咲は想い出に溺れていく②

 そのバイトくんは今、コミックを読み続けている。咲としては彼に会うためだけにここまできたというのに、相手をされないなんて物足りないことこの上ない。でも、咲の前でリラックスしてくれることさえ胸がほっこりあたたまるのだから、やっぱりどうかしている。


 ──卒業、か。


 感慨深くなって店内をゆっくり見て回る。トートバッグを胸に抱いてコートが棚の本に引っかからないよう気にしながら狭い通路を抜ける。


 子供みたいな颯だけれど、男子は高校二年生ともなると咲よりずっと背が高くて、よく上の棚の整理をやってくれたな、とか思い出しては緩む頬を隠すように下の方を眺めるふりをした。そんな誤魔化しをしなくても颯はこちらに見向きもせずひたすらコミックを読みふけっている、


 颯そんな態度に寂しくなって、でも寂しさを抱くのはなんだか悔しくて、ちょっとした怒りに置き換えてみた。


 久しぶりに寄ってみたのに。もう会えないかもしれないのに。


 程よく小さな怒りを作り出すことができたから、声もかけずに去ることにした。


 だって怒っているんだもん。自動ドアが開く音で顔を上げるかもしれないけれど、気付かないふりをして出て行ってやる。


 ──そう思ったのに。


 咲が出口の方に体を向けた時、「ねぇ」と小さく呼びかけられた。立ち止まり横目でちらりと見る。颯はコミックに目を落としたまま言葉を繋げた。


「今日ってなんの日か知ってる?」


 ドクンッと心臓が喉元まで跳ね上がる。


「えっと……バレンタインデー?」


 恐る恐る答えると、颯はフッと小さく吹き出した。その緩んだ空気に思わず顔を向けると、さっきまで手にしていたコミックはカウンターに置いてあり、颯はまっすぐこっちを見ていた。そして「なんで疑問形なわけ?」と笑った。


「南さんさぁ、俺にチョコをくれるために来たんじゃないの?」


 カッと耳が熱くなる。


「どうして私があんたなんかに……!」


「どうしてって、かわいい後輩だから?」


 きょとんとした表情で答える様を見て、ああこの人は与えられることに慣れているのだと思う。その与えられるものを素直に喜んで受け取ることができるほどに慣れているのだと。与えるものも与えられるものも厳選されたものしかない私とは違う。この人の周りにはあふれてありふれているのだろう。だからこの人のまとう空気はやわらかなんだ。だから私はこの人のことを──


「どうせいっぱいもらったんでしょ?」


「まぁね」


 おちゃらけて見せる颯のキメ顔を笑うことでキリキリ沁みる傷を隠す。それだけじゃ足りない気がして茶化してみたりして。


「否定しないんだ。さすが大石くんだねぇ。モテるね~。本命チョコもらって告られたりもしたわけだ?」


「……」


 ふいに颯が真顔になり、二人の間で跳ねまわっていた声がポトンと落ちてどこかに転がっていった。


 胸の奥が瞬時に冷える。さっきついた小さな切り傷の痛みなんて紛れてしまうほどの冷却。


 急に店内に流れる有線が耳につく。やけに陽気なラブソング。ずっとかかっていたはずなのに颯の声以外は耳に届いていなかった。


 どんなに冷静な大人のふりしていても颯の前に出ると、とたんに世界はギューッと絞られて余分なものは消えてしまう。


 先輩としての部分が消えてしまう前に、咲は急いで凍りついた喉を押し広げ、どうにか言葉を絞り出す。


「あ。ごめ……」


 きっと颯ならここでフッと笑ってこの空気をほんわりあたためてくれる。そう期待していた。


 なのに彼は真顔を崩さない。あのクシャっとした笑顔を見せてはくれない。


 今までに見たことがないような怖い顔。怖いと思うのは彼の不機嫌を感じているからなのか、そこに大人の男性の片鱗を見てしまったからなのか自分でもわからない。ただ目を離せない。


「南さん。なんで謝るの? あ、俺に彼女がいないって決めつけたから?」


 口元だけニッと笑う表情が意地悪そうで、また咲は怯えに似たときめきを感じてしまう。


「大石くん……彼女、いないの?」


 あ。やだ……私ってば、なに聞いているんだろう。噂好きのオバサンが興味本位で聞いたみたいになっていればいいんだけど。


 流れる有線では「バレンタイン」って単語がかわいく弾んでいる。


 颯やっといつものように、へらりとした笑顔を見せた。


「そういうこと聞くぅ? 違う違うって否定して笑うとこでしょー。まあ、そんな子がいたらバレンタインデーに古本に囲まれてなんていないだろうね」


 咲の心はゆっくり解凍されていく。だけどまだ半解凍だから気の利いた返しなんて思い浮かばなくて、とりあえず笑ってみせる。


「で? 俺がいっぱいチョコをもらっていたら、南さんはくれないわけ?」


 颯がどんどんあたためてくれるから、咲はどんどん溶けていく。


「そんな記録更新に協力する気はありませ~ん」


 ふざけたふりだってできるようになる。


「ふーん。記録更新の方には、ね。じゃあそうじゃない方に期待してもいいのかな」

「……あんたねぇ、人の話、聞いてるぅ?」

「聞いてますよ~。ちゃんと聞いてますって。大好きな先輩の言葉ですからね~」

「あんたはまたそういうことをサラッと……だからキライよ、モテる男子なんて」


 颯の返事が遅れる。だけどさっきみたいな冷気じゃなくて、もっと溶けていきそうな暖気が漂う。


「──なにニヤニヤしてるのよ、気持ち悪い」


 颯はそれには答えず、壁の時計を見上げてから言った。


「ね、今日6時で店閉めていいことになってるの」

「なんでまたそんな早く?」

「今夜雪になるかもしれないって天気予報だったから」

「相変わらずアットホームな職場だね」

「あの店長だからね」

「うん。あの店長だもんね」


 そして二人で笑い合う。


 6時まであと15分ほど。颯はそうそうにレジ締めに取り掛かる。


 今日来てよかった。最後に笑えてよかった。


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