咲は想い出に溺れていく①

       ♡     


 冷たい海は咲にある冬の日を思い起こさせた。

 もう何年も思い出すことのなかった始まりの記憶。まだ互いを姓で呼び合っていたころの記憶。



 2月14日、夕方5時20分。スマホで時間を確かめて歩き出す。


 冷たい風にぶるりと震え、トートバッグに抱きつくように身を縮こませた。


 ネットの天気予報には夜から小雪がちらつくかもしれないと書かれていた。車窓からも外を眺めてはいたけれど、改札口を抜けると夜を一層近くに感じる。


 再開発が進む駅前は工事中のトタン塀が張り巡らされてよそよそしい。見慣れた建物がなくなり、広範囲が更地になったものだから、空がやたら広い。それはなんだか心もとない感じがして、生まれて初めて海に体を浸したときみたいにちょっぴり怖くなる。


 大学の最寄駅はみるみるうちに見知らぬ街へと変わっていき、まるで早く出て行けと言われている気分になる。


 来月の卒業式を過ぎてしまえばこの街に来ることなんてないのだろう。生活のすべてだったこの街が私の人生から切り離されてしまうだなんてまだ信じられない。


 国道へ出て、大学とは反対方向に足を向ける。宵闇迫る街に人影は少ない。再開発中の区画を越えると、四、五階建ての雑居ビルが道沿いに並ぶ。咲は飲食店や雑貨屋さんなどの前を通り過ぎていく。


 ほどなくして現れたビルは居酒屋さんの看板ばかりが目立つ。そのビルはほかの雑居ビルよりも少し敷地が広くて、建物の奥へ向かって通路が伸びている。あまり明るくない通路には年配者向けの洋品店やピンクの塗装のはげかけたゾウさんが立つ薬局などが軒を連ねる。


 突き当りのお店の外には本が並んだラックとワゴンが見える。自動ドアの上に掲げられた色褪せた看板。その名も「古本屋さん」。なんの捻りもない店名だ。


 咲は先月までここでバイトをしていた。時給はいいとは言えないが、実家暮らしの身としては楽して少し稼ぐくらいがちょうどいい。──などというのは友達に対しての建前で、本当はもっと割のいいバイトを探した時期もあった。


 ウィーンと自動ドアが音をたてて開くと、すぐ右手にあるレジカウンターに肘をついてコミックを読みふけっていたバイトの高校生が慌てた様子で「いらっしゃいませ~」と顔を上げた。咲がヨッと右手を挙げると、相手は途端に全身の力を緩めた。弛緩した分、ちょっとだけ背が低くなる。


「な~んだ。南さんじゃ~ん。びっくりさせないでよ~」


 咲のことを姓で呼んだ高校生はくしゃっとした笑顔で再びコミックを開いた。そのコミックを咲は素早く取り上げてカウンターに置いた。


「こら~。サボるなよ、少年」


「俺、少年じゃないです。立派な高校二年生の大石颯くんです」


 そう言って胸元に店名のプリントされたエプロンをずらして学ランを見せてくる。


「知ってるって」


「だよね~」


 無造作にずらしたエプロンを戻すが肩紐がねじれている。咲は「この店は相変わらず暇そうだねぇ」と言いながら手を伸ばしてカウンター越しに颯の肩紐を整えてやる。颯も「うん、暇だねぇ」と答えながら直された肩紐をポンポンと叩いて「ありがと」とつぶやく。咲は仕方ないやつだなぁというように呆れた表情を作って小さく頷いた。

 五歳も離れていればこんなことも自然にできる。そこに甘いものなんてありはしないから。


 颯にとって高校生以上の人は先輩というより大人に見えているはずだ。咲が高校生の時はそうだった。


 思えばあの頃の一歳差はとても大きかった。高校一年生の時には三年生が二歳しか離れていないとは思えないくらい大人に感じられたものだ。けれども二十歳を過ぎると急に前後の年齢が近くなる。大学生ともなれば同級生にも年上の人がいたりして、先輩と呼ばれる人の中にはかなり先輩な年齢の人もいたりして、それまでの年齢差に関する感覚がバラバラと崩れていった。


