光 7 fin





「おはよー!神代ちゃん、神原ちゃん、同伴出勤?」

「おはよう、…。同伴出勤って何だ?」

明るい朝の日射しのもとに。病院近くの道を歩いていた神代と神原に、辰野が明るく声を掛けるのに。

 首を傾げる神代に、神原が少し遠くをみる。

「ええと、…一緒に出勤する、ということでしょうかね?」

「ふうん、…。で、どうしたんだ、辰野、くっついてくるな!」

「えー、で、本当は何で一緒になってんの?神原先生、家こっちの方?」

「おまえな、…そーいう、こら、人で遊ぶなっ」

肩を抱き寄せて、頬にキスとかして遊んでいる辰野に、神代がうんざりしながらにらむ。

「いえ、…。実をいうと、昨日あれから、泊らせてもらいまして。それで、」

辰野に遊ばれている神代がつい面白くて、笑みを零してから、神原がいいかけるのに。

「神原っ!それはいうなっ」

「マンションから此処まで、案内してほしいと頼まれたんです」

「…――――神代ちゃん、マンションあれよ?見える?どーして迷うの」

辰野があきれて、此処からも見える高層のタワーマンションを指さす。それに、苦い顔をして横を向いて。

「いや、だから、…―――。そこはまだ、」

「そこはって、問題はどこにあるの?」

横を向いたまま勢いで神代が辰野の肩に回した手を振り切って。

 勢いよく先に歩き出していく神代の背を見送って。

「おやおや、…いっちゃったよ。で、神原くん、理由はなに?」

神代の背を見ながら、神原の歩く隣に並んでいう辰野に。

「いえ、…その。多分、マンションの中が」

「中がって、…。そんな迷路なの?そこ」

神原が今朝も外へ出て、眉を寄せて立ち尽くしている神代を思い出して微笑む。

「ええ、まあ、…。もう何度か行かれれば、憶えられるんじゃないでしょうか」

「どうかな、それ、…――。あいつ、前にも手術室とICUへの行き方は憶えたけど、ロッカーとか食堂の場所はいくら言っても憶え無かったからな、…」

「そうなんですか?」

あきれてみる神原に神代の背をみながら深く頷く。

「自販機の場所とか、めし売ってる場所とか、そういうのは憶える気ないんだ。あいつと同じ大学で、おれがどれほど苦労したことか、…」

思い出してげんなりしている辰野に、神原が不思議そうに聞く。

「え?辰野さん、僕と同じ大学では?」

「そーだけど、あれからアメリカ留学したときに、あいつと居合わせてな、…――あれで、図書館とかは自動的にいけるんだぜ?ったく、腹立つなあ、…。思い出したら。よしっ!またおちょくっちゃれ!」

