第5章 「揺れる想い、夏祭りの夜」

 夏の気配が色濃くなったある週末。地元の商店街が主催する夏祭りの日がやってきた。加賀美玲奈(かがみ れな)は、夕方のまだ明るさが残る時間帯に自宅を出る。駅前から少し歩いた先にある神社の境内で、毎年恒例の祭りが開催されるのだ。

 子どもの頃は家族に連れられて来ていたし、高校生の頃までは幼なじみと一緒に行ったことも何度もある。けれど大学進学以降は行かなくなり、社会人になってからはさらに足が遠のいていた。かれこれ数年ぶりの夏祭り――そう考えると懐かしくて、少し胸が高鳴る。

 「でも……今年はどうなるんだろう。颯太(さきさか そうた)も、来るのかな」

 そう小さくつぶやきながら、歩き慣れた道を進む。生まれ育った場所とはいえ、転職で地元へ戻ってきてからまだ数ヶ月しか経っていない。もうすっかり馴染んだと思っていたが、この夏祭りに足を運ぶのは初めてだ。人混みが苦手だから、できるだけ友人たちと行こうかと考えていたが、うまく日程が合わず、結局一人で向かうことになった。

 夕暮れの空にオレンジ色の名残が広がる頃、神社の鳥居が見えてくる。そこから先には夜店の提灯がずらりと連なり、浴衣姿や私服姿の老若男女がたくさん集まっている。金魚すくい、型抜き、綿菓子、たこ焼き……昔と変わらない光景がそこにあり、玲奈は思わずノスタルジーを感じた。

 (そういえば、中学生の頃にみんなで来たときも、ちょっとしたハプニングがあったっけ……)

 記憶をたどると、いつもそこには颯太の笑顔がある。人懐っこい彼は、クラスの男子や女子ともすぐ打ち解けるタイプで、祭りのときは必ず輪の中心にいた。玲奈は少し離れたところで苦笑しながら、たまに視線を合わせては「あの子に声かけてくるわ」とか言われておちょくられた記憶が蘇る。

 「……なに考えてるんだろ、私」

 胸の奥がもやもやする。千尋(くどう ちひろ)という存在があることを知っていても、再会したあの日からどうしても彼を意識してしまう。ほんの少し前には「彼女と別れるかもしれない」なんて噂を耳にして、期待を抱いた自分がいたのも確かだ。だが、何もはっきりせずに日々が過ぎている。


 ――一歩、また一歩と境内の参道を進むと、すでに辺りは夜の闇が濃くなりはじめ、提灯の明かりが浮かび上がっていた。祭りの熱気はすさまじく、親子連れからカップル、大学生のグループまで、様々な人波が行き交う。玲奈は一人で見るには少し心細いが、せっかく来たのだから屋台の食べ物くらいは楽しもうと、人混みの中を歩き出した。

 「いらっしゃい、たこ焼き六個で400円だよ~」

 威勢のいいおばさんの声が聞こえ、思わず足を止める。そういえば、こんな祭りのときは必ずたこ焼きを食べていた気がする。普段はあまり粉ものを食べないが、こういう雰囲気だと不思議と食べたくなるから面白い。

 買ったばかりのたこ焼きは熱々で、ふうふう息を吹きかけながら口に含むと、懐かしい味が舌を満たす。ソースの香ばしさと、外のカリッとした生地が絶妙だ。ひょっとして昔よりおいしいかも――そう思った瞬間、何者かの視線を感じて横を向くと、そこに見覚えのある人物が立っていた。

 「……えっ、颯太?」

 思わず声を漏らす。向坂颯太、その本人が、ちょうどこっちを見つめていたのだ。彼もまた、祭りに来ていたのだろうか。私服の上に羽織った薄手の上着が夏仕様で、軽快な雰囲気を醸し出している。