 でもそれは大学生である咲の方だけ。高校生にとってはやっぱり五歳は大きいはずで。


 もしかしたら颯にとって咲はオバサンと同じ分類にされているのかもしれない。それはちょっと悲しくて、ちょっと嬉しい。だってなにも意識していないからこそできることってあるから。エプロンの肩紐のねじれを直してあげるとか。一緒に帰るとか。きっと、彼女いるの? なんてことだって自分のためじゃなく単なる野次馬的興味のふりして聞いてみることだってできてしまう。


 それはなんてラッキーでアンラッキーなことなんだろう。


「今日さ~大学行ってきたんだよね~。それでついでにここにも寄っていこうかなと思って。ほら、卒業したらこっちに来ることもなくなるじゃん?」


 聞かれもしない言い訳をして、中途半端な嘘がバレませんようにと祈る。


「ふ~ん……」


 颯は興味なさそうに読みかけだったコミックに手を伸ばす。もう会うこともないかもしれない咲がいることもお構いなしにページをめくり始めた。


 身体の中心がキンと冷えて、熱を持つ心をたしなめる。


 つねられたようなキリキリとした痛みさえ抱きしめたくなるなんて、きっとどうかしている。

 颯から与えられるものはどんなものでも大切に思えてしまうなんてどうかしている。


 お客さんなんか一人も来ない日がある店番のバイトは、時間を潰すことが仕事みたいなものだった。月末くらいしか顔を合わせない店長がなんでこんな趣味みたいな古本屋さんをやっているのか、結局最後まで聞くことはできなかったし、潰れさえしなければどうでもよかった。


 あまりにも暇を持て余すのは仕事に追われるよりもつらくて疲れるのだと知った頃、次に店長と会ったらバイトを辞めさせてもらおうと思っていた。だけどお店にやってきた店長の背後には新人バイトが立っていた。

 最初、ちょうどいいと思った。新人が仕事を覚えたら辞めやすくなる。そう思っていたのに。


 咲はたぶん颯の笑顔以外の表情をたぶん見たことがない。


 なかなか覚えられない手打ちのレジスターの使い方も、ぶきっちょでなかなかうまくならないブックカバーの取り付けも、棚の配置を覚えるのも、レジ締めも、こんな楽しいことはないみたいに取り組んでいた。


 愚痴や文句も言うけれど、それさえ笑って言うもんだから、咲もつられて笑ってしまう。「わ~。なんだよこれ~。絶対ムリじゃん!」とか言うくせに絶対に諦めたりくさったりしなくて、ああこの子は真剣な姿を見られるのが恥ずかしいだけなのかもしれないと思ったりした。


 だから咲は颯のことを真面目で努力家な子として扱ったりしなかった。


 でもなにか支えになりたくて、少しでも応援したくて、休講になったといっては早めに来て手伝ったり、雨が降る予報の日は余分な折り畳み傘を鞄に入れたままだったなんて小さな嘘をついて貸してあげたり、そんなささやかな偶然みたいなことを繰り返したのだった。


 そして颯よく気が付く人でもあった。状態が悪い買い取り本の埃に咲が咳込んでいると、「南さんさ、両替行ってきてよ。俺、銀行まで行くのめんどくさ~い。ね、おねがい!」なんて言って咲を追い出した。咲は「人づかいの荒い後輩めっ!」と文句を言いながら心では手を合わせていた。そして、咲がいないその間に汚れのひどい古本はひとまず店の隅に移動させられていた。


 店長がどういうつもりでバイトを二人に増やしたのか今もって謎だけれど、そもそも採算度外視のこの古本屋経営自体が謎だから考えてもわかるはずがない。暇な仕事にバイトが増えれば暇に拍車がかかるのは当然の結果だ。


 けれども、更に時間が長く感じるのかと思いきや、仕事量は減ったにもかかわらず時間の流れは速度を増した。時間泥棒がいるんじゃないかと本気で思うほどに。


 だから咲はその新人と言葉を交わすために、ここでのバイトを辞めるのをやめたのだった。

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