「…あの、――――元気だなあ、…」

先を早足で歩いて、相当前をいっている神代の背に、辰野が後ろから走り込んで突然抱き付く。

 それに、振り向いて抗議している神代と。

 ―――それにしても、留学先同じだったんですか。

 辰野先輩と神代さんが、と。

「それにしても、元気だ」

朝からテンション高いな、と二人を見ながら微笑んで。

それから、今朝のことを思い出していた。

 まあその、はい。

それは、今朝、目醒めたときのこと、――――――。








「ん、…――――って、神原!何抱き付いてるんだよっ、…!」

朝日と共に、というよりは自動的にいつも起きている時間に起きて、すっかりとまだ寝ている神原が。

 思い切り、抱き付いてねていて、動けないのに焦って神代が叫ぶ。

「おい、だから、…神原、起きろっ、…―――!」

「…――――あ、おはようございます、…かみしろさん?」

「理解してるなら離せ、おまえ、辰野じゃないんだからっ、…!―――おい、きいてるか?…また寝るなっ、…おい、神原!」

 ―――うん、…あったかいな、…。―――

声が聞こえながらも、またうなずいて寝そうになる神原に。

「おい、起きろっ、おまえ、低血圧か?違うだろ!…起きろって、神原!時間、遅刻するっ!」

「…―――ちこく、はいけませんね、…―――」

いいながら、ぎゅっと抱き寄せて。

 ――いい具合に温かくて、いいクッションだなー、…。

ぼんやりと考えている神原がまったく動かないのに神代があせる。

「おい、…!起きろ!神原っ、…―――!」

必死に神原を起こそうとしている神代の声が寝室に響いて。





「…すみません、…朝はどうも、…苦手ということはなかったはずなんですが」

「いいから、めしを食え。小野さんが用意してくれてあるんだから」

いいながら、朝食がテーブルに二人分用意されているのを示して神代がいうのに。

 驚いて、テーブルの上を見る。

「これは、…?小野さんといわれるのは」

まだ歯を磨いて顔を洗っただけで、ぼんやりと朝食のテーブルをみる神原に神代が既にきちんと着替えて、席に着きながら見上げていう。

「小野さんは小野さんだ。ご飯を作ってくれたり、洗濯や掃除をしてくれる」

真面目な顔で見返していう神代に、瞬いて。

「つまり、家政婦さんですか?それにしても、ちゃんと二人分、…此処に住んでおられるんですか?」

きちんと二人分、目玉焼きにベーコン、それにサラダとご飯にと用意されている朝食に。

「いや、住んでない。おまえも着替えてこい。朝食が冷めたら怒られる」

真面目な顔でいう神代に驚いて。





 着替える際にも、既にプレスの掛った、―――昨夜来ていた服が、きちんと用意されているのに。

「あの、…小野さん、はまだこちらに?御礼をいわないと」

「伝えたいなら、メッセージカードがあるぞ。もういないよ。おれのとこだけみてくれてる訳じゃないからな。今朝は食事の用意とかしてくれて去ったらしい」

「…―――らしいって、会ってないんですか」

「…彼女を捕まえるのは難しくてな、…。こどもの頃から世話してもらってるが、―――。ほら、それよりめしを食え。で、礼をいいたかったら、これだ」

「はい」

席に着きながら、驚いて神代が示すメッセージカードを見る。

「それですか」

極真剣に神代がテーブルに置かれたメッセージカードとペンを示して。

「昔から、これに書いて、冷蔵庫に入れてやりとりしている」

「…――冷蔵庫、ですか」

「他よりいいらしい。しらんが、そうなっている」

「…――はい、わかりました。いただきます」

手を合わせて、ご飯をいただいて。





「…――美味しいですね」

「小野さんの料理は最高だ。けど、作ってあるものをきちんと食べないと実にうるさい。」

真剣にいう神代に笑む。

「それはまあ、…――コーヒーまで、淹れてくださってあるんですか」

食べ終えて、食器を運ぼうかとキッチンの方をみて、コーヒーメーカーに作り置きがあるのに驚いて神原がいう。

「その通りだ。小野さんがいないと、生活が成り立たん」

「そうなんですか」

真面目にいう神代に笑んで。それから、マグカップにコーヒーを入れて。

