らしい演奏だったわ。」興奮気味の千夏さんだった。
本日は美穂の結婚式場での演奏のバイトの日だ。午後からということもあり信子の出社を見送ってから美穂と里穂の3人で何時ものフレンチトーストを頂いていた。
「あれ?誰か来たのかな?」車の音を聞いた美穂がインターホンの前で待ち構える。ピンポーン♪
「遥香です。おはようございます。あのう、車停めてもよろしいですか?」と聞いてきた。美穂は何の車か分からなかったが信子が出かけているので停めるスペースはあった。「はい、どうぞ。」と返事をした。玄関を開けると遥香さんがにこにこ顔で立っていた。
「うふふ、美穂ちゃん!車で来ちゃった!」そう言って手招きする。
何だ、何だと里穂と私も玄関へ。3人で付いて行くと可愛らしい車が停まっていた。「おっ!信子と同じ車だ、色は違うけど。」
遥香さんによると、どうしても信子と同じ車に乗りたくて探してもらったとのこと。年式が古いので同じグレードながら色は揃えられなかったという。「そうか、そんなに信子のファンでいてくれているんだ!」私は嬉しかった。それともう一つ、私たちが不在の時に3人の移動を助けてくれそうだからだ。
朝食がまだだという遥香さんを交えてフレンチトーストをいただく。
話題は音楽隊のポスター撮影と里穂の飛び入り撮影の話だった。
楽器メーカーのCM撮影を控える遥香さんは身を乗り出して聞き入っていた。最初の打ち合わせは来週の土曜日だ。2人は楽しみで仕方がないようだ。
朝食が終わると3人はピアノルームへ。里穂の練習を見守るという2人のお姉さん。里穂は幸せ者だ。里穂の練習曲は「トルコ行進曲」だ。有名な曲だがとてもテンポが速いフレーズが続く。指使いが鬼門だ。最初はゆっくりと弾きながら徐々にテンポを上げていく。指使いは遥香さんと美穂はお手の物だが里穂にはまだ早いようだ。しかも3年生の小さな指ではなかなか思うように鍵盤を叩けない。2人のお姉さんは指だけでなく腕の使い方と掌の動かし方も伝授する。さっそく高速部分をゆっくりと弾いていく。さすが里穂。ゆっくりならば確実に鍵盤を捕えることが出来る。徐々にテンポを上げながら何度も弾いてチャレンジする里穂。そんな里穂の姿に自分の幼いころの姿を重ねてしまう遥香さんだった。
里穂が一休みに入ると遥香さんと美穂の連弾の練習だ。キッチンに飲み物を取りに来た里穂を見るとうっすらと汗をかいている。
「里穂、これで汗を拭いて。身体を冷やさないようにね。」そう言ってタオルを渡す。
「うん。ありがとう!“パパ”!」何気なく里穂が言ってくれた。
“パパ”と初めて言ってくれた!私は込みあげてくる嬉しさを抑え込むのに必死だった。ピアノルームへ戻った里穂を確認して私は叫んだ。「ああ!里穂!ありがとう!」
お昼が近くなった。私は優太君を迎えに行く用意をして3人に声をかけた。すると遥香さんが「私が車で行きます。」と言ってくれた。折角なので助手席に同乗する。内装は信子の車と同じだ。エンジンがかかる。DOHCエンジンのサウンドが心地よい。走り出すとヒューン!というターボ音と共に加速する。信子の車と同じだ。「このエンジンの音も大好きなんです!」ノリノリで運転する遥香さん。おっとりしているようで意外とお転婆なお嬢さんだ。
何時もの様に裏口からマンションの敷地へ入る。優太君の携帯に電話を入れ着いたことを告げる。それにしても相変わらず数人のファンの女の子たちがたむろしている。有難いのだがご近所さんに迷惑が掛かってしまう。遥香さんも自身の目で確認して驚いていた。
「遥香さんも用心しなよ。良いファンばかりではないみたいだから。」
そこそこに有名人となった遥香さんにそう言うと頷いて返事をくれた。「父にもそう言われました。それでこの車を買ってくれたんです。」
そう言う話をしていると優太君が降りてきた。見慣れない車に乗る私に気が付いて小走りで車に乗り込んできた。「あっ!おはようございます。遥香さん!車買ったんですか?」少し驚いた様子の優太君だ。「優太君。うふふ、買っちゃった!」いたずらっ子のように肩をすくめ笑う遥香さん。さっそくわが家へ向かう。
わが家に着くと美穂と里穂が冷麺を作ってくれていた。里穂も美穂と同様に良く身体が動いて何でもこなせる小学生だ。優太君を迎えてのお昼ご飯だ。
「スープは里穂の特製だよ。」冷麺をすすりながら美穂が言う。
「うん!美味しいよ!里穂!」「里穂ちゃん良い味だよ。」「うん!美味しい!」皆から褒められて嬉しそうに麺をほおばる里穂が皆可愛くて仕方がないようだ。
食事を終えるとティータイムだ。皆とのお喋りの時間がすごく楽しくて仕方がない里穂。今まで一人でポツンと過ごしていたからだろうか、このお喋りが里穂の明るさの原動力になっているようだ。
そうこうしている間に美穂の出発の時間だ。里穂は台所仕事があるとのことでお留守番、遥香さんはそんな里穂の手伝いをすることになった。優太君はヴァイオリンの練習に励むようだ。
こうして思い思いの日曜日を過ごすのだった。
ある日の放課後、美穂と優太君は待ってくれている里穂を迎えに音楽室へ向かった。しかし、何時ものようにピアノの音が聴こえてこない。「どうしたんだろう?」「先に帰ったのかな?」二人でそう思いながら音楽室に入るとピアノの前で俯いて座っている里穂がいた。
「里穂!どうしたの?具合でも悪いの?」慌てて駆け寄る美穂と優太君。
「ううん。大丈夫。だけど・・・これ。」里穂は隠すように持っていた1通の封筒を美穂に渡した。
「どうしたらいいか分からないの。」ぽつりと呟く里穂。
そんな里穂の手から手紙をもらう美穂。「読んでも良い?」そう言いながら優太君を見る。優太君も頷く。
二人で手紙に目を遣る。それは里穂宛のラブレターだった。
内容は、“里穂が転校することが残念で悔しい。もっともっと声を掛けて仲良くなろうと思っていたのに。いつも一人でいる里穂が心配でずっと見つめていた。転校してからも友達でいたいから文通してください。”というものだった。
「わたし、転校するって皆に言っちゃったから・・・。」そう言って下を向く里穂。美穂と優太君は顔を見合わせた。
「里穂ちゃんは手紙をくれた彼のことどう思っているの?」優太くんが里穂に優しく尋ねた。
「うん。何時も話しかけてくれる優しい子。だから・・・。」か細い声で里穂が答える。
「里穂。好きな気持ちがあれば素直に“ありがとう!好きです!”ってご返事しましょうね。彼も勇気を出してお手紙をくれたんだから、里穂もその気持ちに答えないと。ね、そうでしょ?」そう言って座っている里穂を後ろから抱きしめる美穂。里穂は嬉しかった。今までこんな接し方をされたことが無かったからだ。
「里穂ちゃん。今度のホームルームで転校が無くなったことを先生に話してもらおうよ。今からお願いに行こう!」優太君の提案に美穂も賛成だった。「さあ!里穂!行くわよ!」美穂は里穂の手を取り立ち上がらせた。「うん。ありがとうお姉ちゃん、優太お兄ちゃん。」
3人で職員室に向かう。「失礼します!」そう言って里穂の担任の小林先生の元へ。
「小林先生。お願いがあります。明日のホームルームで私の転校が無くなったことをクラスの皆に話をさせてください。」里穂は自分の口からはっきりとお願いした。美穂と優太君は少し離れて里穂を見守ってくれていた。
「あら、良かったわ。先ほど、そのお話をお母さまと信子さんから聞いたの。これからも信子さんと美穂ちゃんのお宅でお世話になるって。だから明日のホームルームでクラスの皆に報告しようと思っていたのよ。先生が報告するから、里穂ちゃん、改めて皆にご挨拶出来るかな?」
小林先生は嬉しそうに里穂に話してくれた。
「はい!」既に明るい里穂に戻っていた。顔を見合わせて微笑む美穂と優太君だった。“2人の里穂のママ、ありがとう!”
家へ戻ると更なるサプライズが待っていた。
「里穂!名字が変わったのよ。本当にママの子になってくれてありがとう!」信子はそう言って里穂を抱きしめた。そして「良かった!良かった!」と喜ぶ美穂も一緒に抱き締めた。3人とも嬉し涙を流して喜び合っていた。
翌日の里穂のクラスのホームルームで里穂の転校が無くなったこと、そして名字が変わったことが小林先生から報告された。その瞬間立ち上がって「やったあーっ!」と叫んだ子が居た。そう!里穂にラブレターをくれた男の子だ。満面の笑みを浮かべて周りの皆と喜び合っている。感極まって泣き出す里穂。これからまたずっとクラスのみんなと一緒に居られる嬉しさと自分の事をあんなに喜んでくれる男の子の気持ちが嬉しかった。
「放課後、音楽室に来て!」思い切って初めて自分から男の子に声を掛けた里穂。
「うん。里穂ちゃん。」男の子はそう言ってランドセルに教科書を詰め込んでいたが心なしかその手が震えていた。
放課後の掃除が終わると里穂は何時も通り音楽室へ向かった。そしてその後を男の子が追う。里穂はピアノの前に立ち男の子を迎えた。
「健くん、昨日はお手紙ありがとう。とても嬉しかった。今までこんなに人から思われることが無かったから。だからそんな優しい健君のことが好きです。これからも仲良くお付き合いをさせてください。お願いします。」そう言って右手を差し出した。
「わあ!ほ、ホントに!僕も嬉しいよ!こちらこそよろしく!里穂ちゃん!」そう言って里穂の右手を握り力強く握手をした。
二人で並んで座り、改めて自己紹介をする。男の子の名前は“健”くん。市内のサッカークラブに所属するサッカー少年だ。そして住所を聞いてびっくり。優太君と同じマンションに住んでいるとのことだ。
「優太お兄ちゃんと同じマンションなんだね。」そう言った里穂に健君も驚く。
「優太お兄さんってあの?いつもお姉さんたちに待ち伏せされている?」そう言って笑う健君。
「そう。だから平日はうちから学校に通っているの。でも美穂お姉ちゃんと仲良しだから反って嬉しいみたい。」そう言って里穂も笑う。
好きな趣味や特技、将来の夢などを仲良く話し合う二人。
「里穂ちゃん。何か弾いて。」そうリクエストする健君。
「うん!」そう言って里穂がピアノの前に座る。
ピアノから「エリーゼのために」が流れ始める。いつの間にマスターしたのだろうか。確かに短めでムードがあるのはイージーリスニングだが、それにしても上手すぎる。健君のために心を込めて弾く里穂。だからこそ素晴らしい演奏が出来るのだろう。
音楽室の外でそっと様子を見ていた美穂と優太君も驚きを隠せなかった。「里穂ちゃんってこんなに上手だっけ?」優太君が小声で美穂の耳元で囁く。「わからない。なぜ何時もと曲調が違うの?」美穂も里穂が上手く弾けている理由が分からなかった。
その日、うちに帰って信子にそのことを話す美穂。
「うふふ、好きな人が出来ると曲調に現れるものなのよ。美穂だって優太君とお付き合いをし始めた時から直ぐに曲調が変わったわ。女の子の特典かもね。」そう言って優しい目で美穂と里穂を見つめた。
今日は楽器メーカーのCM撮影の打ち合わせの日だ。皆初めてのことで興奮してあまり良く眠れなかったのだろうか、何時もより早起きだ。
4人揃っての朝ごはんは意外なことに久しぶりだ。今日は美穂と里穂がフレンチトーストを作ってくれた。食卓には遥香さんを含めた5人分のお皿が用意されている。
信子の車と同じ音がした。「遥香さんだ!」耳の良い美穂がそう言って玄関まで小走りで向かう。私もそれに続いた。駐車場に遥香さんの車を停めるためだ。信子の車はスペースギリギリまで下げて止めてある。小さな2台なら縦に並んでぎりぎり収まるのだ。さすがに初心者には・・・と思っていたが遥香さんはやってみるという。
私の誘導に従いゆっくりとバックしてくる。なかなか上手だ。ギリギリのところで合図して車を停める。「今停まっているところのミラーと生垣の位置を覚えていてね。」運転席から出ようとする遥香さんにリボンを手にした美穂が近づき遥香さんにミラーと重なるところを教えてもらう。なるほど、リボンを目印にするのか!
