光 6




 上着を脱いでくつろいで、夜景のみえるソファに座って神原がついおかしくて笑む。

「何を言い出すのかと思ったら、――――」

「すまん、だがな?此処に来たのは、まだ数えるくらいなんだ。それも殆ど、病院を新しくするのに駆け回ってて、―――。中に案内人なしで入ったのは初めてだ」

 夜景を望む一面硝子の壁となる窓に向き合うように、直に床に置かれたソファも毛足の長いラグも随分とモデルルームそのままでもあるようにおしゃれだが。

そこに座って、難しい顔で夜景をにらむようにしていう神代に笑う。

「おまえな?」

「はい、…すみません。でも、それでどうして、この部屋を買われたんです?」

「…―――借金のかただ」

「え?」

驚いてみる神原に、一度頷いて夜景をみる。

「銀行に借金するのに、こういう処を持つ必要があるんだそうだ。つまり、おれが病院の借金を返せなくなったら、此処は差し押さえられる」

真面目な顔で振り向いていう神代に。

「あの、つまり、借金、―――差し押さえ用、ですか?」

「そうだ。車もな。運転したことはない」

「…――確かに、神代先生くらい方向音痴だと、運転するのは怖いですが、…」

「―――カーナビついてるんだぞ?」

真顔でいう神代に、神原も真顔で返す。

「カーナビ通りの場所に着いたことがありますか?いままで運転していて」

「…―――っ」

真剣に視線を逸らす神代に、ちょっと微笑いそうになってしまって。

「…――いえ、その、すみません、…。でも、それでわざわざこのマンションを買われたんですか?」

「いざというときの差し押さえ用にな。面倒だから、ついてきた家具もそのまま買った」

「…――――神代先生、…」

それって、と思わず額に手をあてて、つい微苦笑を零してしまって。

「あのな?」

「いえ、…これまではどうしてたんです?これまで住んでいた処は?」

「…―――取り壊しになる」

「え?」

「…―――元の病院の当直室に住み込みしてたんだが」

「それは、――――」

「新しい病院では、やめてくれといわれた」

「そう、でしょうね、…」

沈黙が暫く降って。

 思わず、何だか肩から力が抜けて。

 ―――この人って、本当に、…―――。

 夜景をみて、それから。

「明日の朝、病院まで連れて行けばいいんですね?」

「…――そうだ。頼む。この中から出られなくなったりして遅刻でもしたら目も当てられん」

「…――――」

真剣にいう神代に思わず吹き出して身体を二つに折って声もなく笑っている神原に、神代が眉を寄せる。

「おいっ、…!あのな?そりゃ、――――くそっ、…!このやろー!」

いうと、突然後ろから脇をくすぐろうとしてくる神代に。

「ちょっと、まってくださ、…――神代先生!」

「―――…!」

神原が逆襲して、それに神代が対抗して。





 大笑いして、そうして。

 二人して、天井をみて寝転がって。

 夜景が星をこの賑やかな地上にもみせていることに気付いて、神原が目を凝らす。

「星がみえますね、…」

 小声でいう神原に。

「…―――星?本当だ。…」

驚いて神代も目を凝らす。

「きれいですね」

「…―――この部屋にも良い処があるな」

「…神代先生、…。本当に、この部屋自体はどうでもよかったんですね」

神原の言葉に神代が考える。

「いや、一応考えたぞ?病院に近い」

「…―――そこだけですか」

思わずも笑む神原に、眉を寄せてから、寝転がっているのを見返って。

「他に何があるんだ?」

真面目に訊いている神代を見返して。

 ―――本当に、何ていうか、…―――仕事馬鹿というか、他にいいようがないですね。

「おい?」

「いえ、…。処で、寝る処はあるんですか?」

「一応、あったぞ?…着替え、おれのでいいか?」

「構いませんけど、―――サイズは」

「…なんで、おれより背が高いんだよっ」

む、とにらむ神代に笑って。

 それから。





「この辺りにあるはずだっ」

「確かに、クローゼットにみえますね」

何とか寝室を探り当て、服があるはずというクローゼットを幾つか開けて。

 寝台の傍にある壁を睨んで神代が云う。

「大体、服なんて清潔であればいいんだっ。…どうせ上には白衣を着る!」

「――――まあ、確かにそうですが」

笑いながら、神原がクローゼットを開ける。

「ありましたよ?」

「よし!これが下着の替えだな。おまえ、こっち使え」

「…―――新品ばかりにみえますが、…」

「予備を揃えてくれるよう頼んだからな。いつ不測の事態が発生するかわからん」

「不測って、此処に住まれるんですよね?」

「――――…」

無言で神代が神原を見返す。

真面目に、神原も神代を見返す。

「新しい病院の当直室を占拠するのはダメだと思いますよ?」

「…―――ダメか…」

真剣に気落ちした顔でいう神代に神原が笑む。

「あの、…それは」

「だってな?仕事に行ければそれでいいわけだろう!違うか?大体、何でまた、中まで迷うような造りになってるんだ!」

拳を握る神代に、軽くその拳を叩いて。

「だめですよ、手は」

「…そうだな、…くそっ。古い当直室で不評だったが、丁度良かったんだよ、…――――院内ですぐだしっ。それを何で、新しく建て替えたらダメなんだ。一部屋位、寝られる所があってもいいだろっ。物置とかでもいいんだ」

