光 4



 医局で御木が、立ち会った神代と神原の手術の凄さを力説するのを、御茶の入ったマグカップを片手に吉原が聞いている。

「凄かったんですよ、本当!神代先生と神原先生、お知り合いだったんでしょうか?」

興奮していう御木に吉原が不思議そうにいう。

「さあ、どうだろう?手術、そんな凄かったの?僕はみられなかったけど」

「そうなんですって!神代先生はいつも通り凄いですけど、御二人とも殆ど会話しないのに、まるで互いのやることがわかってるみたいっていうか!それで御二人共はやくて、よりはやく終わったんですよ!」

興奮して目が輝いている御木に、一応、吉原がいってみる。

「それはさ、御木くん。きみに先読みが出来てないだけともいわない?看護師さんへの指示とか、バイタル確認とか、他の処置とかも神原先生が手順わかってて、神代先生がやりやすいように、先に必要な処置とかを、神代先生が指示する前にできてるから、はやくなってるっていう?」

「…―――――吉原先生っ!どーしてそんな本当のこというんですかっ、…」

困り顔になっていう御木の肩を、吉原が笑いながら軽く叩く。

「いやさ、本当に、経験だけどね?手順憶えて、どう補助したら相手がやりやすいか考えてやるのって、やっぱり、手術について憶えとかないと無理だからね?がんばるんだね、御木君も」

楽しげにいう吉原を、御木が眉を寄せて見返す。

「そんな困ったブルテリアみたいに眉よせても。手術の手順、地道に憶えるしかないねえ」

にやにやいう吉原を御木が睨んで、背を向けて古い喫茶コーナーに向かう。

「そんなこといってると、この昆布茶、全部呑んじゃいますから!」

やけになってマグカップに昆布茶を沢山入れようとする御木を、慌てて吉原が止める。

「まちなさいって!御木ちゃん!落ち着いて!それは、僕と三槻くんと、きみで大事に呑んでる昆布茶でしょ!せっかく、神代先生にもらった昆布茶なんだからっ、…ていうのもあるけど、そんな入れたら塩辛くて身体によくないよ?」

昆布茶をスプーンに三杯入れた処で御木が我に返って手を留める。

「…――――そうですよねっ、…。神代先生がせっかくお土産に買ってきてくれた昆布茶を、…!僕はっ、…!すみませんっ。…――!」

「仕方ないねえ、…ほら、少しこっちに頂戴」

吉原が御茶を呑んで、空のカップを隣に置いて、御木が昆布茶を一匙別ける。

「…お湯が、おや、もうでないかな」

「すみません、…。このポットも、後一ヶ月位ですね、使うの」

何とかお湯を保温ポットから二人して出してマグカップにいれながら。

 御木の言葉に、しみじみと吉原がうなずく。

「そうだねえ、…。案外はやいね。動いてる病院を新しく建てながら順次移動してくって、考えてたより数百倍大変だったけど」

「書類とか、使える機械の移動とか、何が使えるとか型が合わないとか、色々大変でしたけど、もうすぐ新しい病院に全部移るんですよね」

目を輝かせていう御木に、しんみりと昆布茶をくちにして吉原が古い医局―――物が殆どもう残っていない――を見廻す。

「…寂しい感じもするけどね。おれなんか、ずっとここでやってきたから」

しみじみとしている吉原に、御木が笑顔で背を大きく叩く。

「大丈夫ですって!三槻さんなんかは、もう向こうに移ってますし、すぐに慣れますよ!」

「…―――きみね、いっつも、先輩後輩の順序とか、よくわかってる?御木君?」

「もちろん、わかってますって!いやだなー!」

にこにこ笑顔でいう御木に、昆布茶を呑みながら、こっそり吉原が溜息を吐く。

「きみのその性格は本当にねえ。…研修、後、外科の他にどこ回る予定だっけ?」

「次に産婦人科で、最後が小児科です」

真面目に見返していう御木に吉原が頷く。

「そーか、次産婦人科か、…。てことは、第一に産婦人科は無いから、産婦人科専門病棟いくのか」

「はい、そうです!楽しみにしてます!」

「元気だねえ、…。まあさ、産婦人科、外科、小児科、どれも人材不足だから、きみにできると周囲の評価も合わせて、何とかなりそうな方に進みなさい。外科なんて、特に向いてる向いてないが激しいから。体力と手先の器用さに判断力。外科に向いてなかったら、外科医はできないからね?」

