第4話

 ネーリはそっと瞳を開いた。

「……ん……」

 身じろごうとして、すぐ、誰かに後ろから腕を回され、抱きしめられていることに気付いた。思わず肩越しに振り返ると、「目が覚めた?」などと輝くような笑顔でラファエルに覗き込まれ、驚いたネーリは思わず叫んでいた。

「わああああああああああああああ!」

 飛び起きる。

「ら、ラファエル! どうしてここに……」

「これ俺ん家なの。豪華でしょー♡」

「えっと、」

「覚えてる? 泣きつかれて寝ちゃったからジィナイース。でも平気だよ。ここは誰も来ないから。安心して」

「ご、ごめんね。寝ちゃったんだ僕……」

「いいんだよ。俺の腕がそんなに君を安心させれるなんて嬉しいな。さあおいで」

 ラファエルがネーリの腕を取り、もう一度隣に横たわらせた。

「よかった。このあと俺は少し出なきゃいけないんだけど、その前に話しておきたかったから」

「……どこに行くの?」

「海軍本部会議とか、貴族の晩餐会とかに呼ばれてる。でも今日は早めに帰って来るよ。約束する。だからジィナイースも約束して。俺が帰るまではここにいて。そのあと、話をして、ジィナイースがどこかに行きたいならそこへ行っていいけど、でもとりあえず俺が帰るまではいて欲しい。心配なんだ。君のことが」

 ネーリはラファエルの青い瞳をじっと見上げた。やがて、こく、と小さく頷く。

「良かった」

 ラファエルが安堵したように微笑んで、ネーリの身体を抱きしめて来た。

「……そのかわり、ラファエルも約束して」

「いいよ。なに?」

「僕と二人以外の時は、【ジィナイース】の名前で僕を呼ばないこと。おねがい。ラファエル……僕のことで、君に何か悪いことが起きたらと思うと怖いんだ」

 ラファエルは少しの間沈黙したが、ネーリの手を取り、手の甲に口づけた。

「分かった。納得はしないけど、約束するよ。それが君の願いなら」

 ネーリはホッとしたようだ。

「ありがとう、ラファエル」

 ラファエルは手を伸ばしてネーリの髪に触れた。

「……変わってないな。君は……。いつも自分より他人のことを心配してる。そんな風に、自分の名前もあいつにあげちゃったのか?」

 ネーリはそうだ、と思い出した。

「ラファエルは、お兄ちゃんに……【ジィナイース・テラ】に会ったことあるの?」

「会ったことあるも何も、俺は来た当初から王妃様のお気に召したみたいで、今じゃよく城に呼ばれてお茶してる。俺は社交界のことなら何でも出来るから、戴冠前の王太子の社交界教育係として、夜会じゃジィナイース・テラの側によく置かれるんだ。ヴェネトは今、各国から客人や要人が王妃や王太子に擦り寄ろうと挨拶にやって来てるからね。

 俺は幾つか言葉も扱えるし、大抵どうにかなるんだ。

 王妃様はえげつない太陽みたいに誰も恐れないみたいな人だけど、王太子はちょっと内向的な感じするね。父似なのかは分かんない。王様は病気のせいでまだ挨拶も出来てないんだ」

「王妃様と仲いいの?」

 ネーリは驚いて聞き返す。

「君は? あの王妃様と仲いいの?」

「えっ、え……と、」

「なんてね。分かってるよ。君をこういう境遇に落した女だろ? 仲がいいはずない。

君の敵なら、俺も彼女嫌いになろうか?」

 にこっ、とラファエルが微笑むと、慌ててネーリが身を起こす。

「だめだよ!」

 ラファエルの青い瞳が瞬く。

「あ……そうじゃなくて……、そんなこと、しなくていいよラファエル……。君が王妃様といい関係を結べたなら、君にとってとてもいいことなんだから。僕のせいでそれを壊そうとなんてしちゃダメだ。そんなことは……意味のないことなんだ」

「そうかな? 君が、王妃と合わなくて、城を出たくらいの事情なら構わないけど。でも例えば王妃が、我が子に王位を継がせる為に君を排撃したとしたら、これは俺の意志とは合わない。重要なことだと思うよ」

「……でも君は、フランスを背負ってここにいるんだから。他のことを考える必要はないよ」

「ジィナイース。【シビュラの塔】を起動させたのは王妃か?」

 ふ、とジィナイースは笑った。

「ん……なに?」

「『おまえか?』って聞かないんだね」

 数秒後、ラファエルは吹き出す。

「そんなことは分かりきったことだよ」

「どうして?」

 ――どうして?