遥香さんも加わり5人での朝食の始まりだ。遥香さんはすっかりわが家に馴染んでくれて、まるで3姉妹のようだ。女の子が3人いると中々にぎやかだ。さっそく、初めてボーイフレンドが出来た里穂の話題で盛り上がっていた。それに一番飛びついていたのは遥香さんだ。これほど可愛い女子高校生がなぜ?と話題はそちらに移って行った。「遥香さんの学園って幼稚園から大学まで一貫した女子専門教育だからかしら。」信子が言うには幼稚園も女子だけだという。
「でも、学園の外は?外歩いていたら絶対声を掛けられると思うけど?」美穂が不思議そうに言う。
「いや、遥香さんの周りには常に大勢の友達がいる。そうなると中々声もかけられない。男の子ってそういうものなんだよ。」唯一の男子である私の話に妙に納得する4人の女子たち。私は続けた。
「ママに初めて声を掛けたのも一人で帰っている時だった。」
「うん、そう言えば優太君に手紙を渡されたのも放課後の皆が帰った教室だったなあ。里穂も誰も居ない音楽室で、だよね。」美穂がそう言うとぽっと顔を紅くして恥じらう里穂。わが娘ながらなんて可愛いんだ!と思ってしまう。
「そういうことを考えると遥香さん!一人であの賑やかな学園通り商店街を歩いてみたら?」美穂が真剣な表情で遥香さんに提案する。
「えっ!美穂お姉ちゃん!商店街、大騒ぎになっちゃうよ!」里穂が驚いたように話す。
「もうっ!やだ!2人とも!」今度頬を赤く染めたのは遥香さんだった。
賑やかに朝食をとっていると出発予定時間が近づいていることに気付く一同。「わあーっ!たいへん!」と一目散にお出かけの準備だ。その間に私と遥香さんは食器洗いをする。最初はぎこちなかった遥香さんだが今ではすっかり主婦並みの皿捌き?だ。「良い奥さんになれるよ。」冗談交じりでそう言うと「やだ!おじさままで!」と言い俯いて頬を染めた。その横顔はアイドルのように可愛らしかった。
全員の準備が終わりいよいよ出発だ。楽器メーカーさんの本社は私の勤め先の近くだ。土曜日ということもあり比較的道路は空いている。週休2日が定着してきたせいだろうか。
大きなビルの地下駐車場にワゴン車を停める。そしてエレベーターホール手前にある内線電話から広報室の早紀さんという担当の女性に電話を入れる。初めて見る内線電話に興味津々の美穂と里穂だ。内線番号が書かれたプレートに釘付けだ。「いろんな部署があるだろう?」通話を終えた私が2人に話しかけていると女性が2人降りてきた。一人は優香さんだ。もう一人は早紀さんなのだろうか。
「優香さん、こんにちは!」3人が揃って挨拶をする。
「まあ!皆さまお揃いで!こんにちわ、こちらは広報室の早紀さん。」そう言って早紀さんを紹介してくれた。初めましてのご挨拶を交わしてエレベーターに乗り込む。一度1階でエレベーターを乗り換えるという。不思議そうな美穂と里穂。1階でエレベーターを降りた2人の目に飛び込んできたのは広く明るいエントランスとエレガントなグランドピアノだ。これには遥香さんも見とれてしまうくらいの優雅さだ。「うふっ、やはりそこに目が行くわね。」そう言って信子が微笑む。「後で弾かせていただきましょうね。」優香さんの一言で小躍りして喜ぶ3人。
エレベーターを乗り換えて高層階へ。そして会議室へ通された。木目で統一された広い会議室だ。上座から私、信子、遥香さん、美穂、里穂の順に座る。反対側の席は3つ空けて早紀さんと優香さんが並んで座る。
「失礼します。」そう言って男性が3人会議室に入ってきた。
上座から、プロデューサーさん、ディレクターさん、撮影監督さんのお三方だ。
背広姿の私がお三方の方へ出向き自己紹介をして名刺交換をする。
ようやく3人とも私が背広を着ている意味が分かったようだ。ビジネスマンの1シーンに過ぎないが、私の仕事ぶりを垣間見てくれると嬉しい。
早紀さんが進行を務める。最初にお三方を紹介、そして私たち5人を紹介する。お三方はとても気さくな方たちで3人の緊張も次第にほぐれて行った。話の中心は意外なことに信子だった。信子の子育てと教育方針に興味があるようだ。3人の娘たちは見た通りなのだがどのようにして育ってきたかに興味があるようだ。
一通りの雑談が終わるといよいよ本題に入っていく。
早紀さんから新商品のピアノの説明があり、優香さんから販売に当たっての“押し”のポイントの説明があった。難しい話ながら何とか皆さんの意図することを理解しようとする3人の娘たち。
続いて撮影監督さんから作成するCMについて、“絵コンテ”と呼ばれるものをスクリーンに映し出しての説明が行われた。それによると2台並んだ純白のグランドピアノを弾きながら2人が歌うというものだ。
歌は「ピアノは友だち」というオリジナルの楽曲だと言う。そして2人が着る衣装は真っ白な天使の衣装だ。ラフながらも愛らしいデッサンがスクリーンに映し出される。息を飲む2人。「すごーく可愛い!」里穂が思わず声を上げる。その里穂の表情を撮影監督さんは見逃さなかった。
直ぐにお三方での話し合いが始まった。お三方とも笑みを浮かべて頷かれている。私たちには何を話して、そして何に納得されているのかが分からなかった。そして撮影監督さんは早紀さんと優香さんに何かを告げた。「わあーっ!」2人の顔が緩んだ。
「撮影内容を大幅に変更します。設定を変えます。姉妹ではなく3姉妹とします。里穂ちゃん、よろしくね。」早紀さんの言葉に驚く里穂。それを祝福する遥香さんと美穂。同時に拍手が起こった。
早速CMのテーマ曲「ピアノは友だち」の歌詞が入った譜面が配られた。私以外の4人は食い入るように読み込んでいく。
「優香さん、さびの部分に音符が書かれていない五線譜の行がありますけど、これって?」真っ先に楽譜を読み終えた美穂が質問する。
「美穂ちゃん、美穂ちゃんの思っている通りよ。そこは2コーラスにしたくなるんじゃあないかと思ってね。」そう答える優香さん。
「そういうことだったんですね。誤植かと思って気になっていたんです。」早紀さんは謎が解けた!という感じでうんうんと首を縦に振った。早速デモテープを皆で聴く。アップテンポ気味の愛らしい曲だ。すぐさま美穂が空白の五線譜部分に音符を書き込んでいく。
これにはお三方と早紀さんはびっくりされていた。小学生でピアノが上手いだけでなく編曲までさらさらとやってのけるとは!4人の目は美穂の右手に注目させられていた。その間に遥香さんと里穂はメロディーを口ずさんでいた。
「まあ!里穂ったらいつの間に楽譜が読めるようになったの!」信子の喜ぶ声が会議室に響いた。
「ねっ!言った通りでしょ。」優香さんが早紀さんに自慢げに言った。
美穂は遥香さんと里穂の譜面とにそれぞれ音符を書き込んでいく。
それを確認する2人。
「遥香さんは高音部、里穂はガイドメロディーそのままで、低音部は私が歌うわ。」これに頷く2人。早速「ピアノは友だち」を歌ってみる。3人の綺麗な歌声に驚く皆さん方。
「おい!3人に歌ってもらった方が良いんじゃあないか!」
さびのコーラス部分も最高の出来栄えだ。皆さん大満足のようだ。
「ここは3人で1台のピアノを弾いてみましょうか?」美穂の提案が二つ返事で採用された。
次は、衣装を作るにあたっての採寸が行われる。衣装担当のADの2人の女性が一人ずつ採寸をしていく。その合間にも美穂のピアノ用の編曲は続く。唖然として見守るお三方。「美穂ちゃんって音楽の塊だな!」プロデューサーさんのひとり言に思わず頷く他のお2人だった。採寸が終わり一休憩となった。が、美穂の手は止まらない。当たり前の光景だと言わんばかりの私たち。遠慮なくお茶を頂く。「!」美味しい!
「宇治のお煎茶ですね。」信子が嬉しそうにいただく。
「ほう!お茶のお味がお分かりですか。嬉しい限りです。」プロデューサーさんが信子に話しかける。お互いにお茶が好きなことで話が弾んだ。プロデューサーさんは京都のお茶問屋のご出身とのことで宇治茶にはお詳しかった。そして話は意外な方向へ。
「実は早紀ちゃんも京都生まれなんですよ。お父さまは大手芸能プロダクションの副社長さんで・・・。」そうプロデューサーさんが話している最中だった。
「ちょっと!待ってください!その方でしたら先日お会いしました!」遥香さんは立ち上がってその名刺を取り出してプロデューサーさんに見てもらった。
「おお!副社長の名刺だ!」驚くプロデューサーさんの手元に顔を近づけるディレクターさんと撮影監督さん、それに早紀さんと優香さんも加わる。「本当だ!初めて見る!」皆驚きを隠せないようだ。
「もうっ!パパったら!私にはくれないのに!」拗ねたような早紀さんをまあまあとなだめる優香さん。
皆さんの話によると、副社長さんは滅多に名刺を渡さないことで有名なようで、そんな副社長の名刺を持つ遥香さんに視線が集中していた。
「じ、実は先日、音大の学校長さんにお昼ご飯をごちそうになって・・・。」話し出す遥香さん。
「あら、珍しい。学校長さんが女性をお食事に誘うなんて。」今度は優香さんが拗ねてしまったようだ。お返しとばかり早紀さんがまあまあとなだめる。
「その席でお声を掛けていただいたんです。」淡々と話す遥香さん。
「学校長さん行きつけの会員制のお店ね。でも、良く入れたわね。」そう言って首を傾げる信子。お三方もそのお店はご存じで一度は行ってみたい名店だと口をそろえて話していた。
「実は、私、父と母とそのお店で何度か食事をしたことが・・・。」遠慮がちに話を続ける遥香さん。
「それでお店の方も覚えていてくださったのね。さすが一流店のおもてなしね。」信子の言葉に一同が頷いた。
「それで遥香さんはどうするの?プロダクションに入るの?」優香さんが心配そうに尋ねる。
「いいえ。今は音大の入学選考で頭がいっぱいなんです。」はっきりと答える遥香さんだった。そんな中、美穂が楽譜を描き終えた。
「美穂ちゃん、コピーしようか?」優香さんが声を掛けてくれた。
「ありがとうございます。1部だけお願いします。」そう言う美穂に怪訝そうな優香さん。「私、もう覚えちゃったんで。」明るく笑う美穂に驚く皆さん方だった。
「良い?里穂、ここはこう弾くの。」コピーを待つ間里穂に教える美穂。そしてそれを後ろから覗き込む遥香さん。その3人娘の構図がポスターの構図のヒントとなった。
全員でエントランスの広場にあるピアノの元へ。3人が里穂を中心にして座る。美穂の合図で各パートを奏でていく。その音に釣られて多くの人が足を止め、ピアノの周りに寄って来てくれた。黒山の人だかりに驚くお三方。立ったままで「ピアノは友だち」のピアノバージョンを初めて聴く。
「良い曲ね。」「何て曲だろう?」観客の皆さんの反応も上々だった。しかも3人の連弾で3パートの演奏だ。「何だかオーケストラみたい。」感激する早紀さん。演奏が終わるとエントランス内に響き渡るほどの拍手を頂いた。満足そうに笑みを浮かべる3人娘だった。
打ち合わせから1週間後の土曜日、いよいよCM撮影の日だ。
何時もの様に朝食の準備をしながら遥香さんを待つ。
わが家の2人はどうも落ち着かないようだ。
車の音がした。遥香さんの到着だ。
何時もと変わらない朝食の風景だが何だか3人娘は落ち着きがない。
「ピアノの発表会だと思いなさい。何時もの3人で良いんだからね。そのまま撮って貰えばいいんだから。プロの皆さんだから大丈夫、心配はいらないよ。」私はそう言って何とか落ち着かせようとした。
「うふふ。可愛いお洋服を着て、何時ものようにピアノを弾くだけですよ。何にも普段と変わらないわ。何時も通りでいきましょうね。」信子も3人娘に優しく声を掛ける。すると3人に笑顔が戻り、何時もの他愛のないお喋りが始まった。
家を出てしばらく走ると撮影スタジオに到着する。多くの車や作業者、発電車、何とキッチンカーまで居る。興味津々の3人娘は白地にピンクと青の縦縞の入ったキッチンカーに釘付けだ。「お昼に食べてみようか?」「うん!」
倉庫のような大きなスタジオだ。開いている入り口から先日採寸をしてくれたADのお姉さんが出てきて案内してくれた。広いスタジオには照明が明々と灯され純白のグランドピアノが3台並べられていた。