「ありがたいですね、これは」

微笑みながら、コーヒーの香りを楽しみながらいう神原に神代が頷く。

「その通りだ」

真面目に病院からの連絡をテーブルに置いた端末で確認している神代に微笑んで。

「メッセージ書こう」

そして、御礼を書いて、いっていた通り冷蔵庫に入れてみよう、と開けてみると。

 ―――――この人は、…本当に。

「…ありがとう、ございます」

小さくいう神原の声に、視線を向けずに。

「何の話だ。…小野さんへの御礼なら、ちゃんとそこにいれておけよ」

「…はい」

微笑を零して、自分の書いたメッセージも冷蔵庫に入れて。

難しい気配をみせて情報をチェックしている神代に。

 先に置かれたメッセージカードには。

 ―――朝飯、二人分ありがとう。

無器用に神代が書いたメッセージが置いてあって。

 ―――本当に、この人は。

「もう出ますか?そろそろ行かないと」

「…――そうだな。おまえの観測だと、此処から出て病院に行くまで、どのくらいかかる?」

「徒歩でしたら、そうですね。…十五分もあれば充分かと思いますが」

青空をみて神代が席を立つ。

「そうだな、歩くか。…道案内は」

難しく眉を寄せてみる神代に微笑んで。

「はい、道案内、させていただきます」

「…―――頼む」

真剣にいう神代に思わず笑みが零れて。

「おい!あのな?おまえっ、…」

「はい、すみません。いそぎましょう。多分、問題は道よりもこの中かと」

「…――そうだな。大体、何でこんな迷路みたいな造りなんだ」

「迷路というほどでは、ないような気がしますが、…」

「いくぞっ!神原!」

「…はい」

思わず微笑んで、先に行こうとする神代を少し留めて。

「そっち、寝室ですよ?戻るんですか?」

「…――――」

真剣に難しい顔をして神代が神原を見あげて。





「神代ちゃん、本当―に偏ってるもんねえ、…」

新しい病理診断の結果を持って、入院患者の手術に関する新しいカンファレンス―――病状等を検討して、手術を行うかどうかなどを決める会議―――に来た辰野が、神原を見つけて隣に座りながらいう。

「はい?…辰野さん、この患者さんの病理診断を?」

資料を読んでいた神原が、もう十数名が集まり始めているカンファレンス室で隣に来た辰野にいうのに。

 辰野が、沢山の資料をどさりと置いて、前方に資料を投影する機器の調整を研修医がしているのをみながらいう。

「とーぜん!おれ、一応ここのチーフだから」

「え?」

意外なものをみた、という風に神原がみるのに、辰野が前方をみたまま手許をみずに資料を揃えるという器用なことをしながらいう。

「あ、神原ちゃん、おれの診断の腕疑うの?」

「疑ってませんが、…―――チーフだったんですか」

「おれのどこが相応しくないわけー、けんか売ってる?神原くん」

一応、機嫌を損ねた風に作って、顔を寄せて来て遊んでいる辰野に肩を落とす。

「僕で遊ぶのはよしてください。…神代先生がいるでしょう?」

「…―――今日は、神代ちゃんの患者さんだから。遊べないの」

「え?あ、はい、…――――」

そして、薄暗い室内にカンファレンスを開始しますという案内が流れて。





 神代が投影されている画像を示しながら、端的に症状と予測される今後の状況、手術の手順、合併症の危険等を解説していくのに。

「…―――確かに、偏ってますね」

 手術の手順、考えられる副作用、説明している内容は総て頭に入っているとしか思えない説明を聞きながら。

 ――――人体の中をこれだけ憶えて、手術があれだけ見事なのに、どうして道に迷うんだろう、…。

「だろー?かたよってるよなー、こいつ」

こそこそと、顔を寄せて辰野が、つい呟いてしまった神原に同調していってくるのに。

「そこ!辰野先生!次、病理診断の結果教えてくれ!」

投影された画像の傍で説明を終えた神代が、怒って辰野にいうのに。

 明るく手を振りながら、辰野が席を立って。

「はーい、呼ばれてきましたー、と。これが、新しく採取した資料のデータです。まず、この染色された組織片をみてください。…あきらかに、変形した組織の浸潤がみえます。…これは、――――」

