―ヒモロギ―


 わたし、にいさまの期待を裏切らないようにがんばります。

 ……だからどんなことがあっても、わたしを見捨てないで。


 ❁


 目を開いた瞬間、ゲイレの視界を埋めたのは、巨大なだった。

――怪物が、揺らめく炎のなかに立っている。

 水牛のような角に、赤く光る双眸。目を引くのは、その両手の先端から伸びた黒い鉤爪だ。洞窟の爪痕は、あの鉤爪によるものに違いない。


『女よ、汝が次のか?』


 地面から起き上がったゲイレの頭上から、地鳴りのような、おぞましい声が降りかかった。

 その声は、目の前の獰猛な牙を剥く怪物から発せられたものに違いなかった。


(悪霊妃? それよりも、これが、悪霊ハルなのか……?)


「……おまえが、わたしの末路か」


 薄々感じていた予感が確信へと変わり、絶望に胸を塗り潰されそうになる。オルグより命じられた悪霊に燈明を捧げるという儀式は、自分を処分するための方便に過ぎなかった。


(ついに見棄てられてしまったのだ、わたしは。この悪霊への供物として……これなら、修道院に送られるほうがよほどよかったのかもしれない)


 それでもなお、なけなしの気概でもって、ゲイレは顔を上げる。


(しかし、これがオルグ兄さまより命じられたなら……取り乱すわけにはいかない。兄さまは、感情的な人間を一番嫌っているから)


 長衣ドレスの埃を払うと、なるべく凜然と見えるよう、胸を張って立ち上がる。すると『ほう?』と愉快そうに悪霊が笑い声を立てる。


『俺を恐れないのか、王族の女よ。これまでルジャ王より捧げられてきた女たちは、みな死の恐怖を前に怯えていたというのに』

「オルグ兄さま――陛下より命じられたことであれば、わたしは自分の運命を受け入れるしかない」

『なるほど、自分の心の舵さえも他人に委ねる、そのうつろさが汝をあらゆる恐怖から退けるというわけか。恐れを知らぬ女よ、おまえは不幸な女だよ』


 ちり、とどこかで何かが焦げつきはじめる。


「……悪霊ハルごときに、わたしの何が分かる!?」 


 思わずゲイレは声を張り上げた。王妹として、どんなときも――出立の日も、離縁を言い渡された日も、けっして乱れぬことのなかった声が、震える。

 ゲイレはすぐに我に返ると、紋章石のない心臓のあたりをぎゅっと掴んだ。


 自分は感情的な人間でないはずだった。常に冷静で、そして冷淡な人物のはずだった。

 それがなぜ、今になって。


(わたしは、恐れているのか? 悪霊を? いや、もっと別のものを? ……わたしの中に、こんな感情が?)


「おまえに何がわかる? いや、わかるまい。所詮は子を産み、教育するための道具としてしか扱われぬ女のことなど」

『その役割に甘んじているのはお前の責任だろう? 不幸な女よ』

「だが、それ以外に……ッ、わたしに何ができる!?」


 火と煙の中に、ゲイレの声が反響した。

 すると悪霊が醜い声で笑い始めた。


『ああ、いいぞ。よっぽどいい。おまえの心の炎は、人間の中では格別うまいな。すすり泣く女どもの絶望の火よりもよっぽど味が良い。憎悪、怒り、呪詛……酔っ払ってしまいそうだ』


 ゲイレは悪霊の手のひらで踊らされていたことを自覚し、しかしいちど胸の奥から引きずり出されてしまった感情を収める術もわからず、拳に爪を立てることしかできなかった。


「さあ――頃合いだ」


 悪霊が口を開く。口の中で、青白い劫火が燃えている。ゲイレはおおきく目を見開き、舌の奥でごうごうと音を立て渦巻く火を凝視する。


(ここで終わりなのか、わたしは)


 そのとき、炎の中に踊る影が見えた。孔雀の羽だった。

 ゲイレの手からジギタリスの花をついばんだ、あの美しい鳥の羽。

 葡萄の木の下で兄の腕に抱かれながら、日の光に透かして眺めた記憶が蘇る。


 ――ああ、いまのわたしは、あの孔雀なのだ……。


 ていよく処分されるだけの……。

 遠のく意識の中で、ゲイレは無意識のうちに手を伸ばしていた。その手を炎の舌が舐めとろうとした瞬間、悪霊ハルはふいに口を閉じると、煙の入り混じった息を吐いた。


『――おまえ、な?』



  ❁


 目を覚ましたゲイレの目が捉えたのは、石造りの天井だった。


(ここは……)


 長い間、樹脂の煙にさらされてきたせいで、やにで黒ずんだ天井。宮殿のものとも似ているが、それよりもよほど無骨。ゲイレははたと我に返ると、周囲を見回してその小部屋を抜け出した。

