エンドロールのその後で

春山翡翠@脳外散歩ラジオ

エンドロールのその後で

 世界が滅んだりはしなかった。一九九九年を一言でまとめるならそうなるだろう。部活の引退だ、夏期講習だ、そういう慌ただしさで過ぎ去っていった夏から少しずつペース配分を理解してきて、振り返りが出来るくらいには落ち着いてきた。一九九九年は、人類が滅亡するかもしれなかった年だ。

 ノストラダムスは単なる子供のうわさに留まらず、テレビや雑誌でも特集が組まれて、もしかしたらこれはなんて思っていた。悲観的でも楽観的でもなく、七月の末には死んでいるつもりだった。つもりだったというと本気で信じてたみたいでガキくさいけど、人類が滅亡してもおかしくないかも、とサンタをまだ信じていたくなるのと同じくらいには当たり前のように受け入れていた。

 結果的に何の変哲もなく日々が過ぎ去って、僕は一切手を付けていなかった宿題を八月中になんとか終わらせた。初めて通わされた塾の夏期講習もこなしながらで、それはもう大変だった。エアコンの過剰に効いた部屋で「人類が滅んでりゃな~」と何度口にしたか分からない。字を書く筋力には自信があったのに、手が痛くなりながら英単語や数式を書き込んだ。

 その甲斐あってか模試の結果はそれなりによくなったし、このままなら志望校も合格圏内でしょうと言われて、「あっ、なんだ。いけるんじゃん」と思ってしまって頑張る気にもなれなくなった。学校の先生は「怠けてたらすぐに成績に出るぞ」とか「受験は一丸となって挑むんだからだらけるな」と言ってくるけど、正直勉強より先にやる気の取り戻し方を教えてほしいくらいだ。

 そのままだらだら過ごしている内に、もう一九九九年は終わろうとしている。今だって自習中で、冬休みの宿題を終わらせる格好の機会なのにシャーペンは動かない。ストーブの朱色の熱がトーストの上のバターみたいに僕の脳みそを溶かしている。馬鹿になっては困るけど、ほどよいぬくもりに人類は抗えない。冬に人類を滅ぼすなら、まずはストーブにトラップを仕掛けるな。

 校庭から笛の音が鳴る。下級生が持久走をしていた。先頭すぐに飛び出したのは陸上部の後輩だった。遠目に見ても跳ねるように軽やかに走っているのが分かる。いいなと思う反面、あいつの走りは何故だか小さな子供のように見えた。最初に飛ばして後半からバテ気味になる癖はまだ直っていないらしい。ペース配分を考えないからそうなるんだと何度言っても「俺はこのスタイルで行くんで」と頑なだった。僕が引退するまでそのままだったから、しょうがない奴だなと思う。

 僕は左腕を枕にしてワークにシャーペンを立てる。漢字の読み書きは時間がかかるし頭を動かさなくていいからちょうどいい。漢字は暗記というより見たことあるかないかなので本当に何も考えなくても解ける。ただ量があるからめんどうくさい。惰性で腕を動かしていると、二つ隣の時沢と目が合った。

 ──姿勢をちゃんとしろ、背筋を伸ばせ。

 そう言われたような気がする。僕の姿勢が悪いと大概背中を叩いてきたから、今でも時沢の前でだけは正しい姿勢でいなきゃいけない気持ちになる。習慣というものは恐ろしい。

 僕は伸びをするフリをして、あたかもちゃんとしていましたけど? という風にきちんとした座り方に戻す。ちらと横目に時沢を見ると、ペンは一向に進んでいなかった。あいつにも難しい問題とかあるんだなと思いながら、僕はいつまでも進まない時計の終わりを告げるチャイムを待ちわびていた。ストーブはジリジリと熱を伝えている。時沢の、いつもまっすぐな姿勢が頼りなく見えるのは、余計なことを聞いたからだろうか。


 プリントくらいしか入ってないカバンだと背中がやけに軽い。

 お前計画的に持って帰るタイプに見えないんだけど、とは友達の弁だ。一学期が終わるごとに同じようなことを言われたような気がする。「どうせ持って帰るのは分かってるんだから、いらなくなったら持って帰ればいいだけだろ」と言うとそいつは「うるせぇ。かしこいこと言いやがって」と蹴ってきた覚えがある。今学期は掃除当番だった僕を置いてとっとと帰ってしまった。

 横断歩道の先を、通学カバンとは別にトートバッグを肩に下げた正樹が歩いていた。僕はわざと強めに肩を叩いてやる。僕を認識する一瞬怪訝そうな顔をしたが、相手が僕だと分かると表情を崩した。

