閑話

蜘蛛女の肖像~彼女はなぜ、悪魔に魂を売ったのか~

 シンディ=ライアルクは、ロクレスト王国の公爵家の生まれだった。

 王国を支える五つの柱、《五大公》の一角たるライアルク公爵家は、代々女性が当主を務める騎士の名門。

 故にシンディも次期当主として、物心ついた頃から厳しい訓練を課せられる。


 しかし――シンディはその家格と血統に相応しい才能に恵まれなかった。

 最も重要な光属性の魔力が目覚めないばかりか、剣の腕も凡庸そのもの。


 誓って、怠惰に過ごしたわけではない。そんな暇も与えられはしない。

 手の皮が擦り剥け、血が滴るほど剣を振るった。

 足腰が立たなくなるまで体を鍛えた。模擬戦で何度もボロ雑巾にされた。

 精神集中の鍛錬だと、極寒の湖で水浴びをさせられたこともある。

 それでも、当主たる母や周囲が満足するほどの成果は一向に現われない。


 結果、シンディは母から叱責を浴びせられる毎日だった。


『なぜできないの。なぜやらないの。弱音を吐かないで。甘ったれないで。貴女の背中には、民の未来がかかっているのよ。貴族の、騎士の責務として、貴女は正しく強く在らねばいけないの。さあ、もう一度!』


 遅々と成長しない愚鈍さを詰るように、一日の全てが訓練に費やされていく。

 団欒も娯楽も許されず、友達と遊ぶなんて以ての外。教養のためにと楽しくもない踊りや茶会の練習で、失敗してはまた叱られる。

 自室に閉じこもって、手遊びに糸くずを弄くるくらいしか自由がない。


 ――どうして、私がこんなことをしなくちゃいけないの?


『私たち貴族は、国に尽くし民を守る義務があるんだよ。恵まれた生活、恵まれた魔力はそのためのもの。だから君も、皆を守れるよう強くなる義務があるんだ。君は賢い子だから、わかってくれるね?』


 ――痛いよ。辛いよ。苦しいよ。


『訓練が辛い? そりゃあ、訓練なんてそういうものですよ。シンディ様は……ほら、飛び抜けて才能が豊かというわけではありませんし? その分、たくさん苦労して訓練しなければ強くなれないのですよ。公爵令嬢の立場に相応しい強さとなれば、尚更のことで。ま、これも貴族様の責務というヤツでしょう』


 ――お母様が怖い。嫌い。憎い。


『当主様は、貴族の義務と使命を重んじる立派な御方です。公爵領がこんなに平和で豊かなのも、当主様の厳しさと慈悲深さがあってこそ。シンディ様に厳しくするのも、立派な貴族に成長して欲しいという愛情の裏返しでしょう。だから、シンディ様。当主様が憎いだなんて、そんな酷い言葉を口にしてはいけませんよ?』


 ――もう嫌だ。貴族なんてやめたい。なにもかも投げ出したい。


『なにをおっしゃいますか! 世の中には毎日の食事にも苦労し、魔物に怯えながら暮らす人もいるんですよ! それに比べたら、お嬢様はなんと恵まれていることか! 自分一人が不幸みたいな物言いはおやめなさい! そんなワガママばかり言っては、立派な騎士にはなれませんよ!』


