3.
スタジオに併設されているメイクルームは、出演者全員が化粧を始めたとしても余裕があるくらいの広さを持っていた。
染み一つない白い壁に、木を基調とした備品が並ぶ。温かい色合いをした椅子は丸みを帯びている。
我々の事務所のスタッフ以外は、まだ誰もいない。外にはさりげなく見張りをつけており、事情を知らない者が突然入り込んでくることもなかった。
誰かが置いたインスタントコーヒーの香りが、鼻をくすぐる。
姉に代わって簡単な仕事をこなすようになったのは、ここ最近のことだった。
最初はいつもの気まぐれだった。当時情緒不安定だった姉は仕事を放りだし、私にそれを投げつけた。
ただの打ち合わせだからと引き受けてしまった私も悪かったと思う。
しかし、それが何事もなくうまくいってしまったことが良くなかった。
姉は自分の分身とも言える私に、時折代役を願い出るようになった。
そもそも、演劇の道を諦めた私にマネージャーの仕事を持ってきたのが姉だった。
下手なりにもそれまでの全てを演劇へ注いでいた私に、就職先の伝手なんてものはなかった。
当然姉の仕事がなくなれば、姉妹ともども路頭に迷うことになる。
嫌なら依頼ごと破棄するとヒステリックに宣言した彼女に、私は従うほかなかった。
鏡に映る自分を睨む。
そこにいるのは、まだ私でしかなかった。
あるいは、姉に似た誰か、だ。
事務所抱えのメイクスタッフに、画面に映える泣きぼくろを描き直してもらう。
その間に脳内で「押澤みずき」のイメージを広げていくのがいつもの習慣だった。
鏡を囲う電灯が、お前は場違いだとでも言うようにきらめく。
私は目を閉じる。
「押澤みずき」は、やや緊張した面持ちで、他の出演者の誰よりも早くスタジオに現れるだろう。
歩幅と歩く速さは一定の間隔を保っている。僅かに右肩が上がる癖はあるが、それは見る者が見なければ分からない程度だ。
水面を滑るような、軽やかな歩み。
その足取りはいつも通りのことで、見た者に上品な印象を与える。それもあって「押澤みずき」は「これからさらに伸びる良素材」だという評価を受けている。
今回の企画は、似たような複数の「新素材」を使って、新しい春や新しい出会いを表現するものだという。
男女一組の二ペア。「押澤みずき」と組むのは、同じく駆け出しの俳優だ。先月最終回を迎えたドラマの端役で、監督の心をつかんだという。
コマーシャル出演の話が上がった時点で、そのドラマも全回視聴済だ。その時姉が漏らしていた感想は、全て私の頭の中に入っている。
挨拶時は、彼女が言うところの「静けさの中にある、青い炎のような熱」を主張すれば問題ないだろう。
後は背中合わせになってケーキを摘まみ、美味しそうに齧ればおしまいだ。姉の言う通り、「立って笑って」おけば良い。
目を開く。
出演者の緊張を和らげるはずの柔らかな光が、まだ少し眩しい。
「押澤ペアじゃない方の話、お聞きになりました? 前川千里と津田良樹って。結構いいチョイスですよねえ。向かい合って、きらやかに笑ったら、きっと映えますよう」
メイクスタッフが眉の調整をしながらそんなことを言う。
鏡に映った人物は、最早姉以外の何者でもなかった。
――否。
「きらやか?」
潤んだ唇が、静かな湖のような声を放つ。姉に似せた、絶対的な自信を持つ発音、のつもりだった。
やはりどうしても一種の澱みが生まれてしまう。湖の底から泥が湧き上がってきたような、そんな言い方になってしまう。
私は小さく舌打ちをした。
「あー、あー、駄目ですよう」
頭を軽く小突かれる。
「舌打ちなんかしたら、『押澤』さんのイメージが崩れますって。実は家でそんなことするキャラなんです?……あと、きらやか、って、使いません?」
「使わない、と、思いますよ」
最後の質問にだけ答えておく。技術は素晴らしいが、少しお喋りなのが玉に瑕だった。
それに姉だって、舌打ちくらいはする。
私は黙って立ち上がると、身を乗り出して鏡を見つめた。
描き足された泣きぼくろは、見事な出来栄えだった。
事務所を出る前に、既に描いてもらってはいたが、今目の前にあるそれは「本物」だった。
間近で見れば誇張していると分かるだろうが、この程度の化粧は、誰でもやっていることだろう。
身長差は普段から姉の方が高いヒールを履いているから、気にならない。
目の前の人間に、お前は誰だ、と心の中で告げてみる。
昔そんな人体実験の記事を、ネットで読んだことがあった。
毎日鏡の前で言い続けると、自分が誰なのか分からなくなってしまうのだという。
私は答える。
押澤みずき。
齢は二十五。
好きな食べ物、特になし。
嫌いな食べ物、特になし。
趣味、ピアノ。ただし、戯れに弾く程度。
特技――
私は、もう一度目を閉じる。
姉の、あの美しい笑みを思い出す。何度も繰り返し見た、静謐で、かつ見た者を蕩けさせる極上の微笑だ。
薄く瞼を上げれば、そこには、かの笑みがただ、存在している。
軽く上気した頬、左右均等に上げられた口端。少し右肩を高くしてみせれば、どんな人間でも一度は足を止めることだろう。
「笑った顔が、一番よく似ていますよねえ。いっそのこと、姉妹でデビューすればいいのに。元々、あなたも役者志望だったらしいじゃないですか」
「ふざ、けないで」
メイクスタッフの小さなぼやきを一蹴する。
声は喉の途中で詰まり、ゴム玉が水たまりで跳ねたようなものになる。
唇を噛みそうになって、直前で堪えた。
折角つけた紅が、台無しになってしまう。
私は、「押澤みずき」なのだ。
他の役は一つも満足にこなせなかった。
女学生も青年も、OLも老婆も、何もかもできやしなかった。
私は「押澤みずき」でしかないのだ。
「みずきさんも、何が気に入らないんだか。ただの一度も、疑いの目すらかけられていない演技力だと言うのに。強情なところも、似ていますよねえ」
私は首を横に振る。
似ている、では駄目なのだ。「押澤みずき」そのものでなければ、意味がない。
何もかもを知り尽くし、何もかもを理解しつくし、しかしその全てが感覚からくるものでなければ、「押澤みずき」ではないのだ。
押澤みずき。
得意料理、特になし。
苦手な料理、特になし。
得意科目、特になし。
苦手科目、特になし。
嫌いなもの、お喋りな人間。
好きなもの。
そこで私は、姉の部屋にある「菫」の文字たちのことを思った。
額縁に収められた同じ文字は、まるで遺影のようだったな、と。
ふとそんなことを考えた。
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