 「やっぱり玲奈か。こんなところで会うなんて……奇遇だな」

 そう言いながら、颯太は少し微笑む。その表情はどこか戸惑いも混じっていて、玲奈の胸は一瞬ドキリとする。きちんと二人で会う約束をしたわけでもないのに、こんなに人混みがある場所で偶然出会うなんて。

 「一人で来たの?」

 「あ、うん。友達と予定合わせようとしたけど、みんな忙しくて……颯太こそ?」

 「オレもそんな感じ。地元の連中もちらほら来るって聞いたけど、結局バラバラらしいからさ」

 言葉を交わすたびに、玲奈は高校時代の記憶がふと蘇る。あの頃もこんなふうに、ふいに祭りの会場で顔を合わせて、二人だけで歩く時間があったりしたのだ。


 自然な流れで、二人は一緒に境内をまわることになる。どこへ行くとも決めず、行き当たりばったりに屋台を見て歩く。ヨーヨー釣りにはしゃぐ子どもたちを眺めたり、射的の景品を見て微妙にショボいと笑い合ったり――昔と変わらない空気に包まれながら、玲奈は何度も心が揺さぶられるのを感じていた。

 「なあ、懐かしいな。この辺の屋台、前に一緒に回った覚えがあるんだけど……覚えてる?」

 「覚えてるよ。颯太が射的でまったく当たらなくて、店のおじさんに“才能ないね”って言われて、意地になってやりすぎたよね」

 「うわ、やめろ、その話は恥ずかしい……」

 思わず吹き出す玲奈。その表情を見た颯太も、少し照れ笑いを浮かべて肩をすくめる。かつては当たり前だった幼なじみ同士のやりとりが、今は新鮮に感じられて仕方ない。


 しばらくすると、近くにいた知り合い数人が「おお、颯太と玲奈じゃん!」と声をかけてきた。どうやら地元の連中らしいが、さほど親しいわけでもなかったので軽く挨拶を交わす程度で通り過ぎる。彼らは「わざわざ二人で来たの?」とからかうような視線を向けてきたが、玲奈は何も答えられなかった。そんな姿を見た颯太も、微妙に言い澱んでしまい、照れくさそうに首をかしげる。


 やがて夜も更け、境内の奥で花火大会が始まるとのアナウンスが流れてきた。実は毎年、この夏祭りのフィナーレとして、数分だけだが小規模な打ち上げ花火が行われるのだ。大規模な大会ではないが、地元民にはお馴染みの恒例行事である。

 「花火か……そういえば、昔からあったよな。もうすぐ見られるのか?」

 「うん、たしか社務所の近くの広場から見えるはず。もう始まりそうだね」

 二人は人混みの流れに乗る形で、少し奥まった場所まで歩いて行く。屋台が立ち並ぶ通りの先にある開けたスペースは、地元の人々が多く集まる花火鑑賞スポットになっていた。赤や青の提灯がずらりと吊され、夜闇に浮かび上がる光が幻想的だ。


 「あ、そうだ。玲奈、今年は浴衣じゃないんだな」

 不意に颯太が言う。そういえば、中学生や高校生の頃は、玲奈も毎年のように浴衣を着ていた時期がある。だが、もうここ数年は着る機会がなく、今年も普通のワンピースで来てしまった。

 「社会人になってからは、浴衣なんてほとんど着なくて……家族も手伝ってくれないし、自分で着るのは難しいんだよ」

 苦笑いしながら答えると、颯太は「そっか、ちょっと見たかったかも」とつぶやいて視線を外す。その言葉にドキリとしつつ、玲奈は何も言い返せない。もし自分が浴衣を着ていたら、彼はどんな顔をしてくれただろう――そんな想像が頭をよぎり、胸の奥が熱くなる。


 ちょうどそのとき、一発目の花火が夜空を彩った。ドンという低い音とともに、光の筋がすっと上空へ伸び、小さな花が咲いてパラパラと消えていく。規模こそ小さいものの、こうして間近で見ると迫力がある。周囲の人々からも「あ、始まった」「キレイだね」と感嘆の声が漏れる。