「横井先輩、久しぶりっすね」

「おー。なんか重たそうだな」

「教科書ってなんでこんな重たいんでしょーね」

 正樹はカバンを背負いなおす。ドスと音がしそうな勢いで正樹の脇腹に当たって少しふらついた。

「三年生は教科書薄っぺらいんですか?」

「んなわけねーだろ。俺はちゃんと分けて持って帰ってるんだよ」

「先輩らしいっすね。なんか」

「なんかってなんだよなんかって」

「いやぁ、なんかとしか言えないっす」

 褒められてるのか貶されているのかよく分からない。とりあえず正樹の中で僕は違う種類の人間なんだろう。性格の違いが走り方にも出ているのか、距離は一緒なのに言うことが一致した覚えがない。その割に嫌いだとも生意気だともあんまり思えないから不思議なものだ。

「この間、走ってるの見たぜ。体育の持久走」

「マジすか。どうでした?」

「あいかわらず序盤だけは早い」

「でしょうね」と正樹はごまかすように石ころを蹴った。序盤に飛ばすんだから素直に短距離に行けばいいのにと僕も周りも思っていたが、正樹は首を縦に振らなかった。本人の中で何かつかめたのか、一年の後半からタイムが伸びるようになってきてそれを指摘されなくなったが、僕はやっぱりペース配分を考えろと言いたくなってしまう。

 こいつの性格は多分死ぬまで変わらないんだろうなと思う。死ぬ瞬間まで。

「お前さ、もうすぐ世界が終わるってなったら何してたい?」

「え、なんすか急に。話題半年くらい遅くないですか」

「いいから」

 僕が促すと正樹は少し考えこむように唸って「やっぱ走ってるんじゃないですかね」と答えた。

「あー、前も同じこと言ってなかったか」

「言ってました? でも先輩もそうでしょ」

「分からん。こたつでのんびりしたいかもしれん」

「先輩が?」と馬鹿にしたように笑う。「まあ受験終わったら一緒に走りに行きましょう」

 そう言って正樹は分かれ道を曲がった。僕の家はまっすぐだからあいさつを交わして歩き出そうとすると、信号の前で女子がこちらを見て立っていた。板倉だ。まだ制服でいるのを見るに、家に帰らずここで待っていたのだろう。学校を出たのに、今日は入れ替わるように人に会う。「遅い」と板倉は呟いた。

「じゃんけん負けてゴミ捨て行ってたからな」

 板倉には言い訳のように聞こえたらしい。そもそも待ち合わせていたわけでもなく、そっちが勝手に待っていただけだと言いかけてやめた。

「もうそろそろ一週間経つけど、何か分かった?」

 睨むような目で見られる。

「何も。というかまともに会話もしてないよ」

「あんたそれでも幼馴染なの」

「幼馴染じゃないって。中学入ってからはそんな会話してないし」

「でももうあんたくらいしか聞けないの」

 板倉が、何かに怒っているような口ぶりで言う。

 ──相談がある、と。板倉が大仰に切り出してきたのは冬休みの宿題が配られ始めた頃だ。

 どうにも時沢の様子がおかしい。ぼぅっとするようなことが増えたと。僕にはいつも姿勢正しくノートを取っている時沢が悩んでいるようには見えなかった。板倉もそれとなく聞いてみたが言葉を濁すだけで答えてはくれず、心当たりを他の女子にも尋ねてみたが解決しなかったという。誰が言ったか、そこで白羽の矢が立ったのが僕だったらしい。

「俺が女子の悩みを聞けるような奴に見える?」

「見えないけど」

「じゃあ頼むなよ」

「しょうがないでしょ。時雨が誰にも何にも言わなくて、本当にもうどうしようもないんだから」

「大体悩みなんてどう聞き出せばいいんだ」

「それとなく世間話をして、相手が打ち明けてくれるのを待ったり、サインを見つけて聞いて、共感してあげるの」

「無理だよ」

 空に向かって吐いた息は白い。灰色の空は薄暗く、ひょっとすると雪でも降りそうだった。寒いし早く帰ろうと歩き出そうとする腕を板倉がつかむ。睨むような鋭い目つきは変わらなかったが、板倉はコートのポケットから紙切れを取り出して僕に握らせる。

「とにかくこれ。うちの電話番号だから。何か分かったらかけてきて」

 信号が青から赤に変わる間際、板倉は走って去っていった。僕は辺りを見回す。幸い、周りには誰もいなかった。


 年の暮れにはいつも火の用心を行う。町内会で子供も大人も集まって、拍子木を打ち鳴らして練り歩く。小学生の頃はあの高い音が妙に楽しくて、それから夜に歩き回るのが楽しかった。眠い目をこすりながら街灯や明かりの点いた家々を周る。今となっては面倒な行事のひとつになって、寒いのによくもまぁと思った。