 解説を始めると途端に口調が普段のふざけたものから変わり、無駄なく正確に事実をわかりやすく伝える辰野に。

 ――――この人も、ある意味偏りが凄い気がする、…―――。

「と、いうわけで、おれの診断は、リンパ節浸潤第二群まで。誰か反論は」

説明を終えて周囲を見廻し、それに他の医師達が意見を述べていく。

 一同の活発な論議をみながら。








「どう?慣れました?本格的なカンファレンスに出席したのは、今日が初めてだけど」

治療の方針が決まり、それぞれが持場に戻る中。

資料を手に話し掛けてきた原に、神原が顔を向ける。

「ああ、…。はい。活発ですね、意見交換が。良いことだと思います」

「神原先生も、遠慮なくいってくださっていいんですよ?」

「森川先生、…ありがとうございます」

「あら、森川先生、珍しいわね。神原先生のこと、認識してたの?」

神原達の後ろから、小柄な森川が声を掛けてくるのに驚いて振り返る。

それに原が珍しそうにいうのに森川が心外だという顔をして。

「…―――原先生、僕だって、たまには人の事を認識してますよ。たまには、ですけど」

「…そこは肯定ですか、…」

思わずくちにする神原に原が頷く。

「勿論ね、で?どうしたの?神原先生に用?」

「ひとつ、教えてほしいことがありましてね。先日の、―――」

「はい、何でしょう?」

森川の問いに真剣に神原が向き直るのに、原が軽く肩を竦めて。






「橿原さん」

神原良人が微笑むのを、院長室のデスクに就いて見上げて。

両手を組んで、おっとりという橿原に神原が微笑む。

「あら、何でしょう。御機嫌がよろしいようですけど」

「そうですね、…――久し振りに眠れましたから」

「そうですか」

淡々という橿原に神原が頷く。

「それで、今日は何のお話ですか?」

「はい、――――思い出したことがあるんです。それで」

穏やかにいう神原を、橿原が感情のみえない視線で受け止める。 

それを、不思議な視線で見返して。

 しずかに。

「以前お会いしたとき、―――妻の遺体に僕がふれないように、留められたときのことです」

 不思議な穏やかさで。

「僕は、後から知ったんですが、…―――。あのとき、取り乱した僕を留める人達の手配をしてくださったのは、あなただったそうですね」

「…――――」

無言でみあげる橿原を、神原がしずかに見返す。

「――――――随分と、遅れましたが。…」

「神原さん」

「…ありがとうございました、――――。お陰で、妻は、僕の中で冷たい遺体にはなりませんでした。…」

しずかに、穏やかに。痛みと哀しみを抱きながら、橿原を見返す神原に。

 ゆっくりと、橿原が組んでいた指を解き、もう一度組み直して。

 痛みと哀しみをそのまま受け止めるように、淡々とした声で。

「そうですか、…―――。神原さん」

「はい」

静かに見返す神原に、僅かに息を吐いて視線を組む指に落す。

「少しは、…―――神代君が役に立ちましたか」

その言葉に、神原が僅かに片眉をあげる。

「やはり、そういうつもりで、僕をこの病院、―――いえ、神代先生の処へ行くようにさせたんですか?」

穏やかに、少しあきれたようにみていう神原に、考えるように僅かに首を傾げて、組んだ指を少し動かす。

「…僕は、――あの子がばかなのを知っているんですよ」

「ばか、ですか?」

不思議そうに問う神原に橿原が頷く。

「勿論ですとも、…―――。あの子は、病院経営をしいている一族の一員のくせに、とんでもないことを言い出していますからねえ、医者がいらないようにするとか」

あきれたように、おっとりと溜息を吐いてみせる橿原に、神原が面白そうに笑んで。

「お伺いしました。とんでもないと思いますが、確かに、…――けれど、それは」

「はい?何でしょう」

見上げる橿原に笑む。

「あなたが法医学――予防医学を専門としておられることが、影響もしているのではありませんか?忘れられがちですが、法医学というのは、予防医学の側面があるはずです」

「―――――…まあ、僕は理事長でもありますからね。滝岡グループ全体の。…それでも、あの子がばかなのには違いがありませんよ。光ちゃんが、――――」

「院長」

淡々という院長――橿原を少し切羽詰まった声で神原が留める。

 軽く額に当てた手を、手のひらを橿原の方に向けて、僅かに眉を寄せて。

「その呼び方はちょっと、…――やめてもらえませんか?」

「あら、そう?小さい頃から知っているものだから、ついその呼び方が」

「…―――それはやめましょう、ね?」

橿原が小首を傾げて、頬に手を当てて。

「よろしいですけど、…――。昔からばかな困った子なのは確かですしねえ、…。何ていうか、偏りがあるというか、どうしたらいいものか。あの子、道に迷いますでしょう?」

「…――はい」

思い出して難しい顔になっている神原に構わず、橿原が数え上げる。

「五十七億も借金しているくせに、医者がいらないようにするんだとか、一つのことに集中すると、他をすっかり忘れますしね。それでこどもの頃は、本を読みながら道を歩いていて、隣の県で保護されるとか、長じてアメリカへ行っても同じ調子で、拳銃強盗が起きている横を本を読んだまま通りすぎていたとか」

「…――――」

神原が軽く額に手をあてて視線を伏せる。

「それに、あの子、電子レンジも使えないんですよねえ、…」

院長の嘆きに神原が視線をあげる。

「でも、飲物の温めはできましたが」

不思議そうにいう神原に橿原が両手を組んで頷く。

「そうなんですよ。…温めはできたでしょう?」

「は、はい」

幾度も頷いている橿原に少し引きながら神原が見ていると。

「あの子に、それを教えるのにどれだけ周りが苦労したことか、…。前の病院では、何度もあの子のせいで、電子レンジが爆発しましてね、…―――」

しみじみという橿原の言葉に、眉を寄せる。

「爆発、ですか?」

「するんですよ、…。どうしてそうなるのかは知りませんけど、あの子にやらせると、何か他のことを考えながらやるせいか、―――…どうしてか、爆発するんです。正しい操作方法を教え込んで、ようやく、何とか、温めだけは覚えさせたんです。それも、飲物を一杯分だけ」

