喫茶店へ

@Nokasa12

第1話

 男は朝の光をあびた研究室の片隅で、つい先ほどまで充電中だった人型アンドロイドと向き合っていた。科学者である彼は、まばたきをしない彼女のまなざしを受けとめると、胸の奥に奇妙な高揚を覚えた。このアンドロイドを作り上げるのに、どれほどの年月を費やしただろう。数えきれないほどの失敗と試行錯誤の末、ようやく“本物の人間”に見紛うほどの外見と挙動を実現した。皮膚の質感、瞳の虹彩、声帯の微細な振動……そうした一つひとつの要素を徹底的に突き詰めて、ついに完成にこぎつけたのだ。


 それでも、彼女はあくまで人間に似せて作った機械だ。しかも、開発者である彼にとっては“ただの発明品”ではない。自身の孤独な人生の軌跡を凝縮した存在。長らく壁のように心を塞いできた彼が、初めて「対等なパートナーになりうるかもしれない」と感じられる相手だった。もっとも、その感情を認めてしまうと、科学者としての客観性を失うのではないかという疑念もわずかに頭をかすめる。だが、その手放しがたい愛着を否定することは、もうできなかった。


 完成から数日が経ち、彼はようやく「この作品を世の中へ送り出す準備」が整ったと思いはじめた。といっても、大々的に公開するつもりはない。こんな先端的なテクノロジーを、ましてや町の人びとに知られれば、何が起こるかわからない。風変わりな科学者の偏屈な研究、と陰口をたたかれる程度ならまだしも、興味本位や悪意ある取材、あるいはもっと危険な連中に目をつけられるかもしれない。だが、だからといって彼女をずっとこの研究室に閉じ込めておくのも違う。彼は慎重に社会との接点を探ろうと決めた。そして実験として思いついたのが、「喫茶店に出かける」という小さな行動だった。


 たかが喫茶店と言うなかれ。彼女にとって、そして彼にとっても、これは重大な挑戦だった。町の人びとのなかに紛れ、普通に会話をして、コーヒーを楽しむ――それができなければ、人間さながらの生活など望むべくもない。何より、「アンドロイドなのでは」と怪しまれることなく、自然に過ごせるのかを確かめるのが重要だ。彼は彼女に丁寧に指示した。自然な歩き方や立ち居振る舞い、表情のつくり方。もし誰かに話しかけられたら、どう応答するべきか。声のトーンをほんのわずかに揺らすタイミングなど、彼女のプログラムには事前に山ほどのモーションデータを組み込んでいたが、それでもいざ外へ出るとなれば緊張感は否応なく高まる。


 初めての外出の日、彼らはまだ日は高い午後のうちに研究室を出た。幸い、天気は晴れ。風が少しだけ冷たかったが、彼女が着ている薄手のコートとスカートの裾が揺れるほどではなかった。彼は上着のポケットに手を入れ、彼女からは少し離れた位置を歩くことにした。たとえ恋人同士と見られたとしても、まだおかしくはない距離。万一、何か問題があればすぐに対処できるように、観察者としての目線を失わないようにしたのだ。歩きながら、彼は周囲の人の視線が気になった。だが、ほとんどの人は急ぎ足でそれぞれの目的地に向かっているらしく、わざわざ他人に興味を示すようすもない。これが都会の気楽さというものなのかと、彼は皮肉を帯びた感慨を覚える。


 アンドロイドの彼女は、彼の隣でわずかに顔をうつむき加減にして歩く。その姿はごく普通の人間と変わらない。たまに通りすがりの男性がちらと視線を向けるが、それは彼女の整った容姿を自然に目で追っているにすぎないだろう。怪しむ素振りはない。むしろ、「綺麗な人だ」という言葉がいまにもこぼれてきそうな視線だ。彼は内心で安堵すると同時に、得も言われぬ誇らしさを感じた。自分が作り上げた存在が、こうして街に溶け込めている――それだけで胸がいっぱいになりそうだった。けれど、その心地よさに浸る一方で、科学者としてはさらに精密に観察を続ける。彼女の足取りは少しぎこちなくはないか。呼吸の仕方は人間らしいか。口元や頬の筋肉の動きに不自然さはないか――一つひとつを点検する。


 ようやく目的の喫茶店が見えてきた。そこは昔からあった小さな店で、木製の扉が印象的だ。窓越しには温かなオレンジ色の光が差しており、店内でくつろぐ人たちのシルエットが動いているのがわかる。彼はどこか懐かしさを覚えた。かつて学生時代に、何度かこの店に立ち寄ったことがある。決して華美でもないが、ほっとさせる雰囲気を持った場所だった。彼女にとっては、これが初めての“外の世界”での社交場となる。しかし、彼が望むのは決して「変な目で見られないか」とびくびくする時間ではない。この店でひとときのコーヒーを味わい、当たり前のように店員や客と交流する――そんな当たり前の体験こそが、彼女が人間と共存するための最初の一歩になるはずだった。


 店先まで来ると、彼女はそっと彼の袖口をつまんで見上げた。瞳には、微かな疑問と期待が混ざったような表情が浮かんでいる。プログラムされた表情とはいえ、その仕草は繊細だ。彼の脳裏には、「ここから先、本当に大丈夫なのか」という不安が再びよぎる。もし店内で彼女の異質さが発覚したら。もし誰かが、彼女をまじまじと観察し、不可解な点に気づいてしまったら。疑惑を持った者が店の外で待ち伏せし、あるいは誰かに通報するかもしれない。しかし、このままずっと研究室の暗い部屋に閉じ込めておけば、彼女はただの「成功したモルモット」でしかない。彼女に託す夢は、科学の進歩だけではなく、人と機械の新しい可能性の提示でもある。彼女が日常に馴染み、普通の人生を生きる。それが、彼が孤独の中で見出した、一縷の希望だった。


 彼女は小首をかしげて、少しだけ微笑んだ。そしてそのまま、木の扉にそっと手を伸ばす。彼は一瞬その手を制しようかと迷ったが、やがて自分で開きたいという彼女の意思を尊重することにした。彼女の握るドアノブが少しだけきしむ音を立てる。彼の胸は高鳴った。この瞬間にあふれる緊張と期待は、研究室でのどんな実験や成功よりも刺激的だった。たった一歩、外の世界に足を踏み出す。それは、彼女にとっても、そして孤独な科学者である彼にとっても、まるで自分自身の存在証明のようでもあった。


 扉がわずかに開かれると、コーヒーの香りと人々のざわめきが混ざった温かい空気が溢れ出す。彼は彼女の後ろ姿を見つめた。町の人間が、彼女をただの「若い女性」だと認識し、彼が「ただの連れ」として映るのなら、それだけで彼の長い研究は何かを成し遂げたことになる。次の瞬間、彼女は振り返り、初めて声を出した。それはまだ少し不慣れな響きだったが、それでも優しく、どこか優雅なトーンを帯びていた。


「行きましょうか」


 彼は深く息をのみ、小さくうなずく。こうして、二人は喫茶店の扉へと足を踏み入れた。彼女がアンドロイドであることなど、誰一人知るよしもないまま。彼にとっては一世一代の挑戦が、いま始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喫茶店へ @Nokasa12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