 ラファエルはジィナイースを見た。彼はじっと、ラファエルを見つめて来る。

 澄んだ黄柱石の瞳。

 不思議な問いに、ラファエルは思えた。

「君とは十年、離れて一度も会わなかったのに……」

 ネーリが付け足したから、彼が何を不思議がったのか分かって、ラファエルは優しく笑った。

「ジィナイースは、変わらないものは無いと思ってるの?」

 祖父の顔が過った。

「……思いたい」

 ネーリは呟いた。

 瞳を伏せている。長い睫毛が目元に影を落としている。幼い頃から少女のような容姿で美しい少年だったけど、今もネーリにはその面影があった。

「変わらないものもきっとあるって。思いたい」

 ネーリの手を握った。

「なら、俺を見て。何も変わってないよ。君のことが大好きだったラファエルのままだ」

 これにはネーリは微笑んだ。

「ラファエルは変わったよ。……とても立派になった。なりたいものになったんだね。君は……」

「ジィナイース。ヴェネトを離れるつもりは無いと言ったけど。……それはいいんだ。別に構わない。その気になれば俺はヴェネトに別荘も用意できるからね。けど、俺が気になるのはどうして王族の君があんな場所で隠れるように住んでるのかってことなんだ。君の家を随分探した。他の離島にあるのか?」

 ネーリは小さく首を振る。

「家は無いよ。色んなアトリエを泊まり歩いてる」

「それは君の意志なのか?」

「……。」

「いや……こういう聞き方じゃ、駄目なんだな。仮に、君がヴェネトのどこかに相応しい、屋敷を立てて暮らそうとしたら、それは叶うのか?」

「……。」

 ラファエルは押し黙るネーリの姿に胸が痛んだ。

 幼い頃はラファエルが何を聞いても、溌溂と、目を輝かせて何でも答えてくれたジィナイースの中に、この十年でどれだけの、口に出来ないことが生まれたのだろうか。

「王家はそれを許す?」

「ラファエル……君には悪いとは思うけど……」

「こんな状況をユリウスが許すはずがない」

 ジィナイースは顔を上げて、何かを言おうとしたが、口を噤んだ。ラファエルは小さく溜息をつく。

「ごめんね。ラファエル……気にかけてくれたのに。ありがとう……君の気持ちは本当に嬉しかった。でもやっぱり、これ以上は僕たちは会わない方がいいみたいだね……。けど、僕は本当に、一目君に会えただけでも」

「ちょーっと待って。そんな早く俺を見限らないでよ」

 ラファエルは天蓋から下がる布を開くと、外に出た。寝室の扉を開く。

「アデライード」

 刺繍をしていた女が手を止めた。

「悪いけど、今日の外出は無しだ。ルゴーが来たら伝えて、誰も寝室には通さないようにしてくれるか?」

 アルシャンドレ・ルゴーを知る者ならば、全ての人間が断わりたいと思うであろうその要求に、腰掛けた令嬢は微笑み、了解した、というように会釈をした。

「ありがとう」

 ラファエルは微笑むと、寝室の扉を閉める。

 戻って来たラファエルはベッドに腰掛けると、不安げにこちらを見ているネーリの手を握った。

「そうだ。ジィナイースには話しておくよ。彼女はアデライード。

 アデライード・ラティヌー。

 僕の愛人の一人だと世間では思われてるけど、片方の血が繋がった妹だ。父上は、ご存じないけどね。ある時僕が見つけて、屋敷を与えて住まわせている。僕も色々、身動きが取れないことがあるから、アデライードには色々頼みごとをするんだよ。とても頼りになる。