「…――――その、それは。でも、神代先生、医療機器の操作はできますよね?」

「あの子はそういうことは出来ても、他のことはまったくできないんです」

きっぱりという橿原の態度が本気で、神原が詰まって見返す。

「――ちょっとまってください、…―――しかし、…――」

額に手を当てて思い返す。

 五十七億の借金があって、建物の中でも道に迷うほど方向音痴で、―――それに、電子レンジを爆発させるって、…―――。

 ―――神代先生、…―――。

「あなた、それはまだましな方のエピソードなんですから」

「…―――これ以上、何があるんですか」

「あなたもこれからわかります」

しみじみと極真剣に橿原が淡々というのに。

思わずも見返して、何か云おうとして。

「あ、ごめんなさい、ちょっとまってください。…久さん?」

橿原が神原に謝ると片手をあげて、着信のある携帯に出る。

「どうしたんですの?…あら、はい、―――それは」

話している橿原に、神原が視線を窓外へ向けたとき。

 ばたん、と扉が大きく開いた。

「神代君、行儀が悪いですよ?」

橿原が携帯を手で覆うようにして叱ってから、通話に戻るが。

 それをまったく見ずに、神代が真剣な顔で神原を見る。

 真剣にみて、手首を掴んで。

「神原、…―――きてくれっ」

「どうしました?患者さんが?」

「いや、違う。いまの処、急患も急を要する処置を必要とする患者もない。…神原、頼む!今日も泊ってくれ!」

「…――神代先生?」

真剣に手首を握って、神代が神原を見あげていう。

「…小野さんから連絡が来てたんだ。それもメールで」

「…メール、ですか?」

「そんなことは滅多に無いんだよ、…。緊急事態だ。もう、どうしてもおまえに来てもらわないと困る!」

「落ち着いてください、あの、…。困る理由というのは何ですか?どうして、」

「―――――…鍋だ」

真面目な顔をして見上げている神代の。強く眉を寄せた顔を、しばらくぼんやりと眺める。

「…――――あの、いま、鍋っていいました?聞き間違いで、なければ、…―――」

戸惑いながらいう神原に、大きく神代が頷く。

「聞えた通りだ。鍋なんだよ」

真面目にいっているらしい――それもどうみても大真面目な―――神代に聞き返す。

「つまり、…――鍋、ですよね?それがどうして緊急事態に」

あきれて見返している神原の手首を掴んで、ぐっとくちを結んで見返して。

「鍋なんだよ、…。小野さんが、鍋を作ったっていうんだ」

極真剣に真面目に悲壮な表情でいう神代に。

「その、つまり、お世話になっている、―――小野さんが、鍋を?」

「それも二人前だ。…おれとおまえのだよ。…食わなかったら、大変なことになる」

思い切り悲壮な顔をして、ひとつ頷いていうのに。

「食べなかったら、…大変なこと、ですか?」

「大変だ。…もう二度と、めしを作ってもらえなくなる。残したら怒るんだよ。食べられなかったときとか、…――――けどな、しかも、だから、…―――今回は、おまえの分も作ったというんだよ!」

悲壮な顔で見詰めてくる神代に、ちょっと間を置く。

