第1話 出会い

可馨は男装した姿で妓楼の二階の窓枠に足をかけ、ゆっくりと壁に沿って横這いに進んでいた。一つ足の置き場を間違えればそのまま地面まで真っ逆さまである。妓楼に女が入ることは許されず、正面から入れば妓楼に入場するための札を持っていないことがばれる。だから、窓から忍び込むしかないのだ。

「とっとっと、危ない危ない」

 そう自分で言った矢先、窓枠にかけた足を踏み外してしまう。片手で必死に窓枠を掴むが、身体の重みでだんだんとずり落ちていく。思いっきり伸び上がって、もう片方の手で窓を叩くと一人の妓女が顔を出した。それを見て苦笑いをした可馨を見た妓女は、きゃっと短い悲鳴をあげて、ばたんと窓を閉めてしまった。

「っと。ちょっと待って、依依!君の母親からの依頼でね。助けにきたんだ」

 恐る恐るといったふうに、呼ばれた妓女はもう一度顔を出して聞き返した。

「母から?」

 可馨は頷くと、手を出して言った。

「だから手を貸して」

 慌てて香鈴は、可馨に手を伸ばすと部屋の中に引っ張り上げた。

「母は元気でしたか?」

 転がり込んだ可馨に聞いた。

「お嬢さんを助けるために街で物乞いをしてらっしゃった」

 不安そうに縮こまる香鈴にため息をついて伝えた。

「でも、私が来たからには必ず助け出しますからご安心を」

 うんうんと、頷いた香鈴はぱっと顔を上げて聞いた。

「あの、私は何をしたらいいんでしょう」

「身売り証文を見せてくれたらあとは私が引き受けますよ」

 それを聞いた香鈴は、悲しそうに眉を下げて首を振った。

「私証文は渡されていないんです。女将が持っていて」

「証文はしっかり渡しておくべきなのに……。女将がどこにしまっているかは分かる?」

 可馨は唇を噛んで、香鈴に問うた。

「女将の部屋に箱に入れて置いてあるんです。でもその箱の鍵をいつも女将が帯にさして持ち歩いているから……」

 その時、部屋の外からちょうど女将の声がした。

「次、香鈴が舞う番よ!支度をしなさい!」

「舞の呼び出しだわ。どうしよう」

 香鈴は慌てたが、可馨はじっと考え込むと、香鈴の服を見て閃いたように手を打った。

「いい考えがある!」


  ✳︎ ✳︎ ✳︎


 妓楼の一階は提灯の灯りが揺らめき、艶やかな妓女たちの笑い声が響き渡っている。絹の面紗をした、依依ではなく入れ替わった可馨が階段をゆっくりと降りてきた。

「依依!こちらに来なさい!」

 入れ替わったとも知らずに呼んだ女将が、手を打って客に呼びかけた。

「さあさあ皆さん。この店一番の美女、依依が舞を披露させていただきます!ご注目くださいな!」

 おお、と歓声が上がる中、隅の席で酒を飲んでいた男、天籟は、曲芸など眼中にない様子だった。そんな天籟のもとに、若き部下が駆け込んできた。

「お頭!陽蓮はこの妓楼の二階の部屋にいるようです」

「陽蓮の動きがあったらすぐにこちらも動く。用意しておけ」

「分かりました!さすが天下の霄天籟様!陽蓮ももうすぐお頭に息の根を止められる日が来ますよ」

「蒼星……少し黙れ」

 意気込みこんで喋る蒼星に、天籟と呼ばれたその男は鬱陶しそうに手を振った。

 

 天籟は、この国苑国の海を陰で支配する大海賊の頭である。父を殺した長年の宿敵である黒狼党との戦いは、彼を冷酷なまでに鍛え上げた。黒狼党の重要人物である陽蓮がこの妓楼で密談を行うとの情報を得た天籟は、獲物が出てくるのを静かに待ち構えていた。


