第8話 魔王との蜜月

「……アリシア、我が妻よ。泣いているのか?」


 私を半裸にしたところで、魔王が動きを止めた。

 私は涙が止まらなかった。だって私は誰とも寝ていない。そんな人間じゃない。

 ベッドから少し離れたところでは、ルールーがオロオロしながらぴきゃぴきゃ鳴いている。


「それは、私じゃありません。身体は私でも、心は私じゃない」

 

 急にこのルートのアリシア・エリザベスが怖くなった。なんでそんなに手当たり次第、誰とでも寝ていたのだろう。それに、誰とでも寝るなら俺と寝ても問題ないだろう、と言わんばかりの魔王の態度も怖かった。


「……うっ、うぇ」


 涙があふれる。

 なにより、私は性処理の道具として魔王の元へ連れて来られたのだと気付いてしまって、駄目だった。


「私は誰とでも関係を持てるわけじゃない。帰りたい。帰してください」


 ベッドの上で私に馬乗りになったまま、魔王が私の涙の訴えを聞いている。襲おうと思えば簡単に襲える状況で、魔王は考え込んだ。


「『帰る』とは? あてがあるのか?」

「……ないです」


 ふん、と魔王が小さくため息をついて、私に薄い布団をかける。


「……なんで?」


 これは、優しさ?

 見上げた魔王は表情のない顔をしている。私に襲い掛かる様子もなければ、怒っている様子もない。


「人間がザハードで生き抜く事は不可能だ。魔物や瘴気の嵐に襲われ、ひと月ももたぬだろう」

「そう……なんですか」


 確かに私はいま自力で起き上がれない。それほど瘴気という物のダメージはすさまじかった。ひと月どころか一週間すら生き延びられないかも。


「選べ、アリシア」


 魔王が私の髪を優しくゆったりとなでる。


「吾輩の妻となりこの地で生きるか、それとも――死ぬか」

「……死?」


 突然突き付けられた言葉がすごく重い。

 死ぬくらいだったら関係を持ったって良いのでは? なんといっても相手はもったいないほどの美形だ。むしろ喜ぶべき事じゃないの?


「……っ」

 

 そう思うのに手が震える。

 生きる事を選んだらどうなる? きっと、私は死ぬまで性奴隷として扱われるだろう。愛のないセックスは暴力だとネットニュースで見た。そんなもの、犯罪だ。生きている限り、私はずっと被害者。そうまでして生きたいだろうか。「清水玲奈」の人生ではないのに。


「私は……」


 選べない。どちらも地獄な気がした。

 ……というか、もうすでに気絶しそう。ちょっと、もう、限界。

 意識が飛びそうになって目を閉じる。最後に、魔王の顔が近づいてくるのがおぼろげに見えた気がした。


「……ちゅっ」


 フッ、と意識が引き戻される。


「ちゅっ、ちゅ」


 体がビクッと動いて目が覚めるように、突然私の意識が戻ってくる。


「ちゅ、ちゅ、ちゅう」


 なんだろう、温かい。顔から全身に熱が流れていく。

 ……顔。というか、唇?


「へっ?!」


 目を開いた。目の前にあるものが長いまつ毛だと気付くまでに数秒。唇が妙に気持ちいい事に気付くまでに、さらに数秒。


「なっ、なっ!」


 驚いて顔をそらし、同時に魔王のあらわになった胸元を押し返した。

 触れていた。

 唇と、唇が、なんかこう、良い感じに触れていた。

 キスしていた! なんならガッツリ舌も入っていた!


「なん」

「楽になったであろう?」


 魔王が穏やかに笑む。


「え……、あ、たしかに」


 私は気付けばベッドに起き上がっている。さっきまで、横になっていてさえ気絶しそうになっていたのに。


「吾輩の魔力を口を介して注入した。悪くないであろう」


 悪くない。それどころか、気持ちよかった。思わず唇に触れる。


「物欲しそうな顔をするな。もっと先までしたくなる」

「そんな顔してません!」

「フッ。照れる顔も悪くないな」

「照れてません!」


 魔王はベッドから立ち上がり、脱いでいたシャツをまた羽織った。


「アリシア、時間をやる」

「時間、ですか?」


 私もまた、ベッドの上で乱れた衣服を整える。


「そうだ。お前はおおかた、この魔王城での生活に不安を抱いているのであろう? であれば、しばらく体験してみるが良い。……試しにこの城で暮らすのだ」

「試しに?」

「ああ。妻でもなく、客でもなく、ただの住人として置いてやる。そしてその目で見るが良い。この城で生きるとはどういう事か。吾輩がどんな生き物か。それを理解し、その上で吾輩と共に生きる覚悟が出来たのならば、その時には正式に夫婦となれ」

「それって……」


 プロポーズみたいだ、とおぼろげに思う。強引に私を犯すわけでもなく、性奴隷として利用しようとするでもなく、一人の人間として尊重されている。それだけで心が動きそうになってしまう。


「だがもし、たとえ命を落とすとしても吾輩から離れたいと願うのであれば、その時はさっさと出て行くがよい」


 魔王は冷たく言い放ったけど、それは私にとって破格の条件だった。デメリットは何も無い。元々、この土地で一人で生きていく事は無理なのだ。生きるか死ぬか。尊厳を守りながら、自分の手で選べと言う。

 私は姿勢を正した。


「ありがとうございます。しばらく生活させてください。よろしくお願いします」

「よかろう」


 そう言って魔王がベッドに腰かけ、私の手をとる。


「では早速、ここで生活する為の条件を伝える」

「え、条件⁈ 条件があるなら先に言ってくださいよ!」

「なに、難しい条件ではない」


 魔王の手が私の頬に伸びる。


「魔力の注入は毎日おこなう必要がある。――つまり、毎日の口づけが条件だ」


 そう言いながら魔王はその唇で、私の唇をふさいだ。

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