 「わあ……懐かしい。やっぱり花火っていいね」

 玲奈は思わず感嘆の声を上げる。すると、颯太も隣で「そうだな、やっぱり夏は花火だよな」としみじみ答えた。

 次々と打ち上げられる花火が、夜空を華やかに染め上げる。一瞬の光と音に、玲奈は過去の思い出が蘇るような不思議な感覚を覚えた。あの頃は、夏の終わりが近づくたびに寂しくなり、二度と戻れない時間があると知りながら、何度もこの花火に思いを重ねたような気がする。

 ――そして、この花火を颯太と並んで眺めたのは、いつが最後だったのだろう。大学に行く前の夏だったか、それとも高校三年生の文化祭のあとだったか。記憶は曖昧になっているが、確かなのは、あの頃どこか胸を締めつけられるような気持ちを抱えていたということだけだ。


 「……なあ、玲奈」

 突然、隣から声がかかる。人々のざわめきと花火の音が混じり合い、聞き取りにくいが、颯太の声だとすぐ分かった。

 「なに?」

 「いや……なんでもない。ちゃんと話したいことがあったけど、こんな人混みの中じゃあれだし、後で少し時間あるか?」

 「うん、いいよ」

 それだけの会話でも、玲奈の心は大きく揺れる。“話したいこと”があるという彼の言葉。その真意は何なのか。千尋とのことだろうか、それとも別の何かだろうか――答えを聞くのが怖いような、でも知りたいような、複雑な感情が胸を締めつける。


 花火は小刻みに上がり続ける。鮮やかな色とりどりの閃光が、夜空に大輪の花を咲かせるたびに、周囲の人々が歓声を上げる。玲奈はほとんど花火を見ていない。視線は空に向かいながらも、頭の中は颯太のことでいっぱいだった。一方の颯太も何かを言いかけては押しとどめる様子で、二人の距離感がもどかしい。

 ――やがて、最後の大きめの花火がドンと打ち上がり、あたりに金の光が舞い散った。拍手やため息が境内を包み込み、祭りの熱狂はいったんクライマックスを迎える。玲奈は思わず軽く手を叩きながら、最後の余韻に浸っていた。


 「ちょっと、こっちのほう、空いてそうだし行ってみようか」

 颯太が指差したのは、参道の奥にある小さな池のほとり。普段は地元の人でもあまり寄らない場所だが、この時間帯は人が少なく、落ち着いて話すには都合がいいかもしれない。玲奈は黙って頷き、二人でそちらへ向かう。

 池の周辺にかかる石橋の上で、立ち止まる。ほとんど人影がなく、遠くから祭りのざわめきが聞こえるくらいだ。ここなら、静かに話せそうだ――玲奈はそう思いながら、石の欄干にもたれかかるようにして、夜空を見上げた。


 「さっき、話したいことって……?」

 意を決して切り出すと、颯太は一瞬言葉を飲み込むように口を動かし、それから小さくうなずいた。

 「……うん。玲奈には、ちゃんと言っておきたいことがある。オレ、ずっと中途半端だったんだけど、千尋とは……もう無理なんだと思う」

 胸が大きく高鳴る。思っていた通り、千尋との話だ。そうか、やはり別れを決めたのだろうか。思わず言葉が出てこない。

 「最近、連絡もまともにとれていなくて、向こうも仕事で大変らしく、オレも地元に戻ってきてから余計すれ違って……。正直、この前にも電話で話したけど、お互いにもうこの関係は続かないってことを何となく悟ってる感じなんだよ」

 「そっか……」

 何を言うべきか迷う。自分が待ち望んでいた展開かもしれないが、やはり胸が痛む部分もある。玲奈自身、千尋のことをよく知らないが、長い付き合いの恋人なのだから、それなりに情もあるだろう。別れを決断するのは容易ではないはずだ。

