episode 3 校庭の観察者の観察

 轟とは一度も話していない。翌日以降の奴は鳥海と二人で帰ったり帰らなかったりをくり返すようになり、それまでは祥子がつかんできた情報から毎日一緒だったそうだが、遅くに野球部のきつい練習を終えた奴が顔まで暗くとぼとぼ帰る姿を見た人間は皆恐怖に口をつぐむという。じゃあこの話誰がしたんだよ。

「野球部なんて練習でどろどろ、そばにいるだけでもう汗臭いんじゃない?」

 これは祥子の不謹慎すぎる発言、いくら人がいない生物実験室だからって。

「祥子はあいつらにどうなってほしいんだよ、別れてほしいのか?」

 昼休み明けの生物に備えてここにいるのだが、よく理解できなかった前回の授業終わりを教科書で復習していたら彼女が増えていた。普段の教室のように俺の背中を観察していたのか、悪趣味な奴め。

「そうねえ……、それよかさ、自分はどうなのかなあ」

「俺はほら、つきあってる女なんかいないし」

 一度離した顔を急接近させる祥子についどぎまぎ答えると、彼女は「顔はいいんだけどねー」と笑った。だいたいおまえ俺が孤独だって知ってるくせに、小学生の頃からそうだ。逆に百戦錬磨にはほど遠いものの、彼女のほうは過去四人と交際してきている。

 俺は祥子から離れて窓際から外を見た。サッカーにバスケット、やたら元気に走り回るご立派な若者たちを眺めていつの間にページがずれた教科書に目をやる。生物の教科書なんだからこの生物おんなの取り扱い方くらい載ってればいいのに。結果自分の妄想に軽く吹き出してしまい、今もやはり俺を見ていた彼女は廊下を向いて「生物の教科書でもだえる男子高校生がここに! その絵は危険すぎる!」と声をあげた。

 おいおい。危険すぎるってそういう分野じゃないしそれも絵、絵かよ。

 ――

 つい最近伊津佳が言っていた。ちなみに浦田と別れる時に彼女はこう話したという。

 ――一緒にいて思いました。浦田君は私には荷が軽すぎです。具体的には唇のやわらかさ水準が低すぎです。

 その残念な唇の感触を披露する機会はなかったそうだ。

 あ、待てよ? 今外でボールを蹴る残念な男の背中を見たような気がする。俺は白い窓の外に視線を戻し、そうだうん、六組の見覚えある顔に交じってゴールを一つ占有していた。今もその辺りに他の誰がしかの存在を見つけることができ――、

「何見てんの? あれ、いつのちゃん見いっけ」

 伊津佳だと? 叫び飽きて寄ってきた祥子につられ、俺の目はあっさり目標を替えていた。彼女は去年から俺が嫌がると知っててわざと伊津佳の嘘を話し、俺が怒ると「むきになったー。両想いだ!」なんて仲間どもと盛んに喜んでいたような女、三月に関係があった今もその辺にいるはずの男ならともかく何故。しかし俺も俺でまた同じ結果になると分かっているのにあいつが気になり、ほどなく見つけたそいつは校庭の隅に一人点のようにたたずんでいる。その凛とした立ち姿は容易に孤独を連想させてくれ、見つめる先は近いほうのサッカーゴール。ほらそこに高校での元彼九人目の浦田がいるよ、両方とも発見した。逆に彼は観察者モトカノに気づいているだろうか。

「あの子何見てんの? あれ六組だよね」

 祥子はまだ浦田に気がついておらず、俺は振り返った幼なじみに前を向いたままうなずきだけで返す。

 それでも伊津佳がいなくなる瞬間は見ることができなかった。

「え、いつのちゃんどこ行った?」

 祥子が素っ頓狂な声をあげ俺はとっさに目を凝らしたが、伊津佳は何の痕跡も残さず消えている――この距離で分かる痕跡を隠し忘れるようでは特に女性としてその軽率さを省みるべきだが、とにかくいない。どこにもいないのだ。

「今の、たまたまゴールの後ろ通っただけだったのかなあ。校庭で何してたんだろ、あの子だから芝生でお弁当広げて読書とか?」

 独りでお弁当に読書――、祥子の推理も完全なる的外れではないだろうが、俺には伊津佳があの一瞬たまたまゴール裏、そういえばサポーターが最も熱狂する場所だ、そこで足を止めただけとは思えなかった。ひんやりするほどの存在感といったら大袈裟か、だいたいあいつは本は別として弁当箱など持ってなかっただろ。

 その時だ。

「ねえ二人とも、そんなところで何品のない監視してるの?」

 振り向いた先には声の主、いつの間に後ろかつ四階に回り込んだか教科書と筆記用具を携えた美少女にぞくりとつばを飲む。ひんやりするほどの――、なのか。

「べ、別に私は何も。こいつがいろいろと……」

「嘘は本人のいないところですべきね」

 祥子の言い訳をそうあしらい、伊津佳はしずしず生物実験室に浸透してくる。俺は教室の後方に向かう彼女の視界からはずれたところで苦笑を浮かべ、俺をだしにした祥子が今度は「闖入者」――といって彼女もここで授業を受けるのだが――をにらむのを放置して窓に視線を戻した。もはやどうでもいいが、浦田はまだ校庭にいるだろうか。

 その後も予鈴が響き渡るまで伊津佳にちょっかいを出し続けた祥子に畏敬の念を抱くことはなく、俺は先ほどの気持ちも忘れてただ誰もいなくなった校庭を眺めていた。登校時この頃にしては乾いていた風が舞っている。秋を思わせる落ち葉の淋しい舞に意識を奪われ――、

「ねえ浦田、さっき六組に交じってサッカーやってたけど、いつのちゃんいなかった? 本人はお弁当と読書だっていうんだけど」

 突然聞こえてきた声は浦田に話しかける祥子。二人とも生物の授業では俺から離れた場所に座るのだが、彼女が遅めにやってきた彼に声を掛けた場所はわざとのように俺のそばだった。

「意味分かんねえけど、グラウンドにいなかったぞ五野なんて。おまえあいつと友好関係築こうとしてるんだ、無理無理」

 へっと笑って顔の前で手を振る彼の背中をたたき、彼女は爆笑で伊津佳を振り返る。それから俺のことは見もせず自分の席へと歩いていってしまった。何だか俺、大切な人に嫌われた気分だ。

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