「――――物置はちょっと」

「ダメか?」

真顔でいう神代にひとつうなずく。

「だめです」

「―――――寝よう」

「そうですね」

 ―――本当に、困った人だなあ、…。

 あきれながらも、何だか。そうして、…―――――。





「…―――――――、…っ、」

「神原っ、…!おいっ!」

 焼ける、ようにもがくように。

 神原が痛みに苦しむように、もがくようにして、唸るように苦しむ声を出して、それでも叫べずに首を振るのを。

 肩をつかんで、神代が大声で呼ぶ。

「落ち着け!起きろ、…――!神原!しっかりしろ!」

「…―――っ、」

茫然と、呼ぶ声に荒い息をまだ殺せずに、まだ何もみえていないように神原がみあげるのに。

「…――――」

神代が黙って灯りを点ける。

「…っ、」

神原が眩しそうに眉を寄せて。

 それから。

「―――――…かみしろ、せんせい、…」

 心配そうに、睨むようにみている神代に気付いて、ふと笑う。

「おい?神原?」

眉を寄せたまま問う神代に、横を向いて目を閉じて笑んで。

 息を漏らして、肩から力を抜く。

「―――…すみません、…。何か、叫んでましたか?」

「わからん。唸ってた」

難しい顔をしていう神代に笑む。

「…―――そうですか、…久し振りにみたな、…。いつもは、もうこれをみるくらいまで、深く寝たりはしないんですけど」

「…――――」

神代が息を吐いてベッドを下りる。

「こっちこい」

「え?…はい、おさわがせして、―――」

先に立つ神代に後に続いて。





「ほら」

「あ、…はい、」

神代が冷蔵庫を探って、それから何かをコップに入れて、温めて。

 ――一応、電子レンジは使えるんですね。

何だか感心して微笑んでしまっていた神原に。

ぐい、と突き出されるようにして渡された飲み物に。

「…―――りんごに、…しょうがですか?」

リンゴをすりおろしたようなジュースに生姜の匂いがする飲み物をみていう神原に、神代がいう。

「飲め。温まる」

「――――…はい」

ぶっきらぼうにいう神代に、力が抜けて微笑んで。

 くちにした飲み物は。

「―――――…あったかい、…ですね」

「――――…」

無言で促す神代に、神原も黙ってついていく。

 温かなりんごの飲み物を手に、床に置かれたソファに座って、ラグに足を投げ出して夜景をみると。

「――――…随分、街灯りも減るんですね。夜景が落ち着いてみえます、…――落ち着くっていうのは、おかしいかな」

微笑んでいう神原に、隣で無言のまま神代が静かな夜景を眺める。

「そうだな、…。無駄にきらきらしてなくて、良い感じだ」

「無駄にって」

「――――無駄じゃないか?」

疑問を顔にかいて見返す神代に、神原がつい吹き出す。

「…――おい?あのな?」

「…いえ、すみませ、…―――」

笑みを零して、額に手を当てて。

 泣き笑うように、笑みを零して。

「神原」

短く呼ぶ神代に、視線を夜景に向ける。手にした飲み物の温かさに救われるように想いながら。

 小さく、一度苦しいように息を零していた。

 無言でその様子をみている神代の視線を感じながら。

「…――僕の話は、聞いてるんですか?院長から」

その言葉に、神代も無言で夜景をみるように姿勢を直して、座り直していう。

 夜景に沈む光は、幾つも漂うように。

「…―――聞いてる。あの人が、…法医なのは知ってるのか」

法医という言葉に、神原が僅かに言葉を呑むのを、神代は手に同じように持ってきたジュースを手に夜景を見ながら聴いていた。

 しばし置いて、神原が少し俯いていう。

「はい、…――。検死を、あの方がしたそうです」

「…――――」

神代が息を呑む。

凝っと夜景を睨むようにする神代の気配を隣に。

「僕は、…―――遺体と会ったときに、取り乱したんです。遺体に、あれは、どうしようと思ったのかな、…。しがみつこうとしたのか、…―――検死をしたあの人が、枕側に立っていて、―――僕が暴れるのを、何人かに抑えさせたそうなんです。…憶えてないんですが」