 「でも、まだはっきりとは……オレもちゃんと向き合おうとしなかったから、きつく言えなくて。ズルズルしてて、結局は同じところを回ってた感じ。それで……ちょっと前に、しばらく距離を置こうって話になってさ」

 「そう……大変だね」

 玲奈の返答は、我ながら薄っぺらく聞こえる。もっと深い言葉があるかもしれないのに、頭が混乱してしまう。


 沈黙が流れる。祭りの喧騒が遠くで鳴っているのが、やたら大きく感じられる。颯太は欄干に片手を乗せ、少しうつむき加減で続ける。

 「……玲奈が戻ってきたのも、何かのタイミングだと思ったんだ。高校のとき、あんな風に離れちゃったけど、今また会えたのって不思議だろ?」

 「うん……私も、びっくりした」

 「それで余計に、どうすればいいのか分からなくなって。千尋への気持ちがどうのっていうより、オレ自身がこのままだと先に進めない気がして、混乱してたんだ。けど、ちゃんとけじめをつけないと、玲奈に失礼だと思って……」

 スッと息を飲む玲奈。まさか、こんな直接的な言葉を聞かされるとは思わなかった。失礼だと言われるほど、彼の中で玲奈の存在が重くなりつつあるのだろうか。それとも、単なる幼なじみとしての責任感か。


 「ごめん、なんか……こういう話って、もっと落ち着いた場所で言うべきだよな。でも、今日たまたま会えたから、今言わないといけない気がして……」

 「ううん、いいよ。私も、聞けてよかった……」

 そう答えるしかなかった。自分の気持ちはどうなのか。このまま彼が千尋と別れて、もし新しい関係が生まれるとしたら……玲奈の胸は期待と罪悪感が入り交じり、複雑な熱を帯びている。


 そのとき、突然スマホの着信音が静かな空間を壊した。颯太が慌ててポケットから取り出す。画面を見て、彼は一瞬渋い顔をした。

 「ちょっとごめん……千尋からだ」

 ここで千尋からの電話――何というタイミングだろう。玲奈はどうすればいいのか分からず、一歩離れて気配を消すようにする。颯太は小さく舌打ちするような仕草を見せながら、通話ボタンを押した。


 「……もしもし、どうした?」

 すぐには声が聞こえない。おそらく向こうの言葉を聞いているのだろうが、その表情は険しく変わっていく。やがて彼は「ちょっと待て、今は……」と押し返すように声を上げる。

 どんなやりとりなのかは分からないが、相当なヒートアップ具合を感じる。千尋が何かを責めているのだろうか、それとも別れ話を正式に切り出したのか。とにかく、二人の会話は平行線をたどっているように聞こえる。


 (こんなところで、私はどうしたら……)

 玲奈は胸がズキズキと痛み、池のほとりから視線を外して小さくため息をつく。遠くで祭りの喧騒が聞こえる中、颯太の声だけがやけに際立って耳に入ってくる。

 「……分かった。とりあえず、明日もう一度話そう。今は……ごめん、切るから」

 最終的にそう言い残し、颯太は通話を終えた。深く息を吐き出す様子から、かなり気まずい展開だったことが見て取れる。


 「悪い……タイミング最悪だな」

 「ううん、大丈夫。でも大変そう」

 「まあ、覚悟はしてたけど……一筋縄じゃいかないらしい」

 力なく笑おうとするが、無理に明るく振る舞うのは難しいらしい。確かに、ここで千尋と大喧嘩する形になるのだろうか。玲奈は何も言えず、ただその場の空気に飲まれかける。


 ――すると、さらに最悪のタイミングで、見慣れた背の高い男性の影がこちらに向かってくるのが目に入った。会社の同僚、杉野翔平(すぎの しょうへい)だ。どうしてこんな場所に? それも、一人ではなく、会社の人らしき数名と連れ立っている。ちょうど夏祭り見物に来ていたのだろう。