クレーンカメラも用意され撮影は本格的なもののように思えた。
50人位のスタッフさんたちが走り回り撮影の準備が着々と進められているように見えた。
大きなスタジオの中にはいくつかの部屋がありその一部屋がプロデューサーさんを始めとするお三方の部屋となっていた。直ぐに優香さんと早紀さんが来てくれてお三方の部屋に案内してくれた。
「おはようございます!今日はよろしくお願いします。」プロデューサーさんを始め皆さんにご挨拶をする。皆さん笑顔で迎えてくださった。3人娘は早紀さんに連れられて化粧室へ。3人娘の背中を一人ずつポンと押す信子。信子と私は優香さんに連れられてスタジオに。そこで大きな声でスタッフの皆さんにご挨拶をする。スタッフの皆さんからも大きな声で挨拶が帰ってきた。気持ちが良い。そして優香さんと共に用意されたソファーに腰を下ろす。
「本当は、音源は別に録音するつもりだったみたいだけど、どうやらここでの音を使うそうです。打ち合わせの時の3人の演奏が素晴らしかったと皆さんが言われてこちらでの音を使うそうです。」優香さんが説明してくれた。カメラさん、音声さん、照明さんから次々に助監督さんに準備完了の連絡が入る。後は3姉妹の登場を待つだけだ。皆さん本番に備えての待機だ。
「お嬢さんたちはプロ並みの腕前です。撮る事だけに集中していきましょう!」助監督さんがメガホンでスタッフ全員に声を掛ける。
「おうーっ!」スタッフの皆さんが声を揃えて返事をする。一気に緊張感が高まるのが手に取るように分かる。
「皆、頼んだぞーっ!」そう言いながらお三方の登場だ。再び「おうーっ!」という元気なスタッフさんたちの声が返ってくる。
「3姉妹!入りまーす!」ADのお姉さんの声がスタジオに響く。
早紀さんに連れられて3姉妹が登場する、と同時に「おおおーっ!」という声があちらこちらから上がった。女性スタッフの皆さんは「きゃあーっ!かわいいーっ!」という黄色い悲鳴が。
純白の天使のコスチュームに身を包んだ3人姉妹。私たちも驚くほどの可愛さだ。本当にうちの娘たちなのか?と疑うほどの愛らしさだ。カメラから見て右側から遥香さん、里穂、美穂と並んで座る。
スタイリストさんたちがスカートの裾や背中の羽根をきちんとセットし直す。メイクさんたちは3人娘のお化粧崩れが無いかと最終チェックだ。
「はーい!おはようございまーす!今日はよろしくお願いしまーす!」助監督さんが3人娘に声を掛ける。「返事はしなくて結構ですよーっ!早速1回弾いてみましょう。はい!カメリハでーす!」そう言って指揮者の様に合図を出す。
3人の演奏が始まる。「えっ?」これって録音?」スタッフの皆さんが驚きの声を上げる。「う、上手過ぎるだろ!」
しかも里穂の演奏は2人のお姉さんに引けを取らない位見事だ。
「里穂ったら、一生懸命練習したのよ。」信子が目を細める。
「それでは本番行きまーす!」その一声で現場に緊張が走る。
助監督の合図で3姉妹の演奏が始まる。一人ずつカメラが設置され、クレーンカメラでの撮影も行われる。3姉妹は何時もの様にピアノを弾く。
「はーい!オーケーでーす!カメラ、音源チェックお願いしまーす!」
お三方と早紀さんを始め各スタッフの代表が大きなモニターを凝視する。4台のカメラの映像を1台のモニターに分割表示しているようだ。併せてヘッドホンでの録音の確認だ。
「よおーし!オーケーだ!素晴らしい!素晴らしい!」撮影監督さんが頭の上で両手を使って丸を作った。
「次は歌を入れます。先ずは一回歌いながら弾いてみましょう」。再度助監督さんの合図で演奏が始まる。序奏が終わる。今度はガイドメロディー無しのカラオケバージョンだ。3姉妹の愛らしい歌声がマイクに吸い込まれていく。思わず聴き惚れてしまうスタッフの皆さん。「アイドルの子だってこんなに綺麗な声は出ないわ!」女性スタッフたちはそう思った。
曲が終わるとリハのチェックだ。3姉妹の声とピアノの音を中心にチェックが勧められる。
「うーん。里穂ちゃんのピアノの音が微妙に弱いなあ。心持ちマイクを寄せて!よし。これでいってみよう!」音響さんはさすがにプロだ。まだ幼い指で演奏する里穂のピアノの音と2人の姉の音とのプロでしか分からないほどの細かな違いを見つけ調整するのだ。
「里穂!気にしないで!これって仕方ないの!プロの皆さんにお任せしましょ!」そう言って里穂を元気づける美穂。
「そうそう!里穂ちゃんはちっとも悪くないんだよ!」音響さんからもフォローが入る。にっこり頷く里穂。現場が思わず和む。
もう一度歌いながらの撮影が行われる。今度はどうだろうか。
「オーケー!オーケー!ちゃんと揃って入っている。里穂ちゃん良いよおーっ!」音響さんからお墨付きの言葉が。気合を入れ直す里穂。いよいよ本番だ。再び緊張感が現場に漂う。
序奏が始まる。そして3姉妹の歌声が響く。音響さんもヘッドホンで聴きながらうん!うん!と頷いている。
歌と演奏が終わると再びカメラと音響のチェックを行う。
その様子を見守る3姉妹。
「よおーし!オーケーだ!すごい!素晴らしいの一言だ!」撮影監督さんが頭の上で両手を使って丸を作った。
「おおおーっ!」スタッフの皆さんの喜びの声が上がる、
「小休憩の後はスチール撮影だ。それまで休憩!」助監督さんの一声で現場が和む。ADのお姉さんたちが冷たいドリンクを3姉妹に持ってきてくれた。すでにそれぞれの好みのドリンクが用意されていて“遥香さま”“美穂さま”“里穂さま”と書かれている。冷たいドリンクを頂いている間にもメイクさんがうっすら汗ばんでいる3姉妹のお化粧直しを行なう。同時にスタイリストさんによる衣装の乱れもチェックされる。
「おはようございます!」スチール撮影を担当するカメラマンさんだ。3姉妹の傍に居た早紀さんが3人を紹介する。
「また会いましたね。美穂ちゃん、里穂ちゃん。そして初めまして遥香さん。」少し強面だが優しいカメラマンさんだ。
「あーっ!この間の!」2人で挨拶しようとすると周りのスタッフに止められた。「ははは。動いちゃダメ。喋ってもダメ。メイクや衣装が乱れるからね。3人とも今日はよろしくね。」そう言ってお三方の元へ。
漏れてくる話を聞くと、撮影が予想以上にすんなりと終わったそうで、逆にカメラマンさんが焦っているようだ。助手の皆さんがせっせと準備を進めている。お三方とカメラマンさんはスチールの絵コンテを確認しながら話をしているようだ。
「じゃあスチール始めてください。」助監督さんがカメラマンさんに声を掛ける。
「最初はピアノのシーンからだね。」確認するかのようにひとり言を言いながらピアノの前に座ってスタンバイしている3姉妹の元へ。
「取り敢えず何か好きな曲を3人で弾いてみて。表情は微笑む感じかな。」そう言って撮影に入る。美穂の掛け声で演奏が始まる。
「トルコ行進曲」だ。3姉妹揃っての見事な3連弾の演奏にスタッフの皆さんから驚愕する声が上がる。「可愛いだけじゃない!上手い!上手すぎる!」そんな声があちらこちらから聞こえてくる。お三方も3姉妹の演奏に圧倒されているようだ。そんな3姉妹の表情をカメラマンさんがカメラに収めていく。
「高速のところ、里穂ちゃん大丈夫かしら。」優香さんが心配している。先ずは遥香さんが独奏で、次に美穂が、そして再び遥香さんに。「里穂ちゃん!いくよ!」遥香さんが里穂に声を掛ける。遥香さんの演奏を引き継いで里穂の高速演奏が始まる。
「すごい!まだ3年生なのに!」優香さんが思わず立ち上がる。
スタッフの皆さんも同様に立ち上がり里穂を見守る。
「大丈夫。里穂は練習の虫。出来るまで決して諦めない子よ。」そう言ってじっと里穂を見つめる信子。3人から色々なことを学んでいるのだろう。普通の3年生ではない。素人の私にも容易に理解できた。それ程里穂の上達ぶりは目を見張るものがあった。
曲が無事に終わるとスタジオのあちらこちらから拍手が起こる。
今度は別のセットでの撮影だ。移動をする天使姿の3姉妹が可愛い。
次のセットでは再びドリンクで水分補給。そして小休憩だ。
メイクと衣装を直して3姉妹揃ってのカットを取っていく。何だかんだでカメラマンさんの要望にしっかりと答えていく3姉妹。他のスタッフさんたちはそんな撮影の様子を遠巻きながらニコニコと見守っていた。
3人での撮影が終わると1人ずつの撮影だ。最初は里穂からだ。
「里穂ちゃん!この間みたいに顔を決めて!」そう言いながら里穂を取りまくるカメラマンさん。里穂は自由にポーズを決めていく。
「里穂ちゃん、何であんなことが出来るの!」驚く遥香さん。美穂も同じだった。一番年下の里穂が意外な才能を発揮しているのだ。これにはスタッフさんたちも感心していた。
あっという間に里穂の撮影が終わった。
「ねえ、お姉さん2人にはポーズを指示してあげて。絵コンテ通りに。」そう言ってカメラマンさんにお願いする早紀さん。
「オーケー!」乗りまくっているカメラマンさん。美穂にポーズを教えながらの撮影だ。それにしても3人の天使姿は余りにも可愛すぎた。「早紀ちゃん!この企画、絶対イケる!」そう言いながらあっという間に美穂の撮影も終わった。最後は遥香さんだ。「遥香さん!君って本当に高校生?可愛すぎるんだけど!」そう言われてはにかむ遥香さんの表情をあっという間にカメラに収めていく。ポーズを変えながらいろんな遥香さんの表情を引き出していく。既に撮影が終わった美穂と里穂はスタッフさんたちに囲まれて記念撮影に応じていた。「目を閉じて、キスする顔を見せて。うん。そうそう。やっぱりお姉さんだね。一番色っぽいよ。」そう言われて頬を染める遥香さん。こうして3姉妹のスチール撮影は無事終了した。
「ありがとうございました。」カメラマンさんにお礼を言って2人の元へ駆けていく遥香さんの後姿までしっかりカメラに収めるカメラマンさんだった。遠くからくつろいで笑っている素の3人の表情を捕えていく。このカットがポスターの出来栄えを素晴らしいものとする。
「カメラマンさーん!一緒に撮ってください!」3人で声を揃えてカメラマンさんを呼ぶ。少し照れたように写真に収まるカメラマンさん。「セ、先生の写真撮るの初めてです!」アシスタントの男性が手を震わせながらシャッターを切る。
「おい!手ブレしてたら承知しないからな。」そう言って笑うカメラマンさんだった。こうして和やかなうちにすべての撮影が終了した。
プロデューさんを中心に皆さんで3本締めだ。もちろん3人は初めてのことだ。それでも皆さんに合わせて見事にやり切った。不思議な一体感に包まれる瞬間だった。皆で力を合わせてCMを作る。3人にとってはかけがえのない経験になったようだ。
着替えも終わり化粧も落とした3人が戻って来た。
「よーし!お昼にしよう!そして食ったら解散だあ!」撮影監督さんの掛け声と共にお弁当が配られる。
「お嬢さんたちはキッチンカーで好きなものを頼んでおいで。」プロデューサーさんはそう言ってキッチンカーを指を差して勧めてくれた。
「わあーっ!ありがとうございます!」そう言って手を繋いでキッチンカーへ向かう3人。
「本当に仲が良いなあ。」そう言って3人を目で追うスタッフさんたちだった。
大きなテーブルが並び皆で仲良く食べる。人数が多いのでテーブルを使えない人はゼットの淵などに腰を下ろしお弁当を頂いていた。
信子と私もお弁当を頂く。かなりボリュームのあるお弁当だ。それをモリモリ食べる信子に驚くプロデューサーさん。「奥様はお仕事をされているのですか?」信子に尋ねた。
「はい。体力勝負のところもありますので。」笑みを浮かべる信子。
「失礼ですが、看護か介護のお仕事ですか?」プロデューサーさんの問いかけの答える信子。
「いえいえ。ピアニストです。」お弁当のおかずを箸で摘まみながら答える信子。驚く周りの皆さん。「どうりで3人とも上手い訳だ!」
皆がそう思った。
「フリーで活動されているのですか?」今度はディレクターさんが尋ねてきた。
「いえ、音大の楽団員としてピアノを弾いています。」そう答える信子。皆さんに再び衝撃が走る!