淡々という神原に、神代が眉を寄せてその表情をみる。

 両手に包むように持つ温かな飲み物を、しずかにながめて。

「ぼくは、…――――葬式の喪主とかもしたらしいんですけどね。あの当時のことは、殆ど憶えてません。この一年半も、…―――」

 よく憶えてなくて、と。

 しずかに呟くように、そっという神原に。

 神代が、無言で肩に手を置いて、何もいえなくてくちびるを咬んでみる。

「…――――かみしろ、せんせい」

茫然と見返していう神原に、泣くのを堪えるように、ぐっとくちを咬んで抱き寄せる。

「…―――神原、…―――」

それきり、抱き寄せて肩に顔を埋めて。

 どうも、泣いているような神代に。

戸惑って問い掛ける。

「あの、…神代先生、…―――泣いてます?」

「…しるかっ、…!」

「知るかって、―――」

何か云い掛けて。

 ふと、零れるものに戸惑っていた。

 ――――涙が、…――――。

 もしかして、…―――――。

「ないて、ますか、…?」

「だからおれはっ、…?神原?」

問い掛けにむきになって否定しかけて。

 ふと、戸惑って動けずに、自分の頬にゆっくりと、手を。

 手を、ふれてみている神原におどろいてみる。

「神原、…――おまえ、」

「…僕は、…―――――」

茫然と、頬を落ちる涙に驚いている神原に。

無言で、頭を抱き寄せて、肩に顔を伏せさせる。

「…泣いてるよ。いま、おまえは」

「―――――…そう、なんですか、…」

茫然としたままに応えて。

 そうして。

「…っ、…―――――!」

突然、嗚咽が喉を突いて、耐え切れずにうめき声をあげるように。

神代の肩にしがみついて、喘ぐように苦しみを吐き出すように、泣く神原に。

 神代が、無言で唯抱き締める、…――――。




「…僕は、…―――――泣いたんですね」

随分と酷い顔だろうな、と泣いた顔を乱暴に拳の背でぬぐって神原が苦笑して。

 それから、息を吐いて。

「たまには、いいだろ」

ぶっきらぼうに、眉を寄せて向こうをむいていう神代の声に。

「…――――はい、――」

額に手を当てて、目を閉じてソファに凭れる。

 足を投げ出して、大きく息を吐いて。

 ――――泣くのって、結構疲れるんですね、…。――――

 そして、おもうのは。

 泣いたのは、あれから、…。

 はじめてで。

「…神原」

「はい、…―――」

「いや、なんでもない」

外を眺めながらいうのがわかって、つい微笑む。

 ――――この人は、…―――。

「みたんですか?」

それから、短くきいてみる。

 それに。

「なにをだ」

 小さくきいてみる。

「死体検案書です」

「―――――…」

しばらく、答えは返らなかった。

 目蓋の底に沈む光景を思い返す。

 しずかに佇む橿原の姿。その前に置かれた、…―――。

「みた」

短い答えに、はっとして視線を向ける。

「神代さん」

「…――――二人、…――――」

苦しいように声を絞り出す背を。

「…そうです、二人です」

茫然とくちにする神原を、神代が振り向く。

「…神原」

「二人でした、…―――僕は、気づいてもいなかった。…知らなかったんです、妻が、…――こどもを妊娠してたなんて、…三ヶ月くらい、に、…―――気づかずに、」

「…―――神原!」

「いわれるまで、――――…ICUで、事故にあって、…――――手術もできませんでした。何も。僕が着いたときには、もうICUにいて、お子さんは、残念でしたと」

茫然と呟く神原に近付いて、神代がもう一度、しずかに抱き寄せる。無言で、肩に手を置いて。

「交通事故で、…―――暴走した車が、交差点に突っ込んで、…――――何も感じませんでした。ニュースでみて、酷いなと思って、それで、あのときは、…―――…仕事をしてたんです。…手術を、――――」

「神原」

短く呼ぶ声に、眸を閉じる。

「執刀してました。何時間も、…――――だから、連絡が遅れて、家族に、…尤も、同時に幾人も、だから、…―――身元の確認に時間が掛かって、連絡はどちらにしても遅くなったんだそうですが。…妻が、手術を受けていた際、僕は、…―――手術、してたんです。…別の患者さんの」

