青を見にいきましょう
「期待のルーキー君が頑張ってるぞ」
デスクの後方から声がかかる。自然とパソコン作業の手が止まってしまうのは、僕自身が休憩のきっかけを求めていたから、だと思う。
近似値だとかオポチュニティーだとか、別の言葉で置き換えればいいような煩わしい単語がブルーライトと共に並ぶ。それらをわざわざ丁寧に、そして体裁よく説明するがためのグラフや図画を、プレゼン資料に落とし込む作業に辟易しかけていた。
時刻は21時。すでに僕周辺のフロアと渡り廊下にしか電灯は灯っていない。
振り向くと、3つ上の丸内さんが、一対の缶コーヒーを手に立っていた。
ビジネスバッグをかけ、丈の長い外套を羽織っている姿から見るに、彼女もこれから退社するところらしい。
「実力派の先輩さんも頑張ってくださいよ」
入社当初から僕の面倒を見てくれている人だが、未だに、実態、というか、丸内さんを端的に形容する言葉を見出せない。不思議な人、で括るには常識的な範疇に位置しており、かといって普遍的なのかと問われればそうでもない。竹を割ったような性格に見えて、繊細な一面もあって。
もっとも、先輩と後輩の距離感など業務に差し支えない程度を保っておけば十分だし、それ以上深く考える必要も感じなかった。
背丈は高く、暗い部屋の中で遭遇してしまえば、男性社員かと見間違う可能性はある。
名前に反して、丸、というよりは縦の長方形のイメージの方が近いだろうか。それ以上の形容は思いつかない。
「これ、来週の社内プレゼンの資料?」
「係長に何度も提出してるんですけど、そのたびに弾かれちゃって」
丸内さんは横からパソコン画面を覗くと、文章を小声でつぶやきながら目を滑らせる。資料に対してのコメントを求めようかと思ったが、休憩のつもりで丸内さんの話に耳を傾けたところだったことを思い出し、時間が過ぎるのを待つことにした。
ひと段落置いて、顔を上げたあと、手にした缶コーヒーを2つとも僕の前に突き出した。
「無糖と微糖、どっちがいいかな」休憩所に設置されている自販機のものだ。
「無糖で」
「じゃあ、微糖の方をあげる」
「なんで訊いたんですか」
「私が無糖派だからね。噛みあいが悪かった」
不満を呈しつつも、小声でありがとうございますと唱えてから、差し入れを享受する。真冬だが、コールドの缶コーヒーだった。プルタブの爪を立てて、カポ、という音が2回続く。丸内さんが先に一口飲んだあとで、画面と僕を交互に見た。
「もう帰ったら? 係長いないじゃん」
「せめて納得のいく手直しを作ってからにしたいです。じゃないと眠れない」
「君にとってはじめての晴れ舞台だもんね。気を張るな、って方が難しいか」
「正直、どれだけ詰めても満足のいく資料ができあがる気がしないです」
「肩に力が入りすぎなんだって」
よし、と丸内さんはバッグを足元におろし、髪をかきあげた。柑橘系の匂いが鼻をかすめる。
「たまには先輩っぽいことのひとつでも説いておきますか」
そういうのは宣言するものではないですよ、と指摘せずにはいられないが、指摘せずにいられるのは先輩と後輩という高い仕切りのせいだろう。
アイスの缶コーヒーは長らく飲まれていなかったために、分離した乳成分が表面に浮いている。缶の下から賞味期限を確認すると、来月の今頃には切れてしまう。
いいかい、と指が立てられた。
「料理にさしすせそがあるように、仕事にもさしすせそが存在します」
はじめて耳にする言説だったが、そこまでの訓示も得られない気もした。もの新しさとうさん臭さが同居する題に訝しさを覚えるが、丸内さんは構わず続ける。
「仕事のさしすせその”さ”、サボれ」
「もう残りを聞きたくないです」
思わず失笑してしまうところであった。先輩からのありがたいアドバイスを賜るというシチュエーションで、まさか不道徳を奨励されるとは夢にも思っていなかった。
これぞ丸内さんが丸内さんたりえるゆえんでもある。勤勉なようで無精者なところが。
いったい、何を思ってこの教えを僕に説いているのだろうか。
「”し”はしくじれ、”す”は涼め、”せ”は背負うな……」
「あーはい、はい」思わず手で制止する。「もういいですって」
「今、何を言っているんだこの人は、と思ってるでしょ」
「ご明察です」
「私が同じことを説かれた時、今の君と同じ顔してた」でも、これには真意があってね。せき込みをひとつ。「働きアリの法則って知ってる?」
「さすがにそれくらいは。組織は2割の有能と、6割の凡人と、2割の無能で成り立つってやつですよね」
「私が言いたいのは」数秒の間。「その2割であれってこと」
「えっと、有能な方の?」
「文脈の迷子か。無能の方の2割に決まってるじゃない」