 「あれ、加賀美さん? 偶然だね、こんなところで」

 まさかの鉢合わせに、玲奈は一瞬固まる。杉野のほうも驚いた様子で、ちらっと隣にいる颯太を見る。

 「ああ、こっちは……お友達?」

 「え、えっと、そう……幼なじみなんです……」

 何とも説明しづらい空気。颯太も「どうも、向坂です」とだけ言って頭を下げる。杉野は「加賀美さん、今日一人だって言ってたから……」と妙に不思議そうな表情を浮かべる。

 「偶然会ったんですよ……本当に偶然」

 おそらく、杉野としては「嘘をつかれた」という認識ではないだろうか。以前から彼の過剰なアプローチに困っていた玲奈としては、余計な疑いを持たれたくない。しかし、この状況は弁解のしようもない。


 「あの、オレたちちょっと用事があって……先に失礼します」

 重い空気を切り裂くように、颯太がそう言い残して踵を返す。玲奈も慌てて「あ、すみません」と頭を下げ、杉野や同僚たちの前を通り過ぎていく。彼らが何か言いたげな視線を送ってくるのを背中で感じながら、二人は人混みのほうへ足早に向かった。


 (どうして、こんな最悪なタイミングばかり重なるんだろう)

 心臓がばくばくする。さっきの花火の余韻や、颯太との大切な話もすっかり台無しになった気分だ。周囲の喧騒を聞きながら、無言で歩き続けるうちに、玲奈はこのままどうにもならないような感覚を抱く。


◇◇◇


 結局、祭りの夜は何とも言えない気まずさのまま終わってしまった。颯太は千尋からの電話に動揺し、玲奈も杉野と遭遇したことで落ち着きを失ってしまい、二人は深く会話を続けられないまま別れてしまったのだ。

 「また……ちゃんと連絡するから」

 そう言い残して立ち去った颯太の後ろ姿が、妙に寂しげに見えた。あるいは、彼自身も相当追い詰められているのかもしれない。もし別れるにしても千尋との話し合いが必要だろうし、電話口で言い争っていたようすからして、そう簡単にはいかないだろう。

 玲奈は胸に重石を抱えたまま、自宅に戻ってきたのは夜の10時を過ぎた頃。夏祭りを楽しむはずだったのに、まるで何もかもうまくいかなかったような気分だ。


 着替えもそこそこにベッドの上へ腰を下ろし、スマホを眺める。杉野からもメッセージが届いていたが、開くのが少し怖い。案の定、「加賀美さん、すみません。どうやら余計なことをしてしまったみたいですね。もし困ってることがあったら本当に言ってほしい」といった文面が送られてきており、微妙に気が重い。

 (別に杉野さんが悪いわけじゃないんだよな……けど、なんか面倒な感じに発展しそう)

 返信をするか迷ったが、もう遅いし明日以降に返せばいいかと投げ出す。頭がクラクラするほど疲れてしまった。


 (ゲームで気晴らし……できるかな)

 そう考え、パソコンの電源を入れて、「ユニゾン・オブ・ファンタジア」のロゴをクリックする。現実では散々だったし、少しだけでもB級映画のような世界に逃避したい。そんな思いでログインをするが、学園のホールに現れたレナ・クラインの周囲は賑やかなのに、肝心の王子(ソウ・クレイサー)はいないようだ。

 (そっか、王子も今日は来てないんだ……)

 少しがっかりしつつ、周囲のプレイヤーたちのチャットを眺める。「クイーンがまた出てくるイベントはいつなんだろう」「王子いないと退屈だな」「B級が恋しい」などと、半ばネタ交じりに言いたい放題だ。ちょっと前まであんなにかしましく騒いでいたソウがいなくなっただけで、空白を感じる人は多いらしい。レナもまた同じような思いを抱えていた。

 (まあ、リアルが忙しいんだろうし……王子にだって都合があるよね)


