光 2




 月曜の朝。

「…――――っ、」

 紹介されて入って来た神原に、神代が気づいて目を剥くのに。

 にっこり、微笑んで神原が挨拶する。

 医局の医師達が気づいて注目する前で。

「この度、こちらにお世話になることになりました。神原良人です。よろしくお願いします」

 白衣を着て医局に連れて来られた神原が、周囲ににこやかに挨拶する。それを、案内してきた病院の事務長が引き取って。

「えー、先日、院長からお話のあった、新しく入局されることになった外科医の神原先生です。神代先生、―――神原先生、外科部長の神代先生です」

「…――――よ、よろしく」

事務長に紹介されて、席を離れて多少引きつった顔で神原を見上げる神代に視線を合わせて。

 にっこり、笑顔になって。

「よろしくお願いします、神代先生」

「――――あ、ああ、…。っ、たく、なんでここに?」

神原が差し出す握手の手に、つい腰が引けながらも手を出して、それをしっかり引き寄せられて握られて。

 つい、小声でいう神代に、凝っと見つめ返して。

「…僕、医者ですから。一応、外科医なので」

「―――そういう、――――…」

何かいいかけた神代が、くちを噤む。

「神代先生、神原先生には、病院をご案内した後、また戻って来ていただきますので。よろしいですか?」

「…――い、いいよ。任せる」

腰が引けたようにしていう神代に、何をいおうとしたんだろう、と神原が首を傾げて訊きかけるが。

「神原先生、ご案内します」

「あ、すみません、…―――。皆さん、また後できますね。宜しくお願いします」

いいながら頭を下げて出ていく神原を、引きつった顔で神代が見送る。

「どーしたんですか?神代先生?」

「あ、…いや、吉原先生、…。何でもない」

視線を逸らして、デスクに回り込んで席に着く神代に、外科医局に所属する外科医である吉原が首を傾げる。

「どうしたんです?本当に。…ともかく、今日のスケジュール確認、はじめてもいいですか?」

「…ああ、頼む。吉原先生」

「はい。じゃ、今日の予定ですが、…―――手術予定の患者さんは、…―――――」

気を引き締めて、神代がスケジュールを挟んだボードをみる。

「…――――予定は二件か、…。内科の来原先生は?」

吉原にいわれて、ホワイトボードに予定された手術欄に担当する看護師の名前を記入していた若い医師三槻が振り向く。

「午前中は初診と再診の患者さんを診て、午後のカンファレンスから参加されるそうです」

「―――そうか、――…。午後の手術は、来原先生の担当患者が一名と、それに森川先生の担当患者が一名だな」

「はい。そちらは、吉原先生が執刀されて、僕が助手に入ります」

「手術担当の看護師さん達は?」

「はい、病棟から二人看護師さんを出してもらいます」

看護師の名前を聞いて神代が頷く。視線をスケジュールに落して、神代が視線を上げる。

「吉原先生、血液のオーダーは?」

「すませてます。…一応、基準通り、用意させてますが、―――。不足ですかね?」

「いや、…。――後で、回診して決めよう。まだ、午前中でもオーダーの追加は間に合うな?」

「はい。血液科には、交差試験含めても、四時間前までなら、追加は大丈夫です」