吐き出すように押さえた苦しさを覗かせる声で。

「…―――神原、」

「妻が、生死を別ける時に、僕は他人の、…―――彼女を、助けられずに、…―――――」

ぎゅっ、と神代が神原を抱き締める。目を閉じて、強く肩を掴む手に。

「…神代先生、…――――」

 橿原の言葉が耳に蘇っていた。

 ―――あなたが執刀していたとしても、彼女は助かりませんでしたよ。

 淡々と事実だけを告げる冷たい声が。

 ――――それでも、…―――――。

 そして、その喪失は。

 妻だけではなくて、…――――。

「…神代さん、――――」

 つよく、肩を抱きしめる手に。

 …妻と、子の。

 永遠に、それは帰ってはこない。

「…―――ばかやろう」

みじかくいうと、神代が抱きしめて。

 ―――――え、…。

「…かみしろ、せんせい?」

「だまってろ!…ばかやろう!」

「でも、…その、」

 なんだか、おかしくなって。

 泣き笑って、逆にその神代の肩に手をおいていっていた。

「あなたが、何故泣くんです?」

「…―――しるかっ、…―――!だから、泣いてないっ!」

 ――――…ええと、まったく、…――――。

「あの、それは、」

苦しくないですか?と。泣いているのに、泣いていないと言い張る神代に。

 ―――まったく、この人は、…―――だから、

「だから、…まったく、――――」

 ひかり、――――。

 唯一人の名前が、脳裏に浮かんでいた。

 こどもの名前は、男か女かもわからなくて、つけられないから。

 妻の、…――――。

 そして、単純に。

 橿原に、騙された理由の。

「まったく、何ていう、…人ですか、…――――」

 愛している、とおもう。

 もうこの世にいない唯一人の。

 ―――ひかり、…――――。

「ひかり、…―――」

 その名を、無意識のようにくちから零す神原に。

 無言で、神代は抱く手を強くしていた。

 死体検案書に書かれていた、一つの名前。

 先に二人といったが、死体として扱われたのは、一人分だけだったが、…――――。

 そこに載っていた一つの名前に。

 胎児の、…――――。

 だから、二人だといった。

 一人の死体検案書に、奪われた二人の命が記載されていたのを。





「随分、僕は単純だったんですよ?」

低い声で、淡々とすこしおかしみを感じているようにしていう神原に。

「何がだ?」

短く訊く神代に応える。

「…はい、―――単純でした。此処へ来たのは、…―――橿原さんに、騙されたんです。病院に、…――来た理由なんですけど」

「おじさんに、なんて」

眉を寄せていう顔が想像できて、ふと笑う。

「おい」

「ええ、…――。いまにも潰れそうな病院があって、赤字で、その親族経営してる病院の先生で、赤字の借金を背負ってしまうだろうといわれまして」

「…―――おれのことか」

難しい顔でいうのに、少し笑う。

「はい。…――名前を、みて、…。それで、ここへきました。どうしようとか、思っていた訳でもないんですが、…」

難しい顔から、少し困惑したようになって、神代がいう。

「おれの名前は、読みは、…――光、だぞ?ひかる、かみしろひかる、だ」

「わかってます、…―――」