 そうは分かっていても、心のどこかで「今夜はあのノリに巻き込まれて笑いたかった」というのが正直な気持ちだ。何もかもモヤモヤする現実から目を背けるように、少しだけギルドクエストに参加し、プレイヤーたちと共闘して数十分ほど時間を潰す。しかし、どれほどゲームをしても、颯太のうなだれた表情と、杉野の戸惑い、そして千尋の存在が頭から離れない。


 最終的に、「これ以上はやってもスッキリしないな」と思い、ログアウトを決める。ベッドに潜り込んでも、目が冴えてしまって寝つけそうにない。人混みに長くいたせいか、汗ばんだ体が余計に落ち着きを奪う。

 (シャワーでも浴びて、さっぱりしたら寝よう……)

 立ち上がりかけたところでスマホが震えた。通知を開くと、何と颯太からのメッセージだ。

 『ごめん、ちゃんと話ができなくて。また後で連絡する。今日のところはお疲れ様。』


 それだけの短文。たった数十文字だけど、玲奈の胸は少しだけ救われた気がする。彼もまた、祭りの夜に何も言えずに別れてしまったことを気にしているのだろう。千尋との電話もきっと大変だったに違いない。

 (こっちこそ、大丈夫かな……って感じだけど)

 玲奈は苦笑しながら“お疲れ様。ゆっくり休んでね”と返す。送信ボタンを押し終えると、深いため息が出た。イベントと祭り――どちらも華やかで盛り上がるはずなのに、終盤で何かしら問題が起こって台無しになってしまうのは、運命というより、自分たちが引き寄せているのだろうか。


◇◇◇


 一方、向坂颯太も同じころ、自室のベッドに腰掛けてスマホを握りしめていた。千尋とはあの後、結局まともに話せていない。祭りの喧騒の中で通話したきり、怒ったまま通話を切られた形だ。

 「はあ……どうにもならんな」

 苛立ちをぶつける先もなく、スマホをテーブルに放り投げる。王子キャラでログインしてみようかと一瞬思ったが、今日はそんな気分になれなかった。ゲーム内でB級ノリを演じても、この鬱屈を晴らせるとは思えない。むしろ嘘臭くなるだけだ。

 (玲奈にもちゃんと話せなかったし……最悪だな)

 頭を抱える。なぜ、よりによってあのタイミングで千尋から連絡が来てしまうのか。なぜ杉野という男まで現れてしまうのか。頭で考えれば偶然が重なっただけだろうが、運命の悪戯を恨みたくなる。


 千尋との関係を清算したいなら、もっと早く行動すべきだったのかもしれない。中途半端なままズルズルと続けてしまったからこそ、こういう悲惨な展開になっている。結果的に玲奈を傷つけているのも事実だろう。頑張って祭りを楽しもうとしていた様子が伝わってきただけに、余計に申し訳ない気分になる。

 「明日、ちゃんと話すって言っても……千尋も応じてくれるかな」

 黙り込んだ部屋に、考えが行き場を失って漂う。普段ならゲームに逃げ込んで、王子として“雑念を吹き飛ばす”ところだが、今はそこへ行く気力すら湧かない。あのB級ノリも、心が落ち込んでいるときには演じるのが辛いのだと、今さらながらに思い知る。


 かといって、このまま寝られるわけでもない。シャワーを浴びても、なんだか頭が冴えてしまい、ベッドに横になっても眠れそうにない。壁越しに隣家の生活音が微かに伝わり、夜の静寂が余計に神経に触れる。夏の夜は暑さが一段と増すうえ、心まで熱くさせるから厄介だ。

 (今日、玲奈は浴衣じゃなかったけど……もし着てたら、ヤバかったかもな)

 自分でも呆れるような妄想が頭に浮かび、苦笑いを漏らす。純粋に「見てみたかった」という思いと、「それどころじゃなかった」という思いが交錯する。どっちにしろ、今は何を考えても空回りしてしまう。


