第5話
*
――明日、ノイマン家に同行する約束を取り付けたことはよかったけど、すっかり遅くなっちゃったな。
春の花は咲き始めたものの、まだ夜は肌寒い。薄暗い宮廷の廊下を進みながら、アルドリックは手をこすり合わせた。向かう先は薬草部だ。
コツコツと足音を響かせ辿り着いたドアを、生真面目にひとつ叩いて入室する。
「失礼します。エリアス・ヴォルフ一級魔術師殿の件なのですが――って、もしかして、きみしか残ってないの?」
がらんとした部屋を見渡し、アルドリックは目をぱちくりと瞬かせた。机と器具が整然と並ぶ室内にいるのは、薄桃色の髪を持つ同期だけ。
「おお、お疲れ」
手作業を止めたエミールが、華やかな顔に気安い笑顔を乗せる。
「うちの上長はのっぴきならない用があるとかで定時で帰られてな。その件の報告は、代わりに俺が」
「そうなんだ、ありがとう」
手に持った羽ペンでちょいちょいと招かれ、アルドリックはエミールの隣の椅子に腰を下ろした。
書類仕事を片付けつつ、自分の戻りを待っていたということらしい。覚えた申し訳なさに、アルドリックは眉を下げた。
「ごめんね、遅くなって。でも、のっぴきならない用っていったい……」
「帰る口実だと思うが。おまえも知ってのとおり、うまくさぼる人だからな。それより、どうだったんだ、噂の氷のご麗人は? ああ、同郷なんだったか」
「ええ……、なんなの、その呼び名」
「王都のお嬢様方のあいだで有名な呼び方らしいぞ」
知らないのか、と揶揄う調子でエミールが瞳を細める。
「いつだったか、うちの妹も目を輝かせていたからな」
「ああ、ニナちゃん」
年の離れたエミールの妹のことである。頭に浮かんだ愛らしい笑顔に、アルドリックは苦笑をこぼした。
「そっか。王都の女学院でも噂になってるんだ。なんだかすごいなぁ」
彼女の通う学校は、良家の子女が集う王都随一のお嬢様学校だ。そんなところでも噂になっているなんて、さすがというか、なんというか。
――氷のご麗人っていうのは、ちょっとあれだけど。
エリアスが知れば柳眉を顰めそうだと想像をする。
「まぁ、最近は『眠り姫の毒』の話題で持ち切りらしいがな」
「……やっぱり?」
「女学院の教師陣から、正規でない店で買うなと厳しいご指導が入ったとも言っていたが」
聞かないだろうな、とエミールは軽く肩をすくめた。
「さすがの嗅覚と言うべきか、夢見がちな女子どもが好みそうなネーミングだ。あいかわらず、流しの連中は商売がうまい」
「違法か適法かと言われると、本当に微妙なところなんだけどね」
諦め半分で、アルドリックは相槌を打った。責められるべきは子どもでなく、流しの魔術師であるのだが。
無論、「グレー」というお為ごかしで販売を許している宮廷にも非はあろう。
「お隣のフレグラントルは、取り締まりが厳しいというからね。件の魔術師も東の小国に入ったのだと思うけど」
我が国も厳格にすべきではないのかなぁと思いつつ、「まぁ、とにかく」とアルドリックは報告に戻した。
「ノイマン家のご令嬢の件については、ヴォルフ殿が了承してくれたからよかったよ。さっそくだけど、明日、ノイマン家に向かうつもりでいる」
「承知した。向こうも急いでいるだろうからな。明日の朝、こちらから一報を入れておけば、いきなりだなんだと文句は言わないだろう」
「ありがとう」
ほっとしたアルドリックに、エミールがにやりと口角を上げる。
「しかし、それにしても」
「うん? なに?」
「いや、あのご麗人からよく快諾を引き出したものだと感心してな。うちの人間が訪ねたときは、塔の前ですげなく追い返されたらしいぞ」
指にはめた魔石の指輪を回しながら人の悪い顔で笑うので、アルドリックは、はは、と愛想笑いを浮かべた。
なにをやってるんだ、きみは、と。頭を抱えたい気持ちが半分、渋々でも引き受けただけ良しとせねばならぬか、という諦念がもう半分である。
「薬草部の魔術師が担当すればいいだろう、とは言っていたけどね」
「違いない」
愉快そうに喉を鳴らしたエミールは、あっさりと事実と認めた。
「うちの上長からすれば、ノイマン家の当主が天才の名前を出したことが幸いだったわけだ。うまくさぼる人だからな」
「やっぱり調合がわからないと、解毒薬をつくることは難しいものなの?」
「単純に時間がかかる。リスクも増える。斜陽とは言え、一応は子爵家だ。おまけに当主は娘の結婚話に賭けている。そんなものに手を出したいと思うか?」
「……思わないだろうね」
まったく嫌な判断だ。溜息を吐き、アルドリックはちらと友人を見やった。
「ニナちゃんと同じ学校の子なんだよ」
まだまだ大人の庇護が必要な、未熟な子ども。
魔術の才があったために、エミールは魔術学院で学び、宮廷の魔術師として働いている。けれど、彼の家は子爵家だ。当然、彼の妹も。恵まれた家に生まれ、両親と兄に愛されて育ったお嬢様。愛らしいニナ嬢の笑顔が過るにつれ、アルドリックはノイマン家のお嬢様が気の毒になる。
弁えているものの、彼女の父親が家名ばかりを気にしているふうなことも。貴族の世界では珍しくないと承知していても、学生の彼女が結婚を強いられていることもそうだし、怪しい薬に手を出すまでに追い込まれたのだろうこともそうだ。
表情を曇らせたアルドリックに、エミールは軽薄な態度を改めた。
「知っている。口さがない噂も出回っていると聞いた」
「口さがない噂……。それはノイマン家のお嬢様に対する?」
「まぁ、そうだ。こう言っちゃなんだが、そういうお年頃だからな。おまえが気になるならニナに聞いておくが、過剰に入れ込まないほうがいい」
「わかってるよ」
あくまで仕事と釘を刺され、苦笑まじりに頷く。一応の理解はしているつもりだ。薬草部が自分に期待をしている役割も含めて。
そういったわけだったので、「とりあえず、明日一緒に伺ってみるよ」とアルドリックはほほえんだ。
とにもかくにも、案件の解決に向け、最善を尽くすほかないだろう。ノルマン家の訪問が無事に完了することを願い、報告は終了となった。
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