「ええと、あの、…。その鍋を、僕が食べないと小野さんが怒られて、神代先生のご飯を作ってくれなくなる、ということでいいですか?要点は」

「その通りだ。纏めるのうまいな。…二人前だぞ?一人で食えるか?誤魔化そうにも限界があるだろ。だから!是非!おまえに協力をお願いしたい!」

語尾が強くなる神代に、茫然としながら応える。

「それは、…別に構いませんが、…―――」

「食ったらどうしても遅くなるからな、…―――明日の朝、早いのは知ってるだろ」

神代の言葉に、スケジュールを思い出す。

「確か、…衛星会議があるんでしたね。…フェアバンクスと」

「そうだ。おまえにも参加してもらいたい。確か、出席する先方のメンバーに、おまえの知り合いもいたろう?」

「はい、…。前にお世話になった人が、…―――」

「だから、すまんが、会議を円滑に進める為にも、おまえには出席してほしいんだ。けど、早朝だから、…つまり、だがこれはおれの都合だし、――――」

 ――本当に、何でこんなに偏ってるんだろう、…。

目の前でうろたえている神代の、いま会議の運営に関してみせた調整への配慮と、こどもの頃から――と、いっていたような気がするが――お世話になっている人を怒らせないようにしたいという、それで困っているアンバランスが。

 つまり、何ていうか。

少しばかり、おかしくなって、つい微笑んで。

「いいですよ」

「…―――おまえの都合も聞かずに、こんなことを頼んで、―――いいのか?神原」

神代が、神原の言葉に驚いて顔をあげるのに。

「ですから、いいですよ。僕は小野さんの作った鍋が食べられるわけですし、まあ、ついでに泊めていただけるのでしたら、会議にも楽に間に合いますからね」

楽しそうにいう神原に、神代が両手をとって握り、上下に振っていう。

「ありがとう、…!たすかる!この恩は何で返せばいい?」

「…恩なんて、――――いえ」

真剣に見ていう神代に、ふと、何か思いついた風に神原が言葉を止めて。

 真剣に見返す神代に、にっこりと微笑みかける。

「それは、少し考えさせてもらってもいいですか?…何で返してもらうか、考えてみます」

「…――わかった、…考えてくれ」

難しい顔でいう神代に微笑んで。

「大丈夫ですよ、…―――それより、もう帰れるんですか?」

「もう大丈夫だ、行こう。鍋をちゃんと食べないと怒られる」

「…はい、」

苦笑して、先に立っていく神代の後を歩き始めて。

 ちら、と話しをきいて――まあ、当然だろう―――いた、橿原に一礼して部屋を出る神原に。

 二人が院長室を出て、足音が遠ざかるのをしばし待って。

 院長が、携帯にあらためて話し掛ける。

「いまの会話聞こえてました?はい、うまくいきましたよ、…――。あなたも、あの子の世話をして長いですからねえ、…。普段の面倒は、誰か他の人に少しずつ譲りませんとね。神原君なら、リハビリがてら、あの子の世話をしてもらうのに丁度良いと思いますよ。はい、あらでは、今度、すきやきを奢りましょうか?予約、入れときましょう、…――――」