 彼女は――俺が、君がヴェネトにいると確信してから本国から呼び寄せた。

 最初から君の世話を任せるために呼んだから、何かこれから困ったことがあったら、一番には俺に言って欲しいけど、もし俺と連絡が付かない時はアデライードを頼るといい。

ああ見えて意志の非常に強い子なんだ」

 君の世話を任せるために呼んだ、と言われてひどくネーリは驚いたようだ。

「ラファエル」

 ネーリの身体を抱き寄せる。

「今日はジィナイースの側にずっといるよ。これで、俺がフランスの責任だけを負ってここに来たわけじゃないって信じてほしい。王妃との約束も、大貴族の約束も、王太子の約束も、ジィナイースがそんなに不安げな顔をするなら俺は全部後回しにする。その為にヴェネトに来たからだ」

「ラファエル……でも、君だって【ファレーズ】のことを聞いたはず」

「聞いたよ。知り合いの貴族も何人もいた」

 ネーリの瞳が揺れる。

「……ごめん……、ごめんね」

 フェルディナントの顔が過った。

 そうだ。

 フェルディナントだけじゃない。ラファエルだって多くの友人を失ったはずだ。

【アルメリア】はスペインに近い。イアン・エルスバトも同じだ。

「ジィナイース。君のその『ごめん』っていう言葉を、俺はヴェネト王宮で一度として聞いたことがない。みんな笑って、踊って、夜会を楽しんでるよ。何も無かったみたいに。

君が王宮の外にいるなら、どうして君だけがそんな悲しい顔で詫びるんだ?」

「……」

「ジィナイース。お願いだ。君の力になりたいよ。俺を敵だなんて思わず、信じて」

「敵だなんて思ってない。ただ、怖いんだ。僕の事情に君を巻き込むことが」

「巻き込まれるよ。よろこんで。」

 ラファエルは微笑む。

「ラファエル……」

「君が恐れるようなことは絶対にしない。ただ知っておきたいんだ。俺は王妃に信頼されてる。王太子とも良好な関係を築いてる。その気になれば、多分、何かは探り出せると思う。ただ、それは嫌なんだ。君のことを他人から無理に探り出すなんて嫌だ。だって、俺たちは、そんな関係じゃなかったはずだ。短い間だったけど、俺は君とローマの城で過ごした日々が今でも一番幸せだったと思ってる。ジィナイース。君は、俺の一番美しくて綺麗な記憶に住んでるたった一人の人間なんだ。

 君を裏切ったりしない。

 俺に祝福を与えてくれた、全ての神に誓うよ」

 ネーリは目を強く閉じた。

「……本当なの?」

 美しい青い瞳が瞬く。

「本当に、ただ僕に会うために、こんな遠くまで?」

 ああ、とラファエルは微笑んだ。何でもないことのように。

 当然みたいに。

「本当だよ。他の人には嘘はつくけど、君には嘘は言わない。

 確かに遠かったな。

 俺は船が苦手だから、来る時酔いに酔って死にかけた。

 もう二度とヴェネトになんか来たくない! って思ったけど、君がいるなら何度でも、ヴェネト行きを問われたあの時、手を上げるよ」

 ネーリは手を伸ばして、ラファエルの頭を抱えるようにして抱きしめた。

「僕は、……君を忘れてた。ごめんね、ラファエル」

「違うよ。ジィナイース。思い出さないようにしてた、だ。

 君は俺をちゃんと覚えていてくれた。呼ばれた時にそれがすぐ分かったよ。

 思い出さないようにしてたのは君のせいじゃない。

 側にいなかった俺が悪い。

 ――でももう、離れたりしない。ずっと側にいる」

「僕がヴェネトにいることを、王妃は望まない。屋敷を立てて住もうとしたら、必ず排除されるはずだ」

 ラファエルは目を閉じ、先ほどの自分の問いに、明確に答えてくれたネーリの身体をしっかり抱きしめた。

「……ありがとう。よく分かったよ」

 ヴェネトにとって偉大な王であったジィナイースの祖父、ユリウス・ガンディノ。

「さっき、『兄』と言っていたけど、王宮にいるのは君の兄なんだな?」

「双子の兄って聞いてる。でも一度も会ったことはないからどんな人かは分からないんだ。容姿も、性格も人柄も、何も。ラファエルはお兄ちゃんを知ってるんだよね? 僕に似てる?」

「いや。そんなに似てないよ。何となく血縁者かなとは思っていたけど、双子の兄って言われて初めてふーんって思うくらい。性格も人柄も、似てないね。ジィナイースは誰かに会うと心がその人間の方に開いて行くだろ。

