柊と志原②

 数年前、詳しく言えば五年程前だろうか。


 簡単に言えば、荒んでいた。高校へはまともに登校せず、偶に登校すれば何らかの問題を起こし、機嫌が悪くなるとさっさと帰っていった。


 勿論そんなもので進級出来るわけもなく、周りの人間が三年生になっていた頃、私はまだ一年生で、学校中で噂になっていたのを覚えている。良い意味なはずもなく、外に男を作って金だけ置いていく母親が、時々帰ってくる。その時に私が出会えば喧嘩になった。口喧嘩なんて生易しいものではない。私より背が小さい癖に、男に抱かれ続けてついた筋肉のせいか、私が一方的に負ける殴り合い、取っ組み合い。


「アンタの学費を払ってるのは○○さん」「アンタはあたしがいないと学校にも通えない」「大人に寄生しているクズ」


 何度、何度そんな言葉を投げかけられただろう。その度に私は文字通り脳の血管が煮え切りそうな程にイラつき、母へ拳を振りかぶった。けれどもその拳はどこかでのろのろとした情けない速度と化し、逆に母親は私の身体を徹底的なまでにいたぶった。


 腹を膝で蹴られた。頭を、頬を、拳で殴られた。顎を肘で何度も何度も殴られた。拳で殴られた頭を、フライパンで更に強く叩かれた。目に近い場所、目そのものがある場所を、手のひらで押しつぶされた。ヤカンのお湯を、誰にも見せられない場所にかけられた。


 絶叫し、苦痛にもだえる私を嘲笑う母。「あの人」だの「アイツ」だの呼ぶべきだろうが、あの時、あの瞬間。振りかざした拳が緩んだのは、まだこの人を『母』として想っているからなんだと、そう思い知らされてから、暴力を私からふるうことはなかった。口喧嘩をし、ヒステリックになった母親から与えられる虐待を一身に受け、「ごめんなさい」を続ける。


 他人には幾らでも暴力的になれるのに、母親にだけはどうしてもなれない。寧ろ、母親から与えられたストレスや鬱憤を、母親ではない他の何かにぶつける形で発散していただけだろう。


 そういった暴力を受けると、優しい大人が寄ってくる。青あざや傷跡がついた顔。絆創膏や包帯で隠しても、この子は誰かに傷つけられている。そんな印象までは隠し切れるはずがない。


「柊さんが望めば、幾らでも助けることが出来ます」


「……」


 ある日、名前も覚えていない教師に誰もいない会議室らしき場所に連れられて、そう言われたのを覚えている。


「正直に言うと……『助けてほしい』、その一言が私は欲しいです」


 教師の顔を見ず、窓の外を眺める。言葉が耳に入り込んでくるが、すぐに流れていく。風に吹かれる雲のように、そこにあったと思ったら次の瞬間には無くなっている。


「……いらない」


「でも」


「いらない」


 強がりではない。本当にいらなかった。あの人の鬱憤を受け止めて、暴力を受け入れて、私は代わりにごめんなさいを返す。そのごめんなさいは勿論あの人には届かない。それでも、それでも私はあの人から産まれてしまった。神様なんて信じてはいないが、運命はある程度信じている。だからあの日、母親を殴ることが出来なかったのだろう。そういう運命だから。


「私は、あの人から産まれた。産んでなんて頼んでない」


「柊さん……?」


 ぽつりぽつりと口から言葉が漏れ出てくる。この学校に通ってはじめて、自分の思考が、感情が、言葉の形を成して出て来ようとしてくる。窓を開けて、雲と一緒に流してしまいたくて、それでも窓に阻まれた言葉は、今私と教師がいる部屋の中へぽつねんと落ちてしまう。


「けれど、産まれてしまった。だから、私はそういう運命で、だからこそあの人からの全てを受け止めないといけない。勿論、それが間違いだってのも、そんな義務が無いことも知ってる。でも、私はあの人を殴れなかったあの日、私はそういう人間に形作られたって、そう思った」


 沈黙。


 静寂。


 外から聞こえてくる運動部の声だけが響き、私と教師はお互いに黙り合っていた。私は何も話すことはないし、教師は何を話せばいいのか分からないかのように。


「それでも、教師として私は柊さんを助けたい」


「良い人だね」


 聞こえてきた真っ直ぐな台詞に、思わずそう返してしまう。


「でも、いらない。助けも、アンタも」


「じゃあ、この退学届は……」


「そこに書いてあるまま、その通りにお願いします」


 そう。今日私はこの学校を辞める。


 留年のし過ぎなのもある。幾らのお金が無駄になったのだろう、幾らのお金をあの人は無心したのだろう。

 それでも学校に居続けられたのは、そのお金のお陰で、そして学校に居られなくなったのは、そのお金を出せないと言われたから。だから辞める。


 鞄を持って、立ち上がる。その時に教師の姿が脇目に見えた。私の出した退学届を両手で掴みながら、俯いていた。


「先生」


 声をかけても、顔を上げようとはしない。悲しんでるのか、怒っているのか、笑っているのか、どんな表情をしているか分からなかったし、分からなくて良かった。きっと、一生関わることが無い人だから。

 だから、あんなことが言えたんだと思う。


「先生は良い人だよ。私のことなんか、引きずらないでください」


「柊……さん」


「さよなら」


「待っ……!」


 立ち上がる音から逃げるように、会議室を出る。そして廊下を走って、階段を駆け下りる。校門では無く、体育館に向かう外にある通路へ走り、上履きのまま裏口へと辿り着いたところで後ろを振り向いた。そこに先ほどまで目の前にいた教師の姿は無かった。今も探しているのかもしれないが、どうでもいい。逃げるために走ったからか、心臓がうるさい程に鳴って、呼吸がぜえぜえと口や鼻から吸われては出て行く。冬なのもあり、乾燥して冷たい空気は私の身体と同時に脳も冷やすようで、酷く気持ち悪い。


 冷たいのは嫌だ。寒いのは嫌だ。温かくて、熱いのが良い。あの人に蹴られている時、唯一肉親と触れ合える時、痛みと一緒にやってくるのが熱さだったからだ。


「あ、やっぱり来た」


 その時一番聞きたくない声が聞こえて、思わず顔を上げる。


「あはは。いや~、アタシの勘も結構当たるって言うか、柊先輩がわかりやすいって言うか」


「……志原」


 マフラーを巻いて、タイツを履いて、熱い吐息が白く漏れ出して、悪戯っぽく笑う。


 私と同じ不良で、私とは違う新一年生。同じクラスで、同じ不良。その顔には傷一つ無くて、屈託のない笑顔を浮かべている。


 志原倫。私について回る犬のようなヤツが、裏口のすぐ側で立っていた。 

 

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