院長が通話を切って。

 デスクに置いた携帯の画面には、小野久、と登録された名前が表示されていて。

「さあて、あの子達も、少しは落ち着くといいんですが、――――」

のんびりと橿原がいって、もう暮れて夜に満ちていく街を眺める。

 街の灯りは、既に賑やかに夜を照らし始めている。―――






「本当に、お鍋ですね」

「そうだ。…――神原、すまないな」

真面目に眉を寄せて、二人前がきちんと準備されている鍋をみていう神代に、綺麗に十字の切れ込みまで入ったしいたけに美味しそうな春菊やら何やら盛り合わせた美味しそうな鍋をみて。

 微笑む神原に、神代が眉を寄せる。

「これ、――随分と役得ですね、僕は」

「そうか?…ならいいが、」

「火を点けましょう。遣り方、わかります?」

「―――…」

無言で見返す神代に、つい微笑んで。

「じゃあ、座っててください」

「…すまん」

もしかして、この人、一人では鍋食べられなかったんじゃないだろうか、と思いながら。火を入れて準備をして、ふと気づいて。

「あ、そうだ。ちょっとあちらに荷物置いて来ていいですか?服を」

「…ああ?構わん。…これは、このままにしておけばいいのか」

頷いてから、鍋を怖そうにみていう神代に釘を刺す。

「はい。でも、触らないでくださいね?そのままにして待っていてください」

「―――うん」

真剣に火が入って鍋が少しばかり動き始めるのを、疑わしげにみる神代に笑んで、背を向けて。

「お願いしますよ?」

「わかった!何もしない!」

真剣な神代の声に笑んで、寝室へ。

 当直室に置くように持ってきていた衣類を、一時的に置かせてもらおうとクローゼットをあけて。

「…もしかして」

丁度、昨日使った半分、神原がいま開けた方のクローゼットに。

 どうやら、サイズの合っている着替えに必要な色々が新品の状態で置いてあるのに気がついて。

 ――ええと、これは、…――――。

至れり尽くせり、というか。

「パジャマまでありますね」

あきれながら、その隣にもってきたシャツ等を掛けて。

 ―――まあ、いいか。

「…―――神原っ、…鍋が動いてる!」

丁度、片付けた処にその声が響いて。

「はい、―――ちょっとまってください!」

鍋の中身が沸騰するにつれて動き始めたのに、パニックになった神代がいうのに、返事をしてダイニングに戻りながら。

 ふと、おかしくなって笑んでいた。

 ―――まったく、…――。

 どうも、いろいろとはめられているようですが。

「神原っ、…これ、どうすればいいんだ?」

動いているしいたけにパニックになって立ち上がっている神代に。

「大丈夫ですよ、…――ほら」

「…――――すごいな、どうやったんだ?」

火を小さくして差し水のかわりに置いてあっただしを足して。あっという間に揺れが小さくなって、吹きこぼれそうな鍋が落ち着くのに、真剣に神代が鍋をにらみつける。

「…―――――」

動き出すのを警戒するように、春菊ととうふとしいたけを見る神代に、つい笑いながら。

「だから、大丈夫ですよ、…これはもう食べられますね。座ってください。しいたけは攻撃しませんから」

「…本当だろうな?」

眉を寄せて、いわれた通り素直に座る神代を前に、鍋から器にとってやって。

「だしが美味しいですね、…しらたき、食べますか?」

「うん」

じっと器に取り分けられた春菊を疑わしげにみてつまんで。

「…―――うまい」

驚いていう神代に、神原が笑む。

「それは、美味しいでしょう。丁寧に作ってくださってあるんですから。ほら、食べましょう。しいたけも美味しいですよ?」

「このしいたけは、…攻撃してきそうな気がする」

「しませんって」

「本当か?…」

しいたけと対決するように睨んでいる神代と。