 どんな人か、何が好きなのか、どんどん知って行こうとする。

 君と初めて会った時、俺は周囲の人間に対して今より怯えてた。だから驚いたんだ。

 他人に対して心を開いて付き合って、何で怖くないんだろうって。

 すごいと思った。

 それで言えば、あの王太子はもっと人間に対して内向的だね。それに怯えてる感じがする。何かと言えば上手く表現できないけれど、多分あの王妃に怯えてるんだ。彼女の言動――それに、息子として巻き込まれるしかない自分の運命に、かな」

 ラファエルの表現は的確だった。

 今まで全く分からなかった兄の人となりが、少しだけ分かった。

「母親の意志を押しのけてどうこうするという強い意志は彼の中には無い。戴冠したとして、実権はあの王妃が握って行くことになるだろうね」

「ラファエルは……【シビュラの塔】を見たことがある?」

「いや。行ったことはないよ。あの王宮の西の湿地帯と森の向こうに入り口があるんだろ?

 これは城に出入りする貴族に聞いたよ。王妃や王太子は【シビュラの塔】の話はしないんだ。どういう意図があってのことかは分からないけど。王太子の名前は何ていうのかな?」

「……ルシュアン・プルートっておじいちゃんが呼んでた」

「ルシュアンか……へぇ……」

「でもこの名前は、口に出しちゃダメだよラファエル。本当に気を付けて……王宮の人達が封じたい名前なのかもしれないんだ。聞かれたら……」

「分かってる。この名前が漏れると、君の存在をあいつらが勘付くかもしれないんだろ。そんなことにはさせないから安心して。でも、なんで『封じたい名前』がルシュアンの方なんだろう? 王太子の本名がルシュアンで、王妃が君の存在を排撃したいなら、封じるべきは『ジィナイース』の名前の方なんじゃないか? しかも向こうが兄なんだろ?」

「それは……僕も、そう思う……」


【ジィナイース】……


 あの声が脳裏に過ったが、ネーリは押し黙った。

「……王妃と君の関係は? ルシュアンが君の双子の兄なら、どうして双子の弟をそんなに冷遇するんだ?」

 ラファエル・イーシャはフランスの名門貴族で、貴族の事情には精通している。

 確かに、貴族は、訳の分からないような事情で人の出生を隠したり、出したりはするものなのだが、必ず理由はあるものなのだ。納得出来る理由であるかはともかくとして、訳もなくということはない。

「これは、僕自身には記憶がないから……おじいちゃんから聞いた話になるけど……。王妃は、僕のお母さんの姉なんだって。王妃になるべくして生まれたような女性だったけど、彼女は王妃になった後、子供がどうしても出来なかったんだ。そんな時妹が双子の兄弟を生んで……それで一人、彼女が貰って自分の子供としたらしい」

「それがルシュアンか」

「うん……。そうしたこと自体が、王家の秘密なんだ。今の王に妾の人はひとりもいないらしいから」

「まあそうだろうね。王妃が子供が出来にくいのと、全く出来る可能性がない、は問題の重要度が違う。全くできない場合、元老院や貴族院も黙ってはいないだろうし。あの気の強い王妃と彼らがやり合えば、ヴェネトはタダじゃすまない」

「お兄ちゃんが、その事情まで知ってるかは分からないから……それも注意して。僕のこと自体、知らない可能性だってあるんだ」

「分かった。でも、それにしてもなんで王妃は君をそんなに排撃するんだ? どうせなら二人引き取った方が、王家には二人の王子がいるって、それこそ王妃にとっての守りになると思うけど」

「ぼくは、お母さんの嫁いだ先の子供として、知っている人がもう多すぎるんだ。お父さんの実家は流行り病が流行った時に、多くの人が亡くなって、もうヴェネトにはいなくなったって聞いてる」

「そうか……でも、召使や、友人の中には君のことを知ってる人間もいるはずだろ?」

 うん、とネーリは頷いた。

「そうか。それ自体が、理由かもしれないな」

 小首を傾げたネーリに、ラファエルは頷く。彼の手を握った。

「つまり、お前の実家の方には、王家から嫁いだ妹姫が、双子の子供を産んだことや、一人王家に引き取られたことを知ってる人間がいる可能性がある。双子の弟が【ジィナイース】だということを知ってる者も中にはいるだろう。

