夜の結者

エンピーツ

第1話 混沌殺人事件

 あの冬の冷たさと濡れた指を、僕はいまでも覚えている。

 日付は2003年の12月24日、クリスマスイブ。たぶん僕が、歴史に名を刻んだ日。


『はあ!』

 目を覚ました6才の僕が、ベッドを跳ね起き、階段を駆け下りた。深夜に降る雪が積もると聞いて、朝を待ち望んでいたからだ。

『雪だ!』

 リビングのカーテンを開けると、晴れた良い天気に、雪景色が広がっていた。

 この時の僕は、まだ雪の切なさを知らない。だから玄関を飛び出し、庭で雪遊びを始める。雪を丸めて重ねたり、意味もなく投げたり、指が冷えるのを気にもしない。

『カナタ、寒いでしょ』

 長い黒髪を後ろにまとめ、白いセーターにジーパンをはいた女性が、手袋とダウンジャケットを持ってやってきた。

 母さんだ。

『ありがとう』

 6才の僕が手袋をし、クリーム色のダウンジャケットを着る。


 雪遊びを始めてしばらくが経ち『シチュー、できたわよ』とリビングの窓から、母さんが顔をみせた。

『うん』

 室内に戻り、母さんと向かい合うようダイニングテーブルに座って、木のスプーンでシチューを食べる。

『どう?』

『おいしい!』

 6才の僕が元気よく答えた。


 食事を終え、皿を片づけながら『クリスマスツリー、作ろうか?』と母さんが提案し、『うん!』と6才の僕がうなずく。

 ツリーが収納された大きな箱を、押入れから二人で引っ張り出し、ほこりがついたお互いの顔を見て笑い合う。

 部品を組み合わせ、プラスチックのコニファーを立ち上げ、『これが……ここで……これは……こっち』と6才の僕が飾りをつけていく。

 光る球体やリボンを装飾し、最後の仕上げに、

『できた!』

 とツリーの頂点に星を刺す。

 クリスマスツリーが完成したところで、母さんの視線が窓に向く。日が沈み、外はすでに暗闇だ。

『カナタ、出かけようか?』

『どこに?』

『秘密』

 母さんがいたずらな笑みを浮かべる。

『教えてよ』

『ダメ』


 母さんが車を走らせ、外出する。

 駐車場に車を停め、星のない夜空の下を歩き、辿りついた先は、駅前の広場だ。

『うわー』

 6才の僕が、感動の声を上げる。

 大きな杉の木が立ち並び、そこに巻きつけられた無数の電球が発光して、景色がシャンパンゴールドにきらめいていた。

『ケーキ買ってくるから、ここにいてね』

『ケーキ!』

『予約しておいたの』

 ほほ笑み、駅前のケーキ屋に入店する母さん。

 6才の僕は、ひとり輝きの中に立つ。これほど美しい光景が広がっているのに、周囲に人の姿はなく、光の泡が浮いている。

 世界をひとり占めにした。そんな錯覚をし、喜ぶ6才の僕の耳に、それは届く。

『はあ……はあ……』

『え?』

 どこからか苦しそうなあえぎが聞こえ、6才の僕が辺りを見渡すも、声の発生源が分からない。

『……はあ……はあ……』

 本来なら届くはずのない小さな音。なのに遠くからひびいてきて、耳に迫ってくる。

『はあ、はあ……』

 人間を最も引き寄せるのは、死の匂いだと思う。いまにも死にそうなあえぎに魅了され、6才の僕が歩き出す。

『はあ、はあ、はあ……』

 近づくにつれ、あえぎが大きくなっていき、少し遠くに人が倒れているのを見つけた。

『⁉』

 6才の僕が駆け寄ると、女の人がはだかで、うつ伏せになっていた。

 ……雪の上に、はだかの異性。

 その姿には夢精しそうな魅力があって、顔は分からないけど、きれいな肌と艶のある黒髪から、10代後半に思えた。

『だいじょうぶ?』

 6才の僕がひざを落とし、女の人の肩を揺さぶる。

『あぁ……』

 女の人が顔を上げるも、乱れた長髪にかくれ、表情の全体は知れないが、胸の上部が見えた。髪のすきまから覗く目には光がなく、真っ黒な瞳から血の涙が流れる。

『血が出てるよ』

 流血を止めようと、6才の僕が、女の人の目の下に指を当て置く。女の人の体は冷たいが、指をぬらす血は温かい。

 それは突然に起きた。

 子宮に傷でもついたのか、女の人の尻の下、女性器からも出血が始まり、雪に円状のシミが広がる。

『…………』

 女の人にふれたまま、6才の僕が動きを止め、固まり――瞳が赤く染まった。

 意識が飛んだせいで、この瞬間のことは覚えていないけど、女の人の何かが、僕の中に入ったんだと思う。

『……⁉』

 数秒後、瞳から赤が消え、6才の僕が我に返る。

『待ってて。助けるから』

 6才の僕が走り、ケーキ屋の前に戻ると、買いものを終えた母さんが視線を回していた。

『カナタ、どこ行ってたの?』

『きて。人が倒れてる』

『え?』