「ひょ、ひょっとしてあの“信子さん”ですか?」ADのお姉さんの一人が確認するように信子に話しかける。
「やだ、大げさすぎます。はい、そうです。」信子の返事に驚きを隠せない。
「それで心してかかれ!」とおっしゃったんですね、プロデューサーさん。」音響の責任者が思わず叫んだ。「ただ可愛いだけの女の子たちではないと。」
「うふふ。音響さん、私たちピアニストの音を録音していただきありがとうございます。有名な方々ばかりお揃いなので全てお任せして娘たちをお預け出来ました。本当にありがとうございました。」信子の言葉に頭を下げて喜んでくださる皆さんだった。
そろそろ3姉妹が戻ってくるかな。
次の週の土曜日は音楽隊のポスターに使用する写真を選ぶ日だ。
途中で優太君と優太ママを迎えにいって千夏さんの待つ音楽隊本部へ向かう。皆、写真の出来上がりを楽しみにしている。
駐車場の入り口で敬礼をして隊員さんが案内してくださった。車が大きいため一般の車とは別の駐車スペースに停めるよう教えてくださった。正面玄関から入り受付で待つ。
「こんにちは!先日はどーもー!」そう言って現れた千夏さん。入館バッチを人数分持ってきてくれた。
早速会義室へ案内される。広い室内の中央には机が数台並べられており、その上には撮影した夥しい数の写真が並べられていた。
制服姿の中年の男性が挨拶してくださった。広報部長さんだ。そして数名の広報部の女性たちも紹介していただいた。
最初にポスターの絵コンテが数枚貼ってある掲示板に案内された。
絵コンテの数は3件、それぞれに合うと思う写真の番号を渡された用紙に記入していくのだ。早速、私たちも用紙を持って写真を見て回ることにした。さすがにプロの撮影だ。二人の表情が見事に撮られている。これはなかなか難しいぞ!皆もそう思ったようだ。
里穂に至っては何を選べばよいのか分らないようなので、信子と私の3人で見て回ることにした。「これ良いな!と思った写真の番号を書いていこうよ。」里穂にそう言うと「うん!わかった!」と元気よく笑ってくれた。二人も真剣な表情で自分たちの写真をじっくり見て選んでいた。里穂は二人が並んで立って敬礼している写真が気に入ったようだ。私は二人がトランペットを持って明るく笑っている写真を選んだ。信子はホルンを手にした写真を選んでいた。ホルンの丸い形が二人の優しさを表現していると言っていた。
やっと1枚目の選択が終わると2枚目の絵コンテに合う写真を探す。
里穂は選び方のコツを理解したようで、すうーっと写真を見て回り一枚の写真の前で立ち止まった。「里穂ちゃん。良いの、見つかった?」千夏さんの問いかけに「うん!」と頷いた。それは二人が右斜め上を見ている写真だった。「目線の先に“音楽隊員募集”のロゴがあった。「見た人が二人の見ている先に目を遣ると思うの。そこにこの文字があるからこれが良いのかなって。」そう千夏さんに説明する里穂。
「なるほど!里穂ちゃんはそう考えて選んでくれているのね。」千夏さんはそう言って里穂を褒めてくれた。「おっ!里穂ちゃんは良く知っているねえ。」と近くで2人のやり取りを聞いていた広報部長さんも里穂を褒めてくれた。なるほど、確かに私も大学のマーケティングの授業で聞いた覚えがある。里穂はなぜ知っているのか、いや自然に思い付いたのかもしれない。それにしてもこの先の里穂の成長が楽しみだ。さっそく信子にこの話をすると「まあっ!」と喜んでいた。
こうして私たちが選んだ写真も踏まえて最終選考を行うという。
「質問しても良いですか?」里穂が千夏さんに尋ねた。
「うん。良いわよ。」千夏さんがにこにこ顔で里穂を見つめる。
「ポスターの右下にある白くて丸いぼかしのようなものは何ですか?」里穂の質問に一同が驚いた。誰も気に留めていなかったからだ。二人は言われて気付いたようだ。信子も私も気づいてはいたがあまり気にも留めなかった。確かに!何故だろう?
「まあ!里穂ちゃん!良く気付いたわね。そこはね“許可印”を押すスペースなのよ。丸い円の中に“許可”“日付”“広報部”の文字が入っているスタンプ印を押すためのスペースなの。」そう丁寧に説明してくれた。里穂は理由が分かりにっこりと頷いた。
初めて尽くしの6月も終わりいよいよ7月だ。
今日は老人ホームでの公演会だ。今日の演目のトリで里穂をデビューさせようと皆で楽曲選びをして練習をしていた。里穂はあっけらかんとしていて緊張など微塵もない。3人はそれが何処から来る自身なのかと不思議に思っていた。
公演は先月に続いて歌唱を中心に行うこととしていた。
恒例となったオープニング曲「リンゴの唄」のピアノ演奏が始まると大勢の観客の皆さんから「わあーっ!」と声援と拍手が起こる。
美穂が相変わらずのオープニングの司会を展開する。優太君と遥香さんを紹介する。登場した遥香さんが一瞬固まった。美穂はそれを逃さなかった。「遥香お姉さん!今日の新曲のことで緊張してますね。」と言って遥香さんの緊張をほぐそうとする美穂。「わあーっ!」と会場が湧く。殆どの皆さんは見事な歌を披露した前回の遥香さんを知っているからだ。そして遥香さんは何時もの遥香さんに戻っていた。それでも美穂は遥香さんの微妙な反応が気になっていた。会場を見渡すとホームの入居者の皆さん、学園のファンクラブの皆さん、ご近所の皆さん方、そしていつもより3,4人ほど多い音楽療法士の方々、最前列にはお母さまと並んで座る学校長さんといった大勢の方々に来場いただいていた。
最初の歌は「旅の夜風」、こちらも定番となっていた曲だ。前回のピアノ演奏から優太君の歌唱になったのだがさらに今回から遥香さんとのデュエットとした。渋めの優太君の声と遥香さんのソプラノ。これには入居者の皆さんから拍手が起こる。学校長さんは大喜びされるお母さまの顔を驚いたように見つめている。皆さんオリジナル曲を何度も耳にされているからだろうか。
3曲目はそのまま、2人のデュエットで「夕陽の丘」だ。懐かしい思い出が蘇るのだろうか、入居者の皆さんはじっと聴き入ってくださった。
4曲目は遥香さんと美穂のコンビによる「恋のフーガ」だ。二人の伸びのある綺麗な声のハーモニーが会場を魅了する。音楽療法士の数人の方がしきりにメモを取っていた。美穂は歌いながら「勉強熱心なおじさまたち」と思った。
5曲目は優太君の「雨の中の二人」だ。この曲は掲示板でのリクエストが最も多かった曲だ。今回も遥香さんと美穂の連弾とコーラスが入る。甘い優太君の歌声が会場に流れていく。
その時、舞台裏では着物姿の里穂がスタンバイしていた。今日は信子に着付けをお願いしていたのだ。里穂はリズムを取りながら3人の歌を楽しんでいた。肝の座った妹分だ。その理由を信子は知っていた。「里穂、お着物に合わせて口紅つけようか?」信子の一言にこくりと頷く。母親に口紅を塗ってもらう娘の喜びに浸る里穂。涙が溢れてくるのをじっと我慢する。自分は幸せ者だとつくづく実感する里穂だった。
6曲目は遥香さんがソロで今流行りの「木綿のハンカチーフ」を歌う。遥香さんの愛らしい声がオリジナル曲を彷彿させる。ファンクラブの皆さんを中心に拍手が起こる。そんな拍手に小さく手を振って応える遥香さん。もう本職の歌手と言ってもいいほどの風格が漂う。
ピアノを演奏しながら何時も通りの遥香さんの姿に安心する美穂。
そしてすっかり遥香さんのファンになってしまった様子の学校長さん。目が少年そのものの輝きを放っているように見えた。
7曲目は美穂が自演で歌う「湖畔の宿」だ。これにはお母さまが大喜び。お母さまだけではない、入居者の皆様も笑顔で声援をしてくださる。最初は一方的に聴くだけだった皆さんだがここのところ、思い思いに声援をくださるようになってきたのだ。これも音楽の力なのだろうか。美穂は歌いながらそう思っていた。
8曲目は再び遥香さんと美穂の「初恋の人」だ。さびの復唱部分が最高の曲だ。美穂が遥香さんの甘い歌声に合わせて歌うという至極の曲だ。
9曲目は連れて来られて退屈そうにしているちびっ子たちへのプレゼント曲「マジンガーZ」だ。前奏を聞いた男の子たちの目が輝く。
手を叩いて小躍りする子もいるほどだ。優太君の力強い歌声が素晴らしい。本当にアニメのオープニングを見ているかのようだ。そんなちびっ子たちの様子に目を細める大人たち。
10曲目、今度は女の子へのサービスだ。美穂の最初の一声「月に代わってお仕置きよ!」に狂喜乱舞する女の子たち。小さい子だけではなかった。学園のファンクラブの皆さんも大喜びだ。美穂の伴奏で遥香さんの愛らしい歌が流れる。うっとりと聴き惚れているファンクラブの面々。小さな女の子たちは遥香さんの歌に合わせて要所要所でポーズを決めていく。沸きに沸く会場。
11曲目は遥香さんが続けて歌う。アニメ交流会で大絶賛された「エースを狙え」だ。大興奮のファンクラブの皆さん。それに後押しされるように会場も盛り上がる。美穂の演奏で曲が始まる。黄色い声援が飛ぶ!遥香さんのあの歌声なら!と会場の期待も高まる。そしてやはり期待通りだった。愛らしく伸びのある遥香さんの声は会場を魅了していく。音楽療法士の面々も驚きを隠せない様子だ。
演奏を終えると美穂が立ち上がりステージ中央へ。何事かと美穂を見つめる会場の皆さん。
「皆さん、実は本日、皆さんに紹介したい子が居ます。私たちの妹で里穂と言います。今日が初めてのお披露目となります。」そう言って3人で里穂を呼ぶ。「里穂ちゃーん!」
その声に合わせるように濃紺の生地に赤、青色のアサガオの花が映える着物を着た里穂が登場する。
「初めまして、里穂と申します。今後ともよろしくお願いいたします。」あまりの落ち着きぶりに会場から驚嘆の声が漏れる。とても小学校3年生とは思えない里穂の立ち姿と洗練されたような大人の挨拶。会場だけでなく、3人もいつもと違う里穂の姿に圧倒されていた。
「それでは、聴いてください。」と言うものの曲名は言わない美穂。
2人の連弾と優太君のヴァイオリンの演奏でイントロが流れる。
「ええええーっ!」会場から驚きの声が起こった。
「おーおさなーごごろにいとしーいひーとーおのおー・・・。」里穂のパンチのある歌声に圧倒される会場内。ポカンと口を開けて驚く人も多く見受けられた。「あなたにあげる」という大人を夢見る少女の、少し意味深な演歌だ。これを見事に歌っていく里穂。間奏部分では優太君のヴァイオリン演奏も加わり熱い声援が飛ぶ。
「里穂ちゃーん!」男の子の大きな声援が投げられた。その子を見て「!」一瞬驚く里穂。しかしすぐに笑顔で手を振って男の子に応える。声の主は“健くん”だった。両親に連れてきてもらったのだろうか、親子3人で里穂に声援を贈ってくれていた。歌いながら何度もお辞儀をする里穂。
まさに立派な演歌歌手だ。伸びとパンチ、こぶしの効いた歌声はあっという間に会場を飲み込んでいく。そんな中、音楽療法士の内の3人が何やら言葉を交わしているのを美穂は見逃さなかった。「あの3人のおじさんたち、音楽療法士さんではないわ。」美穂がそう確信した訳は開演前の控え室にあった。挨拶に来ていただいた音楽療法士さんたちは5人だった。しかし開演では8人に増えていたのだ。これに違和感を覚えていた美穂だったのだ。それに加えての遥香さんの動揺ぶりだ。
エンディングとなった「東京ラブソディー」が流れる中、会場を挨拶しながら回る4人。そして今日の公演は大盛況のうちに終了した。4人で声援に応えながら舞台裏へはけていく。