理解が及ばない。もったいぶった真意とやらも、結局は不道徳の奨励ではないのか。
缶コーヒーを口に運ぶが、微糖の甘未よりも先に、はく離した乳成分による、無味無臭の、煮凝りのような舌触りの物体が味覚に着地した。思わず缶を傾ける手を止める。
ジジ、と廊下の蛍光灯が明滅した。
「僕を退職に追いやったら手当でも貰えるんですか」
「人聞き悪いなぁ。2割の無能は、良しあしというか、組織を運営するうえで絶対に出来あがる構造なわけ。無能の2割を排除しても、平凡の末端がそこに格下げされるだけの話」
「慰めにもなってませんよ。自ら選んで排除される場所に立つなんて、どうかしている」
「というかすでに、君は現状として2割の無能に位置している」
「立ち直れないかもしれない」
「あ、違う違う。誤解しないで」
じんわりと、口の中に糖分の甘みが広がった。
「無能という言葉は能力に劣る人を指しているわけじゃない。【投資されている人材】なの。君はまだ先輩方からしたらひよっこなんだからさ、戦力としては勘定されちゃいない。でも、それは無能だからじゃなくて、投資に値するからそこにいるの」
「きれいごとですよ。投資に値しない無能だっている」
「ハッキリ言っちゃうのね。そういう尖っているところ、青いね」
「褒めてます? けなしてます?」
「さぁ。でも、青は素敵な色だと思う」
僕は背もたれにがっくりと体重をあずけ、丸内さんの顔を見上げる。おちょくっているようにも、真剣に説いているようにも、なんどもいえない表情の彼女は、僕と目が合ったタイミングで、目じりを下げた。
「とにかく、上の方々も君の頑張りがどこかで日の目を見ることを期待してるんだからさ。のびのびとやりなよ、ってこと」
未熟さを比喩する青と色の青は異なるニュアンスを抱く。ふと、その延長線上に影を出したのは、幼い日の自分だった。
投資されるに値する人間なのかどうか、自問したくなる。幼稚さが顔を出し、判断基準を丸内さんに委ねようとする自分がいる。
「先輩。僕、子供の頃、アリを踏み潰して遊んでたことがあるんです」
「残酷だ」
「無邪気でしたからね」
「殺生しておいて無邪気とはどうなんだ、とは思うな」
「そこは置いておきましょう」
なぜ、今、僕は丸内さんに身の上話をすることになっているのだろうか。きっと疲れているのだろう。
「僕の行いを見ていた母に言われたのが【殺されたアリのお母さんは、いつまでも帰りを待つことになるよ】だったんです。でも、アリの生態って、1匹の女王アリが大量に産卵して、お世話は別のアリが担うわけじゃないですか。それって、女王アリからしたら我が子の顔なんて見たこともないし、お世話をするアリからしたら、役目の中で出会ってきた何千匹のアリの中の一匹にすぎない。覚えてるわけないし、どこかで野垂れ死んだとしても、気づきさえしないと思いませんか」
罪の告白にも、殺生の正当化にも、仕事のさしすせそを否定するための掘り下げにも受け取ることができるこの一連に意味はあるのだろうか。
もしかしたら、僕は自分に自信がないことを遠回しに伝えていて、丸内さんに肯定してもらいたいだけなのかもしれない。
今の僕の顔は、彼女にはどう映っているのだろうか。
疲れてみえるだろうか。
「そんなことないって。社長はちゃんとみんなの顔覚えてるよ」
泣きそうに見えるだろうか。それとも、心ここにあらず、という顔だろうか。この際、いずれでも叶わない。
「……なんだか、アホくさくなってきました」プレゼン資料を上書き保存して、PCの電源を落とした。真っ黒な画面がこちらを憮然と覗き込み、思わずにらめ返したくもなるが、そこには僕の顔が映っている。
「海までドライブしませんか」
缶コーヒーを飲み干して、乱暴に机の上を片づける。丸内さんは、珍しく目を丸くしている。
「青を見にいきましょう。ため息が出るくらいの青を」
「いい傾向だね。仕事のさしすせそを理解してきたんじゃない?」
「僕は誰にも染まりません」
こんな時間帯の海面が青くないことくらい、無能の僕でも理解しきっている。
それでも構わない。きっと青いであろうという一点を見つめる行為は、海への投資に思えた。冬の海岸には、それだけの価値がある。
荷物をまとめて席を立つと、窓の外はすっかり夜のとばりが下ろされていて、寒空に貼りついた星々が控えめな白点となって、光っている。
タイムカードに向かって歩き出すと、小さな笑いが耳に入り、丸内さんは僕の後ろに続いた。
「それでいいの。仕事のさしすせその”そ”は染まるな、だから」
短編集 三片 門重 @nukekannnuki
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