 同級生とだべっていたのも束の間、班に振り分けられルートを決められる。中学生にもなってくると律儀に参加している方が珍しいらしく、僕以外は小学生だった。僕も参加する気はなかったけれど、母に「どうせ家にいてもなんにもしないんだから」と外に出された。大人達の呼ぶ声がする。監督役の大人の中に、懐かしい書道教室の先生を見つける。

「墨野先生、お久しぶりです」

「おぉ、啓一くん。しばらく見ない間に大きくなりましたね」

「先生は白髪が増えました?」

「やかましい」と軽く頭をはたかれる。それから昔と変わらないように笑った。

 子供達をぞろぞろ引き連れながら歩いていく。マッチ一本火事の元。元気でわちゃわちゃしたソプラノボイスは夜にこそよく響いた。僕は後ろの方で誰も見ていないのをいいことに、上着のポケットに手を入れて歩く。

 夜の冷たい空気を、もう長く吸っていないと思った。去年までならランニングをしていて、この時期なんかは特に箱根駅伝が近いから、僕も頑張ろうって気になった。部活を引退してからパタリと走ることをやめて、それなりにだらけた生活を送っている。時間があれば勉強する気になるだろうと思っていたけど、どうにもやる気にならず十二月からはまた冬期講習に通わさせられてしまった。今走ったら、正樹にも負けるんじゃないかとほんの少し思う。

「啓一くんは今年受験か? 調子はどうだい」

「ぼちぼちっすね」

「宿題は進んでるのか」

「それはあんまり。やる気が起きなくて」

「それにしては余裕そうだ」

「よく言われます。お前はもっと焦れって」

 ははは、と先生が快活に笑うので、小学生達が不思議そうに振り返った。「なんでもないない」と墨野先生が手で前を向くよう促す。

「君は昇段試験のときも一切筆跡が変わらなかったからねぇ」

「やぁ、そういうもんでしょ」

「うん、いいところだ」と先生は半纏の袖から腕を伸ばし僕の頭をガシガシ撫でた。「心は書く字に表れる」と呟いて。

 その言葉は先生がよく口にするものだった。とめ・はね・はらい。そういうところから先生は生徒の個性を見つけるのが好きらしく、たびたびそう言っては赤丸をつけた。指導のための赤丸のときもあったし、褒めるための赤丸のときもあって、あの朱色に書かれた花丸を僕はよく覚えている。

 僕の字ははらいがよく、ブレがないと言われていた。時沢は僕より上手かったけど、試験が近づくと途端に字に迷いが生まれていたらしい。気にしないで書きたいように書けばいいのにと言うと、「啓一ほど能天気じゃないの!」と怒られたことがある。

「時沢はどうしてます?」

「時雨ちゃん? なんか悩んでるようには見えたね」

「字に出てましたか」

「出てた。受験生だし、思春期だし、まあ仕方のないものだろう」

「具体的に何か言ってましたか?」

「いや? そういうのは若者の仕事だよ」と先生は僕の背中を叩く。恋愛とか、青春とか、そういう方向に勘違いされている気がする。たしかに昔は仲が良かったかもしれないけど、それは同じ教室に通ってたからで、中一でやめてからはほとんど喋らなくなった。同じクラスの女子にも先生にも打ち明けないような悩みを僕に相談されても困る。内容を聞けさえすれば、適当にパスも出来るとは思うけど。

「よければ次の火曜日、ウチに来なさい。時雨ちゃんも来るから」

「……うっす」

 僕は少し間を置いてから返事をする。先生は「よろしい」と言って半纏の袖に腕を入れなおす。時沢が何を考えているかなんて分からない。ただ、ごちゃごちゃ考えても埒が明かないことだけは分かっている。街灯が切れかかって点滅を繰り返していた。カンカンと響く拍子木の音に合わせて僕は「火の用心」と呟く。今もこの寒空のどこかで、火がくすぶっているのだろうか。燃えそこなって、燃え尽きることも出来ない火が。


 墨野先生の教室は先生の自宅にある。僕は母から持たされた菓子折りを片手にインターホンを押した。先生の奥さんが出迎えてくれた。ただの一軒家のような、教室のような。廊下を通って障子を開けると、僕が卒業したころと変わらない和室がそこにあった。整然と並べられた机に座布団。硯や文鎮、筆が忘れたとき用に置かれているけれど、大抵は自分のものを使っている。

 昼過ぎで小学生はもう帰ってしまったのだろう。黒髪を肩のあたりでふたつにまとめて背筋を伸ばした時沢がいた。目が合ったから、手で挨拶をする。驚いたような顔をする時沢を横目に、隣に座るのもあからさまな気がしてひとつ間を空けて座った。