 もしルシュアンが戴冠した後に【ジィナイース】という存在が明るみに出たら、王弟が外界にいることになる。ヴェネトの事情は不穏だし、ジィナイースを担ぎ出す人間がいる可能性も否定できない。

 ただ、ルシュアンが自分の事情を正確に把握出来ないほど幼い頃から王宮の中で育てられてきたのだとしたら、彼に【ジィナイース】と名乗らせれば、外界にいるジィナイース自体を消滅させられる。

 例え誰を担ぎ出したって『ジィナイースは王家にいる』と言ってしまえば正当性は王宮で暮らす方に与えられるからね。外界にはルシュアン・プルートの存在を知る者はいないのなら、そっちの方が有効だ。

 君はジィナイースである証は見つけられるかもしれないけど、

 ジィナイースでない証、なんてものは証明出来ないだろ?」

 こちらを見るネーリの顔に、ラファエルは笑いかけた。

「俺がこんなこと言うのは不思議?」

 慌ててネーリは首を振った。

「……前は、こんな話したことなかったから」

「そうだね。好きなことの話ばっかり、好きに話してた。幸せだった」

「……うん……」

「『ジィナイース』の名を王宮で統一し、例え外で誰がその名を使おうと無効化することが目的かもしれない」

「実は……ぼく、自分の絵を売ろうとしたことがあるんだ。でも、売れなかった。競売で、身分を隠した王宮の人が買い上げてしまって、すぐに二度とこんなことをするなと警告されたんだ……。『ネーリ・バルネチア』の名前でそうしても、駄目だった」

 ふ、とラファエルは微笑む。

「それはそうだよ」

「えっ?」

「ジィナイースの絵は、小さい頃から凄かった。ユリウスと旅していた時は本当に好きなように毎日描いてただろ? 絵っていうのは、幼い頃からの癖が大人になっても残るものなんだよ。考えてもみて。名前を変えたって、鑑定士は署名の無い絵画を、ある画家のものだと判断できることもあるんだ。筆遣いや使われてる薬品や素材の調合、手法の使い分けなどからね。少なくともユリウスの船に乗っていた人たちはお前の絵を知ってる。ローマの城にいた者たちもだ。つまり君が『ネーリ・バルネチア』を名乗ったって、ジィナイースだと判断出来る人間はいるんだよ」

「でもそれで、僕の出自まで証明することは」

「確かにそれは無理だけど……。王家が君の絵までそこまで警戒するということは……まだ何か事情があるのかもしれない」

「事情……?」

「例えばユリウスだよ。ユリウスは君たち兄弟の事情を知ってたんだろ?」

「うん、それは……僕のお母さんのことも、よく話してた。おじいちゃんは、僕の両親が亡くなると、王妃に僕を王宮で引き取って欲しいって頼んでくれたんだって……。でも王妃が絶対承知しなかったって聞いてる。それで、王宮に引き取らせることを諦めて、僕を自分の船に乗せてくれた」

 家族を失った、行き場のない少年。

 ラファエルの記憶に残るジィナイースは、幼いけど瞳が知性に輝いて、不思議な品があり、いつも明るい空気を纏い、そこにいるだけで全ての人が思わず笑顔になってしまうような雰囲気を持つ少年だった。

 ユリウスが自分の子供のように彼を可愛がり、複雑な出自でジィナイースの魂が怯えないように、そうやって一緒にいたからなのだと思う。

 そのことだけは、ラファエルはユリウスに深く感謝した。

「……ジィナイース。君はさっき、驚いた顔していたけど、ユリウスは君のことを、本当に深く愛してたよ。俺も今は、父に愛されているけれど、子供の頃はこんなじゃなかった。

むしろ父にも母にも、兄弟の中で一番要領が悪いって突き放されてた。君も知ってるだろ?