一方、妓楼の一角では、可馨の華やかな舞いが繰り広げられている。可馨は、色鮮やかな衣装を身にまとい、巧みに舞を踊りながら、女将の帯に目を走らせていた。そして、ついに、女将のつけた帯に、光る鍵を見つけると、一瞬の隙をついて、その鍵を盗み出した。盗み出した可馨は舞を早々に終わらせると、一目散に女将の部屋へ忍び込み、部屋の中から身売り証文の入った、箱を探し出そうとした。が、恐ろしいほどに鍵付きの箱が至る所にあるのだった。

「最悪だわ……。全部試さなくちゃいけないなんて」

 そうぼやいた瞬間、ばたんと戸が開き女将の金切り声と共に十人ほどの下男がなだれ込んできた。

「早く、あの泥棒猫を捕まえなさい!逃したら承知しないわよ!」

「うわっ。もうばれたの?!」

可馨は反対側の扉から飛び出し一回を見下ろせる廊下に出た。勢いよく飛び出し過ぎたあまり、そのまま一階に落ちるところだった。後ろからも、横からも囲まれた可馨は逃げ場がない。

「捕まえなさい!袋の鼠よ!」

しかし可馨は思いもよらない行動に出た。ぱっと手すりを飛び越え、一階に落ちるかというところで2階の天井から吹き抜けの一回まで垂れる仕切りのための布に捕まり、向こうの廊下に飛び移ろうとしたのである。だが、ぎりぎり届かなかったのだ。ゆらゆらと宙に浮いたまま、真ん中で止まってしまった。

「なんでよ!もうちょっとだったのに!」

ばたばたと宙で足をこいでも意味はなかった。その時二階の奥の部屋から一人の男が人目を避けるようにゆっくりと出てきた。その顔には、今まで妓女と遊んでいたとは思えない深刻な表情が浮かんでいる。

「陽蓮が動いた。お前たちは階段から回り込め」

その男は、まさに天籟が追っていた陽蓮だった。陽蓮の動きを確認すると天籟は床を蹴って飛び上がった。

「ちょっと!最低な男ね!人の頭を蹴る奴がいる?助けるくらいしたらどうなのよ!」

可馨の頭に乗ってもう一度跳ね、二階に上がろうとした天籟の足をぎゅっと掴み可馨は怒った。

天籟は、面倒そうに舌打ちをした。

(この野郎……。陽蓮に逃げられるじゃないか)

自分の足を掴んで見上げる可馨を、苛立ったように乱暴に腰から持ち上げると、一気に二階の廊下まで飛び上がり着地した。

「蒼星!陽蓮を追え!」

階段を駆け上がり追いついた蒼星に叫んだ。陽蓮が外に出るとふんだ天籟は、可馨を片手で掴んだまま窓を蹴破り飛び降りた。

「な、なんなのあの人!」

可馨は、息も絶え絶えに呟いた。

しかし休む暇もなく女将の放った追っ手が妓楼の外まで追いかけてきた。可馨はぱっと駆け出すと街の中を場所も分からず走った。天籟も陽蓮を同じ道で追っていた。

「店を騒がせたあいつも一緒に捕まえるのよ!」

女将が天籟まで捕えようとしたが、陽蓮を追うのに夢中だった天籟は稲妻の如く駆け出し、あっという間に追っ手はまいてしまった。

街の大通りは、陽蓮、可馨、天籟、女将の追っ手と続き、大騒ぎだった。見知らぬ船場まで追い詰められた、可馨と陽蓮は逃げ場を失い、慌てた。追いついた天籟が可馨たちを睨んだ。女将の追っ手は諦めたようで可馨はほっと一息をついた。が、そんな暇はなく、

「陽蓮、こんな仲間がいたとはな」

と陽蓮の仲間として天籟に勘違いされてしまった。え?というふうに二人は顔を見合わせた。可馨は首を振ると真っ先に口を開き言いつのった。

「違う!私は未来の大侠客李可馨だ!」

といってもこの状況だ。陽蓮と同じ方向に逃げた可馨は信じてはもらえず、ジリジリと間合いを詰められ、やはりまた、飛ぶことになりそうだった。しかしここは形勢が逆転した。