「皆、お疲れさま。」そう言って信子は一人一人とハグをしていく。4人とも嬉しそうだ。やり切ったという安堵感と今回は里穂の衝撃的なデビューも加わったからだ。
控室へ戻ると優太ママが待っていてくれた。「皆、お疲れ様でした!里穂ちゃん!びっくりしちゃったわよ!」そう言って里穂にハグをしてくれた。里穂は照れたように小さな声で「ありがとうございます。」とお礼を言った。
4人が冷たい飲み物を飲んでいると部屋の外で話し声と笑い声が。
2人は学校長さんとお母さまだ。後はだれ?美穂はそう思って入り口を見遣る。ノックの後入って来られたのは学校長さんとお母さまだ。それに続いて上品な出で立ちの3人のおじさまが。
「あっ!あの3人のおじさまだ!」美穂が思った瞬間遥香さんが「あっ!」と声を上げた。「ふ、副社長さん!」そう言って頭を下げる遥香さん。CM撮影の時に遥香さんが話していた早紀さんのお父様でもある。残りの3人も立ち上がってお辞儀をする。
「いえいえ、堅苦しいご挨拶は抜きですよ。」そう言って話を続ける。
「皆様のことは既にお伺いしております。妙なご縁ですね信子さん。まさか今度はお嬢様方とご縁が持てるとは思っても居ませんでした。」そう話す副社長さん。
「実はね、音大の卒業生の中には副社長さんの会社に所属してお世話になっている人が意外と多いのよ。」そう説明するお母さま。
「はい、いつもお世話になりありがとうございます。でもまさかこちらで前理事長さんと信子さんにお会いできるとは思っても居ませんでした。前理事長さん、ご無沙汰しておりました。」そう話す副社長さん。
「いえいえ、毎年私の誕生日にお花を贈ってくださるのよ。ありがとう。」そう言って副社長さんにお礼を言われるお母さま。
「先日、遥香さんとお昼を頂いていた時に副社長さんがご挨拶にいらして遥香さんに直接名刺を渡されたのを見て驚いたんです。滅多にないこと、私の知る限りでは信ちゃんに続いての2例目なんだよ。」学校長さんが加えて説明してくれた。
「わかりました。それで今日は遥香さんのスカウトに?でも何故ここの場所が分かったのですか?」美穂の鋭い質問に笑顔で答える副社長さん。
「皆さんの実力を是非拝見したいと思いましてね。」そう言って連れのお二方を紹介された。スカウト部長さんと営業部長さんとのことだった。
「実は私がお呼びしたんだよ。」いきなりの私の発言に一同驚く。
「パパ!どういうこと!」美穂と里穂が鋭く突っ込んでくる。
「もう、4人に話しても良いんじゃあない?」信子が口を開いた。
「えっ!ママ!どういうこと!」里穂が信子に問いかける。
全てを悟る美穂。「パパ、遠くへ行っちゃうんだね。」涙をぽろぽろ溢しながら美穂がぽつりと言った。驚く他の面々。
「美穂、里穂。そして優太君と遥香さん。実は10月からニューヨークへ転勤することとなったんだ。期間は未定だ。だから皆のお世話が出来なくなるんだよ。でも、今の活動やお仕事は続けてもらいたい。かといってママに全てを任せるわけにはいかない。だからCM撮影の時に遥香さんが見せてくれた電話番号にかけてみたんだよ。その前に遥香さんのお父様と電話で打ち合わせをしていたんだ。ピアノルームのモデルルームを安く分けていただいて、工事会社もご紹介いただいたお礼もかねて転勤の件をお話ししたんだよ。」黙って俯いて聞き入る4人。
「最初はお父さまの代行を務めさせていただきます。来年の4月から所属契約を結んでいただきわが社に全てをお任せいただきます。そう言う訳で今日は4人全員をスカウトしに参りました。」
「ええっ?」驚く4人。
スカウト部長さんが続ける。「4人とも演奏もそうだけど歌唱力が素晴らしい。特に里穂ちゃん、去年の全国民謡大会の小学生の部で優勝されていますよね。先ほどの歌声ですぐに思い出せました。」
「あと、私からは、美穂さん。編曲もだけど、曲の構成も素晴らしい。最後の里穂ちゃんの演出は見事としか言えない位です。脱帽です。しかも司会もたいへんお上手だ。これと言って欠点はありません。直ぐにでも舞台に立てます。」営業部長さんは顔をほころばせながら美穂の才能を褒めたたえてくれた。
「あと、遥香さんを始め皆さん方、ご不安でしょうが、遥香さんのお父様の会社さんにはわが社の株式を持っていただいております。」副社長さんはそう言って最敬礼された。
「大株主の関係者様に決して失礼なことは出来ません!」
翌週の土曜日。保育園での公演にも副社長さんご一行の姿があった。今回は私服姿での観覧であったが、やはりご近所の若いママさんたちに紛れ込むにはかなり無理があった。
遥香さんと美穂は何時も通りにピアノを弾きそして歌って子供たちの中に入ってお遊戯をしていた。泣いている子が居るとそっと抱き上げてあやしていた。そして、そんな2人の元へ保育士さんが助けに来てくれていた。
遥香さんの童謡は人気があり、主に美穂の演奏で演目は進行していく。「きらきら星」や「犬のおまわりさん」が大人気だ。お遊戯の時は、遥香さんは保育士さんたちに混じって子供たちの輪の中にいた。
老人ホームとは全く違う顔を見せる2人に感心するご一行。遥香さんと美穂の歌声、その上手さに改めて感心するのだった。
そしてその日はすうーっといつの間にか帰って行かれた。
公演が終わり園長先生と主任の保育士さんと10月以降についての話をする。お二人とも驚かれていた。
「10月以降は大手芸能プロダクションに業務をお願いすることにしました。それ以外は何も変わることはありません。マネージャーさんが同行され運転手さんが車を運転する、それだけです。ご安心ください。」そう説明するとほっとした顔を見せてくださった。
「ニューヨークですか。皆さん寂しくなっちゃいますね。」ぽつりと園長さんが呟くように言った。頷く主任保育士さん。
「いえいえ、皆直ぐに慣れると思います。毎日自分のやるべきことを十分理解して実行している子たちですから、私は、あまり心配はしていません。」
2人は黙って私たちの話を聞いていた。
その日の夕食は優太君と優太ママを交えた7名で賑やかになった。
信子と里穂が腕を振るって作ってくれたスペアリブは大人気だった。
この何時も通りの光景が見れるのは9月までだ。しかし私は何時も通り振舞っていた。皆もそれを感じているのだろう、何時も通りに明るく過ごしていた。
食事が終わるとミーティングだ。案件が2つ。“ピアノルーム設置工事”と“夏の高原合宿”の2件だ。
先ずは“ピアノルーム設置工事”の件だ。間取り図を見ながら私が説明する。庭を掘り下げて杭を6×2部屋分打ち込み、砂利を弾いて水はけを良くする。排水路は庭にある排水路に繋ぎ合流させる。
入り口はリビングに設けそこから出入りする。ピアノは分解したものを持ち込み中で組み立てる。この工期は夏休みに合わせて約1か月位で行なう。と、概略を説明した。「遥香さん、お父さんの会社から旧式のモデルルームを譲っていただいたんだよ。だから自分の部屋みたいなものだよ。遠慮なく使ってね。」
次は“夏の高原合宿”だ。最初は庭を掘り下げるなどの外での工事地なるため8月中を予定している。既にロッジは予約済だ。私は毎金曜日にロッジへ出向き、第1、2週目の定期公演と結婚式場の演奏のためにロッジから皆を乗せて送迎をする。ロッジでの演奏会は土曜日夕刻なので特にスケジュール的には問題はない。私の往復時には信子の車を借りる。信子と優太ママの公演時はロッジの最寄り駅まで遥香さんにお願いすることにした。そのために遥香さんには申し訳ないのだが、車で来てもらうことになった。つまり車3台でロッジへ向かうことになる。初めてのロングドライブに大はしゃぎの遥香さんだ。
以上で2案件の概略説明を終えた。
ここで遥香さんから学園高校の夏合宿の話が上がった。
8月1日から6泊7日で学園の合宿施設で行われるという。
地図で調べてみるとロッジと同じ県内でも反対側の方で、初心者の遥香さんの運転では狭い山道はリスクが多すぎると思われた。そこで私と一緒に日曜日に戻って、自宅から出発してもらうことにした。これだと道中も部員の皆さんと一緒に楽しめる。
今のところ結婚式場の仕事は美穂のみで3件頂いていた。いずれも日曜日の午後からだ。特に美穂の日程に無理はない。それに合わせて翌月曜日は有休を使わせていただくことにした。
待ちに待った夏休みが始まった。いよいよ長期に渡る高原合宿だ。それに合わせてピアノルームの工事も始まる。
前日にまとめていた荷物をワゴン車に積み込む。1ケ月と少しとなると荷物も大量だ。やがて遥香さんも車で到着。ガソリンは満タンのようだ。結構気合が入っている遥香さんだ。信子と遥香さんの3人でルートの確認。信子の車を先頭に間に遥香さんの車を挟むようにして走ることにした。信子の車には里穂、遥香さんの車には美穂、私の車には優太君と優太ママがそれぞれ乗り込むことになった。
用意が済むと信子の車を先頭に優太君のマンションへ。里穂は健君に会いたかったようだがあいにくサッカークラブの練習で家には居ないとのことだった。優太君と優太ママを乗せていざ出発だ。
同じ車種の色違いの車が2台、それにロケ車の様な私のワゴン車が連なって走るとかなり目立つようだ。追い抜いていく車の助手席の人が必ずこちらを見ている。連絡はお互いの携帯電話で助手席の人が担当する。どの車も音楽が流れ賑やかだ。やがて高速道路に入る。信子が遥香さんの車を上手く誘導していく。初めての通行券の受け取りもスムーズに行なう遥香さん。合流では前日に打ち合わせた通り一気に加速して本線へ入っていく。2台の車はさすがのハイスペック車で、軽々と加速していく。制限速度で左車線を3台並んで走る。高速道路でも私たちの車列は目立つようで追い越し車線を行く車の視線を感じた。まだ朝ごはんが済んでいないので最初のサービスエリアに立ち寄ることにした。携帯電話で連絡を取り合う。キー局は私の車に居る優太君だ。初めてのサービスエリア、優香さんは全て初めて尽くしだ。幾分朝早いこともあり駐車場は直ぐに停めることが出来た。
日差しが強いので建物の入り口辺りで女性たちを待つことにした。建物に沿ってずらりと屋台が並んでいる。しかし朝早いせいかまだ営業はしていなかった。
程なくして女性たちと合流。建物の中へ入る。中はフードコート形式で好きなものを自由に選べた。場所を確保し、私がお留守番だ。
どうやら二手に分かれているようだ。遥香さん、美穂、里穂の3人組と信子、優太ママ、優太君の3人組とに綺麗に分かれている。
遥香さん組はホットドッグとポテト、オレンジジュースのセット、信子組は冷たいおそばを持って帰ってきた。
入れ替わるように私が店舗へ向かう。「並み1丁!」そう牛丼だ。普段は駅そばが多いため今朝は滅多に食べられない牛丼にしたのだ。
皆、賑やかに好きなものを美味しそうにほおばっている。どうしても近くの席の皆さんの視線を集めてしまう。
そんな賑やかな朝食も終わり、今度は土産物店へ。女性たちはおやつを仕入れるようだ。品数が豊富過ぎてなかなか選べない。女性5人でお土産コーナーをぐるぐる回っている。
優太君と私は衣料品売り場に目を付けて覗きに行った。織物のネクタイなどの地元の名産品が並んでいる。「お義父さん、これなかなか良いですよ。」優太君はそう言ってパナマ帽をかぶって見せてくれた。「“お義父さん”って言ったよな?」一瞬戸惑った。まあ、優太君は美穂の彼氏だし、私も悪い気はしない。しかし、自分の父親には何と言うのだろう?