 父も、剣の先生も、侍女も、町の商人まで。

 誰もが皆、正しくて強くて立派な母を慕っていて。

 だから誰も、ただの一度だってシンディの味方になってはくれなかった。

 お前が悪い。お前が間違っている。そう宥め、諭し、慰め、咎めるばかり。


 ――ああ。私が泣こうが喚こうが怒ろうが、なにをどう訴えても無駄なんだ。

 そう悟って、いつしかシンディは仮面を被った。周囲が望む通り、泣かず喚かず怒らず、言いつけを守って鍛錬に励む「良い子」の仮面を。


 それでも周囲が納得する成果は出ないまま、叱責を浴び続ける日々が延々と続く。


 そして未来の《勇騎士ユーナイト》を育成する学園への入学を目前に控えた、12歳のある日。

 たぶん、精神的に限界だったのだろう。衝動的に屋敷を飛び出し、町を当てもなく彷徨った先の路地裏で――シンディは、悪魔に出会った。


『なあ、お兄さんたち。ちょっと俺と遊んでくれよ?』


 少なくとも、見かけは自分と同じ年頃の少年。

 黒髪金眼。顔立ちは整っているくらいなのに、「こいつは人でなしの悪魔だ」と一目でわかる、そんな面構えだ。


 なにせ昆虫の……バッタのごとき異形の脚で、殺戮の真っ最中なのだから。

 相手は町のゴロツキども。衛兵も相手にしないような小悪党だ。

 暴力だけが取り柄の輩だが、少年の異常な力の前には為す術もない。


『なんだこいつ、バケモノか!?』

『ひぃぃぃぃ! 助けて、助けてええ!』

『ヴァハハハハ!』


 相手を引っ掴んで高々と跳躍し、地面に突き落とす。

 相手の体に脚を引っかけ、壁に叩きつける。

 人間業でない跳躍力からの飛び蹴りで、相手の頭を水風船のように破裂させる。


 それは殺戮よりも、異形の脚の力を堪能するかのような暴れぶりだった。


『ヴァハハハハ! やっぱりバッタは好いなあ! ヴァハハハハ!』


 玩具で遊ぶ子供そのもの。返り血を浴びながら、心底楽しんでいる笑顔。

 異常。異形。邪悪。正しさとは対極の彼岸に座する、まさに悪魔の姿だ。

 ……それなのに少年が誰に憚る様子もなく、あんまり楽しそうに笑っているから。


『ん? なんだい、お嬢さん。これが面白い見世物にでも……え、見えるの?』


 なんだか羨ましくなって、シンディも思わず笑っていたのだ。

 そのまともでない反応に、まともでない少年は興味を抱いたらしい。


『随分とまあ鬱屈を抱えた面じゃないか。誰か、殺したいヤツでもいるのか? ――なあに、俺は悪魔だからな? 良い子ちゃんのフリなんかしなくたって、慰めもお叱りもお説教もしないさ。どんな汚い言葉も、笑って聞き流してやるよ』


 我慢することはない。泣き言も恨み言も罵詈雑言も、好きなだけ吐けばいい。

 まさしく悪魔が人を誑かすときの調子で少年は言う。

 それは今まで誰も言ってくれなかった、ずっと誰かに言って欲しかった言葉で。


『~~~~っっ!』


 ――辛い。苦しい。なんで。嫌だ。助けて。逃げたい。どうして。死にたい。嫌いだ。うるさい。知らない。どうでもいい。邪魔だ。どいつもこいつも。憎い。殺したいコロシタイコロシタイコロシタイコロシタイ――ッッ!


 何年にも渡って押し殺してきた負の感情が、シンディの口から溢れ出した。

 悲哀。絶望。怨恨。憤怒。憎悪。殺意。善良な人間なら誰もが眉を顰め、非難の言葉を返すであろう悪罵を吐き散らす。


 悪魔は前言を違えず、慰めも叱責もしないでくれた。

 憐れむことも嘲ることもなく、ただ笑っていた。


『そうかそうか。……じゃあ良い物、いや悪い物をやろう』


 こちらがまだ嘔吐いているのも気にせず、悪魔が奇怪な鍵を差し出してくる。

 それは、人に魔物の力を与える邪悪な魔道具だった。

 身体が怪物に変わり、自分が自分でなくなるような感覚は――「自分」というものを捨ててしまいたかったシンディに、涙が出るほどの感動と開放感を与えた。


『その辺に捨てて忘れるのもよし。俺のことを誰かに打ち明けるのもよし。まあ、お前の好きにしろよ』

「こうすればいい」とも、「こうするべきだ」とも、悪魔は言わなかった。


 それもまた、「貴族として、騎士としてあるべき姿」を強要され続けてきたシンディには心地好く感じる。

 シンディは一つだけ尋ねた。――対価に、私はなにを差し出せばいい?


『対価? うーん、単に面白くなりそうだからやっただけだしな。強いて言うなら……お前が劇的になにをしでかすか、特等席で見物させてもらうよ』


 期待に満ちた眼差し。けれど両親たちと違って、重圧も嫌悪感もない。

 それは多分、そうあるべき理想像などではなく……シンディ自身の中に眠る『悪魔』に向けられた期待だから。


 どこまでも邪悪な悪魔の振る舞いが、シンディにとっては新鮮で心惹かれて。

 シンディはすっかり、悪魔に魅入られてしまったのだ。


 ――その日。シンディは屋敷の家族を、街の民を、一晩かけて虐殺した。

 そして自ら悪魔に魂を売り、自らもまた悪魔の一員になったのだ。

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