第8章 「正体バレ、そして別れ」

 夏の夜風が、どこか憂いを帯びたまま吹き抜けていく。向坂颯太(さきさか そうた)は、地元駅の改札を出たところで、一瞬足を止めた。スマホを握る手のひらが微かに汗ばんでいる。これから会うのは、大学時代から付き合ってきた恋人――工藤千尋(くどう ちひろ)。実質的には破局寸前だが、最後の話し合いをきちんとしなければならない。こんな夜更けに、彼女がわざわざ地元へ足を運んでいるのは「最後の確認」をするためだ。


 (もう決断は出てる。あとは、ちゃんとけじめをつけるだけ……)


 そう心で唱えながら、スマホに目を落とす。LINE画面には千尋からの「今どこ?」という短いメッセージが届いている。まだ既読をつけていないが、返信をしないといけない。彼女はすでに待ち合わせのファミレスにいるという。以前は、この地元に千尋が来ることなど年に数回しかなかった。だが、今夜だけは特別だ。


 「……行くか」


 小さくつぶやき、意を決するように足を踏み出す。昔はスキップしたくなるほどの思いで会いに行った相手が、今では息苦しさの原因となっていることに、颯太はやるせなさを感じていた。


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## ■ すれ違いの回想


 ファミレスの駐車場に入ると、ガラス張りの窓の向こうに千尋の姿が見える。颯太は胸のざわめきを抑えながら、自動ドアをくぐった。千尋はすでに席についており、アイスコーヒーを手に窓の外を見つめていた。


 「……ごめん、待たせた」


 声をかけると、彼女は小さく頷き、どこか無表情なまま「座って」と示す。テーブルの上にはメニューが置かれたままだが、オーダーする気配もない。店内はほとんど客もおらず、深夜独特の静けさが漂っている。


 「わざわざ来てくれたんだな」

 「うん。向坂くんがはっきりしないから、私から動くしかないと思って。何度も電話したけど、結局ちゃんと会って話してないし」


 淡々とした口調ながら、言葉の裏には刺々しさが含まれている。ふだんは「颯太」呼びの彼女が、苗字で「向坂くん」と呼ぶ時点で距離感が表れていた。


 (そうだよな。オレが優柔不断だから……)


 肩で息をつきながら、颯太は覚悟を決めて口を開く。思い出さないようにしてきた過去が一気に押し寄せてくるが、回避するわけにはいかない。あの日々――大学時代から始まった二人の関係――は、どこでずれてしまったのか。


### ◆ 出会いと幸福の始まり


 工藤千尋と出会ったのは、大学一年の春だった。同じ学部のサークルで、たまたまペアを組む機会があり、あっという間に仲良くなった。彼女はしっかり者で、周りからも信頼されるタイプ。小柄ながらハキハキと意見を言う姿勢が魅力的だった。


 「颯太くんって、地元どこなの?」「え、結構近いね」

 他愛もないやり取りが続くうち、自然と連絡を取り合うようになり、二人で出かける機会が増えた。大学のイベントや学園祭では、いつも一緒に行動していた気がする。周囲にも「あの二人付き合ってるでしょ」などと冷やかされ、実際そうなるのも時間の問題だった。


 正式に交際を始めたのは二年生の秋。周りから祝福される中、二人は大学生活を楽しんだ。将来のことなど深く考えず、ただ一緒にいるだけで幸せだった。飲み会でも手を繋いで帰ったり、テスト前に二人で図書館へこもったり――楽しくも平凡な学生カップルの光景。


### ◆ 就職と遠距離のすれ違い


 だが、大学卒業後、千尋が東京の企業へ就職することになり、颯太は地元とは別の地方へ配属された。実家から離れた場所で仕事を始めるかと思ったら、途中で人事異動があり、最終的には地元に戻る形となってしまった。こうして遠距離状態が生まれ、二人の連絡頻度は次第に減っていった。