改めて優太君を見るとよく似合っている。うーん、他の3人にも被せてみたい。私は里穂に手招きをした。「なあに?パパ。」そう言いながらやって来た里穂に優太君を指差した。
「わあーっ!優太お兄ちゃんかっこいいーっ!」里穂はそう言いながら自分もパナマ帽を被ってみた。「どう?」にっこりと微笑んでポーズを決める里穂。
「わあーっ!かわいいーっ!」優太君と一緒に里穂を褒める。するとその声を聞いた遥香さんと美穂がやって来た。「もう!何騒いでるのよ!」そう言う美穂に2人を指差す。
「あっ!2人ともよく似合ってる!」遥香さんが笑う。そんな遥香さんにパナマ帽を被せる美穂。
「わあーっ!遥香さん素敵ですう!」優太君が驚く。余りにも似合い過ぎだ。
美穂も自分で被り私たちの方を向く。「美穂!良く似合ってるよ!4人ともホント、お似合いだよ。」私にそう言われて4人とも嬉しそうだ。そんな騒ぎを聞きつけて信子と優太ママがやって来た。
「まあ!皆、可愛いこと!」手を叩いて喜ぶ2人のママ。
「皆でお揃いにしましょうよ。演奏の時にこれを被れば服は普段着でも行けそうよ。」信子の一声で購入が決まった。
リボンの色は、女の子3人はピンク、2人のママはブラウン、男性2人は紺色となった。
いきなり7個も売れたため売り場のお姉さんは大喜びだ。しかも全員そのまま被っていくという。袋に入れて渡す必要もない。
「そう言えば、さっきひまわりの造花があったよ。」里穂が言う。
「そうだね。それを帽子に飾れば!」優太ママがすぐさまひまわりを探しに行く。皆、その後をぞろぞろとついて行くのだった。
そんな寄り道をしながらロッジのある高原ホテルへ着く。今年も支配人さんたちが笑顔で迎えてくれた。ロッジの鍵を頂き車に乗り込みロッジへ向かう。広い敷地の一番奥だ。車が無ければしんどい距離だ。
1年ぶりのロッジ。わが家に帰ってきた感覚に陥るようだ。遥香さんと里穂は初めてのロッジだ。太い丸太で組まれた壁。そしてその大きさに驚いていた。定員は10名と余裕たっぷりだ。早速、美穂は遥香さんと里穂を連れて探検に向かう。2階には10帖の部屋が5つあり全ての部屋に木製のベッドが2台ずつ備えられている。東側の部屋201号は昨年に続き優太君と優太ママの部屋に決まった。その隣の202号は遥香さんと美穂、更にその隣203号は信子と里穂の、一つ空けて西側の206号の部屋は私の部屋とした。残った205号は楽器などの機材置き場とした。
一通り自分の荷物を片付けてからお昼を食べに出かけることにした。荷物を降ろし身軽になったワゴン車で出かける。昨年も訪れた湖の湖畔に佇む美穂お気に入りの喫茶店だ。マスターと私が同じオーディオシステムを使っているというご縁もある。今回は美穂が疑問に思っていることをマスターに聞いてみると言う。
1年ぶりの再会、しかも2人増えている。それに驚きながらも大喜びのマスター。ウエイトレスの2人のお嬢さんは地元の高校生だと言う。やはり遥香さんを中学生だと思っていたようで「これでも高校3年生です。」という遥香さんのカミングアウトに2人とも驚いていた。仕事の合間に遥香さんと話すうちに同じ音楽部だと分かり益々意気投合する3人。そうこうしている間に私たちがオーダーしたナポリタンとチーズトーストが次々に出来上がる。
思い思いに自分がオーダーしたものを美味しく頂く。去年と変わらぬ美味しさだ。だが、何処かで食べたことがあるような気がして仕方なかった。ナポリタンもチーズトーストも。ふと美穂を見ると美穂も何やら考え込んでいる。そして優太君と何か小声で話している。
「マスター、ちょっと聞いても良いですか?」美穂がマスターに声を掛ける。「はい、良いですよ。今お手空きですから。」にこにこと答えてくれるマスター。美穂の質問が飛び出す。
「マスター、以前このお店と同じナポリタンを食べたことがあります。それはこのお店と同じ、白壁に緑色の窓枠、2階にはグランドピアノが置いてありました。」美穂の言葉に驚くマスター。
「それは横浜の女子学院大の近所のお店ですよね。」マスターの言葉に今度は美穂と優太君が驚く。そう!美咲さんと瞳さん行きつけのあのお世話になった喫茶店だからだ。そのやり取りを聞いていた私も驚いた。系列店か姉妹店なのだろうか?
「すごいなあ!良く分かりましたね。実は横浜の店は私の弟の店なんです。ここは私の両親が開いた喫茶店で、ナポリタンやチーズトーストなどの料理はうちの母の味なんです。それに合わせてこだわりのコーヒーは父の入れ方を引き継いでいます。でも、まさか小学生のお嬢さんに見破られるとは!まいったなあ!」マスターは笑いながら美穂に話してくれた。
「弟さんのお店で大変お世話になったんです。人が大勢詰めかけて来て。」
美穂の言葉にさらに驚くマスター。
「ひょっとして、弟が言っていたピアノの達人のお姉さんたち?と言うことは、君はゆ・う・たくん?ヴァイオリンの?」マスターの言葉に色めき立つ2人の女子高校生。「えっ?ということは美穂ちゃん、そして遥香さん?」もう興奮で声が上ずっている。
「そうです。皆さんよろしくお願いします。」私が4人を代表して挨拶をした。皆さん直ぐに打ち解けていった。そりゃあそうだ、遥香さん、優太君、美穂、そして里穂。誰も驕らないいたって普通の高校生と小学生だからだ。私たちの高原ホテルでのコンサートにご招待すると夏休み中の音楽部の練習にも来てくださいとお誘いがあった。こうして交流の場が広がっていく。
その日の夕方は会場作りに余念がなかった。ホテルの従業員さんたちだけでは手が足りないと優太ママの指導の下、会場のセッティングを7人で行う。仕事の合間を縫って支配人さんがお礼の言葉をかけてくださる。
「いえいえ。皆さんに少しでも良い環境で聴いていただきたいんです。」明るく笑う優太ママ。信子に聞くと、音大時代にコンサート会場の設営のバイトをしていたとのことだ。
ホテルの出入り口付近の席に腰を下ろした優太ママ。
「里穂ちゃーん!優しい曲、アデリーヌ弾いてみて!」ピアノの傍に居た里穂にリクエストする。
「美穂ちゃーん!私の隣に来てえーっ!」今度は美穂に声を掛ける。
「里穂ちゃんのアデリーヌが入り口の騒音で良く聴こえないと思うの。」そう言って耳を澄ます2人。里穂の演奏が始まる。それだけで足を止めて聴き入ってくださる老夫婦や家族連れの皆さん。
耳を澄ませて聴いていた2人が顔を見合わせ、入り口の方を見ている。入り口とその近くの席の間に仕切りが欲しいという。
フロントのお姉さんに移動式のパテーションがあるか尋ねる優太ママ。あいにく何時もオープンにされているようで遮るようなものは無いとのことだった。
「あっ!あれは?」美穂が何かを見つけた。
それは中庭に避難させられていた大きな観葉植物たちだった。
「あらあー!良さそうね。お姉さん、あの植木達、ここに並べても良いかしら?」優太ママが受付のお姉さんに尋ねた。
「はい。支配人に確認を取ります。」そう言って支配人さんに電話を掛ける。
「大丈夫だと言っております。」これに喜ぶ2人。早速植木達を見に中庭へ。2人で持とうとするがかなり重い。しかもどうやって入り口まで持ってくるか。そんな2人を見て私は提案した。
「車に積んである台車を使えば?幸い、バリアフリーで段差もないし。」そう言って私は台車を取りに行った。
こうして会場の設営が終わった。その足で温泉へ向かうことにした。
遥香さんと里穂が加わり女湯は賑やかになった。明るい笑い声が絶えることもなく、皆楽しそうにお喋りをしている。
私は優太君と昨年同様2人で背中を流し合った。1年の間に優太君は大きくなって大人っぽくなってきた。来年は6年生。再来年は中学生だ。優太君に進路を聞くと迷わず“音大付属中学校”と答えが返ってきた。美穂と同じだ。お互いに音楽の道を進もうと思っているようだ。そんな優太君が申し訳なさそうに私に言った。
「ピアノルーム、使うばかりで申し訳ありません。」そう言って頭を下げた。
「何言ってるんだい。親が子供の面倒を見るのは当たり前だよ。小学生はそんなこと気にしないで良いんだよ。それにお父さんからはきちんと必要経費を毎月頂いているよ。だから優太君は何も気にしなくて大丈夫だよ。」私はそう言って優太君を見た。優太君は泣いていた。「お義父さんって言ってくれただけで私は嬉しいよ。だからもう泣くなよ。」そう言いながら私は湯船のお湯で顔を洗って涙を隠した。
いつもながら私たちが先に男湯から出てきた。昨年同様に2人で先にラムネを頂く。温泉で暖まった身体に冷たいラムネがしみ込んでいく。優太君はすっかり上手にラムネが飲めるようになった。
女湯の方が騒がしくなった。いよいよ女性5人が出てくる。
「優太君、誰が一番最初に出てくると思う?」私の問いに優太君は迷わず美穂だと言った。去年がそうだったからだ、しかし、今年は里穂がいる。男2人でラムネ片手に女湯の出入り口を凝視する。
「わあー!」という声と共に美穂か飛び出してきた。それを追う里穂。美穂はそのまま優太君の元へ一直線だ。
「わあっ!」優太君の驚く声が上がる。そしてしっかり美穂を受け止めた。美穂の身体は火照っていて微かに石鹸の香りがした。
次の瞬間私の身体に里穂が飛びついて来た。私もしっかりと里穂を受け止めた。素直に私のことを親だと思ってくれているんだ、そう思うとまた泣けてきた。
「遥香ちゃんもおいで!」立ち止まってこちらの様子を見ていた遥香さんに声を掛けた。一瞬驚く遥香さん、が勢いよく走り始めた。
そして私の胸の中へ。恥ずかしがる遥香さんに言った。「ここにいる間は私の可愛い娘だよ。」そう言って私が笑うと「はい。」と小さく頷いてくれた。
皆でラムネを頂く。去年と同じ光景が広がる。廊下を行きかう人たちの視線を浴びながら相変わらず賑やかな7人だった。
一旦コテージへ戻り演奏会の準備をする。今年はピアノの担当が2人、遥香さんと里穂だ。美穂は電子ピアノで管楽器のパートを担当する。ピアノも2人での演奏、そして管楽器部分の演奏とかなり幅が広がっている。演目は遥香さんと美穂のピアノの連弾で「モルダウ」、ビバルディ―の四季より「春」、そして優太君の十八番となった「ヴァイウオリン協奏曲ホ短調作品64」だ。
開演30分前、お客さんの入り具合をしきりに気にする里穂。
「里穂ちゃん、たとえお客さんがいなくても演奏はするのよ。どこかで聴いてくださっている方がいらっしゃるかもしれないからね。」そう言って里穂に優しく話してくれる優太ママ。そして静かに頷く里穂。里穂は周りの皆から色々なことを学んでいく。
ロビー前の広いスペースは宿泊客の皆さんですでに満席だ。その中に湖畔のそばの喫茶店「白樺」のマスターご夫妻と地元高校の音楽部の2人の姿があった。「よかった!来てくださっている!」喜ぶ遥香さん。美穂は会場にいる小さなお子様方を見て信子と優太ママに何やら相談している。どうやら開演までの待ち時間にソロで演奏をしたいようだ。
そっとピアノの前に座る美穂。会場内が静まる。
美穂の演奏が始まる。「あっ!トトロだ!」ちびっ子たちの歓声が上がる。幼稚園や保育園で聴きなれた曲「さんぽ」だ。身体でリズムを取りながら口ずさむ子もいる。そんな中、我慢しきれなくなった遥香さんが飛び出してきた。そしてトトロの歌を歌い始めた。これにはちびっ子たちは大喜びだ。それを見た大人たちの顔もほころぶ。
マスターご一行もことの展開と遥香さんの歌声に驚きの表情だ。
「歌も歌うんだあ!」「綺麗な声!」思わずちびっ子の世界へ引き込まれていく。そして2曲目は「犬のおまわりさん」だ。何時もの保育園公演の定番曲だ。もうぐずっている子などはいない。ちびっ子全員と一緒になって歌う遥香さん。フロントで聴いていたマスター始めフロント担当の皆さんも突然の愛らしい前座に満面の笑みで接客をしていた。最後となる曲は「アンパンマンのうた」だ。ちびっ子だけでなくお母さんたちも良く耳にする曲の連続に心地良ささを感じていただいているようだ。
「まあ!保育園でこういうことうしているのね!」信子と優太ママは顔を見合わせて微笑む。優太君も初めて見る遥香さんと美穂の姿に驚きを隠せなかった。何時も接している2人の別の側面を見れてそれがとても新鮮だった。
締めは遥香さんのちびっ子たちへのメッセージだ。「みんなー!今日はきてくれてありがとうーっ!これからはパパとママの曲が続くけどいろんな音が組み合わさって流れてくるから聴いてみてねー。」
その間にヴァイオリンの3人がスタンバイ。美穂も電子ピアノの前に座る。ピアノの前には既に里穂が座っている。その右側にすうーっと遥香さんが座る。優太ママの掛け声で演奏が始まる。ビバルディ―の四季より「春」だ。お馴染みの曲とあって聴きやすいのだろうか、皆さんじっと耳を傾けてくださる。ヴァイオリン以外の音を3人のピアノが盛り立てる。さすがにフルオーケストラの演奏とはいかないがなかなか美穂のアレンジは心地よい。音楽部の2人も「誰の編曲だろう?」と首を傾げていた。