 母さんの手を引き、6才の僕が再び走る。

 女の人を助けようと必死になって。

『……いない』

 母さんを連れて行くと、女の人がいなくなっていた。最初から何もなかったみたいに、雪についていた血すらも消えている。

『ここに女の人が倒れてたの』

 6才の僕が、地面を指さす。

『カナタ』

 母さんが表情を険しくし、腰を落として、6才の僕と視線を合わせた。

『幽霊を見たの?』

 母さんに指摘され、6才の僕も顔色を悪くする。

『……そうかも知れない』





 帰宅し、ダイニングテーブルに座る6才の僕。

 雰囲気づくりで、母さんがオルゴールをかけ、照明の代わりにランプを灯す。

 うす暗い部屋にひびく静かなメロディー。

 テーブルの上に箱を置き、母さんがふたを開けると、ケーキが現れた。

『おいしそう!』

 嬉しさのあまり、6才の僕が身を乗り出す。

 ホワイトクリームにイチジクをそえた、ホールケーキだ。

『たくさん食べてね』

 ケーキを切り分けようと、母さんが銀一色のナイフを握る。

『僕が切りたい』

『気をつけて』

 母さんからナイフをもらい、6才の僕が立ち上がる。

 そして、ケーキを切ろうとした瞬間、6才の僕の瞳が赤く染まり、そのまま意識を失った。





『……⁉』

 オルゴールのメロディーが奏でられる中、瞳が黒くなり、6才の僕が意識を取り戻す。

 最初に感じたのは、手に貼りつく温もりだった。

『え……』

 両手のひらを見下ろし、赤く濡れていることに気づく。手についているそれが血と理解するのに数秒かかり、視線を上げると母さんと目が合った。

『……母さん』

 クリスマスツリーの頂点に、母さんの首が刺さっていた。結んでいた髪が乱れ、目には光がなく、流れ終えた血がツリーを染めている。

『……あぁ』

 ふるえ、6才の僕が後ずさり、足の裏にやわらかな感触が走った。反射的に視線を落とし『はぁ』と声を詰まらせる。

 足元に耳が落ちていた。

 それだけじゃない。

 切断された指や腕、ちぎれた肉片が部屋中に散乱し、飛び散った血が6才の僕に付着している。

『…………』

 瞳を揺らし、6才の僕はただ固まった。




 さびた鉄の匂いがする部屋で夜を過ごし、朝になる。意味もなく外を歩き、血だらけの姿を怪しく思われ、すれ違った人に通報された。

 警察がやってきて、調査が始まり、犯人はすぐに捕まる。

 そう、僕だ。

 クリスマスツリーの近くに落ちていた銀一色のナイフ。それが母殺しの凶器と断定され、僕の指紋が検出された。

 侵入者の形跡もなく、犯人は僕以外にありえなかった。

 6才の子供によるバラバラ殺人。本名こそ伏せられたが、当然のように世間を騒がせ、すべてのニュース番組がこの事件を報道した。

『6才の少年が母を殺しました』

『どのように人を解体したのか、警察の発表はありません』

『この事件を混沌殺人事件こんとんさつじんじけんと呼ぶ動きが広がっています』

『混沌殺人事件を起こした少年Ⅰ。家庭環境にどんな問題があったのでしょうか?』

 僕が死んで、僕の人権がなくなったあと、僕の本名が公開され、行方彼方いくえかなたの名が歴史に刻まれることだろう。

 混沌殺人事件を起こした、猟奇的な犯人として。




 過去の回想が終わり、世界が暗くなる。

 僕はひとり、暗い世界に立つ。上を見ても、下を見ても、見えるのは黒一色。どこまで行っても続くのは闇。

 そんな何もないと思える世界にも、ひとつだけ目立つものが存在する。

 それはコップだ。

 ガラスでできた透明なコップが、僕の目の前に置いてあって、高さが2メートルぐらいある。

 もちろん、こんな巨人用のコップ、あるはずがない。ここは精神世界、つまりは夢。さっきまでずっと、母さんを殺した時の映像を見ていた訳だ。

 ふと、コップの表面に映る自分と目が合う。なんとなく僕の目は悲しそうで、葬式に行く時のスーツを着ていた。

「その空のコップ」

 声が聞こえ、振り向くと、西部開拓時代のガンマンが立っていた。

 ガンマンの名前はジョン・デンリー。身長190越えの白人男性で、見た目は40過ぎほど。口の周りに茶髪の髭をはやし、頭に乗せたハット帽も、背に羽織るマントも茶色だ。

「なにを象徴するか分かるか?」

「分かるよ」僕は胸をつかむ。「心の穴。僕の心の欠けた部分」

「そうだ。おまえは人殺しだからな」

 ジョンが言葉を終えると、暗い空に光がさす。世界が一気に白くなり、まぶしさで僕もコップも消滅する。

 目覚めの時間だ。

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