 初めのうちはお互いに頑張って連絡を取り合おうとした。LINEやビデオ通話で進捗を報告し、休日を合わせてどちらかが相手の街へ行くこともあった。しかし、社会人生活は想像以上に忙しく、また千尋のほうは責任あるポジションを任され、夜遅くまで働く日々が続いたらしい。


 「ごめんね、電話できないかも……。また後で連絡する」

 そんなやり取りが増え、気づけば週に一度すら連絡を取らないこともあった。颯太のほうも仕事のストレスから逃げるようにオンラインゲームを始め、忙しさを言い訳にして千尋との連絡が後回しになっていった。


### ◆ 決定的なすれ違い


 そして決定打となったのは、千尋が数か月前に地方へ転勤することになったこと。彼女は東京からさらに遠い地域へ派遣される形で、もともとの遠距離がより拡大してしまった。二人ともまともに会えないまま時間が流れ、電話で話しても「お互い忙しいね」「今度こっちに来る?」くらいの素っ気ない会話で終わることが多かった。


 いつからだろう。相手の生活リズムがまったく想像できなくなり、会話が事務的になっていったのは。大学時代にあれだけ密に時間を共有していた二人が、すれ違いばかりの状態に陥るなんて、かつては思いもしなかった。


 千尋が地元に戻ったのはさらにその後。上司に掛け合い、リモートワーク主体の職種へ転身する形で一時的に拠点を変えた――と聞いたとき、颯太は「また会えるかもしれない」とほのかな期待を抱いた。しかし、ちょうど同じ頃、幼なじみの玲奈(れな)が地元に戻ってきて、彼の心は混乱し始める。


 千尋が遠距離で悩んでいる間、颯太は幼なじみの玲奈と再会し、昔の思い出が鮮やかに蘇った。そこにすでに歪みが生じていたのかもしれない。


 (オレは千尋を大切に思っていないわけじゃなかった。でも、同じくらい、玲奈の存在が大きくなってしまったんだ……)


 そんな自責の念を抱えながら、結局二股のような状況が生まれ、千尋も薄々それを察していた。距離を置く――という曖昧な結論のまま、時間が流れた結果が今夜の再会だ。


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## ■ 千尋との正式な別れ


 颯太が回想に浸っていると、千尋のほうが先に口を開いた。ファミレスのテーブルを挟んで向き合う二人の間には、冷たく溶けかけたドリンクが置かれているだけだ。


 「……で、どうするの? はっきり言って。私からはもう何度も聞いてるよね」

 「うん……悪い。いろいろ考えたけど、結論は変わらない。この関係を続けていくのは、もう無理だと思う」


 喉が引きつるように痛む。千尋の表情は動かないが、その瞳にはわずかな悲しみが映っている。二人の手が触れ合うことはもうない。


 「そっか。……分かった。私も最初から、もう駄目なんだろうなって思ってた。正直なところ、大学の頃のあなたと今のあなたは全然違うように感じるし、私自身も変わったのかも」

 「変わった……そうだよな、お互いに」


 会話が途切れがちになる。隣のテーブルに一組のカップルらしき客が座ったが、楽しげに笑っている声がやけに耳障りに感じられる。かつて二人がこんなふうに笑い合っていた時期があったのだと、嫌でも思い知らされる。


 「でも、どうしてこんなふうにすれ違ったのか、はっきり分からないんだよね」

 苦笑いまじりに千尋が呟く。それはきっと、颯太にとっても同じ感想だ。原因があったとすれば、互いの忙しさ、連絡不足、価値観の変化、そして――幼なじみの存在。いくつも小さなズレが積み重なった結果、修復不可能な亀裂となったのだ。


 「一応、荷物とか整理したいものがあるなら連絡して。私もあなたが家に置いていた物とか持ってるかもしれないから」

 千尋が事務的に切り出す。さすがに社会人として長く働いてきた彼女は、別れ話に対しても整理の仕方を心得ているのかもしれない。たとえ感情が爆発しても何も生まれないのだと、理性的に判断しているのだろう。