 畳の匂いと座布団の感触、それから墨の匂い。暖房の風に入り混じったそれは僕の肌に馴染み、シャーペンを取る気にさせてくれる。僕は家から持ってきた冬休みの宿題に取りかかる。

 数学も理科も、分からなければ手が止まるのは当然だけど、ここならよそに気が散らない。目の前の紙に自分が何を書くかを気にしていればいい。教科書やワークの解説を片手にああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返す。気が散らないからといって、急に頭がよくなったりはしなかった。悩んでいると不意に、白くて細い指がノートを横切った。

「ここでミスってるから意味わかんない分数になってる」

 いつのまにか時沢が僕のノートを覗き込んでいた。「おぉ」と解きなおしてみるとそれらしい数字になる。「やっぱ頭いいんだな」

「そうでもないよ」

「嘘つけ。小学校のときから勉強できただろ」

「わたしより頭のいい子はいくらでもいるじゃん」

「でも俺よりはいい」

 否定しきれなくなったのか、時沢はぎゅっと黙った。時計を見るともう一時間も経過している。休憩にはちょうどいいかと思って、僕は両手を後ろについて姿勢を崩した。

「啓一は今日は書かないの?」

「ん。今日は宿題やりに来た。家だとやる気が起きないから」

「ふぅん」と時沢は興味なさげな返事をする。

「お前が書いてんのはなんなの。宿題と字違うけど」

 新聞紙の上に並べられた半紙を見る。「努力」とか「忍耐」とか「蛍雪の功」とか、そんな字が楷書で書かれている。時沢なら草書でも十分に書けるはずなのに。

「あー、これ? ……なんなんだろう」

「なんだそれ」

「受験だし、コンクールとかにも出さないしで、自分が何書いてるのか正直分かってない。ここに来てるのもなんとなく」

 あっ、これ先生にはナイショねと時沢は小声で付け加える。あくまで軽く、何の気もないように。それを素直にそうですかと流していいものか、僕には分かりかねる。大人ならちゃんと向き合って諭すのかもしれない。友達なら共感したり励ましたりするのかもしれない。どっちも僕がするには偉そうで図々しい気がする。

 無言の間が少し空く。タイミングを見計らっていたのか、先生の奥さんがお盆を持って障子を開けた。「休憩中?」と聞きながら、奥さんは緑茶と僕が持ってきたようかんを出してくれた。いいお茶を使わないでいたのを思い出したから飲んでと言って、奥さんは去っていった。栗の入ったようかんは綺麗にまっすぐ切られていた。

「高校行っても書道続けるのか」

 ようかんを口にしながら言う。僕の問いに、時沢はすっと身を引くようにうつむいた。

「それも分かんないなぁ」と、時沢はフォークでようかんをひとくちサイズに切りながら言った。

「やめるなら中学卒業するときなんだろうね」

「キリがいいから?」

「そう。でも続けたいなって気持ちもなくはなくて……。ただ、書きたいものとか上手くなりたいみたいな気持ちはもうあんまないかな」

「お前充分上手いしな」

「啓一だって賞貰ってたじゃん。やめたのもったいなかったよ」

「母さんにも言われる、それ」

 あんこの食感に栗がアンバランスに砕けていく。母さんが好きでときどき買うけれど、僕は小豆と栗のどちらも邪魔してるんじゃないかって気がして未だに馴染まない。緑茶を飲もうとして、熱に舌先を火傷した。態度で分かったのだろうか。時沢はくすくす笑っていた。

「俺は走りたくなったからなぁ。そういうのはないの」

「そういうの?」

「他にやりたいこと」

「うーん。家庭科部だけど、あくまで趣味のひとつかも。料理は一日三回までだしさ」

 時沢の中で、料理は趣味の域を超えなかったらしい。じゃあ書道は何なんだよ。そう言いかけて止まる。僕は書道をやめた身だし、自分の中で陸上がどの位置にあるのか分からなかった。

 走りたくて走りたくてうずうずしてるなら、きっと今が受験の前日でも走ってる。寒くても、だるいって言いながらでも、なんだかんだランニングを続けていただろう。七月に世界が終わらなかったから? 慣れない夏期講習に体力を持っていかれたから? 自分の中でしっくり来る答えは見つからない。

