―爪痕―

 ゲイレを乗せた小舟は燃え盛る浜を迂回すると、島の裏側にある船着き場に到着した。

 イルハムの手を借りて、ゲイレは船から陸地に降り立った。


「現世の光景とは思えないほど幻想的です。さながら船の旅は、死出への旅路でしょうか?」


 あたりを見回してほうとイルハムが息をつく。夜闇を照らすように、白い火は浜にかぎらず島のあちこちで燃えていた。けぶる雨の中、火は一定の勢いで静かにくゆっている。


「殿下は何も感じませんか?」

「……どうでもいいとしか。それよりも早く、悪霊ハルの祭壇を案内しろ」

「まったく。昔から、殿下は人の機微きびというものが理解できないようで」


 肩をすくめ、「では、行きましょうか」と歩き出した彼のあとを追い、ゲイレもまた歩きはじめる。闇の中、炎のはぜるかすかな音と風の音だけが響いていた。

 炎の吹きだまりにすれ違うたびにわずかな暖かさを感じるだけで、兄の国ルジャの冬が常にそうであるように、あたりは極寒だった。


 けっして平坦ではない道を難儀しながら歩いてしばらくのこと。ふいにイルハムが樹脂オイルランプを掲げ、「ここです」と言った。

 樹脂の光が放射状に光が広がり、洞穴へと続く陸地が姿を現した。


「あの洞窟のなかに、火の悪霊ハルを祀る祭壇があるとのことです。……不安で?」

「まさか。ただ、燈明を悪霊ハルを封じた祭壇に置いてくるだけのこと」

悪霊ハルが実在するとは思わない? ――ああ、昔から、殿下はその類の話を怖がらないのでしたね。紋章石がないと、心に通う血まで冷たくなってしまうのか……まさかトキアの王は、殿下の冷血を嫌ったわけではありますまいな」


 「口が過ぎるぞ」と言えば、「ただの冗談です。戯れのようなものですよ」とイルハムが悪びれなく笑った。


(昔から、イルハムのことは気に食わない。……なぜ、このような男が兄さまのそばにいるのか)


 もし自分が男だったら。――イルハムのように、兄の側近として仕えられたのに。


 胸に燻る種火に火がつきそうになって、ゲイレは芽生えそうになる感情をそっと押しとどめる。海水で濡れないように長衣ドレスの裾を縛り、持ってきた蜜蝋の束に火を移す。

 ゲイレはイルハムと立ち位置を入れ替えると、か細い燈明だけを頼りに、洞窟の狭い入り口をくぐった。


 洞窟の中は完全な闇だった。


 手許の明かりだけでは、ほんの数歩先も照らすことができない。足場の悪い地面に、ゲイレはぬめる岩壁に手をつくと、すり足になって慎重に前に進むことにした。


「こうしていると、子どものころを思い出しますね、ゲイレ様。昔はよく三人で宮殿の裏にあった洞窟で遊びました」

「覚えていない。……兄さまが奴隷だったおまえを連れてきたのは、わたしが七歳のときだったか」

「ええ、たしか、そうでしたね。よく覚えていますよ。あの頃から、ゲイレ様はお母君に似てお美しかった。もちろん、今もお美しいですよ。陛下も、たくさんいらっしゃるご兄弟のなかで、ゲイレ様を一番に気にかけていた」

「……わたしは、突然現れたおまえのほうがよほど兄さまに気に入られているように感じていた」


 普段であればけっして口にしないようなことを口にしたのは、イルハムの言うように、ここ最近の出来事によって自分が思っている以上に疲弊しているせいかもしれなかった。

 胸の中で燻る。――火が。


「はて、そう言われても困りますな。高貴な御身と奴隷では、そもそも同じ舞台にいないのですから」

「だが、わたしはおまえのように兄さまと馬に乗ることも、一緒に剣の稽古をすることもできなかった。もしわたしが男だったら、いまも――」


――ごお、と地鳴りのような大きな音が響き、ゲイレは足を止めた。


 熱風が、地底から煤と灰を吹き上げる。あと一歩前に踏み出していたら、消し炭になっていたところだ。目の前の地面は大きく陥没し、その底で火が燃えていたのだから。

 あれほど冷えていた身体が熱風に当てられ、汗ばんでさえくる。

 ぐるりと周囲を見回す。目を凝らせば、陥没穴を囲むように、古びた燭台が並んでいた。


「ここが祭壇?」


 振り返り問いかけようとしたその瞬間、どん、と背後から押された。とっさに握りしめた蜜蝋の炎越しに、イルハムの顔が見えた。

 彼は無表情だった。


「ゲイレ様、あなたはオグル様の駒となるには、少々足りなかったようだ」


 上を向いたゲイレの視界に、大きく落ちくぼんだ岩の天井が映り込んだ。そこには、ひびのような三本の長い亀裂が走っている。


――まるで巨大な爪痕だと、ゲイレは思った。

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