 「分かった。今月中に整理して連絡する。……それで、いいよな」

 「うん。それで構わない。もう職場にも私がいるからって遠慮する必要もないわけだし」


 決定的な破局のセリフが交わされる。千尋はすっくと立ち上がり、「じゃあ」とだけ言って会計へ向かう。颯太も後を追い、レジで彼女に「コーヒー代はオレが払う」と言うが、千尋は無言で財布を出そうとする。


 「いいよ、ここはオレが払う。最後くらいは……ね」

 「……分かった、ありがとう」


 それが二人が交わした最後の言葉だった。ファミレスを出ると、千尋はタクシー乗り場へ向かう足取りを早め、振り返ることなく車の後部座席に乗り込む。颯太はその後ろ姿を見送るしかなかった。もう彼女の横に寄り添う権利はない。


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## ■ スマホ画面に映った“ソウ”


 一方、その頃。加賀美玲奈(かがみ れな)は自宅で夕食を終え、スマホを眺めながら少し憂鬱な気分に浸っていた。杉野からの連絡が相変わらず増え続けているが、すぐには返事をしたくない。そもそも彼に対してどう応えるべきか自分でも分からないのだ。


 (颯太は、どうしてるんだろう……千尋さんと、まだ続いてるのかな)


 頭を振ってその思考を振り払おうとするが、なかなか消えない。あまり気が進まないが、やはり気晴らしにゲームにログインしようかとパソコンの電源を入れかけたそのとき、スマホが震えた。

 画面には「向坂颯太」の名前。思わず胸が高鳴る。何かあったのかと慌てて通話ボタンを押したが、相手からは「今、少し時間ある?」とだけ聞かれる。どうやら急ぎの要件ではないらしい。


 「うん、大丈夫だよ。仕事も終わってるし……」

 「そっか。……悪いけど、会えないかな。明日とかでもいいけど、ちょっと話したいことがあるんだ」


 彼の声は疲労感が混じりながらも、少し吹っ切れたようにも聞こえる。結局、二人は週末に会う約束を取り付けるが、玲奈はその日のことを考えるだけで胸が苦しくなった。彼女と正式に別れたのだろうか、それともまだ……。そんな疑問が頭を回り続ける。


 通話を終えたあと、緊張した気分をほぐすために散歩でもしようかと思っていたが、その直後に再びスマホが震えた。今回はLINEの通知だ。颯太からのメッセージかと思い画面を見ると、そこには「不在着信:颯太」という表示。どうやら操作ミスか何かなのか、通話が入ってすぐ切れたようだ。

 (あれ……?)

 少し不審に思いつつ、返信しようとしたその瞬間、画面が切り替わる。どうやら先ほど颯太がスマホのカメラをうっかり起動したか、あるいは画面共有のような操作をしたのか――一瞬だけ、見慣れたゲームのインターフェイスが映った気がする。


 **「ユニゾン・オブ・ファンタジア」**――そこには金髪アバターの顔アイコンがちらりと見えたような。名前までははっきり読めないが、あの派手な装備はまるで“ソウ・クレイサー”を思わせる。


 「……まさか、そんな……」


 頭の中で警鐘が鳴る。あの画面が本当に「ソウ・クレイサー」のキャラ画面だったのだとしたら、王子の正体は颯太ということになる。そんな偶然あるわけない、と自分に言い聞かせるが、心臓の音が一気に高まっていく。


 王子(ソウ)がいつもB級台詞で盛り上げていたのは、ただのゲーム好きの誰かだと思っていた。まさか幼なじみの颯太本人とは……いや、まだ確証はない。しかし、以前から妙に既視感のある口調やタイミングを感じていたのも事実。


 (半信半疑だけど……もし本当にそうだったら、どうなるの?)