 なら多分、僕が言えることはひとつだ。

「──なあ。書き初め、書かずにいようぜ」


 新学期早々に僕を出迎えたのは板倉の怒号だった。僕のネクタイを掴んで強引に首を下げさせられた。友達があんなことを言い出せば無理もない話だ。

 書き初めを集めるとき、名前をチェックした先生に向かって時沢は堂々と「やってきませんでした」と言い放った。「忘れた」ではなく「やってこなかった」と。僕は不意を突かれたような気持ちになった。先生もおとなしめの女子生徒の明確な反抗に慣れていなかったのか、「やってこなかった?」という問いに「はい。やってきませんでした」と言い切られてとりあえず扱いを保留にした。

 クラスのみんながざわつく中で、時沢は背筋を伸ばして前を向いていた。

 まさか提案者が日和るわけにもいかず、僕も「やってきませんでした」と言うと、「お前は許さん」ときっぱり言われたので酷いものだなと思う。みんなも馬鹿だなって笑ってくれたから、時沢については流された。

 ただ、板倉は怒っていた。板倉もそれなりに真面目で、提出物を忘れたときはこの世の終わりのように青ざめるタイプだ。友達の成績や内面の心配よりも、僕への怒りが勝ったのは正しいと思う。僕が何か余計なことをしたはずだという直感も含めて。

「あんた時雨に何言ったの」

 見るからに私怒ってますよという態度だけど迫力はない。ドスを利かせるには身長が足りていなかった。頭ひとつ分よりも小さいと、すごまれても怖くない。おかげで言い訳をする必要もなくて、僕は時沢みたいに毅然とした態度でいられた。

「書き初め書かずにいようぜって言っただけだ」

 板倉は理解が追い付いていないようで、言葉が出てこない。感情の塊がたった一文字二文字口から出てくることはあっても、明確な罵倒にはならなかった。親友をそそのかした悪い男なんて罵ればいいのに。しかし、深く吐いたため息の後、板倉の口から出てきたのは意外な言葉だった。

「時雨、冬休み前よりちょっとすっきりした顔してるの」

「俺のせいにしてもよかったんだけどな、出さないの。事実俺が言ったからだし」

「時雨は誰かのせいにしたりしない」

「時沢から冬休みの間に何か聞いてなかったのか」

 板倉は首を横に振る。いくらか電話で駄弁ったり、年が明けてからも一緒に遊んだりはしていたけれど、時沢は自分の悩みに関して何も言わなかったらしい。チャイムが鳴る間際、「くやしい」とだけ言い残して板倉は立ち去った。

 その日の放課後、僕らは職員室に呼ばれた。コーヒーと暖房のあたたかな匂いが教室のそれとは全然違っていてずるい。先生は僕を見た後に時沢を見て、それから僕にまた視線を戻した。

「なんでやってこなかったんだ。時間がなかったとか言わないよな」

 一人だけ適当に言い逃れをしようという気はない。嘘をついてその場をやり過ごすのは時沢に失礼だとも思う。あくまで僕がそそのかしただけだ。時沢の分の被害を請け負って三学期の通知表が悪かろうと、受験には大した影響はないだろう。

「僕が──」と言いかけて止まる。半歩後ろで時沢が僕の袖をつかんでいた。首を横に振って、言わないでと伝えてくる。時沢にも譲れない意地みたいなものがあるのだろうか。「言えません」と押し黙った。

「ふざけてるのか」

 先生が机に拳を振り下ろす。時沢の手がより強く袖をつかんだ。それは怯えと覚悟がないまぜになったものだ。

 無言でいたのはどれくらいだろう。周りの先生が見てみぬふりをしているけれど、さっさと謝ればいいのにというような空気を出している。

「どうする気だ」

「明日残って書きます」

「課題考査中は居残りをするな」

「じゃあ課題考査後に書きます」

 時沢と僕が「お願いします」と揃って頭を下げたので、先生は「必ず残れよ」と脅すように言った。職員室を去ろうとすると、先生が頭を掻きながら「お前らそんなに仲良かったのか?」と聞いてきた。時沢は「幼馴染です」と言い、僕は頷いた。


 テスト期間中はカバンが軽い。提出物とクリアファイルと筆箱くらいでいいから。友達と別れて少し歩いていると、正樹の姿を見かけた。

 あれ、あいつ部活はどうしたんだと一瞬頭によぎった後、テスト期間中は部活が禁止なことを思い出した。自分が部活を辞めてしまうと、当たり前のことでもすっかり忘れてしまう。声をかけると正樹は「ちわっす」と頭を下げた。