今、父と母が俺に優しいのは、彼らの期待に俺がそれなりに応えるようになったからなんだ。あのままだったら、きっと今でも嫌われて、出来が悪い出来が悪いってどこに行っても言われて、苛められてただろうね」

 ラファエルは苦笑する。

「けどユリウスの愛は、うちの親みたいに打算的じゃなかった。彼はヴェネトにとって偉大な王だ。きっと王として、色んな悩みが人生でもあったと思うけど、君といたあの時代は本当に楽しそうだったよ。俺には、本当の父と子みたいに思えた。だから断言するよ。最後の最後までユリウスは君を愛してたはずだし、そんな事情を抱えるなら、自分の亡き後のことも、必ず何か、君が一人で苦労しなくていいように、道を残してるはずだ。残さず亡くなるなんて、抜け目のないあいつらしくない」

 ネーリがくす、と笑った。

「ん?」

「ううん……。なんか、ラファエルがおじーちゃんのことを話すの、不思議だなと思って」

「君の見てない所では、結構やり合ってた。俺がいつか偉くなって、ジィナイースを自分の城にもらいたいってお願いすると、『おととい来やがれ』っていっつも言われて相手にされなかったよ」

「そんなこと言ってたの?」

 初耳だ。

「言ってた。まず偉くなってから言いに来いフランス産のチビがとか言うんだ。君の祖父なのに、なんでユリウスはあんなに口が悪いんだろう?」

 ネーリは吹き出してしまう。

 彼の笑顔に、ラファエルは微笑んだ。ネーリの柔らかい頬に触れる。

「……やっと笑ってくれた。やっぱり、小さい頃のままだ。君は、やっぱり笑ってないと」

「ラファエル……」

 ネーリはぎゅ、と自分の手を握り締めた。

「……でも、……おじいちゃんは、……自分の残したものは、全てお兄ちゃんに与えるって王妃に約束したんだ」

「ユリウスが?」

「うん……。全てのものを、ルシュアンに与えるって。だから僕は、王宮にいる限り、王妃の庇護を頼るしかなかった。外に出たら、何も無いのは、……そういうことなんだ。一つだけある。ローマの城は、王妃が僕に住まうことを許してくれた。監視はつくけど、そこにいる限りは生活の援助はしてくれるって」

「ローマの、ユリウスのあの城か?」

「うん……。」

「まるで牢獄だな」

 ラファエルは呟く。

「なら、ローマには王妃の手の者が潜んでるということだ。ジィナイース、絶対に行っちゃダメだ。国外で、完全に自分の手勢に囲ませた場所に君が一人で行ってみろ。命を奪われなかったらまだいい方だ。もうきっと、二度とは外に出られない」

「ラファエルもそう思う?」

「よりによってあのローマの城をそんなことに使うなんて。――残酷な女だな」

 ネーリは少し、息を飲んだ。ラファエルの気配は静かだったけれど、一瞬、なにか棘のようなものを感じたのだ。しかし、彼はすぐにネーリに笑いかけて来る。

「それなら、外に出たいなら、俺が連れ出す。フランスにおいで。俺の領内もとても広いけど、強い貴族連合の結びつきが出来てる聖十二護国は俺の客人ならどこへ行ったって大切に歓迎される。それにフランス王も俺には優しいから、フランス国内ならどこへ行くにも自由だ。

 幼い頃はあんまりフランスのことは君に教えられなかった。まだ俺自身、知らないことばかりだったからね。でも今なら、俺がどこでも好きな所へ案内してあげるよ。危険なローマなんかに行くことはない」

 彼はそう言ってから、片膝を立てて、そこに頬杖をついた。

「ユリウスが『全てをルシュアンに与える』と言ったなんて、俺には信じられないな。ルシュアンだって彼の孫だから、愛情はあったはずっていうのは否定はしないが、君に何も残さないなんて絶対ユリウスらしくない。

 何かは残したはずだ。……なにかは」

 ラファエルは考えを巡らせる。

「君の絵が競売に掛けられることを王宮の連中は嫌ったんだな?」

「……うん……。何度やっても、ヴェネトでは売らせないって」

「――ならフランスが買おう。」

 ネーリは驚いた。

「フランスには芸術を見る目のある人間が多い。君の絵なら引く手あまただよ。どう思う?」

「……やめた方がいい。君も僕との癒着を疑われかねないし、フランスに何かもしものことがあったら絶対にダメだ」

「【シビュラの塔】か」

 沈黙が落ちた。

「【シビュラの塔】について、君は何か知らないか? ユリウスから何かを聞いていたとか。中に入ったことはない?」

「ごめん。それは本当にないんだ」

 ジィナイースは、さすがに【シビュラの塔】についてはラファエルにも話せなかった。彼自身が正確に把握してない情報ばかりだったからだ。ただその時、言葉を噤んだ理由は、フェルディナントに対して、シビュラの塔の起動に自分が関わったと知られたら、きっと自分は恨まれるだろうという恐れとは、全く違うものだった。