ふう、と息を吐いて目を閉じて。

「でも、釣られてしまったんですよ、…。そんなことに」

「そんなことにか」

憮然と、それとも、そうでもないのか、―――。

いって沈黙する神代に、身体を起こして。

「…ありがとうございます、――おかしなことを、色々聞いてもらって」

「別に、おかしなことじゃない」

真剣にみていう神代に、驚いて。

「…そう、ですね、――――はい」

微苦笑を零していう神原に難しく眉を寄せていう。

「おまえな、…―――だから、」

「はい」

「…―――――」

難しい顔のまま、ぽん、と頭に手をおいて睨むようにみていう神代に思わずぽかんと見詰め返す。

「…あのな」

「…はい」

思わず、そうして見返して。

「―――――…はい、…」

そうして、思わずも笑い出す神原に。

「おまえなっ、…ったく、…だから、――――――!」

「はい、…――――」

 もう背景の空が白んでいる。

 夜の底が眠り、白く照らされる地平線が、顕かに姿を示し始める。

 其処に、夜は明けると。

 かならず、明ける夜は、――――…。

「…僕は、…―――」

「何だ?」

「いえ、…」

しずかに微笑んで、少し俯いて。

 夜の底から、白く照らされていく世界をみる。

 其処には、光の届く世界がある。

 夜が来ても、また朝が来ると、…―――そう、単純な。

 世界に必ず、朝は来るのだと。

「…神代先生は、―――どうして、借金までして、それも五十七億も、…―――――病院を建替えられたんです?」

「ん?ああ、…―――目標の為だ」

「目標、ですか?」

顔をあげて、何の気なしに聞いたことに、真面目に考えて答えている神代を見ながら。

 白く光が世界を照らす中で、神代が実に真剣に腕組みして頷いているのを。

「勿論、目標だ。おれは、医者を無くしたい」

「え?」

思わず、意外すぎる答えに意表をつかれて言葉を返せないでいると。それにも気づいていないのか、極真剣に神代が腕組みしたまま語っている。

「勿論、目標としてかなり無茶なのは解っている。だが、おれの目標は医者がいらなくなることだ。医者がいらない世の中にしたい」

「…―――はい、でもそれは、」

 真面目に医師である本人がいっているのに、どういったものかと。

「いいか、医者がいらない社会が理想だ。医者なんてな、必要なければそれが一番いいんだよ。その為には、データを集める」

「…はい?」

驚いている神原にじっと見詰め返して真剣に神代が。

「病の、発病のデータを集める。病はな、発病しなければそれが一番いいんだ。違うか?」

「…―――そう、…ですが」

「だから、データを集めるんだ。勿論、すぐにはいかん。だが、少しでも基礎データを集めていくことで、どうしたら発病するか、どうしたらしないで済むのかが解るはずだ」

信念を持って、真面目に神代がいっているのに気づいて見直す。

「すぐにできるとはおもっていない。だが、例えば、小児救急」

「はい」

真面目に頷いて神代が云う。

「あれは、発熱が緊急性があるかどうかについて、判断できないから問題になる。どんな熱でも救急にいつでも運ぶ必要があるのかどうか。だが、医師にだって判断に苦しむものに、どうして、家族が判断できる?苦しんでいるのに、どうして放って置ける」