「書き初め提出しなかったらしいっすね」

「なんで知ってんだよ……。他学年のうわさになるほどじゃないだろ」

「田中先生言ってましたよ。今度会ったら喝を入れてやるって」

「俺ぜってー二年のフロアに近づかないわ」

「はは。でも部活遊びに来てくださいよ、受験終わったら」

「だめじゃね。先輩が帰らされてんの見たことある」

「やっぱそうですかー」と正樹は首を振った。よそのことは知らないが、うちの部には長距離が少ない。同じメンツで同じ景色を淡々と走り続けることに飽きているのだろう。そういうときは頭に音楽を流せ。大体のペースもつかめるから。そうアドバイスしてMDをいくつか貸したことも遠い記憶の中のような気がする。

 半年前から、随分遠いところまで来てしまった。学校から帰って、漫画を読むか軽く寝て、塾に行って帰ってきたらもう何をする時間もない。今勉強が必要なことも分かっている。ただ目の前のことが流れ作業のように過ぎていた。頑張っても、頑張らなくても、今日という日は変わらない。同じくらい疲れて眠る。

「先輩は走ったりしてます?」

「いや、そんな余裕ないよ」

「マジかー。俺もう今から受験嫌なんですけど」

「めちゃくちゃ走るの速かったら、推薦でいけたんだけどな」

 七月に、僕は大会で自己ベストを出した。ただしそれは一緒に走った中で一番速かったというわけではない。あくまで自己ベスト。当時はめちゃくちゃに悔しかったけど、陸上に一発逆転はない。昨日の自分より速くなることしか出来ない。

 あの日、中学三年生は引退した。それから世界が終わるかもしれなかった日まで、みんなどうやって過ごしたのだろう。世界が終わらないと分かった日から、どうして生きてきたのだろう。

 マンガや映画ならハッピーエンドで終われたかもしれない。

 僕は空調の中で足を止めてしまった。

「先輩、前俺が言ったこと覚えてますよね」

「え」

「受験終わったら走ろうって」

 終業式の日、そんなことを言っていた気がする。陸上部らしい社交辞令みたいなものかと思っていて、今の今まで忘れていた。

「絶対ですからね!」と正樹は分かれ道を曲がっていく。一か月後まであいつが覚えているかどうかは分からない。ただ、正樹らしいなと思って、遠のいていく背中を数秒の間だけ見ていた。あいつに貸したお気に入りの曲が聞こえた気がした。


 放課後の教室は思っていたよりがらんとしていた。三年生のこの時期になるとみんな用事もなくすぐに帰ってしまうから、フロア全体に人のいない感じがする。僕は先生の消していったストーブをつけて指先を温める。時沢も「ずるい」と隣にしゃがんで電熱線に手をかざす。

 グラウンドの方から笛の音が聞こえる。そういえば今日は陸上部がグラウンドを使う曜日だ。手はストーブに近づけたまま立ち上がってみると、短距離・長距離・高跳び・幅跳びと各々が練習している。僕がいなくても後輩達は真面目にやっているようだった。当たり前のようで、自分のいない景色を見るのは少しくすぐったい気もする。

「傍から見てるとやっぱり寒そうだな」

「誰? あー、陸上部か。半袖短パンはやばいね」

「走ってたら身体は熱くなるけど、指先とか冷たいまんまなんだよ」

「速い人でもそうなんだ」

「身体のしくみは速い奴も遅い奴も一緒だろ」

 時沢はそれもそうだと笑ってから、「さて、やりますか」と自分の席に向かう。一番前、教室の真ん中。ストーブからは距離があった。「ミスったな」と僕は思わず呟く。

「何が?」

 時沢は手を止めず、床に新聞紙を置いたり硯を用意しながら聞いてくる。

「ストーブ。つける前にお前の方に寄せればよかったかも」

「ああ、いいよ。手だけあったかければ」

 それ以外はどうでもいいと言わんばかりだった。

 僕はある種感心しながら筆を取り出す。しんとした教室の中で筆を持つことが、僕に妙な緊張感を生み出した。習字の授業中、教室は静かでもよそのクラスのざわつきを耳にする。そもそも四十人がひとつのところに集まって同じ作業をしているから、墨野先生の教室で書くのとはまた違う感覚だった。今の二人だけの教室は、そのどれとも違う。

 定期的に聞こえる笛の音が鹿威しのように思える。電熱線が空気を焼く振動が、目の前の半紙にだけ集中させてくれる。競技が始まる前の、空砲を待っているときのような気分だった。

「最初、何書く?」

「じゃあ、『元旦』で」

「まっすぐだな」

 白い筆が墨汁を含んでしなやかに曲がる。横に書くときの、筆を置いた跡がはっきり残るのは好きだった。少し右に傾くようにしながらただまっすぐ筆を動かす。最後がだめなら全てがだめになる。流れで終わらせるんじゃなくて、はっきりと自分の意志でとめを作って筆を離す。

