少女は海に飛び込む
なにごとかと考えるよりも早く、視線は岩場を向いていた。音は砂浜の先にある磯から聞こえたのだ。
たかが波音だ。特別気にかかったわけではない。だが、変化に飢えていた。時間はたっぷりあるのに、日々は一つの絵画の模写の枚数が増えていくようなものだった。重ねれば些細な差はあるに違いないのだが、一枚一枚を眺めていては気づけない程度のものだ。
そんな日々の中では、波音の乱れでさえ暗闇に浮かぶ小さな光だった。
目を凝らしてみる。磯の一角に小さな闇があり、闇に慣れた死せる者の目をもってしてもよく見えない。岩の影になって月の光が届いていないのだ。岩に打ち寄せる波も黒々としている。その黒い波間から光る杭のようなものが突き出している。光るように見えるのは、薄月の明かりに照らされているだけで、それ自体が発光しているのではないのかもしれない。
光るものの正体を近くで見極めるべく、ゆらりと磯へ向かって歩み始める。
杭は波が打ち寄せるたびに揺れ、浮沈を繰り返し、やがて消えた。とぷんと音が聞こえそうな沈み方だった。
それを認めるなり、走り出していた。
獲物を狩るのとは比べようもないほどに全身が熱くなっている。流れてなどいないはずの血が駆け巡る感じがした。体は軽く、走りは風に乗る。
磯に着くやいなや足場を見極め、軽快な跳躍を繰り返して岩場を上る。先端に至るなり岩を強く蹴った。光る杭が沈んだ辺りを目指して海に飛び込む。
黒々とした海の中で、髪が海藻のように揺れながら沈んでいくのが見えた。水を蹴って闇へ潜っていくと、やがて伸ばした手のひらをくすぐるように髪が触れた。指にからめとって引き寄せる。相手の痛みなど考慮している余裕はない。第一、痛みを感じるほどの意識もないだろう。投網を手繰り寄せるようにして沈もうとしている頭部を掴んだ。顎に指をかけてさらに引き寄せ、両脇を抱えた。
女だった。
今度は水面に向かって水を蹴る。水中から見上げた水面は、波で月光が散り、星が瞬くようだ。
水から顔を上げると、ずしりと持ち重りがした。再び沈まないようにと慎重に女の体を抱え直す。
首筋に手を当て、顔や胸に耳を当ててみる。どれもかすかな動きさえ感じられなかった。
落とさないように気を付けながら、片腕で女を支え、もう一方の手で水をすくっては顔にかかった髪をよけた。支えのない頭部が、がくりと後方に垂れ下がり、喉元がさらけ出される。
「間に合ってくれ」
願いを込めて女を抱き締める。顔をうずめた首元はまだほんのりと温かい。口づけのように首筋の滑らかさを味わうと、命の名残の味がした。
「大丈夫だ。きっと大丈夫だ」
このままでは沖へ流される。早く岸に上がりたい。とはいえ、自分より大きな女を抱えて岩に上ることはできそうもない。
「しかたない。遠回りだが浜に回るぞ」
女に話しかけながら抱え直すと、浜を目指して水を蹴った。
次第に風が強まり、波が高くなる。風に流された厚い雲が月にかかると、波頭は白い輝きを落と始めた。
そして、海は再び闇に染まった。
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