―宮殿にて―

 天窓から射す光は砂埃を含んで、ざらりとしている。かしづくゲイレが身につけた深紅の長衣ドレス、細い腰を締め付ける青金石ラピスラズリを砕いたビーズコルセットは、その光に鋭利な輝きを打ち返した。

 堅牢な凝灰石によって組み上げられ、蜜蝋の煙と匂いが漂う、厳かな空間。――王の間に、ゲイレは二年ぶりに足を踏み入れていた。


「顔をあげなさい、ゲイレ。……こうもはやく、おまえがこの城に戻ってくるとはな」


 ゲイレは顔を上げ、結い上げた黒髪を飾る冠から垂れ下がる薄絹越しに高座を見た。


 香油と火薬のかおりを身巻き、鎧で全身を固めた屈強な男が、玉座よりゲイレを見下ろしている。光輝王の名にふさわしくその身から放たれる威圧感は、慣れ親しんだゲイレでさえ一瞬息を飲むほど。

――ルジャ国王オルグ。

 オルグはこの国きっての名君と言われている。北に火山を、そして領土の大半を開放的な荒野が占めるルジャ王国は、文明の交差路と謳われるほど交易が盛んな地である一方、その土地柄故に、外部の脅威に晒され続けてきた国である。

 オルグは優れた知略と魔術の活用によって周辺国を牽制し、ルジャ王国の版図を着実に広げていく君主であった。


「お目通りをお許しいただき感謝いたします、陛下」

「そう堅苦しく呼ばずともいい。昔のように兄と呼んでくれないか」

「……オルグ兄さま」

「ひどい顔をしているぞ、ゲイレ。あれほど美しく、自信に溢れていたお前が、いまは病葉わくらばのように力を無くしている」


 ゲイレは黙って顔を伏せた。そっと、下唇を噛みしめる。生まれ故郷への帰途となった旅路で、幾度となく噛みしめた唇には血の味がしみついていた。


(わたしは……兄さまの期待に応えられなかった)


 二年前、同じようにゲイレは兄王と接見した。ゲイレが大塩湖を挟んだ隣国の王に嫁ぐ直前のことだ。


『昔の約束をおぼえているか? おまえにしかできない役目を与えよう、ゲイレ。数多のきょうだいのなかで最も美しいわたしの妹よ。つ国に嫁ぎ、わが血とこころざしを広める国母となるのだ』


 兄より下された命の意図は明白だった。

 周辺国の脅威に晒されてきたルジャ王国にとって、婚姻によって縁戚を外に広げていくことは有効な外交策である。人質を差し出し、ゆくゆくはオルグの血と意思を継ぐものが地位を継いでいくのだ。


――しかし。


 ゲイレは額を床にこすりつけ、懇願した。


「申し訳ございません、兄さま。……わたしは、兄さまのご期待に応えられませんでした。しかし、次こそはうまくやってみせます。どうか、もう一度、わたしに機会を」

「そうは言ってもな、ゲイレ。確かに、幼い頃より三国一の花嫁と謳われたお前を妻に望む者は、ごまんといるだろう。しかし、望まれるだけではだめなのだ。――ただでさえ、おまえは紋章石を持たないのだから」


 『紋章石』。

 その忌まわしい響きに、ゲイレは奥歯を噛んだ。


 紋章石は、だれしもが心臓の横に生まれもつものだ。体内に滞りなく魔力を循環させるための機構とされ、親から子に受け継がれるものでもある。

 しかしゲイレには生来、その石が欠けていた。彼女の美しさを前にすれば紋章石の欠落は些細なきずだとされたが、大国トキアの王の側室として嫁いだ二年もの間、子にも恵まれなかったのだった。

 そして突如として言い渡された離縁。


──石を持たぬお前に価値などない。石なしの子が生まれてきたらどうするつもりか。


「ですが、子を産めなかったのは、わたしの責ではありますまい。現にあの王は正妃を溺愛し、指の一本もわたしに触れようとしなかったのですから」

「馬鹿なことを申すな、ゲイレ。それが事実とて、やりようはいくらでもあったはず。おまえは私の期待に応える機会をみすみす逃したのだ」

「……どうか、修道院送りだけはお許しを。次こそは、どのような手を使ってでも男を籠絡し、兄さまの意のままに操りましょう」


 するとオルグは片目をすがめ、思案をめぐらせるように黙り込んだ。


「――では。もう一度、お前には特別な役目を与えるとしようか」


 その言葉に、ゲイレはふたたび顔を上げた。

 緊張に震えそうになる体を叱咤し、兄の言葉をひたすらに待つ。


燃える浜ヤナル・サヒルに向かうのだ」


 燃える浜ヤナル・サヒル、とゲイレは口の中で復唱する。その名は耳にしたことがあった。国王の所有する島で、王族とて容易には足を踏み入れられない場所だったはず。


「……あの孤島ですか。あそこは無人島では……?」

「そこに封じられ、祀られる悪霊ハルに燈明を捧げてくるのだ。ヤナル・サヒルに棲まう悪霊は、古の代にルジャ国王と盟約を結んだ力ある者だ。気難しい相手だが、何かよい知恵が得られるかもな」

「知恵、ですか……」


(兄さまは、何を考えていらっしゃる? 悪霊は人に仇なす存在なのに、それを祀っているとは?)


 一抹の不安がゲイレの胸に芽生えたが、懇願した手前、疑問を口にすることははばかられた。


「島にはイルハムを同行させよう。今度こそ、私の期待に応えてみることだ」


 オルグの横からすっと前に出たのは、オルグの腹心であるイルハムだ。奴隷身分から王の側近に成り上がった野心者は、ゲイレとオルグの幼馴染みでもあった。


(……イルハム)


 イルハムはつまらなそうにゲイレを一瞥すると、「なんなりとお申し付けください、殿下」と底冷えのするような笑みを浮かべた。

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