ざっざっと鎧の音がして、天籟の周りを官軍が取り囲んだ。

「今度こそ逃さんぞ!霄天籟!船を襲う天下の大悪党め!」

しかし天籟は余裕ぶった表情だった。いや、実際余裕なのだ。

「大悪党はどっちだろうな。隣国へ送る賄賂を取り上げて問題沙汰を起こさないようにしてるのは誰だと?」

そう言って曲刀の鞘を抜きもせず自分を取り囲む官軍を全て気絶させてしまった。

可馨はその隙にちょうど出港しかけていた船から下がる網に飛びついていた。しかしぐらぐらと揺れる船では捕まっているのがやっとだった。しかもその後から天籟が網に飛びつきまた縄が揺れ、片手だけで網を掴んでいる状態になってしまった。その可馨の腰をぐっと支えた天籟は、可馨の顔を見た。

「よくぶら下がる娘だな。陽蓮はどうした?」

「知らないわ!私は陽蓮の仲間じゃないもの。それよりこの手放しなさいよ!船に上がるんだから!」

「離していいのか?」

悪戯な目で可馨を見るとぱっと手を離した。

「ちょっと!」

また片手で網にぶら下がる羽目になってしまった。

「お前が離せと言ったんだろ。じゃあ、がんばれよ」

そう言うと、可馨を助けもせず海に飛び込み、あっという間に隣の船まで泳いでいってしまった。

「なんてやつ!このままでいろっていうの?!」

可馨はぶつぶつと言いながら、なんとかもう片方の手で網を掴むと足をかけて、思いっきり船の甲板まで上がった。

この船は高官の船で賄賂がたっぷりと積まれている。その分見張りも厳しく、どこへ行っても兵士がうろついていた。戸を開けて貨物置き場に忍び込むと荷物の影に隠れ座り込んだ。

素早く男物の服に着替えると呟いた。

「ここなら誰も来ないよね」

ゆらゆらと船に揺られ可馨は深い眠りについた。


   ✳︎ ✳︎ ✳︎


「海賊だ!起きろー!起きろー!」

甲板を打ち鳴らすけたたましい鐘の音に、可馨は目を覚まし、飛び起きた。外はまだ漆黒の闇に包まれていたが、甲板の上は騒然としている。

「なんだ、この騒ぎは……」

眠い目をこすりながら甲板に出てみると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。満月が夜空を照らし、海面を銀色に輝かせている。しかし、その美しい光景とは裏腹に、船は緊張感に包まれていた。

「今なら慌ててみんな私なんかに構うわけないよね」

そう呟きながら、一人の少年兵が慌てて貨物部屋に逃げ込もうとするところを、可馨は呼び止めた。

「ちょっと待って!一体何が起きているんだ?」

少年兵は、可馨を不審そうに睨みつけると、

「ここ一帯の海を牛耳る大海賊、霄天籟が襲ってきてるんだよ!」

と、興奮気味に叫んだ。聞いたことのない名前に首を捻っていると少年兵は可馨に掴まれていた手を振り切り逃げていった。

そうこうしているうちに、船の帆に無数の鉤爪が引っかかり、次々と海賊たちが船に乗り込んできた。

兵士の倍以上の数の海賊にかなうはずもなく、あっという間に抵抗する者は縛り上げられていってしまった。

「おい、投降するか?まあしても殺されるのは一緒だからな。関係ないか」

縛られた兵士が膝をついて命乞いをした。

「副頭目……。あまり殺すとお頭に怒られます。投降した者は殺すなとの命令ですけど」

そばについていた子分らしき細い男が、気弱そうにささやいた。

「はあ?殺そうが何しようが関係ねえんだ」

そう言いながら跪く兵士たちの首を斬っていく手を止めなかった。甲板は赤黒い血の色に染まり、ぬらぬらと月の光に反射していた。

「お頭が来られたぞ!皆、気を引き締めろ!」

甲板に立つ男の叫び声に、血生臭い空気が張り詰める。鉤爪が帆に引っかかり、静かに現れたのは、海賊団を率いる男、天籟だった。月の光に照らされた彼の顔は、冷たく、鋭い眼光を放っていた。

