2.
姉が特に愛したのは、ゴシック体の「菫」だった。
「でも、線が太くてはいけないのよ。菫は、可憐でなくてはならない。かつ、安定感がないと」
彼女はそう言って、私と自分、そして写真立てに入っている「菫」の前に、紅茶のカップを置いた。
紅茶は、姉が唯一まともに作ることのできる飲食物だった。
三つのカップは、それぞれ同じように、小さな湯気を立ちのぼらせていた。
彼女のマンションの部屋は、「菫」で埋め尽くされている。
風呂場には、ラミネート加工が為された「菫」が張り付けられていたし、電子ピアノの譜面台には、まっさらな紙に印刷された藍色の「菫」が置かれていた。スミレ色の壁は、当然のように手書きやら何やらの「菫」でいっぱいだった。
なかでも彼女がいっとう好きらしい、細めのゴシック体で書かれた「菫」は、シンプルな木製の写真立てに入れられ、テーブルの上に座っていた。
黒く、細く、だが室内の家具の何よりも安定したそれは、素直に市販のクッキーが運ばれてくるのを待っていた。
数か月前はもっと殺風景だったはずだ、と私は考える。
モノトーンで統一されたローテーブルと、ベッドと、小さなクローゼット。それから、彼女の個性がようやく窺える電子ピアノ。
今はそれら全てが、一つの文字の中に埋もれていた。
私の部屋に来るたび、「もっと物を減らしなさいよ。ごちゃごちゃしてうるさいわ」と眉をひそめていた姉の部屋とは、とても思えなかった。
仕事道具と呼べるものは、現在も全て事務所に置いている。読書やゲームといった趣味を、姉は持たない。
そのため情報が多い癖に生活感のない、ひどく不自然な光景になっている。
古いエアコンが、ごう、と一声冷たい息を吐きだす。
異様と言っていいほど暑がりな彼女は、真冬以外冷房を必ずつける。
春をあと一歩待つ十二畳の部屋は肌寒い。
姉はそんな部屋の中で、イチゴジャムが乗ったクッキーを一つ、自分の口の中に放り込んだ。
「明朝体は駄目。あの子の一番いいところが崩れてしまうもの。ねえ、何だか分かる?」
高らかに、惚気るように問う彼女の唇は、ローズピンクに艶めいていた。
その口端には、クッキーの滓が点々とついている。
まるで砂粒のようだ、と私は思う。
子どもが遊び散らかして後に残った、公園の砂場の粒たち。
軽く息を零した私は、「対照的なところ、でしょ?」と何度も聞いた台詞をなぞった。
姉の瞳が輝く。
「そう! 脊椎のごとき一本を中心として、これほどうつくしい左右対称をつくりだしているものがあるかしら? それを、うろこなんかで崩してしまうだなんて、愚の骨頂よ! いえ、いえ、それでもその端正さを保っているところもまた、素敵なのだけれど。でも、やっぱり、私の隣に立つ『菫』は完璧でなくっちゃ」
そして、写真立ての中に入った「菫」の文字を、愛おしげに眺める。
これじゃあ、居酒屋で同じ話を繰り返す酔っぱらいと同じだ。
「本」や「空」、「茜」なんかも左右対称じゃないか、なんてことは言えない。「あんたは何もわかっていない」と激怒するであろうことは、目に見えている。
外面は良い癖に気分屋で、その上偏屈なところのある彼女の怒りは、誰にも止めようがなかった。
それは、彼女にそっくりな私が、一番よく知っていた。
だから私は「そうね」と相槌だけを打った。
正直なところ、姉の結婚相手が「菫」だろうが「茜」だろうが、どうでもよかった。
彼女のマネージャーとしての役目が果たせればそれでいい。
しばらく姉の惚気話を聞き流してから、私は立ち上がる。
「それだけ口が回れば、明日の収録は大丈夫でしょう。クッキーはあと一枚だけね。ああ、明日の朝食にリンゴがあるから。食パンとコーヒーはいつもの戸棚に」
一息に言い切る。口を挟まれたくなかったのだ。
動画配信サイトに上げられる、桜風味の一口ケーキのコマーシャル。
他のタレントや俳優に混ざっての参加とはいえ、いよいよ姉も大衆の目に映る機会が増えてきた。
CGの桜吹雪の中に立つ彼女の姿は、確かによく映えるだろう。
だが姉は、押澤みずきは、きょとんとした顔でこちらを見た。
「ありがとう。でも、明日はあんたが行ってよ。向こうの指示通りに立って笑うだけだから、演技下手くそなあんたでもできるでしょう?」
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