 正しく話せる内容があるなら、ラファエルには話したと思う。嫌われたとしても、仕方なかった。自分の為にこんなところまで来てくれた彼には、話せることなら話さなければならないとさえ、思った。

「でも幼い頃、塔の目の前までは、行ったことがあるよ」

「そうなの?」

「うん、でも中には入ったことはない」

「それだけでもすごいことだよ。ジィナイース。あそこは海上からは近づけない場所だから、全ての国にとって謎なんだシビュラの塔は。じゃあ、あの湿地帯と森を抜けて、塔への行き方は分かるのか?」

「そんなに変わってなければ……行き方くらいは」

「そうなのか。【シビュラの塔】さえ、再び起動することがあるのかないのか、今の状態はどうなのか、それが判断できればなあ。今すぐどうしても起動は当分出来ないと分かれば、俺たちも手の打ちようもあるんだけどね……」

 イアンもそういうことを言っていた。

 再びあの塔が輝くことを、世界中が恐れてる。

 何の前触れもなく、三つの国が消滅させられたからだ。

 同じ事が起こる可能性がいつでもあると思っている限り、ヴェネトは外交において、どんな国に対しても優位に立ち続ける。

 しかし、再びの砲撃がもう起きないことが分かったり、今すぐには絶対無理なのだと分かれば、情勢はそれだけで変わるのだ。

 ヴェネトが他国に、侵略はされて欲しくない。欲しくはないけど……。

(でもその逆も嫌だ)

 ネーリは思った。

 何かがしたい。

 もし、自分に出来ることがあるなら。

「ジィナイース。一度一緒に、【シビュラの塔】を見に行ってみないか? 行けるか分からないけど。多分警備だって相当いると思うし」

「ダメだよラファエル。見つかったら君がどんなことをされるか……絶対に、それだけはダメ」

 名案だと思ったのにな、という表情をラファエルはしたが、ネーリは手を握り締めた。

「……僕が確かめてみる」

「えっ?」

「ラファエル、僕を王宮に連れて行って。どんな方法でもいいから……あとは、僕が何とかシビュラの塔のもとに行ってみる」

「危険だ。ダメだよ。それなら俺も行く」

「僕なら平気だよ。ずっと一人でヴェネト中を旅してた。夜道も慣れてるし、夜に船も漕げる。湿地帯はすごく広くて、森を通って行くけど、何かあったら湿地帯に逃げるよ。僕が足が速いの、知ってるでしょ?」

 ネーリが明るく笑うと、ラファエルは眉を寄せた。

「ジィナイース。俺は……そういうつもりで言ったんじゃないよ」

 たった一人に、全てを押し付けるつもりなんかない。

 彼を抱きしめて、背を撫でた。

「分かってる。ついて来てくれようとしてくれて……ありがとうラファエル。でも、僕はそうしたいんだ。ラファエルだって、僕を王宮に入れるだけで大変なことだよ。断わった方がいい。けど僕はやってみる。王宮に忍び込んで、あの森を抜けて、【シビュラの塔】へ行って、いまどういう状態にあるのか……臨戦態勢に入っているのか、そういうことだけでも分かれば、無駄に他の国がヴェネトに怯えなくても済むことになるんでしょ?」

「【シビュラの塔】なんて俺はどうだっていい。ジィナイース。捕まれば絶対君であったって、死刑になるんだぞ。王妃はローマの城の件からも分かるように、何かあれば君の存在は消したがってる」

 口にして、ラファエルは眉を顰めた。

「……消したがってるはずなのに、何故手を打たないんだろう?」

「ぼくも、それは不思議に思ってた。王妃は僕がヴェネトに、ヴェネツィアにいることをすごく嫌がってるんだ。城下に住んでて、何回か警告も受けた。ローマに移れって。でも、本当に僕を消したがってるなら、手を打って僕を襲撃してもいいと思うんだ。けど彼女は、そういうことはしないんだよ。……これは、最後の慈悲?」