「……またか」

深いため息とともに、天籟は血まみれの甲板を見渡す。彼の視線は、血に飢えたように敵を斬り続けた副頭目に突き刺さった。

「おい。投降した者は殺すなと言ったはずだ」

決まり悪そうに後ずさる副頭目を睨みつけると動揺する副頭目を曲刀で押しのけ、つぶやいた。

「命を助けてくれたよしみで見逃してやる。これ以上無駄な血を流すな」

そう言い終えると剣を振り上げ叫んだ。

「荷を船に積み込め!島に帰るぞ!」

可撃が高く掲げたその手にはごうごうと赤く燃え盛る松明が握りしめられていた。天績は目を見張った。。さっきの娘が、よもやこの船に乗っているとは思わなかったのだ。男装はしているものの顔をはっきりと見た天額には一目でわかった。隣にいた副頭目がつぶやいた。

「あの小僧何やってるんだ?自分も死ぬことになるんだぞ?」

可馨を女だと知っているのは近くで顔を見た天籟のみだった。天籟は一歩、また一歩と酒を並べ、脅すように松明を向ける可馨に近寄った。

「お前、それが出来るか?」

可馨はぎりっと歯ぎしりをすると、叫んだ。

「できるさ!だから死にたくなかったら早く出ていくことだな!」

どうせできまいと鼻で笑った天額は可馨を見上げた。

「じゃあ本当にやるからな!」

そう言って可馨は酒瓶を蹴り、割るとあふれた酒に松明を落とした。炎は一気に燃え上がり可馨を包んだ。

「おいおいおい、何やってるんだあの娘!」

本当に火をつけるとは思わなかった。天箱は思いもよらなかったその行動に目をむいた。どうせはったりだと油断していたところに、この娘は自ら火をつけるということをやってのけた。その根性と肝の太さに驚きと好感を抱いたが、みるみる火に包まれていく船を見て我に返る。

「おい、お前ら船に戻れ」

それだけ声をかけて、天績は後ろに立っていた部下に上着を脱いで押し付ける。

「お頭、何をする気ですか!?」

「心配するな、一度あの頓狂娘と喋ってみたいだけさ」

部下の静止を振り払い、天績は火の海に飛び込んだ。腕で顔をかばいながら、押し寄せる熱気の渦を走り抜ける。火に巻かれていると思っていた娘だが、火の海を目の前にしながら歯を食いしばっていた。けれど自分の暴挙を後悔しているそぶりはー切ない。陶器のように白い肌と、黒髪が印象的な娘だった。娘は天績に気付くとはっとした顔になり、何かを思い出すように眉をひそめている。

(こいつは窓にぶら下がっていたあの娘じゃないか)

どうやら気づいていなさそうな娘だったが、ずかずかと近寄って肩に手をかけた瞬間娘は思い出したように目を見開いた。娘がわめきだす前に、天績の方が口を開いた。

「この船はもうだめだ。お前も、あの火の海をもう一度歩きたくはないだろう?つまり、どうするかわかるな」

「は、はあ!?」

天績は迷うことなく娘の腰に腕をかけて横抱きにした。抵抗するそぶりを見せた娘だが、ここで暴れられるといろいろと面倒ある。がっちりと力を込めて抱きしめ、船べりに足をかけた。娘は天績を睨みつけながらも青ざめている。ぐいっと身体を引き上げると、腕の中でもがいている娘ににやりと微笑んだ。

「窓にぶら下がって喚いてたたお前が、こんなことを恐れるのか?」

天績は燃え盛る船を背後に、盛大な水しぶきを上げながら大海に飛び込んだ。冷たい海水が身体を打ち、沸き起こった無数の泡が素肌をくすぐっていく。天績が慣れ親しみ愛する海の心地だった。けれども娘はそうではないらしい。ばしゃばしゃと水をかきながらもがいている。天績は水に浮かびながら娘に声をかける。

「そんなに暴れちゃ溺れるぞ。もう溺れてるか」

天籟は一度潜って娘の靴を脱がせると、腰を支えながら二人で浮かび上がる。はあはあと荒い息をつく娘は、頬に髪を張り付かせながら天績をにらんだ。

「おーい、こっちだこっち」

天籟は部下が漕いでいる小舟に手を振った。先にある母船に縄でつながれた小舟である。近づいてきた小舟に上がった二人の影を、明るく月が照らし出していた。

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