「はい、わかってます。…神代先生みたいに、凄い先生でも、昔は研修で悩まれたことがあるんでしょうか?外科医に向き、不向きがあるっていうのは、すごく良く解ります」

何か脳裏に思い浮かべるのか、真剣に頷いている御木に、吉原が昆布茶を呑む。

「まあ、神代先生は天才だから。でもねえ、天才っていうのは、努力を常に続けていける、地道な訓練を欠かさない人のことをいうんだよ?」

「ですよね、…。何で、神代先生ほどできるのに、――――――…この間、お昼ご飯食べてるときに、論文読みながら、手で糸結びの練習してたのみました。…何で、みてないのにあんなきれいに縫えるんでしょう」

「努力だね。手の練習はしておいて損はないから。休み時間にあやとりみたいに手を動かしてると、結構心が和むし」

昆布茶を呑みながらいう吉原を、御木が信じられないものをみる視線で見詰める。

「…――和むんですか?」

「和まない?こうさ、血管に針通すの想像して、いろんな縫い方あるでしょ?内膜かけるとか、こう合わせ方とかさ。それをこう、片面縫って、それから反対側縫って、最後に両脇閉じて、円完成させるの。心和まない?」

真顔で普通に本気で和むよね、といっている先輩をどう扱ったらいいのかわからなくなって。

「…――ええと、…和まないです。…しかも、血管ですか?縫うときに破れないかとか、もう色々気を使って、――――和む処じゃありませんよ!」

「ふむ」

昆布茶をしみじみ吉原が呑む。

「…和まないかねえ、…。こうほら、無心の手仕事っていうかさ?」

「だから、無心なんて域には達してませんから!」

吉原が、カップを置いて、手にハサミのようにみえる器具を持って、その先に釣り針のようにみえる湾曲をした針をつまむ動作を想い浮かべてしてみて、右手につまんだ針を、左手の器具で支えたり、抜いたりしながら縫っていく仕草をしばらくしてみて。

「…吉原さん?」

「―――うーん、やっぱり和むねえ、…。いまのは、どこを何で縫ってるつもりだったか、当てられる?」

「そんな、エア針とか当てられるわけないですよ!…―――少なくとも、腹腔鏡じゃないです」

「うん、そう其処は当たり、って、手でしてるか、腹腔鏡使ってるかは全然違うじゃないの」

「ですよねえ、…。神代先生、手も、腹腔鏡も凄いんですよね、…」

「努力が並じゃないもんねえ、神代先生。こないだ、子供が遊びに来たときに、模擬の毛糸使って、ちっちゃい編み物作ってあげてたもんね、…。腹腔鏡で。ぽんぽんみたいなの」

