ゴールデンドロップを濁らせて

翠雪

お嬢様と紅茶係

 我が国には、「紅茶係」という制度が存在する。貴族の令息令嬢へ、その大任を帯びた同世代の同性があてがわれるのは、五歳の誕生日パーティーでというのが相場だ。遊び相手、兼、監視役、兼、毒味要員、兼、エトセトラを担う彼らは、毎日三時のティータイムでは、主人のカップへ紅茶を注ぐ。このことから、彼らの存在は「紅茶係」なる呼称で定着し、出生を問わずして屋敷に住まうことを許されていた。


 紅茶産業が大黒柱であるこの地において、紅茶係は大変に栄誉ある称号——らしい。雨水で腹を膨らませていた幼い私には、モノクルをかけた執事長のご高説が、あまり響かなかった。彼の隣に立っている、気が強そうな女の子の眼差しに射抜かれているだけで、精一杯だったから。


「庭でお茶をするのも、随分久しぶりね」

「お嬢様は、花に囲まれるのがお好きでしょう」

「見目よいものは、全てわたくしに相応しくてよ」


 レースの扇を口元に添え、つんと澄ました私の主は、今日も今日とて美しい。ビスクドールのように白い肌に、海を思わせるサファイヤの瞳。陽光を照り返すブロンドは、シャンデリアが瞬く夜会とはまた違った、眩い輝きをたたえている。


「昨晩の、殿下とのダンスもお見事でした」

「言わなくていいわ。知っているから」


 この場にいるのは二人きり。カーテンが開かれた書斎の窓からは、家業に勤しむ旦那様が見える。野外用の火元にかけたガラスのケトルが、少しずつ音を立て始める。透明な粒が内側に増え、次第に大きな泡となり、水面を揺らす。


 こぽ。こぽぽ、こぽこぽこぽ、ごぽごぽごぽぽぽぽ。


 溺れる音を立てる湯を、茶葉を収めたポットに移す。琥珀色に変わる透明は、何百、何千、何万回も眺めてきた。お嬢様がねだるたび、いつでも望むまま淹れ続けたのは、紅茶係である私だ。はじめは薄さも渋さも分からなかったから、カップを二つ用意して、主人と一緒に飲んでいた。主従が同じテーブルにつくなど、作法知らずもいいところ。他人には言えない思い出と、温まったポットに蓋をして、小ぶりな砂時計をひっくり返す。フルリーフの茶葉に合わせた、三分半のおまじない。


 さらさらさらさらさらさらさら。


 私たちの頬を、そよ風が撫でていく。彼女がつまんだサンドウィッチには、ワインビネガーを纏ったキュウリのスライスと、薄く伸ばされたバターが挟まれている。耳のない白パンが、小さな口に消えていく。


「明日の婚礼も、晴れるといいですね。雨の式も縁起がよろしいですが、パレードとの相性もございますし」

「もしも降り出したら、街道を覆えるほどの大きな布で、屋根を作らせましょう。民草に風邪をひかせるなど、皇太子妃として失格ですもの」


 青い瞳は、一輪挿しに飾られた、深紅のバラを見つめている。ティーフーズが大好きな彼女らしからぬ、止まった食指を咎めはしない。普段ならば、紅茶を供する前に、セイボリーは空になる。招かれた先では良い子で待つが、気心の知れた幼馴染には別なのだ。腹違いの姉妹でもあると、きっと知られているのだろう。正妻が身籠ったお嬢様と、使用人が孕んだ紅茶係。なるほど、不思議に手厚いこの仕事が、歴史の中で廃れなかった理由も分かる。跡目争いを未然に防ぐ、実に合理的な制度だ。


 紅茶係は、主人の婚礼と共に、任を解かれる。その後は屋敷に仕え続けるもよし、紅茶に関する職に就くもよしと、先の選択肢はそれなり多い。ただ、自立した皇族や貴族をそそのかし、傀儡にするといった執政の崩壊を防ぐため、同じ主人に仕え続けることは禁止されている。


 だからこれは、私とお嬢様の、最後のティータイムだ。明日の輿入れが終わったら、二人でいられた大義名分は、紅茶に沈ませた角砂糖のように脆く崩れてしまう。砂時計の中身はとうに落ちきって、いつの間にか、そよ風すらも止んでいる。頃合いを逃したダージリンを、金縁に彩られたカップへ注ぐ。食が進んでいない彼女の前へ差し出せば、ありがとう、と小さく聞こえた。


 飴色の液体が、柔らかな唇に迎え入れられる。


「……渋いわ」

「申し訳ございません」

「罰として、貴女も飲みなさい」


 用意したティーセットは一人分。加減が分かっていなかったかつてのように、二つ揃えてはこなかった。


「ぬるい紅茶は、わたくし嫌いよ」


 すがめた目で急かされて、白魚の手からカップを受け取る。磨かれた爪に指先が触れて、危うく中身をこぼしかけた。飲み口を汚しているのは、淡い紅色。私たちが互いに残せなかったキスマークが、こんなにも簡単に、あっけなく、道具風情につけられてしまうなんて。


 私は、赤い痕に唇重ね、熱い紅茶を飲み干した。


「本当、渋いですね」


 唇に垂れた雫を、舌で舐めとる。私は貴族ではないので、これくらいのマナー違反は目溢される。その代わり、貴族ではなく、また、婚姻が叶う性でもない私は、彼女の傍に居続けることだけ許されない。


「嫁ぎ先では、もっと美味しい紅茶を淹れてもらってください」

「馬鹿なことを、言わないで」


 微かに震えた彼女の声は、春風に端を攫われる。令嬢と紅茶係の蜜月は、ティータイムの終わりを告げる鐘によって、十五年の幕を引いた。

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