4.
「オシサワさぁん」
撮影が終わった後、私とマネージャー代役を呼び止めたのは、犬のような人間だった。
綺麗な円を描いた黒目が二つ、好奇心旺盛そうにこちらを見ている。パーマのかかった髪もなんだか丸っこくて、全体的に幼い。
挨拶時に同世代だと聞いたが、あまり信じられなかった。
私は彼を、「〇(マル)」と名付けることにした。
姉なら、きっとそうするだろう。
魅力のないものに、彼女は興味を持たない。
そして厄介なことに、姉は相手にその素振りを見せないのだ。
私は「ああ、お疲れさまでした」と頭を下げる。
マルは、玩具を見つけた子どものような笑い方をして、「今から、前川さんと森元さんも誘って飲みに行くんですけど、押澤さんも来ます?」と言った。
奥の方では、ボブカットの茶髪に逆三角形を押し込めたような顔の人間と、鉛筆で書いた線みたいに細い人間が何やら話し込んでいる。
後者は私とペアを組んだ男だった。寂しげな笑みが上手い、背の高い人物。
一言二言話して、多少頭が回る人なんだろう、という印象を受けた。
でも笑うだけなら、私の方が上手かった。
彼のことはイッポンセンと呼ぶことにする。
私は、パチンと音を鳴らして手を合わせた。
「ごめんなさい! 実は今日、妹を家に置いてきているの。あまり調子が良くないみたいで、早く帰らなくちゃいけなくて。本当にご、めん!」
ややつっかえたものの、事前に考えていた言葉は問題もなく出てきた。
マルは、数秒考える素振りを見せてから、「ああ、それで、か」と、予想通りの反応をする。
こちらが先に砕けた話し方をしてみせたからだろう、口調が軽くなる。
いっそう丸のイメージが強くなる。
「マネージャー、今日代わりの人がやってるんでしょ? 監督が微妙な顔をしていたから、さっき聞いたんだ。妹さんがマネージャーって、珍しいね」
「そう? まあ、妹も他に行く宛てがなかったようで、丁度良かったの。こちらに合ったスケジュールを組んでくれるから、そこはありがたいかしら」
真実を織り交ぜながら話すと、マルは「なるほど」と相槌を打った。
「妹さん、あんまり体が強くないんだって? 大変だねえ」
「まあ、いつものことだから。飲み会、また誘ってくれると嬉しいわ。今度はきっと参加する」
そう言いながら、仕事用のスマートフォンを使って連絡先を交換する。ハワイアンブルーのケースは、姉が気に入っているものだ。
連絡が本当に来るかどうかはさておき、新人同士でつながっていて損はない。
姉は、興味がない相手ともある程度場を盛り上げられる術を持っているから、誘いが来たとしても何とかなるだろう。
マルは親しげで丸っこい笑みを浮かべてから、他の二人の所へ戻っていった。事情を聞いたのであろう二人が、軽く頭を下げる。
私は、他スタッフにも挨拶をしてから、スタジオを後にした。
控室で、姉がよく着ている服に着替えていると、「駆け出し桜組」なるグループに招待されていることに気がつく。迷わず「参加」の表示をタップした。
「今日は行けなくてごめんなさい。またよろしくお願いします」と、定型文を打ち込む。その後のグループ内で飛び交うスタンプは無視した。
化粧は落とさず、控室を出る。
足早に廊下を抜け、裏口に停まっていた車の後部座席に乗り込んだ。
助手席に座るメイクスタッフの彼女は、「お疲れ様でしたー」と顔も合わせず声を掛けてくる。
運転手は控室で見張りをしていたスタッフだ。
「押澤みずき」の秘密を知っている、数少ない人間たち。
他の者は、荷物を別の車に積み込んでから来る。
そちらは表の入り口に停めている。
周囲に、カメラを持った者は見受けられなかった。
すぐに社用車は街の大通りに出る。
ここまでくれば、「押澤みずき」としての仕事は終わったと言えるだろう。
ドアの縁に頭をもたれかけると、春の街の喧騒がわずかに鼓膜を刺激した。
助手席に座るスタッフが、「津田良樹、これから人気が出そうですよねえ」と嬉しそうに言う。
「あの人懐っこさは、天然由来のものっぽいですし」
「根っこが天然でも、結果として表出する部分がそうとは限りませんよ。……まあ、姉なら上手く付き合っていけるでしょう。苦手なタイプでしょうけれど」
「押澤みずき」のスタッフとして、そんな会話を交わす。
私はそばにあった鞄から手帳を取り出すと、そのままの姿勢でもう一仕事始める。
監督からの好感、今回の場の空気の良さ、他の出演者のこと。情報交換をしながら、メモをまとめる。
車内のラジオからは、うっすらと流行りのポップミュージックが聞こえる。「愛と恋の違いは何だろう」だなんて、語られ尽くした言葉をささやき続けていた。
面倒くさがりな姉だが引継ぎにはうるさい。
以前入れ替わった際、再会した相手と話が合わなかったことがあったからだ。その場は何とか乗り切ったが、それ以降、話の内容やこちらへの好感度、実際に会ってみないと分からない相手の癖といったところまで、細かい情報を求めてくるようになった。
私は、姉がよく使っているペンを動かしながら、さらに会話に乗る。
「サンカクは、ぱっとしなかったですね。アイドルグループを卒業して、タレントに移ったんでしたっけ? 監督の指示もうまく入っていなかったし、これから苦労するでしょうね」
「サンカクって何のことです?」
そう言われてから、思考回路がまだ姉に似せたものであることに、ようやく気がつく。「失礼」と身体をきちんと起こした。
手帳に書かれた出演者の本名の上には、〇、▽、―、の記号がある。
説明をすると、メイクスタッフはこちらを見て「何ですか、それ」と明らかなしかめっ面を作った。
「押澤さん――あ、お姉さんの方ですよ――って、そんな風に人を見ているんですねえ。らしいと言えばらしいですが」
「姉はあまり、他人に自分の話をしたがりませんから」
バックミラーに向かってわずかに口端を上げる。
「例えば、『菫』という字を愛していて、この間結婚したんです。知らなかったでしょう?」とまでは、言わなかった。
手帳に向き直る。あとメモが埋まっていないのは、例の細長い男だけだ。
私は、改めてイッポンセンと名付けた人間を思い返した。三人の仲では、まだマシな笑みを浮かべられる者だった。
やや明るめのブラウンの瞳がスタジオの照明と上手く合わさって、かの物憂げな雰囲気を作り出すことに成功していた。
だが口元がまだ笑みとして定まっていない。
何となく引き延ばされた唇は不安定で、時折中心がずれていた。
『宜しくお願いします』
良く鍛えられた、聞き取りやすい発音で、彼はそう言った。
『僕、この会社のケーキシリーズが好きで。今日の撮影を楽しみにしてきたんです』
何の変哲もない、今まで似たようなことを何度も言ってきたかのような挨拶だったが、私は彼に好感を持った。
その台詞に、お世辞に加えて本心も混ぜ込まれていることが分かったからだった。
撮影中も、彼は自分の感情を上手く利用していた。
「相手に想いを伝えられないまま、甘いケーキを一緒に食べる」役に、彼はよく合っていた。
ただ、如何せん気持ちに技術が追い付いていない。
「……他人のことを言えた義理じゃないけれど」
手帳を閉じると、ぱたんと小さな音がした。
それはすぐに、甘ったるいラジオの音楽に掻き消された。
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