短編集

三片 門重

ツールボックス

 高架道路から覗ける、人の営みを示唆するオブジェクト、たとえば住宅や街灯の灯りが、ぽつり、ぽつりと数を減らす。それらが河川と山肌の中にすべて飲み込まれ、眼下が黒一面に染まった時、改めて郊外に至っていることを実感した。

 ハイエースのバックミラーから覗かせる自身の顔と目が合った後、飲みかけの缶ビールを手に取った。開封してからずいぶんと時間が経っているため、常温で、炭酸はすっかりしぼんでしまっている。

 苦みが舌に引っかかり、のど越しを名目に見て見ぬふりをしてきた麦芽本来の風味と向き合わざるを得ない時間が訪れる。そのくせ、一段と輪郭をはっきりさせて訪れる酩酊のきざしに、思わず眉をひそめてしまうのであった。

 人間関係で最も必要とされる素質とは。

 これまで関わってきた人たちの顔がぐるぐると浮かんでは消えていく。誰に目が留まる訳でもなく、ただ、つれづれに。ランダム生成された福笑いの顔が上から落ちてきて、私はそれを両手で受け止めるが、溢れて、こぼれ落ちていくだけ。

 人間関係で最も必要とされる素質とは。

 スーツの内ポケットをまさぐるが、空っぽだった。何もない心、という暗喩を空のポケットに思いながら、かすかな鼓動を感じ取り、かろうじて存在する心臓に手を当てて問う。

 私はクレバーさだと考える。小賢しさ、とも呼べるか。

 コミュニケーション能力を評価する指標は数多く存在する。そのいずれかに尖るのではなく、全てを必要な程度に兼ね備えて、いつでも必要量だけ取り出せる能力が求められる。工具のような突出性ではなく、ツールボックスのような引き出しこそが。

 もう一度、バックミラーを見やる。

 お前に、その器量はあるのか? 私ではない私が無言で語りかける。

「遠方の人ですか」

 沈黙を切り裂いて声をあげたのは、運転席に座る壮年の男性だった。深緑のジャンバーを羽織り、スポーツキャップを深くかぶっているので、容姿はうかがえない。

 今後3年以内には免許を返納する予定である、と出発前に一言だけ交わしたのみで、それ以降はお互いに存在しないものとして扱っていた。

 私は彼のことを目的地まで運んでくれる運転ロボットだと。彼は私のことを報酬のための荷物だと。それぞれに認識していた。しているものだと思っていただけに、つい面食らってしまった。

「あんまりにも物憂げに外を見ているものですから、つい」男性はおどけて言いながらも、視線はまっすぐと進行方向へ向けられている。

「いいんですか? 業務中におしゃべりなんて」

「ご法度でしょうね」男性は肩をすくめて控えめに笑う。

「でも、盗聴されているわけでもありませんし」左手の薬指に結婚指輪はなかった。そのかわりに、小指もなかった。

 伸びる手足は枯れ木のように節くれており、声も電波状態の悪いラジオのようにしわがれている。しかし、それらは年月からきたす賞味期限のようなもので、決して自ら選んで崩した肉体ではないことがうかがい知れた。

 運転技術も水準以上で、なにより、所作のひとつひとつが過剰なほどに洗練されていた。機械的な印象すら抱いてしまう。

 人間味という粉が表面はふんだんにまぶされているが、その芯の中には1ミリも含まれていない不気味さから見るに、彼もまた自分たちと同じような業界の人間なのだと強く意識してしまう。

 それゆえ、シートにはタバコのにおいが染みついていたが、彼の喫煙によるものではないように思えた。

 タバコの銘柄の話は喫煙者相手に有効な切り口だが、彼には通用しない。頭の中に広げたメモ帳から、その題に斜線を引いた。

 胸ポケットに手を差し込む。

「このルートの運行、今日で最後なんですよ」

 前方に大型バスが走行していたので、追い越し車線に移動する。

 取引が今回で終わる、という情報は把握していないので、男性の個人的な話らしい。

「そうですか」私はビールを口に含んだ。「年齢?」

「ヘルプとして街中は引き続き走りますけどね。大型の案件は若い子に任せませよう、と、上の意向で」

 不意に、車外の開放的な音をガラス一枚越しに拾っていた感覚が消失し、鼓膜が薄い膜で覆われたかのような錯覚に陥る。闇夜とわずかばかりの灯りしかなかった車内が、弱弱しい橙色の光に包まれる。オーブントーストの中に突っ込まれた気分だった。

 ハイエースはトンネルに突入する。

「ところで」男性がハンドルから左手を離し、立てた親指を後方に振った「”あれ”はどういう用途に使われるのですか?」

「知らされていないんですね」

「業務規程で教えてもらえないので」

「つまり、そこを尋ねるのは規程違反にあたるのでは」

「かもしれませんね」

 恐らく、男性は次にこう続ける。空気を吸う瞬間を合わせて、胸の中で反芻した。ポケットは空である。

「でも、盗聴されているわけでもありませんし」

 それが彼の決め台詞。

 誰にも共感されないであろう満足感と余韻を胸中に、私はひと呼吸をおいてから、会話のためのツールボックスの鍵をあける。

「十把一絡げには難しいですね。石鹸の原料にされる分もあるでしょうし、スイカに詰め込まれる分もあります」

「スイカですか」

「真冬の方がかえって需要あるんですよ」

 車内は再び沈黙に包まれる。余計なことをきいてしまったという後悔の念なのか、会話がここで終了したと彼が認知したためなのかは判別つかないが、男性は口を閉ざしてしまった。