 扉を開くと、冷たい風が階段の奥から吹き上げてきた。踊り場の小窓から身を乗り出し、ゲイレは眼下の光景に目をみはる。

 自分がいるのは、島にひとつしかない監視塔のようだった。窓からは島を一望できた。荒れ果てた赤土の島は間歇泉のようにところどころ火が噴き上げている。

 どれほど目を凝らそうとも、船着き場や近海に船影はない。


「誰だ」


 背後から聞こえた足音に、ゲイレは弾かれたように振り返る。

 目に入ったのは、階下に立つ見知らぬ男だった。黒い毛髪、浅黒い肌色はルジャ人にありふれたもの。しかしその柘榴石ガーネットの瞳に、人間離れした美しい容貌は、あきらかに異質だった。


 窓枠から離れ、男から距離をとるように後ずさって、ゲイレは懐をさぐった。


「全くつれない態度をとるな、わが妃は」

「……妃?」


 あからさまに顔をしかめたゲイレに対し、男は肩を揺らして笑った。


「供物はみな、悪霊に妃を寄越すという名目で捧げられているはずだが?」


 芋蔓式に昨晩の記憶が――兄の腹心イルハムに突き落とされた記憶とともに――よみがえり、短剣の柄を握る手に力がこもる。


「供物? まさかお前は、あの悪霊ハル?」

「いかにも。この姿の時は、アラトと呼ばれている」

「人間に化けるとは、小賢しい奴。いや……それよりも、なぜわたしを生かした?」

「なぜ? おまえに食いでがなかったからに過ぎん」


 肩をすくめ、悪霊――アラトは言った。


「もともと俺は人間の命までは奪わん。心が燃やす火とその火を溜めた紋章石だけを喰らうのだ。だが、おまえには肝心の石が存在しない。――いや、盗まれたと言うべきか」

「……盗まれた?」

「おまえからは、かすかに、古く邪悪な魔術の香りがする。つまり、悪意ある者がおまえの石を盗んだということだ。……俺の供物を盗むなど、不届き者がいたことだな?」


 小首を傾げながら同意を求めるアラトを前に、ゲイレは口もとに手を当てて考え込んだ。


(誰かが、盗んだ?)


 ならば、自分がこれまで受けてきた苦難は……。


「そこで取引だ。――その石を取り返したいと思わんか、わが妃よ?」


 柘榴石ガーネットの瞳を怪しく煌めかせ、男が笑う。

 差し出された手を、ゲイレは不機嫌そうにねめつける。


「俺との取引を望むのならば、汝に手を貸そう。幸い、汝の『炎』は美味いほうだ。当面の非常食にはなるだろう」

「……その取引、お前にどんな利が?」

「なに、退屈しのぎだ。口を開けていれば紋章石いけにえが投げ込まれる生活も楽で良いが、運動不足はよくないだろう。元来、俺は――」


 ――ごう、と火がぜるに似た音が響く。目の前の男がたちまち黒い煙となって、ゲイレの体に巻き付いた。

 煙に首や胸を絞められてもがくゲイレの耳元で、男の低い笑い声が響く。


「人の憎悪や怒りを食い、増幅させる悪霊ハル! 戦乱も戦禍も、すべてはわが手中。俺に燈明を捧げよ。怒りという名の燈明を! 俺はそれを喰らい、汝に力を与えよう! さあ、望むか? 望むと言え、女よ! 紋章石を取り返せ。汝に不遇を強いたものに復讐しろ!」

「っ、……」

「俺の退屈を紛らわせ、俺に怒りをべるならば、望むだけの火を大地にもたらそう!」


 黒い煙が視界を覆った瞬間、ゲイレは胸骨の奥で火花が爆ぜるのを感じた。


「わたしは……っ、」


 ――この悪霊は、秘めていた後ろ暗い感情を暴く性質があるようだ。

 触れられたくないものを無理矢理にでも暴かれる。抗おうとしても否応なしに、『それ』はずるりとゲイレの中から引きずり出されていく。

 怒り、憎悪……呪詛。嫉妬。

 ともすれば自分を飲み込もうとする衝動――


「っ……紋章石を取り返したい……」


 やっとの思いでそれだけを口にすると、ようやく煙から解放された。ゲイレは大きく咳込んで床に膝をつく。


「ならば取引を。女よ、汝の真名を差し出すがいい」


 逆光の中、アラトの表情をうかがい知ることはできない。ゲイレは肩で息をしながら、もつれそうになる思考を必死にめぐらせる。


(気性の荒い悪霊ハル。……しかしこの悪霊が言うことが本当なら、使い道がありそうだ。うまくやれば……わたしはまた、兄さまの役に立てるかもしれない)


 爪を立てて拳を強く握りしめる。ゲイレはアラトを睨みすえると、差し出された手をとり、立ち上がった。


「いいだろう、どうせもとより無い石。時がきたら、石は悪霊おまえにくれてやってもいい。……わたしの名はゲイレ。ルジャ国王オルグの妹、ゲイレ・バハル・ギュゼル」

「ならばゲイレよ」


 アラトが煙の匂いをする息を吐く。ゲイレの髪を一房すくいあげるとその表面に口づけ、赤い唇をゆがめた。

 

「――おまえは、いまから俺のものだ」

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