「マフラーみたいな、ミサンガっぽいのも作ってました」

「いつだったか、チューブ型の血管みたいなの作ってたよ」

「…それ、もらいました。…5ミリ径の血管が手術用の糸で編んでありました、…」

「ナイロンじゃないよね?」

「ないです。…血管を縫う練習用にもらいました、…」

「…がんばって」

「はい、…」

しみじみと二人が昆布茶を呑む。

 腹腔鏡は、長い棒の手許側にハサミに似た取っ手などの操作する為の手を使って操作する箇所があり、その操作が、棒の先端にある器具を動かすことになる道具で。

 遠隔になる為、手で操作する感覚が先端でどういう動きになるのかは難しくなる。思い通りに動かす為には熟練するしかない。

 さらに、実際にはカメラに映るその先端をみながら動かす為に、カメラに平面に映る画像を立体に捉え直して動かなければならないという問題もある。

 それが喩え、画像をみながらではないにしても。

「…血管編むっていうか、組紐みたいに腹腔鏡で編むなんて、どう考えても超絶器用だよね、神代先生は」

「超絶って、吉原先生使うんですか」

「うちの娘が使うから、かわいーんだ」

「…お幾つでした?お嬢さん」

「五才、もー、かわいいんだー本当、ちょーぜつー、とかいうんだよ」

思い出してうっとりしている吉原に、御木が手許の昆布茶をじっくりとながめて。

「何にしても、精進します」

「まあ、血管は編めなくてもいいけど、縫えるようにはならなくちゃね」

「…―――はいっ!」

「それにしても、後一ヶ月かあ、…」

「新しい病棟、楽しみですね!」

「そうだねえ」

昆布茶を二人それぞれの感慨の中に手にして。

 古い建物と別れる日がもうすぐそこになるのを、互いに異なりながらも、ある種同じ懐かしさと寂しさと。

 新しい場所への期待と。

 そして。



 一ヶ月後。

 新しい病院が総ての機能を移して稼働を始めて、外科チームも総てが新しい施設に移動して。






「あなたが院長だとは思いもしませんでした」

新しい滝岡総合第一病院の院長室。

 長身の神原良人が静かに微笑んでいう前で、院長室の大きなデスクに座り、両手を前に組んで軽く微笑んで、滝岡総合第一病院の院長橿原が穏やかに神原を見上げる。

「あら、そうでした?僕、いい忘れていたかしら」

おっとりと白髪混じりの品の良い紳士風の面立ちで、いかにも真意がわからない風でいってみせる橿原に、神原が笑む。

「はい。滝岡系の方と理解できるような御言葉はおっしゃっていましたが、院長とはいわれていませんでしたね。それに、他にもいろいろと誤解を招くような言い方をされていたような気がいたしますが」

にこやかに、表面は穏やかに微笑んで対峙しているようにみえる神原に、つい息を呑んで扉の近くに控えていた事務長が腰が引けたような顔をする。

 それに、ちら、と視線を向けて。

「あら、事務長。もう戻ってくれていて構いませんよ?」

「…あ、は、はいっ!では、…私はこれで、―――失礼致します!」

慌てて院長の提案に跳びついて出て行く後ろ姿を、院長がしばしあきれたように見送る。

「あら、あんなに露骨でなくともよろしいのに。神原くん、あなたも、事務長をいじめちゃいけませんよ?あれで、中々に小心者なんですから」

おっとりというと、一応咎めるように視線を向けていう橿原に神原が笑む。

「そうですか?それより、事務長はおそらくあなたが、僕に施設を紹介するときに、嘘でもないけれど、本当でもないことをいわされていたので、あれだけ焦っているのだと思いますが」