 彼が訊ねる”あれ”とは、後部荷台に横たわっている物体のことだ。全長は両腕を広げても両端を掴めないほどで、表面には不規則な凹凸が備わっている。角材のような加工品ではなく、それでいて有機的なぬくもりもない。しいて表現するなら有機物だったもの。それが何を意味するかについては、考えないようにしていた。

 ビニールシートで梱包され、虎ロープで強固に縛られている。大人でも2人がかりで持ち上げないと満足に移動させることもできない。

 会話の展開として喉もとまで装填していた次の言葉を、吐き出してしまおうか、飲み込んでしまおうか、少し逡巡を挟み、逃避のように視界を外にやった。

 すると、今度は窓に反射して投影された自分と目が合った。

 お前に、その器量はあるのか? なくても問題ないだろうに。

 あとは、まぁ。と、会話を続けるための息継ぎを。

「PCM化実験の被検体に使われることもあります。稀なケースですが」

「PCM化?」

「音をデジタルデータに変換する時の順序、といえばしっくりきますかね」

「“あれ”を、デジタルデータに落とし込むと」

「”あれ”は音じゃないですけどね」

「うーんと、つまり」

「将来、我々はワープ技術を実用化しようとしています」

「映画で見るような装置ですよね」

「端的に言えば。まぁ」

 窓の外、高速で流れていく壁かけ電灯の連なりが、戦争映画の機銃を想起させた。

「でも、物理学的に人を任意の地点で移動させる方法ってのは今のところ存在していなくて。時間と距離と速度が手をつなぎ合っている以上、肉体にも速度にも受容の限界が存在する。まずは前提を覆さないといけないんです」

「あまりにも速い飛行機に乗ると、人はGに推し潰される、という認識であってますかね」

「まさにそれです。なので、重力や物理とは切り離された世界で人を輸送する必要がある。そこで注目しているのがPCM化。要は人をデジタルデータに変換して、電波に乗せて送ってしまおうというわけです」

「SFみたいな話ですね」

「まだまだ絵空事の域を出ておりませんので、このプロジェクトはSFの延長線上にあると思います」

 遠くにトンネルの出口が覗かせた。

「”あれ”は、DNAが人とかなり類似している。なんなら、先祖は同じ猿だったのではないかと思えるくらいに。なので被検体に適しているわけです。人の死体の調達は、いち株式会社にはハードルが高いですからね。その研究機関に送られる分も含まれています」 

 できあいにしては悪くないエンターテイメントではないだろうか。

 嘘を展開する力も、その話術で関心を引き寄せる技術も、本題からそらす狡猾さも、またツールボックスの中に仕込ませておくべきアイテムのひとつなのだ。

 さもなくばこんな仕事は続けられないだろう。法に背いて行う営みを仕事と呼んでいいのかはさておき。

 内ポケットを触る。何もない、とわかっているのにかかわらず。案の定カッターシャツとの間の空気が押し出されただけに終わる。

 むなしい。

「たばこ、吸います? これしかありませんが」

 男性の左手にはいつのまにか開封済みのハイライトが握られており、銃口を向けるように、内容物の一本とライターがこちらへ押し出されていた。

「喫煙者じゃないと思ってました」思わず私は目を丸くした。

「私は吸いません」

 高速バスははるか遠くに消えてしまっているが、トンネル内での車線変更は禁止されている。

「コミュニケーションのための道具として備えているんですよ」

「助かります。タバコが欲しかったの、顔に出てましたか?」

ビールをもうひとくち。苦い味がした。

「なんとなく口寂しそうに見えたので。ビジネスマンって、イライラすると多弁になりがちなんですよ。経験則ですが」

 見透かされていた気分だが、狼狽を晒さないように努める。

彼が指摘する多弁の中に、不純物が混ざりこんでいることについて言及しないのはあえてなのか、そこまでは見破れなかったからなのか。そこについては、私も触れないことにした。

 心を盗聴されている訳でもありませんし。

 彼が保持するツールボックスもまた、私にはない引き出しを備えているのだろう。

 ビニールシートに外力が加わり、パリ、と小さく音が鳴る。後部座席の”あれ”が、独りでに動き出した気がした。

 私は言葉に甘えて、ハイライトとライターを拝借すると、咥えて少し前かがみになる。ライターを口元によせ、左手をそえる。祈りをささげるようなかっこうだ。なにに対しての祈祷なのだろうか。なにに対する懺悔、贖罪、救済なのだろうか。皆目見当はつかないが、今から灰を満たすニコチンは悦楽至極の一服となる事だけは予想していた。

 ハイエースはトンネルを抜ける。窓に映る私は消えて、外には再び、暗がりが広がった。

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