 嫌いじゃないなと思う、自分の字は。驚くほど上手いわけでもないけど、結構気に入っている。学校の先生にも、墨野先生にも、褒められたのは全体のバランスのよさだった。

「次、啓一の番」

「じゃあひらがなの『の』」

「『の』?」

「いいじゃん。結構好きなんだよ」

「オッケー」

「時沢」

「『元旦』『の』まで来たから『朝』でいこう」

「了解」

 僕達は互いにお題を出し合って同じ字を書いていく。これがあの日、二人で決めたことだった。

 墨野先生の教室で、僕の提案に時沢は目を丸くした。その後に、馬鹿みたいって呆れるようにため息をついた。いれてもらった緑茶はもう飲めるくらいの熱さで、時沢はそれをずっと手のひらに包んでうつむいている。僕はひと呼吸置いてから言葉を続ける。

「別に出すなって言ってるんじゃなくて、書きたくなるまで置いとくんだよ。お前が書かなきゃって気分になったらそれでいい」

「それでさ、もし冬休み終わるまで書きたくならなかったら、そのときは僕も提出しないで一緒に書いてやるよ」

 肩が小刻みに揺れたかと思うと、時沢はバッと顔を上げて「あ、はっ、あはは!」と笑い始めた。笑える要素あったかな。馬鹿だと思われてるんじゃなかろうか。でも実際、僕に思いつくのはそれくらいだった。アドバイスとか共感とか、そういうのは友達がやることだ。

「なんだよ」

「いや、ごめん。ちょっと昔のことを思い出して」余程ツボに入ったのか、時沢は目尻の涙を拭いながら言う。「──久しぶりに『僕』って言ってるの聞いた」

「小学生までは僕じゃなかったっけ」

「あー……。まあいいだろ、似合わないし」

「そんなことないよ。かわいい」

「それ言われても嬉しくないんだけど」

「あはは」と時沢はまた笑った。

「じゃあ私の遊びにも付き合ってほしい」

 そう言われて今やっているのがこれだった。何を書いてもよくて、お互いにお題に出された字を書くだけ。練習でもなく宿題でもないただの遊び、と時沢は言っていた。

『超ド級』とか『Today is sunny』とか、普通なら絶対書かない言葉が大真面目に半紙の上で踊っている。それを見せあっては「センスがない」とかケラケラ笑いあった。筆を使った遊びは思っていたよりも楽しくて、そういえば字を書くこと自体も結構好きなんだと気が付いた。墨野先生がいたら、朱色で花丸をつけてくれただろうか。それともふざけすぎって怒られるだろうか。僕はその疑問をそのまま口にしてみた。

「怒られなかったよ」

「意外だな。やるときは真面目にやれって言いそうなのに」

「ああ、うん。それも言ってた」

「待て、なんで過去形なんだよ」

「だって昔、同じことやったことあるもん」

「マジで?」僕は思わず二つ隣に目線をやる。時沢はにこにこしながら、それでも半紙に向かっていた。

「小五かなぁ。一回嫌になってサボって、公園に隠れてたことがあって。そしたら啓一が迎えに来たんだよね」

 言われてみればそんなことがあったような気もする。だけどもうほとんど覚えていなかった。

「そしたら啓一、『じゃあやる気になるまで僕と違うことしよう』って。二人でブランコ漕いでたら先生に見つかって、教室戻ってやったのがこれ」

「それ多分俺もサボりたかっただけだぞ」

「そうかもね。でもうれしかった」

 ふーんと僕は生返事をする。身に覚えがほとんどないから、くすぐったい気分になる。実際忘れていたくらいだから、自分にとっては大したことではなかったのだ。美談みたいに語られるのも違う気がする。

 冬至を過ぎてもまだ日が暮れるのは早い。窓の外に視線をやると、空の端が紫がかってきている。

 時沢が不意に席を離れて、ストーブの前にしゃがみこんで手をかざす。僕と目があった。栗色の目をしているなと、そのとき初めて思った。

「若葉がね、私の字を好きって言うの。でも私は私の字をあんまりいいって思えなくて」

 わかば、若葉。少しの間をおいて、板倉の顔と合致する。時沢と仲が良くて、時沢のために一番動いていた。

「書き初めやだなぁって、他の子みたいに言っちゃったの。そしたら『私は時雨の書く字が好き。書いてほしい』って。それでなんか、余計に嫌になっちゃって」

「褒められてるのに?」

「褒められてるのに。おかしいでしょ」

 ガチャガチャと外が騒がしい。運動部はもう片付けに入っているらしかった。僕が何か言うのを待っていたのだろうか。あるいは馬鹿にされたかったのだろうか。でも僕は、そうは思えなかった。