「だからですよ。そんなの当然じゃありませんか。ですから、それがばれたらこわい、と相手が思うようでは、きみもまだまだだということです」

一拍置いて、神原が院長をみる。

「まだまだ、…ですか」

「そうですとも」

微苦笑を零して、神原が返す。

「確かに、まだまだですね。事務長の件もですが、あなたが病院が潰れそうだの、いろいろ吐かれた嘘は、少し調べればわかる類のことでしたからね。僕が未熟でした」

「確かに、僕が吐いた嘘に易々と引っ掛かるとは」

感情の伺えない視線で見返していう橿原に神原が微笑む。

「否定はされないんですか」

「嘘を吐いたことですか?僕は、いくらでも嘘を吐きますからね。見抜けないきみが、その通り、未熟だったということです」

 青空が気持ち良く窓の外に広がるのを傍らに。

 にっこり、と神原が微笑む。

「確かに、僕が未熟でした」

「自覚があるのはいいことですね」

「はい」

お互いににこやかに微笑んで対峙している神原と橿原。

穏やかな青空と白い雲など意識もしていないと思われる二人共が、その音に視線を振り向けた。

 慌ただしい足音が、廊下から響いてくる。

「―――――神原!来い!おじさんの説教なんか、後にしろっ!」

突然、扉を開けて入って来たのは。

 神代光―――滝岡第一総合病院に勤務する外科医であり、――。

「あら、別に説教はしてませんけど」

心外ですね、と淡々と云う院長を無視して、神代が神原の手首を掴みながらいう。

 真直ぐに、黒瞳で射るように神原をみて。

「…―――神代先生、別に説教を、…―――」

「救急に患者が運ばれてくる。急性心筋梗塞に左室破裂を起こしている。血流確保しつつ緊急搬送中だ」

「…―――心筋破裂ですか」

表情が硬いものに代わり、真剣に神代をみつめる神原に頷く。

「急げ!患者のデータを先に転送してきている。心膜シート、おまえ経験あるな?俺がサブに入る。おまえが執刀しろ」

「僕が、ですか?」

「そうだ。論文読んだぞ。おまえの方が上手い。やれ。おれが補助する」

歩き出しながら、硬い表情で神原が神代を見る。

「心膜シートの準備はあるんですか」

「ある。手術室も準備に入っている」

「血流保護はどうです?脳血流の確保は?」

早足で歩きながら、神原が真剣に問うのに神代が先をみて空間を切り取るように歩きながら頷く。

「血流確保しながら運んでいる。患者は別の病院の救急を受診、そこで診断されて運ばれてくる。五十四才、男性、――――」

「若いですね。その年齢で心筋梗塞に左心室破裂が?」

「珍しい、―――――」

早足で歩いていた神代が、エレベータ前で神原を振り返る。

「体外循環は準備に入っている。神原、おまえ、できるな」

黒瞳がまっすぐ睨むように見てくるのを。

「…―――――」

無言で。緊張した視線で神原が言葉をすぐに用意できずに見詰め返す。

 エレベータが到着して。

「…――わかりました」

先に、足をすっ、と到着したエレベータに運ぶ神原に。神代が、強い視線でその姿をみて、すぐに後に続くと行く先のボタンを押す。






 神原が、半ば意識を失ったように壁の背に頭を凭れさせて、目を閉じたまま、両手を脚の間に垂らすようにしてベンチに座り。

 手術室の近くにある廊下の壁際に置かれたベンチに腰掛けたまま。

 ―――――…あれは、…――。

脳裏には、手術の映像がある。閉じた瞼に心膜シートを張り付け、破裂した左室を覆うように縫い合わせていく際の映像がみえている。無音の中に、縫い合わせる手順、処置、感染への対抗処置、…―――。

 血流の再開、――――拍動の開始、閉胸、―――――…。

「…――――――、」

何か、遣り残しはなかったか?ミスは?見逃しはないか?

縫合は完全だったか?

 シートの種類の選択は正しかったか、血管の縫合ミスはないか、―――。

 患者の心筋は、心膜は、――――…。

 この手術に耐えられるのか。

 再度、破裂、血管の梗塞、塞栓は起きないのか。

 脳血流は、…―――虚血時間の間に、脳に障害は起きてしまっていないか?

「…――――神代先生」

 人の気配に眸を開けていた。

 厳しいのか、それとも、―――…何もわからない、黒瞳が強く見つめてくるのを見返す。

どこかぼんやりと、虚脱した視線で。いや、…。

「患者をみるか」

「…―――はい」

短い問いに我に返って、背を伸ばし立ち上がる。殆ど自動的に立ち、懸念と茫然とどこか彷徨うような気配が消えない神原を、神代がみる。

「――――…こっちだ」

神代がそれだけいうのに、無言でくちびるを引き結び、神原が後に続く。






「…――――」

患者を無言で神原が見詰める。

ICUに移された患者が、人工的な多くの管や装置に囲まれている姿を、言葉にできないように。

 ICUは外部から仕切られ、硝子窓の向こうに見える、その患者の様子に。

 言葉も無いまま、意識を取り戻して、生きてここを出られるかもわからない患者を。

 ――――急性心筋梗塞に心臓破裂と呼ばれる、左室破裂を起こした患者が救命される確率は低い。その殆どが、心破裂後に突然死、―――つまり、救急搬送される間もなく、死亡する場合が多い。