厳しい顔でいう神代に、神原が見直す。

「不安になるのは当たり前だ。だが、殆どが救急の必要がない発熱であることも確かだ。こどもに熱がある、―――だが、それが致命的な発熱かどうかについて、判断できる基準があればどうだ?」

「…―――それは、」

驚いてみる神原に頷く。

「基準があればいい。どんな熱か、判断できるデータが揃っていれば、発熱しているこどもを無理に動かさずに済む。自然に回復するものなら、実際に動かさずにいた方が治癒が早い」

「―――はい、」

「だがな、いまはあまりにもデータが少ない。発熱が何度なら安全という訳でもない。だが、データを集めて、判断できるキットや何かが、家庭にあればどうだ?」

沈黙する神原に、神代が続ける。

「難しいのはわかっている。だが、問題になるのはデータなんだ。基礎データを集める。そして、予防するには、どうすればいいかという基礎データを集めていく。子供だけでなく」

「…神代先生、―――」

「診断システムもいまは未熟すぎるが、基礎データを集めていくことで、必ず予防する為には何が必要なのかがわかるはずだ」

信念を持って神代が言い切る。

「…いまは、見逃されている病が多過ぎる。医師の技量によって、発見される病とそうでない病があるという状況は、本来あってはいけないんだ。だが、それも基礎データを集めて、本来見逃してはいけない危険な症状を漏らすことがないようにできれば、医師の技量に頼らず、同じ水準で診断を行うことができるようになるはずだ」

「…神代先生」

「小さな徴候の内に、発病する前に、病になってしまう前に抑える。そうして、予防を行って、医師がいらないようにするのがおれの目標だ。神原」

「はい」

「ばかなことをいっていると思っているんだろう」

「…――――いえ、しかし、…」

「ばかなのは解ってる、だがな、おれの最終的な目標は、医師がいらないようにすることだ。医師が必要のない」

「神代先生」

「尤も、そいつが難しいことは解っている。難しいのは解っている。だがな、…―――大体、いまの医療は遅れてるんだよ!野蛮なんだ。第一、いまだにメスで切って、――針と糸で身体を縫ってたりするんだぞ?野蛮以外の何だよ」

「…―――あの、」

「なんだよ?」

睨む神代に、つい。

「外科医が、―――それいいますか?」

「いうだろ。他に何だっていうんだよ!絶対未来では笑われてるぞ!あの時代には、まだ針と糸で人体を縫い合わせてたんだってな!くそ、腹が立ってきた」

「…あの、落ち着いてください、…―――神代先生。…野蛮、ですか?しかし」

思わずも微苦笑を漏らす神原に神代が眉を寄せて疑わしそうにみる。

「何だ」

「いえ、…―――まさか、外科医で同じことを考えている人がいるとは思わなかったので」

「…同じ?何がだ」

神原がくすりと笑う。

「…その、野蛮というのがです、…。確かに、いまだに針と糸ですからね、…。進歩してない」

「その通りだ。糸が多少素材が変わったくらいで、何も進歩してない。きっと未来には血管なんて簡単に補修して、あっというまに治してて、いまの時代を暗黒時代とかいってるんだよ。大体、出来ないことが多過ぎる!」