「啓一が書かなくていいって言ってくれて、私はちょっと気が楽になった。若葉も親も、私も含めて、このまま書き続けるんでしょって当たり前のように思ってたから」

 続ける理由なんてなんにもないのにね、と時沢は自分自身に呆れたように言った。

「いっそ世界が終わってくれてたら楽だったのに」

「でも、アンゴルモアは来なかった」

 それは多分いいことのはずだ。今もこうして生活が続いている。

 でも、心のどこかでここで終わるなら仕方がないって気持ちもほんの少しあって、僕らはそこで死にそこなったんだ。映画ならハッピーエンドで終わるのかもしれない。だけど僕らは終わらなかった。エンドロールの続きを生きている。

「時沢はさ、結局書道続けるの」

「どうだろ。受かった高校に書道部があって、そこに素敵な先輩がいたら続けるかもしれない」

「適当だなぁ」

「うん。でも今決めなくてもいいやって思えたから。啓一のおかげ」

「なんでだよ。俺は何にもしてないぞ」

 時沢は分かってないなとでも言うように笑った。それから立ち上がって、僕の背中をバシンと叩く。

 ──姿勢を正せ。

 久しぶりに受けたその衝撃は、小学生のときよりも随分軽い。ストーブにあたっていたからだろうか。背中に時沢の手のひらの熱がずっと残っていた。


 もうすぐ三月になろうというのに肺に入る空気は一段と冷えている。呼吸の度に白い息を置き去りにしながら僕は走っていた。心臓がうるさいくらい主張を続ける。だけど呼吸のリズムは一定に保ち続けていた。

 思っていたよりも悪くない。それが正直な実感だった。体力がもっと衰えているものだと思っていたけれど、足取りが重くならずペースを維持できている。現役のときよりタイムは落ちているだろうけど、この分なら正樹に負けないくらいにはすぐ戻るだろう。

 皮膚を覆いながら肺を満たしてくる冷たい空気。身体の内側から湧いてくる熱。熱を伴って全身を駆け巡る血液。跳ねるように前へ進み続ける両脚。

 今はただ、何もかもが心地よかった。

 揺れながら自分を待ち続けている街灯を何本も後にする。自分の足音と呼吸音、遠く聞こえる車の走る音。それ以外は何も聞こえない。

 受験が終わった。正確に言えばまだ合格発表待ちではあるけど、勉強に追われる日々は終わった。知らず知らずのうちに自分に課していたランニング制限が解禁されて、僕は目標も目的地もなく走っている。

 これなら受験中でも走ればよかったかもしれない。一瞬そんなことが頭をよぎったが、それもそれで違う気がする。僕が走るのは、何かから逃げ出すためじゃない。

 脳にまで新鮮な血液が回っているからか、妙に思考がクリアになっている。あるいは単純に、難しいことを考えられないからかもしれない。今になって思えば、七月に引退してから僕はずっと死んでいたみたいだ。

 時沢も多分、同じだったんじゃないかと思う。いや、もっと酷いだろう。僕の場合は世界の終わりに一度死ぬことができた。引退っていうもう続けなくていい状態が強制的に訪れたから、走ることに大した未練を持たずにいられた。でもあいつは続けることもできず、やめることもできなかった。やめていい理由がなかった。

 あの日提出した書き初めは今も教室の後ろに掲示されている。板倉は時沢の字を見て、ただ「綺麗」と呟いた。時沢は照れくさそうにしたりせず「ありがとう」と微笑んでいた。その誉め言葉は嫌じゃなかったようだ。板倉もなにか納得したような顔をしていて、女子の機微はよく分からない。わだかまりがあったのか、なかったのかもはたから見たって判断がつかないくらいだ。

 コンビニに差し掛かったところで、ちょうど時沢とすれ違った。名前を呼ばれて思わず足を止めてしまう。駆け足で近寄ってきて、子供のいたずらを見つけたときのような顔をする。

「無視するのは冷たくない?」

「走ってる最中なの分かるだろ」

「でも、止まったし」

 時沢はレジ袋からココアを取り出して手をあたためる。吐いた息はひときわ白かった。それからくだらない話を少しだけした。受験から解放された喜びや、ストレス発散のことを。今は目下、増えた体重と食べたいものとのバランスで悩んでいるそうだ。

「走ってみたらいい」とアドバイスしてみるけど、「置いていかれそうだからやだ」と言われた。

 それから時沢は僕の背中を強く叩いて帰っていった。心臓がずっと脈打っている。生まれ変わった、とは思わない。僕は大きく空気を吸って、星空の下を駆け出していく。世界が滅ぶとしても、今じゃなくていい。

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エンドロールのその後で 春山翡翠@脳外散歩ラジオ @haruyama_nougaisanpo

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