 それにしても、何故、この年齢で。

心筋梗塞後に心筋破裂を起こす場合は、高齢の女性が多い。

梗塞後に心筋が耐えられず、裂ける――――つまり、心筋破裂を起こすことは大変まれであり、さらに、男性よりも筋肉量の少ないことが多い女性の方に起きやすいとされている。

 だが、…これは、―――。

 男性で、こうした症状が起きるには、若すぎるといってもいい。

 何か、特殊な要因があるのかもしれない、――――。

 それなら、何か、予期しない合併症が起きる可能性がある。

「…―――基礎データは」

呟くようにいう神原に。

「見るか?患者が通院していた前の病院から取り寄せたデータ、それに術前には基本的な処しかみられなかったが、血液検査や心電図、エコー等のデータがある」

「…はい」

隣にいたことも忘れていた神代がいうのに、茫然と振り向いて。

 真直ぐ見返してくる黒瞳に頷いてから。

「あ、…いえ、一度、中で確認してから」

入っても大丈夫ですか、という神原にICUに視線を向けて。

「少し落ち着いたから、何とかなるだろう。邪魔しすぎないようにしよう」

「…ええ、そうですね」

感染の予防処置を行ってから、神代と神原が静かにICUへと。

 機械音と、無言で静かに動く看護師達に、各種の機器を管理する技師。そして、患者のベッドサイドへ近付いた神代と神原に、麻酔科の医師が顔を上げる。

「神代先生、――」

神代がうなずき、神原が頭を下げる。

「神原です」

「…――――御二人とも、患者さんの状態は」

麻酔科医の説明に耳を傾け、そして患者をみる。

「…――何かありましたら、いってください」

短くいうと、痛ましい視線を隠せずに患者をみつめて、神原が目を閉じて言葉を切る。

 神代がその神原をしずかにみる。

「術後管理チームに任せて、少し休まれてください」

「…――」

麻酔医からの言葉に返せない神原に気付いて、神代が肩に手を置く。

「俺達は、これから患者のデータを検討する。後を頼む」

「はい、神代先生」

麻酔科医が頷き、神代が神原を促して。





「―――神代先生」

「何だ」

廊下を歩きながら、少し俯いて神原が呼び掛けるのに、神代がその前を歩きながら応える。

「いえ、――――そういえば、先に、僕が初めて先生の助手をしたとき」

「ああ、…なんだ?」

「いえ、あのとき、二件同時に手術があるはずでしたが、そのもう一件は、行わなかったんですね。…確か、胃切除の。延期された」

「ああ、…そうだ。――――どうも、あやしかったからな。当日問診して、検査してからにした。心臓カテーテルを先にしてから、手術することになったんだ。…それがどうした?」

不思議そうに振り向く神代に、浅く苦いように微笑む。

「どうして、あやしいと思ったんですか?確か、ホルター心電図にも異常はなく、それまでの病歴に心疾患はなかったときいてますが」

手術前には一般的に患者に心電図を二十四時間記録する為の器具を付けてもらう。そうして計測されたホルター心電図によって、手術中に異常を起こす可能性がある心電図の異常がみられないかどうかをチェックするのだが。その心電図にも異常が無く、さらにこれまで心臓に異常があるという病歴もなかった患者の手術に際して、何故あやしいと思えて、手術を中止してカテーテル治療の必要な疾患を先に見つけることができたのか。

 それを問う神原に、いま検討しようとしている患者の事ばかりが頭にあって、神代がしばし頭を切り替える為に難しい顔をして沈黙する。

患者のデータを検討する為にデータが準備された部屋の前に立って、扉を開けながら神代が振り向いて。

「…そうだな。――――何とも、いやな感じがしたんだ」

僅かに思い出すのか顔を顰めていう神代に、神原が疲れたように笑む。

「…そうですか」

「おまえ、先に休むか?データはおれがみる」

訝しむように見つめて、眉を寄せて睨むようにして神代がいうのに、思わず笑んで。

「…おいっ!」

「いえ、…すみません。」

何だか、随分笑えてしまって、つい額に手を置いて笑うのを堪えている神原を睨む。

「あのなっ、…?いいか、おまえ、そこで三十分でいいから横になれ!寝てろ!」

「え?三十分、ですか?」

壁際にCT画像等を確認する為の光を透過させる白いパネルを背に既に幾つかの画像が貼られてある。くわえて、神代がデータの印字された書類を手にしながら、振り向いてテーブルを示していうのに。