怒ってくちを結ぶ神代に、驚いて、それから、つい。

 思わずも、微苦笑が漏れて。

「おまえな」

睨む神代に笑む。

「いえ、…――。確かに、出来ない事が、多いですね」

 妻と子を想いながらいう神原に。

 無言で、その神原をみて神代がいう。

「けど、医者をなくすなんて、簡単にはいかない。だから、―――」

「神代先生?」

「だから、いま出来る最善の医療をするんだ。いつも、常に、…―――必ず最善の」

「…それで、新しい病院を」

建てられたんですか、と。

 真直ぐに見詰めてくる神代の黒瞳に。

「実験はしない。実験的な医療は行わない。だが、常に最善の事をする。技術的にも、いま出来る最善をだ。…――――基礎データを集めて、将来医師がいらないようにするのは目標だが、いまはまだそれが実現してはいないからな」

信念と熱さと、成し遂げる意志と。

 強い光を宿す神代の瞳に。

「…あなたは、―――」

「だから、おれに協力しろ」

「…―――神代先生?」

茫然と見返す神原に、強い黒瞳で。

「滝岡第一は、難易度の高い疾患を引き受ける。脳神経、心臓血管、肝胆膵―――臓器のジャンルには別れない。全身で診て、全身を管理する。産婦人科に小児科の専門病棟。滝岡総合は一番一般総合病院に近い形で、地域の中核病院として機能する。まだ完全に揃った訳じゃないが、そういう形にして実行する。…―――神原」

「…はい」

「おれに手を貸せ」

「…――――神代先生」

 白く射し染める日に、互いの横顔が照らされるのを。

 世界に強烈な光が訪れるのを。

 光が。

 ――――ひかり、…―――。

 真直ぐに見詰める黒瞳に。

 思わずも、泣くように笑んでいた。

「…神代先生」

「神原、おまえは医者だ」

 その言葉に、焼き付いた光景が蘇る。

 白い布の掛けられた遺体。

 救えなかった。…

 黙ってかれを見ている橿原。

「全部は救えない。必ず、これからも失くす命は出てくる。完全は無いからな。だが、…――――」

「神代さん」

茫然と呟くようにいう神原を見返す。

「完全に近付ける。最善を尽くせる施設にする。出来ることを、最後まであきらめずにやる医師がいる。…神原、おれたちは神様じゃない。」

「…――――」

くちびるを僅かに咬み、強い視線で見返す神原に神代が云う。

「完全はない。そして、神様でも無い。だから、力の限りを尽くすんだ。神原、…――――」

「はい」

不意に、痛みを呑むようにして神代が強い黒瞳にその苦しみを隠していることに。

 ――――この人は、…――――。

「そう、ですね、…。僕達は神様じゃない、…――――。その通りです。」

神様なら、何もかもを見通せて。

例えば、あの日。

 いかないようにと、…――――。

 そんなことさえ、いえるかもしれない、と。

 けれど、現実は神様でなく、…――――。

「はい、…―――」

 何も勘は働かず、妻に出掛けるときに、何もいえなかった。

 今日は家にいてくれといったら、あの交差点に行くなといえたら?