 目の奥がくらくらする。ゲームの中で散々“B級告白”をされ、冗談半分とはいえ心が揺れた自分がいる。もし相手が颯太その人だとしたら――混乱で頭がまとまらない。


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## ■ 疑念を抱えたログイン


 翌日の夜。玲奈は意を決して「ユニゾン・オブ・ファンタジア」にログインした。あの画面が単なる見間違いだったのか、それとも本当に颯太が“ソウ・クレイサー”なのかを確かめたい。


 学園エリアに入ると、いまだに合唱祭・演劇ステージの余韻が残っており、プレイヤーたちがわいわいと盛り上がっている。しかし、肝心のソウの姿は見当たらない。いつもなら真っ先に中央ホールでB級演説をしている王子がいないのだ。チャット欄でも「王子、最近来ないね」「リアル多忙?」などと話題になっている。


 (そっか。ソウも今はいろいろ忙しいんだよね……)


 とりあえず合唱祭の残クエストでも進めるかと歩き出した矢先、個人チャットの画面が点滅した。送り主は**「ソウ・クレイサー」**。


 『お、レナ……いや、姫よ。今日は来ると思ってたぞ』


 ふいに胸が高鳴る。もし本当に彼が颯太だとしたら、今この瞬間、幼なじみとチャットしていることになる。しかし、すぐに結論を出すのは怖い。半信半疑のまま、玲奈はキーボードを叩く。


 『こんばんは、王子。最近あまり見かけなかったけど、忙しかったんですか?』

 『まあな。いろいろあって、B級台詞を吐く気力もなかった。でも、今夜は大丈夫だ。……ところで、お前は昨日、ログインしなかったな』

 (昨日……そういえば、スマホの画面がちらりと映ったのも昨日だ。まさか……)


 玲奈は胸の動悸を必死に抑え、しれっと返信する。

 『私も、いろいろあって疲れてたんです。あの、王子……リアルでの話なんですけど、もし私が知ってる人だったらどうします?』

 『なんだ、それは。唐突だな。リアルで知っている人かもしれないってことか? フッ、まさかお前がオレの素性を……』


 一瞬、ソウが意味深な返信を打ちかけてやめたのがチャット欄に表示される。まるで何かを隠そうとしているようにも見える。


 (やっぱり……これはきっと)


 玲奈はもう一歩踏み込もうかと思ったが、その前にソウのほうがメッセージを続けた。

 『実はオレも、お前の正体が誰かってことを考えていた。もしリアルで会う機会があるなら、オレはお前に会ってみたい……いや、なんでもない』


 ここにきて2回も「入力中→取り消し」の動作が表示される。彼も何やら焦っているのか、いつもの王子のテンションではない。


 (これはもう、ほぼ確定じゃない? でも、どうやって聞けばいいんだろう)


 玲奈は覚悟を決め、直接尋ねようとチャット画面を開く。――が、その瞬間、家のチャイムが鳴った。


 「え……こんな時間に誰?」


 パソコンの画面を一時停止して立ち上がる。時刻は夜の10時近い。さほど遅くはないが、突然の来客に戸惑う。もしかして杉野が押しかけてきたのかと嫌な予感が走るが、インターホンで確認するとそこには颯太が立っていた。


 「えっ、颯太?……な、何で?」

 ドアを開けると、彼は少し申し訳なさそうな顔で「急に悪い。明日って言ってたけど、今時間ができたから……話せないかな」と言う。心臓がバクバクするが、部屋にあげるしかない。


 「おじゃま……。あ、ただ、あんまり長くは話せないかも」

 どうやら私用で近くまで来たついでに思い立ったらしい。玲奈は散らかった部屋を慌てて片付け、「まぁ、少しなら」と座布団を勧める。


 (まさか、今オンラインゲームにログインしてたなんて、言えるわけない……でも、王子とのチャットが中断したままだ)


 話し始めようとしたそのとき、ふと颯太のスマホが振動した。画面が光り、そこにはチャット通知のアイコンが一瞬映る――**「ユニゾン・オブ・ファンタジア」**のプッシュ通知だ。玲奈は一瞬息が詰まる。見慣れたアイコンが確かにそこにある。


 (やっぱり……颯太が、王子……?)