曲が終わるとすかさず美穂と里穂が入れ替わる。「モルダウ」の連弾だ。余りのコンビネーションの良さに会場からため息が聞こえる。
音楽部の2人も目を見張って指の動きを見つめていた。会場の皆さんもまさかの演奏に驚きを隠せないようだ。
そして音が途切れることなくメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」へ入っていく。曲間の拍手する間を持たせない美穂のアレンジだ。拍手していただくタイミングを最後に集中させるための美穂の“焦らし”テクニックだ。小学生ながらいろいろ考え付く娘だと感心する。優太君の独奏はさらに磨きがかかっていて会場の皆さんの心をワシ掴みにしていた。「とても5年生の演奏とは思えない!」それが共通の思いだったようだ。そして2挺のヴァイオリンが優太君の演奏を盛り上げ、演奏のベースを支える3人のピアノ演奏。最高の室内管弦楽だ。
演奏後は盛大な拍手が起こる。立ち上がって「ブラボー!」と声援をくださる方もいらっしゃった。こうして初日の演奏会は盛況のうちに幕を閉じた。
演奏会が終わると折りたたみ椅子の撤収だ。この時間になると従業員さんたちの手を借りることが出来る。さらに音楽部の2人もお手伝いいただいた。皆さんにお礼を言い夕食のためにレストランへ向かう。
去年同様、一番奥の広いテーブル席へ案内される。遥香さんは慣れたものだが里穂はかなり緊張している。すかさず信子と美穂が手を取ってエスコートする。信子と美穂に挟さまれて座ると少し落ち着きを取り戻したようだ。
「里穂。並んでいるナイフとフォークは外側から使っていくんだよ。」美穂にそう言われてこくりと頷く里穂。それを見ていたウエイターさんが思わず笑みを浮かべる。
「皆さんこんばんは。今年もよろしくお願いします。」料理長さんが挨拶にいらしてくれた。突然の外国人の料理長さんの登場に緊張でこわばる里穂。そんな里穂に日本語で優しく話しかけてくださる料理長さん。
「可愛いお嬢さん。私の料理をお楽しみくださいね。」かなり流ちょうな日本語で1年の年月の経過に驚く私たちだった。
里穂は緊張しながらも「はい!いただきます!」と元気な声で返事をした。料理長さんは少しおどけながら「GOOD!」と言って笑みを浮かべられた。
「こちらのお嬢様も初めてお目にかかりますね。」そう言って遥香さんに話しかける料理長さん。遥香さんはにっこり笑って英語で返事をする。これには皆びっくりだ。さすが遥香さんだ。料理長さんも遥香さんの英語での返事に大満足のようだ。
料理長さんのご挨拶が終わるといよいよコース料理の始まりだ。
美穂は都度、里穂にスープの頂き方を皮切りに、ナイフとフォークの使い方を教えていく。直ぐに慣れていく里穂。ピアノと同様の呑み込みの早さだ。こうして里穂のレストランデビューは恙なく終了した。「里穂、お上手に食べれたわね。美穂もお疲れさま。」信子は2人の娘を褒めてくれた。
翌朝、真っ先にリビングに下りて来たのは同室の遥香さんと美穂だった。2人でウッドデッキに出て深呼吸する。清々しい高原の朝だ。
チェアーに腰かけて朝を満喫しているとデッキの手すりに小さな影が現れた。
「え!なに?」驚く遥香さん。
「うふふ、ありがとう。覚えていてくれたのね。」そう言ってテーブルの上にある落花生の袋に手を伸ばす。その様子をじっと見つめる遥香さん。
「はいどうぞ。」落花生を2つ、手のひらに乗せ差し出す美穂。
小さな影が小走りで美穂の手のひら目がけて走ってくる。
そう!りすくんだ。素早い動きで美穂の手のひらの落花生を両頬に詰め込むと一目散に茂みへダイブして帰っていく。
「かわいい!」一部始終を見ていた遥香さんが声を上げる。
それに驚くこともなく次々とやってくるりすくんたち。
初めて野生のりすくんを目の前で見る遥香さん。目をぱちくりさせてその光景に見惚れていた。最後のりすくんが茂みへ消えていくと遥香さんは立ち上がり手を振った。
「可愛かったでしょ?りすさんたち。」美穂がまだ興奮冷めやらぬ遥香さんに話しかける。
「うん。初めて!野生のりすさんたちが来てくれるんだね。」息を弾ませながら答える遥香さんだった。
今日は午後から結婚式場の仕事だ。美穂と二人で信子の車に乗り、遥香さんに見送られてロッジを出発する。
夕方の演奏会までには戻れそうにない。だが、美穂がいなくても今回は遥香さんと里穂がいる。2人がいてくれれば安心だ。
美穂と2人で朝のドライブを楽しむ。車の中でいろんな話が出来た。
話の内容は殆どが優太君のことだった。『本当に優太君のことが好きなんだなあ!』と感心した。加えて里穂のことも話してくれた。ラブレターをくれた健君とは毎日放課後の音楽室でデートを楽しんでいるようだ。土日は健君のサッカーの練習、里穂は演奏会などがあるため2人でのお出かけはまだ実現していないようだ。
日曜日の早朝ということもあり上りのサービスエリアは結構空いていた。2人で何を食べようかと悩む。
「パパ!私、牛丼が食べたい!」美穂が私の顔を見て笑った。「そうか、それじゃあ牛丼にしよう!」私はそう言って美穂の手を引いて牛丼のブースへ。2人でカウンター席に座って牛丼をいただく。
「美味しいね!」そう言って喜ぶ美穂を周りの人たちがじっと見つめていた。
再び結婚式場を目指して車を走らせる。音楽は「カルメン幻想曲」だ。優太君とのコラボ曲だ。勉強熱心な美穂に感心する。「この弾き始めがタイミングが合わないんだよね・・・。そんな美穂のひとり言を聞きながら、美穂を横目で眺める私は何故か嬉しくて仕方なかった。
途中のスーパーに寄り道をする。大量の落花生を購入。りすくんたちへのお土産だ。
牛丼を食べたせいかお昼過ぎてもお腹が空かない私たち2人はそのまま結婚式場へ。何時もの様に控室へ案内される。そこの更衣ブースで美穂が着替えている間に軽食を仕入れに行く。レストランでサンドウイッチを作ってもらう。途中の自販機で美穂の好物のオレンジジュースを買って戻ると既に着替えを終えた美穂が何かの曲を口ずさんで待っていてくれた。これから2時間の長丁場だ。食事は終わった後で良いと言うので保冷バッグに入れて冷やしておく。
迎えに来たチーフに連れられて会場へ。司会者を始め、スタッフの皆さんとももう顔なじみだ。皆に声を掛けられてあかるぃ笑顔で返事をする。美穂が好かれる理由の一つはここにあるのかもしれない。
披露宴が始まる。美穂のイージーリスニングが流れる中、招待客の皆さんが次々と会場へ入ってくる。そして毎度のことながら、演奏しているのが小学生だと気付き少しざわつく。
全員が着席すると司会者の挨拶が始まる。最後にピアノを担当する美穂の紹介が行われる。小学生ながら学生コンクール第1位のプロフィールに驚く招待客の皆さん。
いよいよ新郎新婦の入場だ。入り口にスポットライトが当てられると美穂の「結婚行進曲」が流れる。会場のあちらこちらから「おおーっ!」という声が上がる。流れる様な演奏に皆さん感心されたようだ。こうして宴は粛々と進行し、無事にお開きとなった。
招待客の一部の方と記念写真に収まる美穂。皆さんにこにこ顔だ。美穂も笑顔で演奏しながらポーズを決める。陽気なおじさま方が美穂に手を振りながら退場されると扉が締められ美穂の仕事が終了する。美穂が控室に戻って来た。
実は披露宴の間、フロントの支配人さんに10月以降の話を伝えに行くった。支配人さんは驚かれたが、マネジメントが入るだけであとは全く変わらない旨を説明すると快く了解してくださった。
何時もの様にチーフさんから出演料とご両家からの心づくしを頂く。
チーフさんは話を聞かれたようでいろいろご心配を頂いた。簡単に言えば私の代わりにマネージャーさんが付くだけの話なのだと説明すると快く頷いていただいた。
私たちが控室を出る頃には陽も傾きかけていた。これから高原のロッジへ戻るのだ。月曜日に有休を頂いて本当に良かった。公演には間に合いそうにないが皆のことだ、心配はいらないだろう。
サンドウイッチをほおばりながら鼻歌を歌う美穂。信子に言わせると美穂流のピアノの練習だとのことだ。やはり美穂は天才なのだろうか?徐々に黄昏ていく高速道路を高原に向けてひたすら走って行くのだった。
そのころ高原ホテルでは総勢20名ほどの地元高校の音楽部の皆さんたちが会場作りを手伝ってくれていた。昨日の設営に苦労したことを2人の部員さんが他の部員さんに連絡してくれたのだった。信子を始め4人でお礼を言ってラムネを差し入れる。皆さん素直に美味しいと言って飲み干してくれた。そのまま聴いて行ってくださいとの優太ママのお願いにも快く応じてくれた。夏休みということもあり日曜日の夕刻は人も多く会場は大入りだ。気を利かせて後ろ側の席に座っていた音楽部の皆さんだが積極的に他のお客様に席を譲っていただいたりした。そんな優しい音楽部の皆さんに何かご恩返しをしたいと思う5人だった。
開演30分前、突然遥香さんが現れピアノの前に座った。そしておもむろに弾き始めた。「さんぽ」だ。思いもかけない曲にちびっこたちは大興奮だ。そしてこれに驚く音楽部の皆さんたち。すっかりクラッシックの心づもりでいたからだ。身体を揺らして聴いてくれるちびっ子たち。そんなちびっ子たちへの2曲目のプレゼントは「アンパンマンのテーマ」だ。大喜びのちびっ子たちを見て会場が和んでいく。「どおしておなかがへるのかな~♪」遥香さんが歌い出した。ちびっ子たちから歓声が上がる。愛らしく透き通った優しい声は幼児番組の歌のお姉さんそのものだった。感心する大人たちをよそに遥香さんの歌と演奏は続く。「犬のおまわりさん」をちびっ子たちと大合唱。「ドラえもんの歌」へと繋いでいく。「そーらをじゆうにとびたいなー♪」で一旦演奏を止めて片手を耳に当てる。「タケコプター!」と元気なちびっ子たちの声が返ってくる。それににっこりと微笑んで続きを弾き始める。曲が終わるとマイクを持って皆さんにご挨拶だ。最後にちびっ子たちにメッセージを送る。
「いろんな音楽が聴こえてくるから楽しんで聴いてくださいねーっ!」と元気よくご挨拶を終了する。「はあ~い!」とちびっ子たちの声が返ってきた。
その間に4人のスタンバイが終わっていた。遥香さんがピアノの前に座る。優太ママの合図で演奏が始まる。
今回の演奏テーマ曲四季より「春」だ。ヴァイオリン3挺とピアノ、電子ピアノによる室内管弦楽曲の演奏だ。初めて聴く演奏に音楽部の皆さん方も驚きを隠せない。そんな中「春」の演奏が続く。
美穂の連続演奏を彷彿させながら遥香さんが次の曲に入っていく。
次の曲は今回初めての遥香さんと優太君のコラボ曲「チゴイネルワイゼン」だ。少し心配そうに見守る3人。だがそこは遥香さんと優太君だ。しっかりと優太君に寄せてピアノを弾いていく遥香さん。美穂との連弾で身につけた“相手に合わせる”技術だ。3人に安どの表情が広がる。と、ここで私が電子ピアノを設定する。驚き、喜ぶ5人。美穂が帰って来たのだ。美穂の登場をとびっきりの笑顔で迎える5人だった。すぐさま美穂の電子ピアノの音が加わり伴奏に花を添える。
最後は優太君の「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」だ。力強い演奏が会場の皆さんを取り込んでいく。「とても小学生の演奏とは思えないわあ!」音楽部の皆さんだけでなく会場の皆さんもそう思われただろう。シーンと静まり返った中で流れる優太君のヴァイオリン。
それを盛り上げる5人の伴奏。初めてこの曲の伴奏をする遥香さんの心は喜びにあふれていた。ずっと一人でピアノを弾いてきた遥香さん。美穂との連弾、そして今回の室内管弦楽と人とのハーモニーの楽しさを知ることが出来たからだ。
演奏が終わると拍手の嵐だ。そして飛び出す「アンコール!」の言葉。顔を見合わせる6人。声を掛け合い頷く。
そして流れ始めたのは6人による「仮面舞踏会」だ。優雅な旋律を見事に演奏していく。あっけにとられる音楽部の皆さんたち。今回はピアノの連弾ではなく美穂が編集した室内管弦楽バージョンだ。だから音楽部の皆さんが驚いたのだ。興奮の収まらないまま演奏会は終了となった。なかなか席を立とうとしない会場の皆様を見て「ありがたい!」と心から思う私たち7人だった。
演奏会が終わると会場となったロビーからパイプ椅子50脚を引き揚げ、従来あったソファーやテーブルを元に戻す。昨年は後ろにどかす程度であったが人が溢れるほどであったため今回は総入れ替えとなったのだ。パイプ椅子の収納台車5台を上手く使って10脚ずつ収めていく。去年手こずっていた応接セットは台車に乗せて移動させているので指定の一に戻すだけだ。総勢30名ほどの協力と優太ママの仕切りで短時間のうちに終了した。これには支配人さんもびっくりだった。