「いや」

 ラファエルは反射的に口にしていた。

 王妃の顔が浮かぶ。

 あいつはそういうタイプじゃない。

 やるならどこまでも、容赦なくやるだろう。

「……多分何か、別に理由があるんだろう」

「僕もそう思う……けど、それが何かは分からない」

「でもだからといって、王宮に忍び込んだのを捕まえれば、きっと賊として処刑は出来る。

最悪、森や湿地帯で殺せば、死体は表には出ないし、」

 そこまで言って、ハッとした。

「僕には、僕がいなくなっても探す人は一人もいないからね。やるなら、僕だ」

 ネーリが微笑んで、その顔に、ラファエルは言葉を失った。

「わかるよ。どれだけ今の自分の命が軽いのか」

 かつてネーリは王であるユリウスの腕に抱かれて、彼を知る、全ての者が、王の寵児に傅き彼を大切にしていた。

「自分で守るしかない。僕を闇に葬りたければ、殺せば簡単だ。それで終わる」

「ジィナイース……」

「でも、僕は【シビュラの塔】のことを何も知らなかった。王宮にいたこともあるのに、あんなに酷いことが出来る兵器だと、少しも知らなかったんだ。知りたいよ。

 僕は、おじいちゃんが生きていたら、あんな塔の起動を、許すはずがないと思う。

 だってラファエルも知ってるでしょ?

 君の言う通り、おじいちゃんは他国の人のことも、とても大切に思ってた。他の国の人の話を聞くことが大好きだったし、他の国の人と、物や言葉のやり取りをすることが、とても好きだった」

「……。ユリウスは長く、ヴェネト近海の警護をしてたんだ。それが譲位をして、初めて、外界に行くことが出来る身体になった。長年の夢だったんだろうな。自分の手で、色んな国に行って貿易をするのは」

「……おじいちゃんが、僕を引き取ってくれなかったら、今の僕はなかった。死んでたかもしれないし、この国にもういなかったかもしれないし、どこかの遠い異国の教会で、何も知らず生きていたかも。僕には、おじいちゃんは命の恩人なんだ。おじいちゃんならきっと、同じ事をしたと思う……。シビュラの塔を確かめに行って、二度と使わないよう封印させたはず。なら、僕がおじいちゃんの代わりにそれだけはしてあげないと」

(ああ……)

 ラファエルはネーリを見つめた。眩しいように、目を細める。

 さっきまでは不安で仕方なさそうだったのに。もうキラキラしてる。

 やっぱり勇敢で心優しかった、幼い頃のジィナイースのままだ。


 あの偉大な王の血を、一番彼が色濃く受け継いでる。


「だから、やってみる」

「……。……わかった。でも城に入る手筈は、俺が整える」

「ありがとう、ラファエル」

 ネーリは微笑んだ。

 彼は今は貧しい境遇だけれど、自由だ。こんな監視ばかりされる窮屈な国を出て、どこにでももう行ける。【シビュラの塔】などに、彼は本来もう関わらなくてもいいのだ。

(血なのかな)

 我が民の為だと、黄金の玉座を離れて自ら海に出て、ヴェネトを脅かす外敵と戦い続けたユリウス。ジィナイースもきっと、ヴェネトの地を、これ以上呪われた大地にしたくないのだろう。

「そんな風に笑う場面じゃない。死ぬかもしれないんだぞ。ジィナイース」

 間違ってるのかもしれないけど、死んだっていいや、とその時のネーリは思った。


(【シビュラの塔】を止められるなら。……たぶん、その為になら僕は死んでもいいよ)


 今だって息を殺しながら辛うじて生きている。

 幸せだって思う瞬間もあるけど、でも一生こんな暮らしはしていけないのだ。

 このままだと、いつかはヴェネトをどの道去らなければならない。

 ヴェネトの為に何もせず、だ。

 美しい干潟の景色を思い出した。

 暁の時間帯、微睡むように静かに、海上に眠るヴェネツィアの街を。

『彼女』が多くの人を殺戮するという、悪しき夢に魘されず、穏やかな眠りにつくことが出来るなら。



(その為になら、僕は命を懸けてもいい)


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