 確信に近い衝撃が走り、思わず立ち上がりかけた玲奈を見て、颯太も何か気づいたようにスマホを隠すようにポケットにしまった。お互い言葉が出ない。


 「……あ、あの。もしかして、颯太って……」

 玲奈の口が動くが、その時点で彼のほうが観念したように小さく息を吐く。


 「……今言おうと思ってた。というか、ここ最近、お前が同じゲームやってるんじゃないかって気づいて……」

 「え? だって、王子はあんなにB級な……」

 頭がついていかない。こんな形で正体がバレてしまうとは思っていなかったし、もし本当なら、あの“ソウ・クレイサー”が目の前の幼なじみだったのだ。


 「まあ、いろいろ言いたいことはある。でも……今はゲームの話より、別の話をしに来た。千尋とのこと……ちゃんと終わったよ」


### ◆ 正体バレの動揺


 その言葉に、玲奈はハッと我に返る。そうだ、そもそも彼は千尋と正式に別れるつもりだったのだ。スマホの画面でゲームの通知が見えて、王子=颯太だと気づきかけたこと以上に、今は現実の話が優先だろう。


 「そっか……それで、どうだったの?」

 「今夜、ファミレスで話した。結局、お互いすれ違いばかりで……もう無理だってはっきり言った。向こうも納得したようなしないような……でも、終わらせることにした」


 重苦しい空気が漂う。玲奈は少し胸が痛んだ。これで颯太が本当にフリーになるのだとしたら、自分も感情を抑えずに済むかもしれない。だが、彼女の苦しむ姿を思うと素直に喜べないのも事実だ。


 「時間がかかりそうだけど、荷物とかも整理する。そうなったら、オレはもう……」

 そこまで言って、颯太は言葉を切る。大きく息を吸い込み、意を決したように続けた。

 「だから、オレはもう逃げないで、ちゃんとお前と向き合おうと思ってる。玲奈、お前はどうなんだ……? 杉野っていう同僚のこともあるし……」


 不意に名前を出されて、玲奈はギクリとする。杉野が先日、颯太に対して「玲奈を俺に譲れ」と迫った場面があったのだ。あれが原因で玲奈も混乱していた。


 「あれは……私、杉野さんをどう思えばいいか分かんなくて。でも、少なくとも“譲ってくれ”なんて言われるのは変だよ……」

 「だよな。オレだってムッとしたよ。でも、もしお前が杉野を選ぶんなら、それはそれで仕方ないと思う」


 切ない響きがこもった言葉に、玲奈は胸を突かれる。かつて高校時代、互いに告白できずに離れ離れになった二人が、いま再びこうして向き合っているのは何の縁なのだろう。


 「私も、杉野さんのことは……うまく断りきれないでいる。仕事でもお世話になってるし、悪い人じゃないのは分かるんだけど、恋愛って考えると違う気がして……」

 「そっか」


 沈黙が重い。だが、次に玲奈が発したのは意外な質問だった。

 「それより……颯太、“ソウ・クレイサー”なんだよね?」


 真剣な顔でそう問いかけると、彼は一瞬だけ苦笑いして頷く。

 「バレたか。まあ、そりゃいつかは気づくよな。どこかでオレの画面を見られたんだろう?」

 「うん、さっきスマホに通知が……。ちょっと前にも、あれ?って思うことがあったから」


 ドキドキが止まらない。あの王子が颯太本人だったなんて、思いもしなかった。B級台詞を連発して合唱祭や演劇で盛り上げていたのが、この目の前の幼なじみ。

 「なんであんなにB級なキャラを演じてたの?」

 思わず聞きたくなる。すると彼は照れ笑いを浮かべ、頭をかく。

 「自分でも分からないけど……リアルが辛いとき、あえて突き抜けたキャラで騒いでたほうが気が紛れるっていうか……。初めは冗談で始めたのに、いつの間にか板についちゃって」