「…――――。一応、先に日赤に連絡するよういっておいてくれ。…オーダー掛るかもしれないと」

「…はい、解りました。三槻君、血液科に連絡して、…――オーダーは、こちらの?」

「…――――、ああ?」

考え込むようにしていた神代が、吉原の呼ぶ声に気付いて視線を上げる。

「あの、血液の追加オーダー出そうなのは、私が担当する患者の方だけでよろしいですか?」

しばし瞬いて神代が吉原の言葉を考えて。

「…ああ、すまん。そうだ。おれの方の追加は、昨日既に出してある。…―――こちらは、担当看護師は、篠原さんに水瀬さん、技師は斎藤くんに、麻酔科医は榊医師だな」

「はい、その通りです」

すらすらという神代に、吉原が目を輝かせていう。

「助手は、私が入りたかったんですが、…―――」

言い掛ける吉原を神代が遮る。

「吉原先生には、この患者の手術をしてもらわなければ困る」

「はいっ!」

元気よく返事する吉原を戸惑うようにみてから。

「御木先生は、夜勤明けに助手に入ってもらうことになるから、負担を掛けるが。…いま仮眠室だな?」

「はい。いいですよね、御木先生、神代先生の助手に入れるなんて」

三槻がいうのに、神代が眉を寄せる。

「三槻先生には、吉原先生の術式をみて、憶えてもらう必要がある。胃の再建は難しいんだ。吉原先生も、しっかり教えてくれ」

「はいっ。よろしくな、三槻先生」

「はい、お願いします。それにしても、いいですよね、御木先生。神代先生の腹腔鏡手術の助手が出来るなんて!」

「…――だから、何いってるんだ、…。吉原先生の手術をきちんとみて憶えろ!」

「はいっ!」

「ったく、…―――しっかりやれよ?」

眉を寄せて三槻をみる神代に、吉原が話し掛ける。

「それで、神代先生、こっちの方に血液オーダー、追加かかるかもしれないっていうのは?」

「…ああ、それなんだが、―――。基礎疾患に糖尿があるだろう?」

「…――はい、――――…」

「このデータ、昨夜の血圧だが、…」

手術前日の患者のバイタルを記録したデータを示して、神代が吉原にいう。

「…これが、何か、気になる。引っ掛かるんだ。持病は他にないということだよな?」

「神代先生がいわれるなら、気をつけます。血管がもろくなってる可能性が?」

「あるな。…それに、二十四時間心電図はとっているんだな、―――…とにかく、患者を診にいこう。時間大丈夫か?」

ボードを手に席を立つ神代に、吉原が頷く。

「はい!」

話しながら歩く神代に、吉原が従い、三槻が続く。

「神代先生の執刀する患者さんにも?」

「…―――ああ、後で、…―――」

神経質に何かを気にするように、思わしくない表情で歩く神代に。

 緊張した面持ちで、吉原も足の速い神代に追い付こうと急ぎ足で歩いていく。






「随分、古い病院ですね、…、あ、失礼、―――設備がその、…。でも、歴史があるからですよね?この病院が」

事務長に案内されながら、古い設備をみて、ついくちを滑らせた、というようにしていった神原が、笑みを造ってみせるのに。

「…あ、いえ、―――神原先生のおっしゃる通りです。この病院は、滝岡病院グループの中では、一番古い系列病院になりまして、…。当時は最先端だったものも多いんですが、いろいろともう、…老朽化もしておりまして、はい、…――――」

多少額の汗をぬぐうようにしながら、事務長が説明する中を。

 廊下を歩いていく神代達を見つけて、神原が見送る。

「あちらは、病棟ですか?」

「あ、…ええ。ああ、神代先生達ですね。多分、今日の午後から手術になる患者さん達の様子を診にいかれるんでしょう」

こちらに気付かず歩いていく神代達の背を見送って、神原がくちにする。

「午後から手術、ですか。…ちなみに、今日の手術は何件ですか?外科に所属してるのは、…――――」

「ああと、それが、…―――今日行われるのは、…その、二件、でして」

口籠るようにして、視線を遠くに逃しながらいう事務長に、神原が振り向く。

「…二件、ですか?」

驚いたようにみる神原に、事務長が額の汗を拭く。

「いえその、…は、はい。」

「一日に二件?」

訊き直す神原に、事務長が掻いていない額の汗を拭く。

「い、いえその、…―――実は、」

「実は?」

「…―――それでも、いまはその、…多い方、でして、――――」

「多いって、…――。一日、二件がですか?」

くちをおもわずあけて、驚いている神原に汗を拭きつつ説明する。

「はい、その、…―――一日、一件、…―――」

「…え?一件?」

驚いて聞き返す神原に、事務長が口籠る。

「いえ、その、…つまり、それでも、その、…一日、一件も、ない、…日も、いまの状態ですと、その、…―こちらでは、…――ありまして、――――」

「…一件もない日もあるんですか、…。」

茫然として神原が思わずくちにする。

「それって、…―――外科医、いるんですか?」

ついまじまじとみていってしまう神原に。

「…――――――」

無言で、引きつった顔で事務長が見返す。






 古い廊下を歩きながら。

「すみません、はっきりものをいうって、よく怒られて」

にっこり、微笑んで事務長に向き直っていう神原に、事務長が額の汗を拭いていう。

「いえ、…いいんですけどね。事実ですから。いま、こちらでは手術は殆ど引き受けていませんから、―――」

困り切った顔でいう事務長に、隣を歩きながら神原が顔を覗き込むようにしていう。

「でも、それじゃ、赤字じゃありませんか?この総合病院の規模で、病床も、――――長期療養病床専門、―――ではないですよね?」

「…はい、まあ、…―――。いまはいずれにしても、ここに入院してる患者さんの数も少ないですが」

「…―――僕がいうのもおかしいんですが、…。新しく外科医を雇う必然性は?大丈夫なんですか?」

首を傾げて問う神原に事務長が詰まる。

「…その点に関しては、―――外科部長である神代先生にきいてください、…――――」

歩きながら、訊き直そうとした神原が気づいて足を留める。

「これが、集中治療室ですか?いま治療中の患者さんは、――」

事務長が何かいう暇もなく中に入って、無人の室内と設備を見廻して険しい顔になる神原に。

「あ、あの、…神原先生?みての通り、いま患者さんはいませんで、―――」

「そうですか。…専任の看護師さんも、先生もいない?」

僅かに眉を寄せて、それまでの笑顔とは違う厳しい表情のまま設備を見廻していう神原の背から、少しばかり脅えたように表情を伺おうとして。

「あ、あの、…神原先生?」

「これで、…今日、手術を?」

険しい表情のままいう神原に、伺うようにしながら事務長が応える。

「いえ、あの、…はい、――先生?」

「患者さんのデータ、みられますか?」

表情を消して振り向いた神原に、事務長が緊張した顔で応える。

「は、はい、――わ、私にはみせられませんが、神代先生にいえば、許可をもらえるとおもいます」

「わかりました。どちらへ伺えば?」

淡々と問う神原の視線に潜んでいる険しさを見て取ったのか。

 事務長がごくり、と唾を呑んで、案内をする。

「そ、それでしたら、外科医局に、―――」

「はい。後は、患者さんに会いにいっても?」

「か、構わないと思いますが、―――」

そうですか、と応えて。

 神原がもう一度、誰もいない集中治療室の設備を振り返る。

「か、神原先生?」

「…――いきましょうか?」

振り向いて、にっこり微笑んでいう神原に、少しばかり驚いたように事務長がみて。

「は、はい、こっちです」

「迷路みたいですね。…増築を重ねてるのかな?」

「―――ええ、―――そうです。何しろ古い物で、…」

「あちらが手術室ですね?」

案内されながら、神原が手術室の扉を見つめる。






 病棟を歩きながら、神代がPHSの着信に不思議そうな顔をして出る。吉原に先に行くように手で合図して。

「…神原先生が?わかった、代わってくれ」

廊下を歩きながら、ふと視線を引かれたように空に向ける。

 ―――――…。

青空と緑、病院の歴史と共に育った街路樹が造る景色を見つめる。

「…ああ、神原先生?患者のデータをみたいって?」

 ――はい、午後から手術だと伺って、患者さん御二人共のデータ、見せてもらっても構いませんか?後、できれば見学もしてみたいんですが。――

落ち着いた神原の声に、青空を白い筋雲が渡る景色から意識を戻して、神代が頷く。

「わかった。カルテは事務長にいって、師長に頼んでみせてもらってくれ。見学も好きにしてくれていい」

 ――ありがとうございます。

「…―――」

感情の伺えない声に、ふと眉を寄せるが。

「吉原先生!」

通話を切り、どうした、と廊下の向こうで手招きしている姿に、声を掛けて歩き出す。






 神原が、午後から手術になる二人の患者のカルテ他のデータを、医局に案内されたデスクに積み上げて、読み出していく。






「…―――――何っ、」

神代が構える先に、真面目な顔をした男の子が。

 吉原と、その背後のベッド近くの看護師、それに。

 ベッドに半身を緩やかに起こすようにしてみている女性が微笑んでいて。

「チャージ!カイザー!」

子供が真剣に手にしたメダルか何かを向けて、変身ポーズをとるのに。

「…く、くそっ、卑怯だぞっ!」

神代が真剣に向き合って、倒れながらこどもを睨み返す。

「よし、かったー!せんせー、よわいよ!」

「…弱くて悪いか!卑怯だぞ、丸腰なんだからな?」

「へーんだ!かちはかちだもんね!」

えらそうにいうこどもに、神代が真剣に片眉を上げて睨む。

「…次はかならず勝つ!」

「またかえりうちにしてやるから!」

む、と睨みながら立ち上がる神代に、吉原が笑いを堪えながら歩み寄る。

「神代先生、患者さんに」

「…――――不意打ちがあるなら、教えてくれ」

「僕は中立ですので」

小声でいう神代に、吉原が楽しそうに笑みを零しながら。

「…―――あのな、…。どうですか?具合は?」

いいながら、真面目な顔に戻って、ベッドに横になる女性に向き合う神代に、女性が微笑む。

「すみません、大樹が」

「…元気の良いお子さんです。お母さん、あなたの具合はどうですか?」

「はい、おかげさまで。大丈夫です」

母親が微笑んで廊下と扉の境目で遊んでいるこどもをみていうのに、ちら、と視線を神代がこどもに投げる。

 先に神代を不意打ちしたことも忘れたように、別のおもちゃを出して、部屋と扉の境界線をレール代わりにして走らせて遊んでいる大樹をみて。

 視線を、神代が患者に戻す。

「お母さん」

「はい」

「予定していた通り、やりましょう」

「――――はい、ありがとうございます」

外を風が渡る音と、おもちゃの車をレールに走らせる音が聞こえる。





 神原の見詰める前で、手術室に神代が入って来る。古い設備だが、手術室を見下ろせるように見学室が作られている。

 その硝子張りの前に、手術している手許を記録しているカメラの画像がみられるモニタを隣に。

厳しい視線で神代を見つめる神原の前で。

「…――――」

 僅かに驚いて神原が眸をひらく。

 患者を前に、神代が宣言する術式。

「腹腔鏡による卵巣腫瘍検体採取をこれより行う」

 確かに、それは今日の手術に対する術式として、解っていたことだが。

 ―――本当に、腹腔鏡で採取を?それに、…――――。

術野――手術をする手許を映すモニタにも、確かに腹腔鏡でつける僅かな傷しか、位置は決められていない。

 しかし、…あの検査結果では、…―――。

確かに腹腔鏡を挿入する為の準備として、ガスが注入されている患者の腹部を映し出す映像をみて、硝子越しに窓から神代を神原がみる。眉根を僅かに寄せ、険しくみえかねない表情でみていることにも気づかず、真剣に神代の手を見守って。

 腹腔鏡を用いる手術の際には、腹腔鏡を挿入する箇所の処置は助手に任せる医師が多いが、いまは神代が自身で慎重に行うのを見詰めながら。

 ―――腹腔鏡は、確かに創部が小さくて済んで、検査にも向いていないといえないことはない、…、けれど、…卵巣の場合は。

 卵巣に腫瘍があると疑われる場合、確かに生検と呼ばれる、検査する細胞、腫瘍の良性と悪性を診断する為に、身体に傷をつけて生きている細胞を取らなくてはいけないことが多い。

 実際に、腫瘍マーカーと呼ばれる指標や、画像を撮影する検査だけでは診断することができず、身体に負担を与える手術が必要になってしまうことが多いのだが。

 腹腔鏡では、しかし、…――――。

 腹腔鏡では、何よりも熟練が必要になる。さらに、腫瘍が悪性であった場合、採取することにより、腫瘍を外に撒いてしまうことになることがある。さらに、デリケートな臓器である為に、開腹を選択する場合が多い。 そして、そう。

 …―――――検査結果からだけでは、確かに何ともいえないけれども。

厳しい表情で神原が見詰めるのは。

 臓器に、既に卵巣から他の箇所へと、腫瘍が浸潤していたら。

 卵巣腫瘍は、特に痛みや何かを訴える症状が出る臓器ではない為に、かなり進行してから見つかることがある。

 その場合、表に出る症状ははっきりしたものが無くても、既に腹膜や他の臓器へと腫瘍が浸潤する―――広がっている、ことがある。

 それらが、既に切除しきれない範囲に広がっていることも。

「…―――――」

 もし、それらが見つかったら。

 いや、この場合、もしそれらを見逃したら。

 開腹で行う場合は、視野を広くとることができる。それは、隠れている腫瘍を見つけやすいということでもある。

 だが、腹腔鏡は、…――――。

腹腔鏡の良さは、傷――手術で身体につける傷が小さいことにある。それは、身体の治りを早くすることができる、侵襲性、身体に付ける傷が少ないことが一番の利点である手法だが。

欠点は、術野が狭いこと―――つまり、見える範囲が狭いことにある。そして、その狭い範囲を直接みないで手術する―――それも、特殊な器具を使って――という、難易度にある。

また、器具を動かせる自由度も低い。

慣れていなければ、失敗もしやすい、―――術野にみえない箇所の血管に傷をつけ、出血させた場合に、開腹していれば、すぐに対処できた場合でも、腹腔鏡の場合、もしそれが開腹しなければ対応できない場合には、すぐに決断しても、まずメスを入れて開腹―――皮膚を切り、処置しなくてはいけない箇所に到達しなければいけないというロスがある。

もし、その際に悪戯に腹腔鏡に拘り、時間を浪費すれば、出血が取り返しのつかない物に簡単に成り得る。

腹腔鏡の為にあけている小さな穴からは、無論、その範囲を超えた場所に到達することはできないのだから。

万が一のとき、何か起こったときの為に、事前にシュミレートしておかなければ、そして、麻酔医も含めてチーム全体がその準備が出来ていなければ、簡単に腹腔鏡から開腹に移る、などということはできない。

腹腔鏡でみている箇所に、どうしたら開腹で一番ロスなく辿り着けるのか。

この簡単なシュミレート――事前に想定しておくこと――が。準備して、どう動けばいいかを、手術を行う外科医だけでなく、チーム全体で動きを確認しておけなかった、それだけの為に、手術ミスで失われてしまう命がある。

腹腔鏡での、危険な過誤―――恐ろしい場所を覗き見ない、事前に想像する力、事前にどんな危険が想定されるかを見切れていない愚かさが、医師の、或いはその医師を止められない組織の愚かさが、患者一人一人の掛けがえのない命を失わせるミスを生んでいく。

――――それに、…神代先生は、産婦人科医ではない、…。

準備を終えて、腹腔鏡を挿入しようという神代を見詰めながら、厳しい神原の視線が憂うようなものに変わる。

 卵巣腫瘍、卵巣に関する処置は、やはり産婦人科医が担当することが多い。卵巣、子宮―――それらのデリケートさは、やはり、それを専門に診ている産婦人科の医師が中心になり治療することが多いからだ。

 尤も、腫瘍――癌である場合には、産婦人科医以外が対応することも、やはりある。

 ―――――できるんですか?

若い医師が助手についているのを見ながら、心の中で問う。

 それは、無理な手術を引き受けているのではないのか、と。

 ――――この病院の現状を考えても、…――――。

手術後に専門で患者を看護する設備がなければ、対応する場所になるICUが、殆ど稼働していなかった現状を思い返す。

 ――どんな簡単な手術でも、本当に簡単ではありえない。

厳しい視線で腹腔鏡を挿入していく神代を見る。

 手術だけでは終わらない、―――その後の看護がうまくできなければ、…――――。

 或いは、予期せぬ反応が出たときに対処できる状態を保っていなければ、本来は手術を行うべきではない。

 どうするつもりですか?

見詰めながら、そして。

 ――――止めるべきだったろうか?

あのICUの状況で手術を行うのは無謀だと、…―――。

 何事もなければ、確かにICUが必要となる規模の手術ではなくとも。

 揺れるように思いながら、少しばかり、泣きそうに情けなく、己を嘲笑するような、心持ちで。

 ―――いま、そんなことを思ってどうする?

決断できずに、…―――?

