少女は兄を懐かしむ
海はいい。幾星霜が過ぎようとも陸ほどには変化しないから。陸は、街は、人は、すぐに移ろっていく。
いましがた下りてきた階段もかつてのものとは異なる。だが同じ場所に作り替えられただけだ。あとは海に流れ込む河口がコンクリートで補強されたことと、遊泳禁止の看板が何度か新しくなったこと。変化といえばそのくらいだ。
波打ち際に立てば、兄と並んで歩いた風景と変わりはない。
毎年夏は家族そろってこの海辺の別荘で過ごした。時には兄と二人、夜中にこっそり抜け出して砂浜を歩いたこともある。日中にもずっと耳にしていたはずの波音は、夜になると荒々しさを増していた。波打ち際から離れていても波にさらわれそうな気がしてことさら強く砂を踏みしめながら歩いた。
「兄さま、星は見えませんね」
今夜のように空一面雲がかかった夜だった。月明りもおぼろで、いつもの夜の散歩よりも闇が深いのが怖くて、兄のシャツの裾を強く握っていたのを覚えている。
「星なら、ほら、あそこに」
兄の指は水平を指していた。夜の海と空はどちらも黒くて境界がわからなかったが、一本の横線を這うようにいくつもの明かりが並んでいるのが見え、そこがどこかの町なのだとわかった。
「あれは町の明かりでしょう?」
「おっと。騙されなかったな」
「それくらいわかります。子供だと思って馬鹿にしないでくださいな」
「それはすまなかった。では、どこの町かわかるかい?」
今明かりが見えるのだから、日中も見えていたはずである。けれども、海はどこまでも海で、見える距離に陸地があるとは思いもしなかった。
「さあ。どこかしら」
答えられずにいると、兄は得意げに頷き、左手の方を巡って正面までぐるりと指先で弧を描いた。
「ここは大きな湾なんだよ。あちらは半島になっていてね、その町の明かりが見えているんだよ」
「近いの?」
「いや。鉄道で行ってもだいぶかかるだろうね」
「でもすぐに辿り着けそうに見えるわ」
届きそうなほど近くに見えてつい手を伸ばしたが、当然夜風を掴んだだけだった。
風が強く吹き、意識が現在へと吹き戻される。思い出しながら手を伸ばしていたらしく、胸の前に軽く握った拳があった。そっと開いてみても当然ながらそこにはなにもない。
風が鳴り、髪が頬を叩いた。風上に顔を向けて顔にかかった髪をよける。吹き続ける風で雲が流れ、月が現れた。月明りで波頭が白く光る。
ただの一度も同じ雲が流れることはなく、ただの一度も同じ波音が鳴ることはないのに、夜の浜辺は今もあの頃と繋がっている気がする。兄の気配を思い出しながら、絶えることのない波音に包まれながら沖を眺める。同じ波はなくとも、打ち寄せる波は単調なリズムを生む。
その時だった。
波音が、わずかに乱れた。
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