 「……もういい、明日絶対に千尋に連絡する。逃げない」

 そう呟き、スマホを手に取って画面を確認する。いつの間にか玲奈から返信が来ていた。

 『お疲れ様。ゆっくり休んでね』

 短いメッセージだが、なぜか救われる。少なくとも、彼女は完全に呆れてしまったわけではないのだろう。踏ん張りどころはここしかない――そう自分に言い聞かせ、颯太はようやくベッドに体を横たえた。夜の暗闇は深いが、いつか光が差すことを信じて閉じる目に、眠りが訪れるのを願うしかない。


◇◇◇


 翌朝、玲奈は疲れが残る体を叩き起こして朝食を軽くとり、週末の昼までだらだら過ごす。昨日の夏祭りのことを思い返すと、楽しかった時間もあったはずなのに、終盤の出来事ですべてが台無しになったような印象が拭えない。

 仕事用のカバンを片付けたり、部屋の掃除をしたりして、何とか気を紛らわせる。杉野からのメッセージには簡単なお礼と「大丈夫です、ありがとうございました」とだけ返事を送った。彼も仕事仲間だけに無下には扱えないが、あまり深入りされても困る。


 (颯太、どうしてるかな……)

 考えても仕方ないのに、何度も思い浮かぶ。あの電話の様子では、今日こそ本格的に千尋と話すんだろう。それがどう転ぶかによって、彼の今後は大きく変わるはずだ。自分自身もその“今後”に関わりたいと思っているが、最後の決断を下すのは颯太と千尋の二人なのだ。

 外は真夏の日差しがギラギラと照りつけている。クーラーをつけていても、熱気が部屋にこもるようで息苦しい。玲奈は午後を過ぎたあたりで気分転換に近所のコンビニへ出かけ、冷たい飲み物やアイスを買って戻る。


 夕方までぼんやり過ごしたあと、やっぱり落ち着かないのでパソコンを立ち上げる。いつものように「ユニゾン・オブ・ファンタジア」を起動して、学園のホールにレナ・クラインをログインさせるが、昨日と同じようにソウ・クレイサーの姿はない。

 (まだ王子はいないのか……)

 周囲の雑談では、「王子、リアルが忙しいんじゃね?」「もしかして飽きたのか?」「いやいや、絶対また戻ってくるだろ」といった好き勝手な推測が飛び交う。彼のB級台詞を惜しむプレイヤーは少なくないらしく、たまに「クイーンはまだ?」という声も混じるが、新たな大型イベントの実装情報は出ていないようだ。

 仕方なく短めのクエストを数回こなしてログアウトしようとしたとき、フレンドリストが点滅した。誰かがオンラインになった合図かと思い確認すると、そこには王子のIDがあるはずだが表示されない。どうやら別のフレンドらしい。少しだけ期待した自分が虚しく感じ、早々にログアウトボタンを押した。


 (結局、今日も会えない……というか、ゲームでも現実でも、何もかも中途半端だな)

 ソウに救いを求めているわけではないが、彼が盛り上げてくれるB級の世界観に逃げ込めたら多少は気が楽かもしれない――そんな自分を認めたくない気持ちと、一人きりの寂しさが入り交じる。


◇◇◇


 夜になり、玲奈が夕食の片付けを終えた頃、スマホにメッセージが届いた。颯太からだ。

 『ごめん、今日もバタバタしてて連絡遅くなった。ちゃんと千尋と話したよ。結果、もう少ししたら正式に別れる方向かな。ぐちゃぐちゃになったけど……』


 画面を見つめ、玲奈の胸がドキリと強く鼓動する。ここまでハッキリした言及は初めてかもしれない。あれだけ続いてきた恋人関係を、いよいよ終えると決めたのだ。

 (そっか……本当に、別れるんだ)