 彼が千尋との関係で悩み、仕事のストレスから逃げるようにオンラインの世界で“王子”を演じていたのは、玲奈も想像がつく。結果的に、自分と再会していたことになるが、お互いその事実を知らなかった。


 「でも、お前が“レナ”だって、全然気づかなかった。あの学園の王子と姫のやり取り……今考えたらかなり恥ずかしいわ」

 「それはこっちのセリフだよ……。もう思い出すだけで恥ずかしい。あんなB級告白されたら、どう反応していいか分かんなかったもん」


 二人は気まずさと微妙な恥ずかしさで身じろぎするが、それ以上に嬉しさも含まれている。散々ネット越しに絡んできた相手が幼なじみだったという衝撃。その裏に、本音を隠していた自分たちの“すれ違い”が浮かび上がる。


 「……もし千尋とのことが片付いたら、ちゃんとお前に伝えたいと思ってた。ゲームの中じゃなくて、現実で……お前を“姫”にしたい、って」

 ぼそっと言う颯太に、玲奈は頬を赤らめる。王子の台詞そのままだが、もはや冗談ではなく本気なのかと感じさせる熱を伴っている。


 「でも、まだ決着がついたばかりでしょ? 落ち着いてから、改めて聞かせて。私も、杉野さんにちゃんと断りを入れないといけないし……」

 「うん、そうだな」


 話したいことは山ほどあるのに、今夜はもう時間がないらしく、颯太は「また連絡する」とだけ言って帰ろうとする。玄関まで見送った玲奈は、彼の背中に向かって最後に問いかけた。


 「ねえ、王子……じゃなくて、颯太。今度、ゲームの中でもちゃんと話そう?」

 「もちろん。オレもいろいろ整理してからログインするよ。お前がレナだって分かって、まだ頭が追いついてないし……」


 小さく笑って、颯太は夜の闇に消えていく。ドアを閉めたあと、玲奈は思わずソファに倒れ込み、全身の力が抜けるのを感じた。


 (これ、本当に現実なの? 王子が颯太……嘘みたい)


---


## ■ ネトゲパート:クライマックス前夜


 その夜、玲奈はお茶を一杯飲んで気持ちを落ち着けてから、改めてパソコンを開いた。ゲーム画面には先ほどのまま、レナ・クラインが学園の廊下に立ち尽くしている。チャットには王子(ソウ)からの未読メッセージがいくつか届いているが、今まさに現実の彼に会った直後だけに、不思議な気分だ。


 (もう、“王子=颯太”って分かってるんだよね……でもゲーム内でどういう顔して会話したらいいの?)


 内心戸惑いながらログインを再開すると、ちょうど個人チャットが光った。送り主はソウ――つまり颯太だ。


 『……さっきは途中で抜けて悪かった。お前にちゃんと話したいことがある』


 現実での会話とシンクロするような感覚がこそばゆい。しかし、玲奈も意を決してキーボードを叩く。


 『王子、実は私も話したいことがある。……そっち、今は大丈夫?』

 『ああ。大丈夫だ。さっきまでゴタゴタしてたけど、少し落ち着いた。今夜はオレとお前だけの“B級じゃない”会話をしよう』


 その一文に、玲奈の心が優しく震える。いつもはB級台詞を連発するソウが、今は飾らない言葉を使っている。まるで現実でのやり取りがゲーム内にも浸透してきたようだ。


 しばらくは二人で空気を探るように雑談を続けたが、やがて互いに“あれ、もしかしてもうバレてる?”と察して、重い沈黙が生まれる。画面の中では王子と姫の姿だが、現実の颯太と玲奈そのものだという事実が、緊張を生んでいる。


 (どうしよう、ここで正体を確信したことを言うべきか……でも向こうも同じことを思ってそう)


 先に動いたのはソウの側だった。チャット欄に、王子とは思えないシンプルなメッセージが流れる。


 『レナ……じゃなくて、玲奈。今まで気づかなくてごめん。オレはソウ・クレイサーとして、お前に散々B級なことを言ってきたけど、もう隠すのはやめる』


 (完全に確信持ってるんだ……)