 そんな直感が、もし働けば。

 ――――現実に、そんなことは無かったけれども。

「…神原」

しずかに呼び掛ける神代を見る。

穏やかな視線で、或いは焼ける痛みを呑み込んだ、その黒瞳で。

「総てを救うことのできる神様なんかじゃない。…だから、せめて、救える命は、手が届く限り、救うんだ。完全はない。神様じゃない。だから、…―――――」

「神代さん」

大きく神代が息を吐く。

一度目を閉じて、再びひらいて。

「神原。その為に、手を貸してくれ。神様じゃない俺達が、少しでも手を届かせる為に、援けてくれ」

「…神代先生、――――」

「一緒に、手を差し伸べよう」

静かに強い黒瞳が見詰めるのに。

 微苦笑を零して、俯いて。

 首を振っていた。

 それは、苦しいことだ。

 わかっている。

 苦しんで、恐ろしい底無し沼にでも足を踏み入れるような恐ろしい心地だ。

 何故なら、手を差し伸べて、もし、…―――――。

 無言で見あげる神原に、無言で神代が見返す。

「…―――――」

 ―――この人は、…まったく。

 地獄をわかっている。

 最初から、手を差し伸べなければ、痛くは無い。

 そうしたっていいのだ。

 誰が強制している訳でもないのだから。

 ――――…物好きですね、…。

 微苦笑を零して、俯いて。

「まったく、あなたは、…―――」

 手を差し伸べて、失ったら。

 喪失が、恐ろしい程の傷を付けることを知っている。

 神様でなく。

 神様でないから。

「…――――――本当に、ばかですね」

「いってろ」

神代が横を向くのに、笑んで、そして。

「…おいっ?」

抱きしめて、その肩に額を落として苦笑していた。

「神原っ、おい!」

「…本当に、ばかですね。…わかってますか?」

「―――――…自覚はある。」

真面目に眉を寄せていうのが、見なくてもわかるのが。

「いえ、…――まったく、」

笑み零れて、抱きしめたまま、くつくつと笑っている神原に、神代が眉を寄せる。

「おまえなっ?放せよっ」

「いやです」

「…―――おいっ?」

驚く神代に構わず、目を閉じる。

 ―――やっぱり、温かいですね、…――――。

「温かい、…ですね、―――」

 妻の身体は、…――――。

 冷たくなってしまった。

 けれど、…――――。

「…――――」

無言で、神代が神原の背を叩く。かるく、仕方ないな、というように叩いて、息を吐いて。

 それに、少し微笑みを零して。

「…―――って、おい?寝たのか?神原!」

力の抜けるのに気づいて、驚いてみて大声で云い掛けて声をひそめる。

「お、…おまえな、」

いってから、困惑して、かれ、神代光に抱き付いたまま寝ている神原を抱えて。

 ―――もう朝か?しかし、まだ時間が、…―――。

「おいっ、ここで寝たら風邪ひくだろ!おいって、…!」

小声でいう神代の声はすっかり届いていないようで。

 安心しきったように眠る神原に、完全に困惑して背を支えて。

「だからな?」

 仕方なく、何とか抱えて、支えながら寝室へ。

「ったく、何してるんだ、おれ、――――くそ、重いっ、」

 そして、寝台に投げ出して。

上掛けを寒くないように掛けてやって、それから。

「っとに」

文句を呟きながら、隣に潜り込んで。

「――――…完全に寝てるな」

 それから、まあ、と考える。

 ―――犬やねこの仔が、固まって丸まって寝てるようなもんか?

 ねこは大人でもねこ鍋になって寝るしな、と。

 それに確か、スキンシップとか体温とか、何とかは。

「まあ、――だから、いいのか?」

 犬やねこが寄り合い所帯で寝るようなもんだな、と。

 うん、と一つ頷くと納得して。

 そして、既に深い眠りに就く神代光。

 外科医に必要なのは、体力と筋力と体調を保つ為に、いつでもどこでもすぐに眠れる能力だ、と。

 実は真面目にそう考えて、常々実行してもいる一人である神代光。

 同じ外科医で、いまはすっかり深い眠りの中にいる神原を隣に。

 かれらの旅路は、まだまだこれから始まったばかりであるのかもしれない。――――



 永遠の生命は何処にもなく。

 神様では、けしてなくとも。

 苦しくても、手を伸ばす為に、…―――――。


 永遠を。

 手に入れることは、できなくとも。


 永遠が無いことを知っていても。








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