 色々な思いが交錯する。嬉しさと罪悪感、そして少しの不安。まるで自分自身が誰かの別れを望んでいたようにも感じられ、複雑で息苦しい。


 『そうなんだ……大変だったね。ちゃんと話せてよかった。』

 返事を打つのももどかしい。変に喜んでいると思われたらどうしよう。かといって心配しすぎるのも違う気がする。

 『ああ、ありがとう。でもまだ完全に終わったわけじゃなくて、向こうも納得してるような、してないような微妙な感じだ。最後はもう少し冷静になって話そうってなったけど……長引きそうだな』


 そう続くメッセージに、玲奈はどう返信すればいいのか再び迷う。千尋の気持ちも想像するに、苦しい決断だったのだろう。このまま揉めに揉めて、泥沼化しないことを願うばかりだ。

 『そっか……あまり無理しないでね。もう気持ちは固まってるんでしょ?』

 思い切って踏み込んだ問いを投げる。すると、しばらく既読にならず、ほんの数分がやけに長く感じられる。そして返事が来た。

 『うん、オレの気持ちは変わらない。千尋とはもう続けられないって思う。……あとは、ちゃんと終わらせるだけ。それが終わったら、改めて玲奈にも話したいことがある』


 話したいこと――それが何なのか、玲奈にはおおよその想像がついてしまう。自分としても受け止める準備はある。いや、むしろそうあってほしいと思っているのかもしれない。ただ、今はまだ、その先へ進むために彼が通る道を邪魔したくない。

 『分かった。ゆっくりでいいよ。私は待ってるから』

 送信ボタンを押す瞬間、指先が震えた。「待ってる」という言葉にどこまでの意味を込めたのか、自分自身でもうまく説明できない。ただ、なるべく素直な気持ちを伝えたかった。


 それ以降、しばらくしてから彼からは「ありがとう、また連絡するね」という返事が来て、やりとりは終わった。玲奈はスマホを胸に抱えながら、大きな息をつく。まるで何かの宣言を聞いたような、心が落ち着かない。


◇◇◇


 その夜、玲奈はもう一度だけゲームにログインしてみた。ほぼ日付が変わる頃で、学園のホールはかなり人が少なくなっている。ちらほら雑談しているプレイヤーを横目に、ソウの名前を探すが、今日も見当たらない。

 「そっか、やっぱりいないんだね……」

 小声でつぶやき、レナ・クラインを操作して何となく学園の渡り廊下を歩く。数日前までは、あのB級王子と一緒にクイーンを倒し、盛り上がっていた場所だ。

 きっと、ソウにもソウなりの事情があるのだろう。現実の颯太と同じように、この世界から足が遠のいているかもしれない。もしかしたら、王子の素顔は彼そのもの――そんな考えが一瞬過ぎるが、自分でも荒唐無稽すぎて打ち消す。あんなにB級全開のキャラを彼が演じるなんて想像もつかないし、少なくとも今はそんな冗談を考える余裕もない。

 仕方なくログアウトし、パソコンをシャットダウン。布団に入り込むと、頭の中にはまだ夏祭りの夜の残響が鳴り止まない。あの美しい花火、懐かしい空気、そして中途半端に終わった二人の時間――全部が脳裏を揺らし続けて、なかなか眠れそうにない。

 (もし、あの電話が来なかったら、もし杉野さんたちと会わなかったら……素直に話ができたのかな)

 そんな“もし”を考えても答えは出ない。人生にはハプニングがつきものだ。問題は、そのときどう行動するか。きっと、颯太も千尋との関係を本格的に解消するなら、もう一度ちゃんと玲奈に向き合うつもりなのだろう。自分もそれを待っている。


 ――夏の夜は長い。花火はもう散った。けれど、心の中に燃え始めている火は、まだ勢いを失ってはいない。思いがうまく重なるときが来たなら、その瞬間を逃さないために、今はただ、眠れぬ夜を静かに過ごすほかないのだ。

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