何だかこうして、鍋を囲んで。

楽しく笑っているなんてことが。

「…―――神原?」

しいたけと対決して睨んでいた神代が、意を決して箸を向けて。

それから、ふと気配に気付いたように視線を向けてくるから。

「…いえ、――――美味しいですね」

微笑んでいう神原に、神代が無言でみつめて。

 それから、しいたけに憎々しげに視線を向けて、箸を向けて、はっしとつかむ。

「…神代さん」

あきれてみている神原の前で。

 難しい顔でしいたけをぱくりと。

「…――――す、すみません、…」

視線を逸らして、あまりの面白さについ額を押さえて半分突っ伏すようにして笑いを堪えようとする神原に。

「―――――…!」

しいたけをくちにしているので、何も喋れずに抗議できない神代と。

耐えられなくて、やはり笑い出してしまう神原と。

 こうして。

 笑って、食べて、何かくだらないことを話して、―――。

 たったそれだけの。

 一度、失った何もかもが。

 一度に、失った何もかもが、――――。

 真面目に抗議する神代をからかったり。

 だから、――――。

「落ち着いて食べてくださいよ」

「だから、…―――あのなっ?」

 何だか不思議な気持ちで、こうして普通な会話をしながら。

 思っていた。

 流れに、乗るのもいいのかもしれませんね、…―――。

「神代さん」

 随分と、おそらく、神代本人は知らない、随分とわかりやすい橿原院長と小野さんの陰謀に乗せられてしまっているのだけれど。

「…何だ?」

鍋を突きながら、何でもないことで笑って、話して。

「いえ、…―――おいしいですね」

「――――…ああ、確かに。でも、何でしいたけが動くんだ」

食べながら、眉を寄せて真剣に神代がいうのに。

思わずも吹き出して。

「おいっ、あのな?…――大丈夫か?」

「いえ、…すみません」

吹き出す神原に怒って、それからむせているのに慌てて立って背を落ち着くようになぜて、あきれてみる神代に。

「…どうも、すみませ、―――ああ、でも」

「何だよ?」

くちを尖らせていう神代に、また吹き出すのは何とか堪えて。

「いえ、…温かいですね。鍋は」

「…そうだな、――――神原」

「はい」

神代が、大きく息を吐いて。

「おまえな、…―――此処に、しばらく住むか?」

「…神代さん?」

難しい顔をして、神代が神原をみる。

「…だから、おれも、迷わないですむし」

「ええと、…。シフトが違うときもあると思いますが」

「――――…その頃までには、何とか憶えてだな」

「はい、あの、…――――」

微苦笑を零して、あきれてみながらいう神原に。

構えて、神代が見返して。

「なんだ?」

眉を寄せて見返しているのに。

つい、笑みが零れて。

「いえ、…―――本当に、道順憶えられるんですか?」

「…多分」

視線を逸らしていう神代に。

つい、見つめてしまって。

 それから。

「…―――笑うなっ、神原!おいっ!」

「いえ、でも、…それは無理です、…――――そこで真剣に、…―――」

笑ってしまって、身体を二つに折って吹き出すのを堪えている神原と。

 それを前に、難しい顔をして立っている神代光。


 二人の旅路は、これからまだまだ続くようである。―――

 なべて世は、こともなし、――――――?





                         了





 この物語はフィクションです。作品中に出てくる病名等は架空のものを含みます。又、実在する個人及び団体との関係はありません。医療関連の情報等は実際と異なる場合がありますので御了承下さい。



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