「これ、テーブルですよ?」

「おまえの体重くらい耐えられるだろ。床だと踏んだら困る」

「…――――こっちの椅子でもいいですか?」

神代の有無をいわせない視線に、書類と画像への未練を感じながらもいうと。

「よし、許可する。さっさと寝ろ」

「…―――はい」

苦笑して、テーブルの傍に置かれた椅子を引き出して。

 ―――資料はすぐにみたいんですが、…流石に。

自分がかなり疲労しているのはわかる。

そして、椅子に座ってテーブルに突っ伏すと。

「…はやいな。」

神代が目を眇めて睨むようにして云う先で。

すでに、すっかり寝入っている神原に。

それから、視線を資料に向けると、改めて画像を確認して、検査の結果に何か見落としはないか、あるいは、見えていないものがないかと探し始める。






「あー、…良く寝た、…かも」

額に手を当てて顔をあげて、まだぼんやりとした目で周囲を見廻した神原は。

「…――――神代先生?」

驚いて、その背を見る。

 ぶつぶついいながら、書類をみている背を。

椅子に座って、手にした書類をみている背に。

驚きながら起きて傍に寄って、見ている書類を覗き込む。

「…―――病歴ですか?」

「何かヒントが無いかと思ってな、…――――って、起きたのかよ!突然、声を掛けるな!しかも接近するな!」

こどものようにむきになって見返してくる神代に構わず、神原が肩越しにその一行を指摘する。

「――――――これ、神代先生」

「なにっ、…て、――――おまえ、もう一回寝て来い」

「え?どうしてです?」

「寝た方が頭冴えてるだろ。もう一回寝たら、また発見できるかもしれないだろ」

真面目にいっているんだろうか、と思わず見詰めてから、視線をあげて。

「…――――寝なくても、いいかもしれないです」

CT他の画像が並べられているのをみながら、神原が云う。

神代が視線をあげて。

「これ、…―――気がついてましたか」

「くそ、…――――そいつか、原因!」

神代が唸って、神原が示す画像を見る。それから、席を立つと、画像の下に置かれた幾つもの書類から一つを選び出す。

「おれの方は、これだ。心臓内科の原先生と、血液内科の森川先生を呼ぼう」

神代の差し出した病歴から掘り出した情報―――そのデータをみて、神原が頷く。僅かに笑んで。

「はい、可能性は高いですね」

「そうだ、…――。よし!ちなみに、いままで緊急コールはきてないぞ」

強い視線で神原をみていう神代に。

「…――――はい」

思わず微笑んでいた。

「そうですね、…。何とか、なるかもしれない」

「かもじゃなくて、するんだ」

「――――…はい」

厳しい表情になって、神原が見返してから。

 ふと、困惑したように窓の外を見る。

 すっかり黒く窓外が染まっている。

「いま、…何時ですか?」

口許に手をあてて、当惑している神原に。

 神代が明るく笑む。

「三時間だ、おまえが寝てたのは。よく起きたな?」

揶揄うように黒瞳が楽しげにみていうのを。

「…―――それは、」

「頭がすっきりしたろ?行くぞ、原先生達には此処に来てもらう。時間は掛るから、その間にもう一度患者を診にいくぞ」

思わず困惑したままどうしよう、と思っている神原に構わず。

 神代が、勝手に決めて先を歩いているのに。

 ―――まったく、この人は、…――――。

先を行く神代の背に微苦笑を零して。

「まってください、神代先生、―――」

そうして、その背に追い付く為に。


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