 やはりつい先ほど現実で言いかけた内容の続きなのだろう。玲奈は少し手が震えながら打ち返す。


 『私も気づくのが遅かった。あのB級台詞が颯太だなんて思いもしなかった。でも、なんか妙に懐かしい感じもして……やっぱりあなただったんだね』


 画面の中で、二人のキャラクターが向かい合うように立つ。周囲には誰もいない深夜の学園ホール。合唱祭はほぼ終わり、演劇ステージも閉幕ムードのため、人影がまばらなのだ。まるで二人だけの世界に包まれているかのよう。


 『正体バレちゃったな。B級王子の仮面はもう終わりだ。……でもオレは現実でもお前に“姫”になってほしいと思ってる。ゲームの中だけじゃなくて、リアルでも』


 思わず息を呑む。たとえ文字のメッセージとはいえ、相手が颯太だと思うと心臓がドキドキしてしょうがない。いつもみたいな“冗談”だと受け流せないのは、もうこれが本気の言葉であることを知っているからだ。


 『私も……そっちが颯太だって分かった今、色々考えちゃう。だけど、私はあなたが千尋さんとどうなるか気になってたし、杉野さんにもはっきり断れてないから、自分の気持ちがどうなのかぐちゃぐちゃで……』


 画面に文字を打つたび、涙が出そうになる。幼なじみとして再会したときから、どこかでこうなる可能性は感じていた。ゲーム内で親密になった相手がまさか颯太その人で、しかも本気で「姫になれ」と迫ってくるなんて――高揚と混乱が入り混じる。


 『分かってる。オレも今日、ようやく千尋にけじめをつけたばかりだ。杉野のことがあるなら、そっちも焦らなくていい。お互い、ちゃんと終わらせてから向き合おう……それが筋だと思う』


 ソウからのメッセージは、いつものB級ノリとは正反対の落ち着きを帯びている。かえって颯太の真摯さが伝わってきて、玲奈の胸がぎゅっと締めつけられる。


 『うん……ありがとう、王子。じゃなくて、颯太。こんな形で正体バレするなんて思ってなかったけど、私も一度ちゃんと整理してみる。杉野さんに会って、きちんと話す……だから、少しだけ待って』

 『ああ、分かった。オレも他にも整理すべきことがある。終わったら、またリアルで会おう。そっちもゲームでも話そうな』


 いままでのようなふざけたB級台詞は一切なく、二人は静かに約束を交わす。正体バレしてしまった気まずさと、幼なじみとしての安心感、そして新たな恋の期待――複雑な感情が入り混じる中、今夜のところはログアウトを決める。


 玲奈はパソコンをシャットダウンし、夜の闇に包まれた部屋で深呼吸をした。あの幼なじみがゲームの中で「お前を姫にしてやる」と堂々と宣言していたことを思い返すと、頭がクラクラするほど恥ずかしい。でも、なぜか心が軽くなった気もする。


 (これで、すべてが終わり……じゃなくて、やっと始まるんだ)


 千尋の存在が消えるわけではないし、杉野への返事も必須だ。自分と颯太の関係も、昔のように自然に再会して笑っていられるほど単純ではない。けれど、正体バレの衝撃を受け入れ、二人がゲームと現実の狭間で踏み出せる一歩があるのなら――その先には、新しい未来が待っているかもしれない。


 部屋の窓を開けると、夜風が少し冷たく感じられた。夏の終わりの気配に混じって、小さな星が輝いている。日が変わる前の静寂が、玲奈の耳に優しく響いてくる。


 (王子……颯太、今度こそ、あのB級台詞の真意を聞かせてほしい)


 そう胸に誓いながら、玲奈はベッドに倒れ込み、ゆっくりと瞼を閉じた。これから起こるであろう波乱と困難を想像しながらも、今夜はかすかな安心を覚えて眠りにつく――クライマックスを目前にした、穏やかで騒がしい夜だった。

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