夜間、自転車で帰っていく音楽部の皆さんを見送って私たちは遅い夕食となった。
人気の少なくなったレストランだが7人の明るい声が響く。
にこにこ顔のウエイターさんたちがアラカルトを運んできて食う出さる。そして、いつもの・・・。
「支配人からでございます!」そう言って登場するのはフルーツの盛り合わせだ。これには子供たち4人が大喜びだ。食事を終えると思い思いのフルーツを堪能する。
食事が終わると全員揃って支配人さんのいるフロントへ。フルーツのお礼とおやすみなさいのご挨拶だ。にこにこ顔の支配人さんに見送られてロッジへ戻る。広い敷地内を信子の車とワゴン車が連なって走る。皆、信子が大きなワゴン車を運転したことに驚いていた。
「だってママはアメリカでもっと大きな車に乗っていたからだよ。」そう説明する私に大いに納得する子供たちだった。
翌朝も遥香さんと美穂は早起きしてりすくんたちに落花生をプレゼントしていた。遥香さんもすっかり慣れてりすくんたちが落花生をほおばる様子をじっと観察していた。
「遥香お姉さんもあげてみたら?」美穂に言われて思い切ってチャレンジしてみることにした。少し震える手がリスくんたちを警戒させたのだが、危険ではないと思った様で落花生を貰いに寄って来てくれた。さらにそのりすくんは遥香さんの手のひらに飛び乗って来たのだ。
「ひゃっ!」小さな悲鳴を上げる遥香さん。りすくんの小さな足がこそばゆい、何とも言えない感触だった。傍で見ていた美穂も余りの出来事に呆然としていた。いままで手の傍まで来てはくれて小さな手を伸ばして落花生を掴んでいたが、まさか手のひらに乗ってくれるとは思わなかった。りすくんたちが帰って行った後も遥香さんはじっと自分の手のひらを見つめていた。
そんな嬉しい出来事があると今日1日がハッピーな1日であるように思える2人だった。
全員が起きてくると朝食バイキングへ向かう。
フロントの皆さんに朝のご挨拶をしてレストランへ。何時もの席に荷物を置いて早速出陣だ。美穂は今朝が初めてのバイキングだ。また富士山盛りのスクランブルエッグが1年ぶりに復活するのだろうか。皆がきゃーきゃーとはしゃいでいる。その中に目を見開いて驚いている遥香さんと里穂の姿があった。恐らく2人は美穂のあれを初めて見てしまったのだろう。大笑いしながら席に戻って来た。
やはり美穂のお皿には富士山級のスクランブルエッグが盛られていた。美穂たち3人が戻って来たので私も小皿を持って料理を取りに行く。2人のママと優太君は海鮮丼の仕上げのイクラの登場を待っているようだ。私は昨日牛丼を食べたので今朝はパンとサラダとコーヒーで済ませることにした。焼きたてのパンが並んでいる。好物のフランスパンとクロワッサンを沢山お皿に乗せる。美穂と里穂が欲しがるであろうという読みだ。席に戻ると「あーっ!」と言いながら2人の娘は私のパンをかっさらっていく。それを見て遥香さんも私のクロワッサンを会釈しながら持っていく。そう、それで良い。それが嬉しいのだよ、娘たちよ。
賑やかな朝食が終わるとティータイムに移る。再び飲み物とケーキを取りに行く3人娘。周りの人たちは本当に3姉妹と思っているのだろう。何の違和感もないのだ。思い思いにショートケーキやシュークリームなどを持ち帰る3姉妹。どうやらケーキは別腹のようだ。
朝食から戻ると出かける準備だ。今日は地元の高校の音楽部の自主練習を表敬訪問することにしていた。それぞれ自分のヴァイオリンや電子ピアノをワゴン車に積み込む。そして出発だ。
地図を見ながら高校を目指す。県道から少し入ったところに目指す高校が見えてきた。木造2階建ての由緒ある校舎だ。
窓から見ていたのだろうか、着くと直ぐに音楽部の数名が出迎えに来てくれた。正面入り口は締まっているので校舎脇の出入り口からお邪魔する。用意したスリッパに履き替えて廊下を進んでいく。
「先生方にご挨拶をしたいんだけど。」私がそう言うと「届は出してあります。しかも先生方はもうそれぞれの自主練に立ち会っていらっしゃるので職員室は空っぽですよ。」という返事が。体育会系の自主練は朝7時から始まっているとのことだ。確かにあちこちから掛け声などが聞こえてくる。音楽室は校舎2階の一番端にあった。
「おはようございます。」そう言って入ると昨日来てくれた20名ほどの部員さんたちが元気に挨拶をしてくれた。
皆思い思いの楽器を持って椅子に座っている。早速演奏を聴かせてもらう。6人が耳を傾ける。可もなく不可もない一般的な演奏だ。
最初は音の出し方から始めることになった。管楽器は信子と優太ママが、弦楽器は優太君が、ピアノは遥香さんと美穂と里穂の3人だ。
それぞれの楽器の音の出し方をレクチャーしていくのだ。さすがに音大OGの2人のママは管楽器を鳴らしている一人一人の音を聴いて回っている。優太君もヴァイオリン担当の5人に指使い、ビブラートの掛け方、弓の動かし方を指導していく。ピアノは担当者がちょうど3名おり、3人とも指使いに悩んでいるとのことだ。
和気あいあいとポイントを教えていく6人。あちらこちらで明るい声が上がる。誰にも指導を受けずここまでやって来たとのことだ。
いろいろな楽器の音色が音楽室から外へ流れていく。思わず他の生徒さんたちが耳を傾ける。「何時もより気合入ってないか?」などと言い合っていた。
「一回弾いてみようよ。」美穂の提案に全員で弾いてみることにした。
どれくらい変わっているのだろうか?
「涙のトッカータ」が流れ始める。「うん!音が綺麗に出ているわ!」遥香さんが手を叩いて喜ぶ。外で部活をしている生徒さんたちにも当然聴こえる。「あれ?上手くなってないか?」皆動きを止めて演奏に聴き入る。音が綺麗に出せるようになって音楽部の皆さんの喜びようは半端ではなかった。お互いに笑顔で見つめ合い喜び合っていた。
「あとは楽譜をきちんと見て理解することだよ。」優太ママが次のステップを提案する。楽譜にある音符や記号を細かく説明していく。一本調子の演奏から脱却するためだ。信子と優太ママが実際に演奏しながら説明していく。優太君も弓の強弱の付け方をレクチャーしていく。ピアノの3人には正確な鍵盤の叩き方とペダルの使い方を教えていく。小学生ながら余りにも高度な演奏をする2人に音楽部の3人は感心するばかりだ。
お昼のチャイムが鳴った。あっという間に時間が過ぎていく。
皆さんはお弁当持参だった。私たちは近くの飲食店に出かけることにした。午後からも練習だ。「私たちも一緒に練習しようよ。」里穂の提案に皆賛成した。
「白樺」まで車で直ぐだった。土曜日のお礼を言いつつ皆で思い思いに注文する。高校で交流会をしていると話すとマスターはそこのOBとのことだ。更に午後も一緒に練習すると告げると「教えてあげる人がいないので皆見様見真似なんですよ。よろしくお願いします。」と頭を下げられた。
「この近くに音大の卒業生がいらっしゃれば良いのに。」美穂がぽつりと言った。考え込む信子と優太ママ。「そうだ千夏さんと優香さんに相談してみよう。」
午後は思い思いに練習をする予定だったが、里穂が運動会用に「天国と地獄」の練習をしていた。それを興味深そうに眺める3人の部員さんたち。それを見ていた美穂が「皆も練習しましょう。」と声を掛けた。「はい!」3人の部員さんたちは嬉しそうに返事をくれた。
「私も練習したいなあ。」遥香さんから意外な言葉が。「えっ?」驚く美穂と里穂。どうやら遥香さんはクラッシックばかりを弾いてきたようで他のジャンルの曲に弾かれるようだ。
テンポの速い曲だが、最初はゆっくりと確実に弾いていく。
優太君はヴァイオリン5人衆に「夏の日の恋」をレクチャーしている。やはりイージーリスニングは親しみやすいからだろうか。
管楽器を診ているママ2人もイージーリスニングの「恋はみずいろ」を使って音の強弱などをレクチャーしていた。
「何か共通の曲で練習しましょうよ。」信子の提案に一同大いに賛成した。しかし、イージーリスニングの楽譜が無い。
「美穂ちゃん、お願い!」2人のママが手を合わせて美穂にお願いする。それを見て驚いたのは部員の皆さんだった。「楽譜を買いに行くんですか?」まさか美穂が楽譜を作成するとは思っても居なかったからだ。そんなことはお構いなしに美穂は楽器の数を指差しながら確認していく。それをじっと見守る部員の皆さん。
「それじゃあ「夏の日の恋」にするわね。」そう言って机の上に五線譜の用紙をかばんから出した。おもむろに譜面を書いていく。唖然としている皆に優太ママが声を掛け再び個別の練習を続ける。
1時間ほどで各パートの楽譜が出来上がった、部員の皆さんが美穂の元に集まってくる。皆口々に「信じられない!」と驚いている。早速数人の部員さんたちがコピーを取りに職員室へ足る。
「ガイドメロディーを弾いてみるね。」美穂はそう言ってピアノを弾き始めた。ピアノのソロながら曲の世界観を見事なまでに現している。信子を始め私たちも聴き惚れてしまうほどの演奏だ。
「誰が弾いているんだ?」グラウンドで練習していた部員さんたちの動きが止まる。指導していた先生方も音楽室を見遣っていた。
コピーがパートごとに配られる。皆手書きの楽譜に驚き、そして感激する。何かを写したのではなく、美穂が書き下ろしたものだ。皆信じられないという面持ちだった。
「もう一度ガイドメロディーを弾くから各自のパートの部分をしっかり目で追ってみてね。」美穂はそう言って再び演奏を始める。
「ヴァイオリンは最初から入るよ。」優太君も確認しながら5人衆に声を掛ける。こうして各自の受け持つパートの確認を行っていく。
美穂の演奏が終わるとそれぞれ受け持ちパートの練習に入る。
日も暮れかかってきた頃、全員で演奏してみることに。美穂がガイドメロディーを担当する。本番ではピアノでのガイドメロディーの演奏が無いため各自がしっかりと自分のパートの演奏を行わなければならない。美穂のピアノの代わりヴァイオリンが各パートをリードしていくのだ。
美穂の掛け声で全体演奏が始まる。「間違えても良いからとにかく全体像を把握しましょう!」美穂の檄が飛ぶ。最初はやはり揃うことは無かった。そこで信子と優太君がヴァイオリンの見本を見せてくれる。2人の息の合った演奏に息を飲む部員の皆さん。そしてこのお手本の演奏が部員の皆さんに演奏の楽しさを吹き込んでいった。
帰り支度を始めたグラウンドの生徒さんたちに調和の取れ始めた演奏が聴こえてくる。皆その演奏を聴いて笑顔になった。「見に行ってみようぜ!」野球部とサッカー部の皆さんが音楽室へ押し寄せてきた。大勢の階段を上ってくる足音が古い木造校舎を揺らす。
ガラガラ!入り口の引き戸が開いた。「おい!お前ら上手くなったじゃないか!」その声と同時に遥香さんの小さな悲鳴が。
入って来たのは野球部のキャプテンだった。そして見知らぬ女の子たちの存在に驚いて立ちすくんでいた。
ジャン!ジャン!ジャン1ピアノの音と同時に「練習の邪魔をしないで!」という美穂の声が。レッスン中の美穂は何時も気合十分だ。
「あ!は、はい!」そう言ってドアを閉めて廊下へ出ていくキャプテン。「お、怒られちゃった。小学生に。」そう言って落ち込むキャプテンだった。
一方の遥香さんはすっかり怯えていた。女子学園育ちの遥香さんは男子生徒を、ましてや汗と泥まみれの男子生徒を間近で見たのは生まれて初めてだったからだ。そんな遥香お姉さんに駆け寄り抱き締める里穂。
そして落ち着きを取り戻した遥香さんに一同大笑い。
「遥香お姉さん、男性の抵抗力なさすぎ!」と美穂に言われて少し拗ねる遥香さんだった。
廊下に大勢の部員さんたちがいる中で再び練習を開始する。信子と優太君を交えたヴァイオリン5人衆が全体を引っ張って行く。皆が良い感触を持てた所で今日の練習は終了となった。
突然美穂が立ち上がり音楽室の外へ出て行った。外の廊下にはまだ10数人の野球部とサッカー部の部員さんたちが残っていた。美穂は真っすぐキャプテンの元へ。「何だ!何だあ?」美穂の気迫に少し怖気づくキャプテン。
「先ほどはごめんなさい。急に入って来られたから、思わず。本当にごめんなさい。」そう言って謝る美穂に気持ちを取り直したキャプテンが答える。「こ、こちらこそごめん。急に入って行って。」そう言って右手を差し出す。美穂もその右手を握る。仲直りの握手だ。
周りの部員さんたちから歓声が上がった。
こうして高校での1日が終わった。明日もまた合同での練習だ。
温泉で今日の疲れを癒す6人だった。私はそれを見届け一人わが家へ帰って行った。
ああ!昭和は遠くなりにけり!! @dontaku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ああ!昭和は遠くなりにけり!!の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます