第2話
そして預言者は言った"見よ。野獣は美女の顔を見上げたが、その首を絞めようと伸びた手は留まり、その日を境に野獣は抜け殻のようになった"
古代アラビアの諺
人類の雄は古来から巨人化できた。そして、巨大不明生物もまた古来から存在していた。
古来から存在する巨大不明生物は現代に至るまで確認されているだけでも個体数は約1500体に上り、その殆どは海外ではなく何故か日本にばかり出現している。
そして殆どの巨大不明生物は《常世トラフ》と呼ばれる沖合の海底谷に潜伏し、怪光と共に出現する。中には地中から出現したり、空から飛来する奴もいる。
各国が巨大不明生物に対抗して兵器を近代化させていくのに並行し、巨大戦闘に特化した部隊を編成していくのは必然的な結論だった。その末に生まれたのが
しかし、それが結果的に巨人差別を醸成し巨人によるテロリズムを横行させる温床にもなってしまったのは皮肉な話だ。
もはや
「嵐の夜の後には怪物が起きる。だから山に入ってはいけない」
西暦2025年の現代になっても未だに怪物伝説が残る場所、それが大戸島。
台風接近に備え、アカネがフェリーで現地入りしたのは一週間前。
そして、今。
台風の暴風に煽られて忙しなく窓に打ちつける雨を一瞥し、アカネは民宿の二階にある一室で寝転ぶ。女にしては高い背丈の肢体が一畳の畳を占有する。風呂上がりのドライヤーで水気を飛ばした長い白髪が畳の上に広がり、電灯の光が絹のような髪の上を滑る。
白髪に縁取られた顔はぞっとする程に白く、綺麗な目鼻立ちに桜色の唇が彩りを添える。雪のように白い肌と長い睫毛は儚げな印象を与えるが、くっきりとした眉の下で虹彩までも赤く見える瞳は意思の強そうな冴え冴えとした光を放っている。すぐ怒りそうな色をしているくせに、すぐ冷たく突き放しそうな目つきをしている。怒っても冷めても吸血鬼のように目立つ大きな八重歯は子供っぽいけれど、右の目尻と鎖骨にあるほくろは大人びた印象を醸し出す。
そんな事だからお気に入りの赤い髪留めに、赤いリボンで纏めて垂らした長髪を指して、蹴癖のある白毛の馬みたいだと揶揄された事が何度かある。
子供でもなければ大人でもない、そんな十七歳の少女――白銀アカネ。
予報通りに台風の暴風圏に入った大戸島は全船欠航で、本土に帰れるのは最低でも二日後になる見込みだ。
全ては明日の実地調査に掛かっている、この一週間を無駄にはしたくない。
ふと手元に転がしていたスマホが鳴った。雨音だけが届く部屋に電子音が響く。通話相手が誰なのか容易に見当がついたが、無視すると後が面倒になる。億劫げにスマホを手に取り、電話に出る。寝転がったまま開口一番、
「まだ帰るつもりはないわ。停学期間は、あと二日残ってる」
『そんな事は分かっている。いつもの定時報告をサボるのが悪い。……理事長からの勅令だ、黒峰カグヤとのパートナー契約は解消になった』
でしょうね。
契約解消は予期できた事だし、初めての事でもないから落胆も失望もない。むしろ文句ばかりで使えないパートナーと縁を切れて清々した。厄介払い出来て満足しているのは向こうも同じだろうけど。
一週間の入院に対し、こちらは二週間の停学である。もう退院しているくせに自分で連絡を寄越さない。まあ元より好かれていたわけでもないし、当然の対応だった。
それはともかく。
「パートナーの人選は自分で責任を持ってやる事にしたので、ご心配なく」
『……少しは身元引受人としての俺の立場を考えたらどうだ。優先的にパートナー契約を締結できているのは誰のおかげだと思っている』
「長続きしないような相手を見繕っているのは、そっちでしょ。私ばっかり責められるのは不公平だわ」
『君にブランクを作らせたくないから、わざわざ無理を言ってそうさせてもらっているんだぞ。今回の一件で、ついに防災庁からは、卒業後初年度の採用を見送る提案もされた。だが俺が突っぱねてきた。俺が守ってやるにも限度がある』
「だから今度は自分の力で、自分の立場を守ろうとしているのよ。文句ある?」
昔から
そして
しかも相手が天下の
それもこれもアカネに釣り合うような
まあ
ツトムはお得意の詰問するようなキツイ口調で言う。
『そう言うからには、目星をつけているんだろうな』
「……っ、もちろんよ」
危うく押し黙るところだった。
アカネは大戸島に来てからの聞き取り調査を脳裏で反芻しながら説明する。
「人を食う巨人、ですか?」
「そうだ。もう三年になる」
町役場の一室で煙草を吹かしながら教えてくれたのは、壮年の町長だった。
曰く、おやつ感覚で人間を食う巨人がいるそうだ。主食は常世トラフから上陸して来る巨大不明生物だが、酷く大食漢で小腹が空いた時は麓に下りて来て人攫いをしていくと。
「大の大人の何倍もでかい図体に、猪や熊よりも速く、とにかく滅法硬くて猟銃なんて意にも介さん。――だが、妙な事に付き添いの女を見かけた奴は一人もおらん」
普通は男が巨人として行動できている以上、そばに調整役の
が、特定の個体であれば話は別だ。
もはや都市伝説化している、あの血統の個体ならば。
アカネは逸る気持ちを堪えつつ、
「その巨人が、獲物を仕留められなかった時がありましたか?」
「わしも何から何まで知ったわけではないが、その様を見たってやつは知らんな。大戸島の怪物というたら渡航者とて震え上がらぬ者はおらなんだ。今まで何度も本土から
「お手上げですね」
「獲物で釣るにしても、その巨大不明生物ですら敵わんやつだからね。いざ巨人同士で戦っても勝算は五分五分だろう。一度だけ獲物が麓まで下りてきた時に、やつが獲物の顎を外して両手で口を真っ二つにした事があった。悍ましい光景だったよ。正真正銘の怪物とはまさしくあれを指すな」
まっぷたつ。
出されたお茶に口をつけて、ほくそ笑んだのを誤魔化したのだった。
『やめておけ。そんなやつには手を出すな。怪我では済まない可能性すらあるんだぞ』
「理論上は問題ない。上手くいけば固定パートナーが見つかるのよ。ただでさえ
『君だって俺の教え子だ』
真剣な口調に、ちょっぴりドキっとしたのは内緒だ。あの頑固親父に悟られてたまるもんか。首から下げたペンダントをいじり、気を紛らわせる。
「どうせ私が貴重なアトム系だから、私の身に何かあったら五階の連中にどやされる……そんなところでしょ。世界最年少で
『……』
一瞬だけ黙り込んだのを逃さず、
「そういう事だから。おやすみなさい」
有無を言わせず通話を切る。スマホを畳の上に手放して嘆息する。
あの人が自分の保護者となった十年前はこんなじゃなかった。思春期を迎えたからと言えばそれまでだが、いつまでも天才の娘みたいに扱われるのは嫌。
たとえ血統が全ての世界に身を置いているにしても。
世界最年少の天才逃走官――過去に一時ではあるがメディアが囃し立てた事を思い出し、苦虫を噛み潰した気分になる。アカネが保護監視下限定とはいえ
どれだけ努力しても、「天才の教え子だから」とか「総じて優秀なアトム系だから」と言われる始末。どれだけ才能があっても努力しなければ開花しないというのに。
起き上がって布団を敷き、電灯を消す。やや乱暴に布団に横たわる。薄闇の中で稼働する冷房の音をけたたましい雨音が掻き消し、時折窓の外がピカッと光って雷鳴が轟くから眠りにつくのも面倒だ。明日の為にもぐっすり寝たいし、あの人との口論でストレスが溜まったのもある。観光目的でもないのに慣れない環境で一週間滞在して、大した収穫がないのも災いした。それが全部言い訳だと自覚しながら。
片手を下腹部へと潜り込ませて、悩ましげに動かす。次第に頬が紅潮し、やや荒くなる息を潜ませて声を抑える。そうしている間、頭にあったのはまだ見ぬ男のイメージ。
――怪物、か。どんな人なんだろ。
⑨
翌日。
夜中の間に大戸島は暴風圏から外れ、朝方には完全に台風が過ぎ去った事もあって昨日とは打って変わり白い太陽が島全体を照らし出していた。地理的な関係でこの島はもはや真夏に支配されていて、もちろんアカネは夏が苦手だった。
しかも探索用の物々しい格好で日差しを一身に受けている。
神楽坂ツトムのパートナーからお下がりで譲り受けた野戦服をベースとした行動着、更にその上にアラミド繊維の防災ポンチョを羽織っている。背中には頑丈なザックを背負い、万が一戦闘に巻き込まれた場合を想定しての装備だった。帽子を目深に被り、日焼け止めをしっかり塗った。山道を踏み締める度に細い顎を伝う汗がぽたりと落ちて、ポニーテールの白髪が揺れる。
ごつい登山靴で泥濘んだ地面を踏みつける度にぐちゅっと音が鳴り、木立の間には見た事もない植生の植物が生い茂っている。おまけにまだ昼前とは思えない暑さ。服の下は既に蒸れて汗でぐちょぐちょで気持ち悪い。
これまでで最も過酷なパートナー探しだった。
現代の人類は元を辿れば、この三つの血筋に行き着く。これを三大始祖と呼ぶが、もちろん太古の昔にはこれ以外の血筋も数多存在していた。が、現在において三大始祖以外の血統はいずれも途絶えている。
三大始祖の血統は以下の通り、
【ライトムーン系】
【アトム系】
【ウルティマ・ラティオ系】
この三種類に分類され、世界規模で全体の99%以上はライトムーン系で占められている。必然的に白銀アカネのようなアトム系は稀少な血統として重宝されるものの、往々にして臍帯接続能力が異常に高い。そしてまた往々にしてライトムーン系とは釣り合わない。遺伝情報によるストレス耐性やAUS《アレゴリーアンビリカルシステム》適性などで相性がすこぶる悪い。
よって非常に優秀な
つまり『天才』は褒め言葉などではなく、最上級の皮肉なのだ。
ただでさえ数が少ないアトム系同士でコンビを組むのは、心臓移植のドナーを探すよりも困難で根気が必要な作業だ。とてもじゃないが二週間程度で見つかるものではない。
だが、何事にも例外は存在する。
同じアトム系以外で実戦戦闘レベルの臍帯接続を可能とする血統が存在する。
それがウルティマ・ラティオ系である。
アトム系よりも遥かに稀少で、もはや都市伝説化している絶滅危惧の零細血統だ。少なくとも直近の百年間で確認された公式記録はない。その当該人物を探し当てるのは砂漠でダイヤモンドを見つけるようなもので、しかも見た目は他の血統の人物と何ら遜色がない。
誰もが探し求め、誰も見つけられないような存在。
でもアカネは町長から話を聞いた瞬間、その可能性に賭けた。
アカネは長く伸びる山道を見通してから、ふっと息をついた。空気を焦がす太陽と、毒々しい程に青い空。底が抜けたような夏がどこまでも広がっている。
人生十七度目の夏に全身を炙られながら、アカネはザックを背負い直して歩みを再開させ、
足元の地面が隆起した。
咄嗟に後方へ飛び退ったのが命運を分けた。宙に放り出されたような形で後退ったアカネは何とか着地し、そいつを見上げた。地面が砕け、激震を伴う突発的な崩壊で舞い上がった一抱え程もある土塊が周囲に飛散し、濛々と立ち込める土煙を突き抜けて顔を上げたのは紛れもなく巨大不明生物だった。
当然だが人間と比して滅茶苦茶でかい。地底潜行型らしく鈍色の頑強な表皮に覆われ、手足はモグラじみている。頭部には雄々しい角が生えている。怪しく光る眼は極端に瞳孔が小さく、その深淵には何ら感情を見通せない。死んだ魚の目を直視している気分になる。何一つ思考を読み取れないのに生きている、巨大不明生物特有の目つき。
体内で海水を蓄えてから、陸上に潜行するタイプだ。これなら陸上の獲物も捕食できる。
逆光で影の塊じみた巨大不明生物は静止し、明らかにアカネを見下ろしていた。ざっと見て全長は五十メートルほど、全高は二十五メートル。今までアカネが見てきた奴の中では小型に分類されるだろうが、今のアカネにとっては些末な事だ。
まずい。
視ている。
人間など丸呑みにできる口を僅かに開いて、あまりに小さな獲物を確かに視ている。
死ぬ、そう思った。
奴が大口を開けて噛みついてきたのは一瞬で、
後生大事に首から下げているペンダントを咄嗟に握り締めて、
視界一杯を覆い尽くして迫る口腔の暗闇まで何故かゆっくり見えて、
ふっ飛ばされた。
突然の風圧に瞬きをした一瞬の後、目の前にいたのは――全高二十メートル、日焼けした肌に得体の知れない植物で編まれた腰布、ぼさぼさの短髪の下で目つきを鋭くする巨人。
間違いない。
息を呑んで、
「……ウルティマ・ラティオ」
腹部を注視しても臍帯は見当たらない。完全に単独で行動できている。
ウルティマ・ラティオ系とは、現存する血統の中で唯一単独で巨大戦闘を行える個体なのだ。
臍帯接続を必要としない完全独立型の
ウルティマ・ラティオ系とアトム系の結合。
それはお伽噺にも等しい一つの仮説に行き着く――原初回帰説。
見つけた。しかも助けてくれた。
私のパートナー。
夏の日差しに炙られた荒々しい巨躯を、アカネは焦がれるように見上げている。
⑨
間一髪だった。
巨人――黒武者ステマは彼方に吹き飛ばされて体勢を立て直すグラン(仮称)【命名理由:地面をぐらぐらさせる】に歩み寄りながら思う。森林を掻き分け、低木を踏み潰して、距離を詰めていく。
瞬間、グランの角が閃光を放つ。
迂闊だった。目眩ましを食らい、思わずたたらを踏む。
致命的な隙だった。
グランの巨体が躍動する。
グランが四本の手足で土塊を跳ね散らしながら猛進し、木々を薙ぎ倒しながら迫る。猛然とした前進の軌跡に梢が吹き飛び、枝葉が散っていく。巨体に似合わぬ速度域だった。速度と体重を乗せた突撃は狙い違わずステマに命中し、突き出た角が腹部を穿つ。
「ぐっ!」
為す術なく突き飛ばされ、木々を何本も折りながら転がり巨石さえ衝突で砕いてからようやく止まる。その巨体が地面に叩きつけられ、容赦ない打撃に息が漏れた。腹部から垂れ流される血液が森を赤く染め上げ、仰向けに倒れたステマの視界には木立の間を駆けて逃げていく鹿や猪が映る。
血溜まりの只中で上体を起こすと、グランの大口が開くのが見えた。
まずい。
咄嗟に跳ね起きて横っ飛びで木立に逃げ込むのと、グランが口腔から赤い熱線を放ったのはほぼ同時だった。
一瞬前までステマがいた場所を熱線が焼き切り、爆発。白煙と共に照射地点が弾け飛び、爆発音が轟く。地面を濡らしていた血液が瞬く間に蒸発してしまう程の途轍もない熱量だった。
それからグランは追い立てるように熱線を連射していく。
ステマは木々に紛れながら遁走するしかない。枝葉を散乱させながら、息せき切って足を動かす。
ステマは背後に迫る熱線から必死に逃げ続ける。
発射を見てから回避では到底間に合わない。発射から弾着まで瞬き一度にも満たぬ一瞬しか隙がない。飛び道具を持たぬステマは無我夢中で逃げるしかない。森に隠れても動けば梢が揺れて位置がバレる。ならば蹲って身を潜めるしかないが、そういうわけにもいかなかった。
ステマが走る軌道を、熱線が続け様に辿った。
ウルティマ・ラティオ @kyugenshukyu9
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