第3話

 旧校舎での昼休みは、俺たちにとってほとんど日課のようなものになっていた。

 人目がないから羽を伸ばせるらしく、イオリも気に入っているらしい。


 もっとも、「人目をない」という点を彼女が不純な意味で利用しているのが困りものだが。


「ねぇ。今日はいつもより激しくしてほしい、な」


 耳元で囁かれるその声は、普段のイオリの快活な雰囲気とは真逆だ。

 妙に湿っぽく生々しくて、俺は持っていた箸を落としそうになった。

 しかも、背後から俺に抱きついてくるイオリの体温が伝わってきて、居心地の悪さに拍車をかける。


「……なんか、最近ヒートアップしてない? 昨日もそう言ってたよな」

「だってだって! リョーマのSっ気がすっごく……すっごく、癖に刺さるんだもん!」

「いったん躊躇ったのに言うなよ、生々しいだろ!」


 彼女はいつもこうだ。明るく、可愛い笑顔で俺を翻弄するだけでなく、時折こうやって妙に攻め込んでくる。

 俺は心の中で深い深いため息をつきながら、箸を置いた。


「だからさ。もっと激しくしたらもっとビビッ!って来るのかなって思って」


 目を輝かせながらそんなことを言うイオリを見て、俺は目頭を押さえる。

 そんな探究心は持たないでほしかった。


「んなこと言ったって、俺もこれ以上どうやったらいいのかわかんないよ。S趣味なわけじゃないし」

「んー、そうだなぁ」


 腕を組んでしばらく考え込んでいたイオリは、やがてニヤリと笑った。

 嫌な予感がする。


 そして彼女の場合、そういう予感は大抵的中するものだ。



「私のこと、

「……はぁっ!? いや、お前、それはさすがに度が過ぎてるだろっ?!」


 

 俺は思わず声を荒げる。

 言葉や口調でぞんざいに扱うまではギリギリ……本当ギリギリのラインだったが、そこまで言ったら完全に暴力野郎である。

 

 いくらイオリの頼みであっても、俺の道徳的な部分が拒否していた。


「大丈夫大丈夫! 一回やってみようよ! ね、ね??」


 しかし彼女のマゾの探究は決して止むことはない。

 イオリはどこ吹く風とばかりに俺の躊躇を無視し、勝手に床に膝をついてスタンバイした。

 ぐいぐいと顔を近づけてをせがむ。


 ……こうなってしまったら、やらない方が面倒なことになるだろうな。


 彼女の押しの強さに、俺の道徳心は敗北を喫する。 

 俺は心底ため息を吐いて、イオリの方を向いた。


「……じゃ、じゃあ。やる、けど」

「うん、来て」


 勝手がわからず、とりあえず肩のあたりに足をグイグイと押し当てた。


「うっ。これ、すごく良いかも……っ! もっと頭の方行っちゃっていいよ」

「……こ、こう?」

「もっと踏みつける感じで!」


 イオリの姿勢はどんどんと丸まっていき、最終的にうずくまる彼女の頭を踏みつけるという形に行きつく。


 どう考えてもアウトなスタイル。


「な、なぁ。やっぱり……」

「リョーマ。今リョーマはドSなんだよっ!!?」


 中止しようとする俺に対し、イオリはうずくまったまま、迫真の声色でそう言った。

 どうやら彼女は本気らしい。

 もはや完全に欲求を満たしてやるまでは、留まることを知らないだろう。


 仕方ない。

 これは仕方がないんだ。。


 悲鳴を上げる道徳心に、俺はサヨナラを告げることにした。



「床の味は気に入ったか、なぁ?」



 俺はイオリの頭にかけていた足に、わずかに力を込めた。

 彼女の額は完全に床に押し付けられていて、動く気配すらない。


 その状態で彼女は、か細い声を漏らした。


「っ! へへぇ、は、はい──」

「いつ顔上げて良いっったよ。お前は命令だけ聞く従順なマゾ犬だろ?」


 蕩けた声をあげようとしたイオリの頭を、グリグリとなぶる。

 イオリは一瞬だけ肩を震わせたが、それは怯えのせいではない。

 むしろ、うっとりとした目で床を見つめたまま、再び甘えるような声で。


「ひゃい、そうで──」

「なぁ、だろ? 犬は人の言葉なんて話さないよな?」

「……えへっ、わんわんっ」


 嗜虐心を煽るような従順で恍惚とした様子のイオリ。

 どう考えても、学校の人気者が見せていい醜態ではない。


(……なんだこの、冒涜的な状況は)


 俺は内心顔を覆いたくなるような思いで、イオリの頭を抑えつけていた。



 その時だった。

 重く錆びた教室の扉が開く。


 そこに立っていたのは、見知らぬ女子2人。

 俺たちを見て呆然と立ち尽くし、その表情はまるで硬直している。

 彼女たちの視線は、俺の足の下に頭を押さえつけられたイオリ、そしてそんなイオリを冷徹な目で見下ろしている俺の姿に釘付けになっていた。


 静寂が、数秒間。

 ……いや、体感的には数時間にも感じられる沈黙が続く。


「あ?」


 あまりに突然の事だったから、俺は扉の方を振り向いて、完全にドS演技のドスの効いた声色のまま声を漏らしてしまった。


 瞬間、女子たちの肩がビクリと震える。

 当然イオリのように興奮するわけではなく、まるで蛇ににらまれたみたいに顔面を蒼白にさせた。


「「ひぇっ。ご、ごめんなさいぃぃ!!」」


 そう、半ば泣き叫びながら彼女たちの姿は消えた。

 足音が遠ざかり、また静寂が訪れる。

 残されたのは、イオリの頭に足を乗せてダラダラと冷や汗を垂らす俺のみとなった。


「うわあああああああああ!! 完っ全に見られたああああ!!」


 ドS演技なんてできるはずもなく、俺は文字通り頭を抱えた。


 完全に終わったに等しい。

 だって、モロに見られたのだから。

 面識がないにしても、噂が広まるのはもはや避けようのないことである。

 学校という密閉された環境で、この手のゴシップは燃え広がるのは速い。

 明日には「冷酷無比なドSの男が、あの桜庭イオリを支配している」という話が校内中を駆け巡るに違いない。


「えーっと、どんまい?」

「なんで他人事なんだお前は。誰の趣味に付き合ったせいだと思ってんだよォ……」

「あ、その睨み結構良いかも……」


 まるで「キュン……」って感じに頬を染めるイオリ。


 俺はそれを見て、さらに深く頭を抱えるしかなかった。


 

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