 すでに、いま手術に入っている患者を目の前にして。

「僕は、…――――」

くちから言葉が漏れて、気づいて苦笑していた。拳の背をあてて、微苦笑を零して神代の背を見つめる。

 何の問題もなく行われているとみえる光景。

 それに、…―――。

「…――――、」

 ふと気付いて、左側に置かれたモニタを振り向いていた。

 動いた何かが、神原の視線を引いていた。

「…これは、」

慌てて、眼下にみえる神代の背と、手許を映す、そして、いまは術野――腹腔鏡から見える視野を映すモニタをみる。

「…これは、―――…」

茫然と言葉を失くして、その手術を、…―――。

 対象に辿り着き、無駄なく、…―――――。

 なめらかに、…。

「これは、…」

もう一度呟いて、無意識に手を下ろし、真剣に食い入るようにその画面を見始めていた。

 ぎこちなく動いて当然にさえ思える器具が、その視野の中でしなやかにさえみえる。

 ――あれだけ、動きが制限される中で、…――――。

余計な切除をしない。滑らかに、不必要な動きをせず、だが、確実に辿り着いていく。

「…―――――凄い」

思わずも画面に吸い込まれるように、その手技、―――器具を操るさまをみつめて。

 まるで、開腹で直接メスを手に握るような。

まったく、限られた視界の、不自由な動きしかできない器具の限界を感じさせない、滑らかさに。

 ―――それに、血管を、…不必要な血管を、一つも傷付けていない、…―――。

まるで、罠のように張り巡らされた細い血管が、存在していないように。

 そんな訳は無い、…――――。

血管が一番豊富で知られているといえば肝臓だが。

 そこまではいかなくとも、…――――。

「何て、…―――」

思わずも、言葉と微苦笑が漏れていた。そのおかしみは、事前とは異なるもので。

 ―――まったく、この腕を持つ人の心配を、勝手にしてたと?

腫瘍を散らす心配も、この手の持ち主なら、する必要はないだろう。

 検体を採取する目標へと辿り着き、滑らかに検査用の切除を行う手技を見詰めながら。

 ―――滑らかだな、…―――。

思わずも感嘆して、苦笑して。そして、採取した検体を外へ出す、―――その処置を行うときに視野の中に現れたものに。

「…―――――――!」

神原は、目を見開いていた。

 神代が、手を僅かに止め、次に何事も無かったように検査する部分を身体の外に出すのをみる。

 その背に、緊張はみえない。だが、…――――。

「神代先生、…――――」

腹腔鏡に取り付けられたカメラが、慎重に周囲を移動できる範囲で映し出す。

 そこに、映し出されているのは。―――

生検に運ばれた細胞は、いま検査されているのか。

 モニタから、動かない神代の背を神原が見詰める。

 苦しいように、その背を。

「これは、…――――」

 一瞬だが、視野にみえたもの。

 そして、その後、神代が操作する腹腔鏡の術野にみえたものは。

「どう、…―――」

どうするんですか、と。問い掛けてくちを噤む。此処から声は届かない、何より、――――。

 喩え、いま見えたものが。

神原が見詰める先に。

 看護師が入室して、生検の結果を伝える。

 緊迫した表情から、おそらく悪性であったろう、ということが解る。厳しくくちを結び、その手術室の様子を見つめて立ち尽くす神原に。

 突然、スピーカーから声が響くのに。

「神原!」

「…―――神代先生?」

思わず、茫然として神原が見下ろす前で。

 毅然とした黒瞳で、神代が神原を見詰めているのがみえて。

「…なにを、―――」

「降りて来い!開腹に切り替える!これから、開腹に寄る卵巣切除及び、胃大網他腹膜腫瘍等、拡大切除術を始める!神原呼んで来い!」

「え、…―――それは、」

神代先生、とおもわずも呟く神原にもう視線は置かず、神代が何か麻酔医に話し掛けているのをみて。

「何を、それは、…――」

声も無く立ち尽くしている神原に、突然扉の開く大きな音が響いた。

「神原先生!急いでください!下に準備は出来ています!着替え、お願いします!」

看護師が跳び込んで来て、神原をみていうのに。

 茫然と思わずくちを開けてみてしまって。

 そこへ。

「神原!麻酔医の榊先生がこれから準備する!それまでに準備して入って来い!」

スピーカから響いた声に、思わずもスピーカの方をみてから、その次に漏れて来た声に。

「第一助手を神原に交替する。御木先生、第二助手を頼む。榊先生、準備、どのくらいでできる?」

「…――――」

スピーカの音声が途切れて、まだ茫然としている神原に。

 突然。

「神原…!さっさとしろ!」

叫ぶ神代の声に、唖然として振り向いて。

 見つめている黒瞳の激しさに、息を呑む。

「…僕は、――――」

「おまえ、患者を救う気はないのか?」

鋭く問う神代の声に、黒瞳に。

 息を呑んで、…―――。

 だから。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る