咲は想い出に溺れていく③

「じゃ、おつかれ~」


 咲は片手をあげて出口に向かう。自動ドアがウィーンと開き、冬の夜が流れ込んでくる。


「南さん、俺が終わるの待っててよ。どっかでメシ食っていかない?」


 冷えた空気とあたたかい空気の真ん中で、咲は先輩らしくいようと両足を踏ん張る。


「大石くん。君は今日がなんの日か知ってる?」

「え? バレンタインデーでしょ?」

「そう。バレンタインデー。そんな日のお姉さんはこの後デートの予定があるんだろうな、とかは思わないわけ?」

「……デート、なの?」

「──ちがうけどっ!!」


 颯は「な~んだ」と笑う。


「よかった。じゃあ、俺とデートしよ。オネーサン」

「だから~、またあんたは~!」

「ダメ?」


 断ることなんかできるわけないじゃん。

 これだから嫌なんだ。これだから好きなんだ。


「ダメじゃないけど……うん、いいよ。じゃあ、裏の公園で待ってる」

「え~。寒いじゃん。ここで待ってなよ」

「この店、ちょっと暖房効きすぎ。いいよ、ゆっくり片付けてきて」


 ビルの裏手にある小さな児童公園に向かう。まだ6時前だというのにすっかり夜みたいな公園にひと気はない。


 ベンチに腰かけてトートバッグから小さな包みを取り出した。手作りじゃさすがに重いかと思って市販のものにした。ちょっと背伸びした高級チョコレート。五粒で二千円もするやつ。四百円を一口で食べる。


「なによ、たいしておいしくないじゃん……」


 味が違うはずのどのチョコレートも甘すぎて喉がヒリヒリした。全部食べ終わった頃には口の中が甘ったるくなっていた。


「あれぇ? 俺の分は~?」


 いつのまにか颯が目の前に立っていて、ベンチに投げ出してあったチョコレートの空き箱を手に取った。


「ごめん。全部食べちゃった……」

「ちぇ~。なんだよ~。欲しかったのに~。本当に俺にくれるんじゃなかったの?」

「だっていっぱいもらったんでしょ」

「南さんからはもらってない」

「じゃあまたそのうち」

「そのうちじゃだめだよ。今日はなんの日か知ってる? バレンタインデーなんだよ?」

「でも今日はもう……」


 咲は颯の手に握られた空き箱を指差して苦笑する。


「ヤダ。今日もらう」


 そう言って正面から咲の両肩に手をかけた。

 駄々をこねるように肩をゆすられるのかと思ったら、腰をかがめて顔を覗き込んでくる。とっさに視線を外すと、あたたかな息がそれを追ってきた。唇に残ったチョコレートの香りが再び立ち上る。


「……甘い」


 颯やわらかくつぶやいた。


「ちょっ……なにし……」


 肩にかかる手を払いのけようとしてもびくともしない。男の人の力だった。

 咲の左肩に置かれた手がゆっくりと頬を辿り、耳の脇から髪の中へと分け入ってくる。


「今日はバレンタインデーだからね。南さんからチョコもらわないと」


「だからって」


「咲……がいけないんだよ。ひとりで食べちゃうから」


 そうして颯はまた咲の唇に残るチョコレートを口に含んだ。


「ちょっ、誰が名前で呼んでいいって……んっ」


 唇を塞がれて呼びたくても呼べない名前を心の中で何度も呼んだ。

 颯。颯。颯――。


 瞼を閉じる瞬間、小雪が舞い散るのが見えた。


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