僕を巣食う悪魔
猛木
僕を巣食う悪魔
僕を巣くう悪魔
これは僕。見人(みるひと)という人間の人生を大きく変えた思い出の話。
**********
キーンコーンカーンコーン
「今日はカラオケなー」
「はぁ」
場所はとある中学校の教室。帰宅時間を知らせるチャイムが鳴り響き、それと同時に教室内の生徒達はリュックを背負って友達とおしゃべりしながら楽しそうに教室から次々と出て行った。しかしその中で一人、退屈そうに頬杖をつきながらため息をつく少年がいた。
これが当時十四歳のときの僕。名前に”見”という漢字が入っていたからみんなには”ミルくん”と呼ばれ、ごく普通の学校生活を送っていた。しかし当時の僕には悩みがあった。それは、
「なんて退屈な人生なんだ!」
十四年も生きているのに生きてて良かった。という瞬間がこないことだった。
学校には友達がいて孤立することも、いじめられることもなかったが、学校が終わってしまえば一人。正にこのとき僕が置かれていた状況のように一人。
家に帰っても本当に家族なのかと疑いたくなるほどに僕の家族には、家族の温かさというものを感じなかった。母は僕たちに手を上げたことはなかったが、スマホに夢中なのかそれとも僕に興味がないのか、僕達が会話をすることがない。
父は毎日激務に追われているようで、朝早く出勤しては夜遅くに帰ってきてまともに家族と話をするどころか顔を合わせる機会すらない。そのような日常が続いているせいか、母と父の関係は南極の氷河のように凍りついていた。
そして妹のキクコは反抗期も祟ってか、やはり僕達は目が合ったとしても言葉を交わすことはなかった。
確かに近くに人はいる。しかし不思議なことに、僕は孤独だった。一人だった。
そんなつまらない人生に愚痴をこぼしながら、家に帰るか学校付近をぶらぶらするか考えていたその瞬間。
「なーにしてんのミルくん?」
「!」
突然、背後から聞き慣れた声で声をかけられた。驚きで肩をビクッと震わせて振り向くと、目の前には当時僕が好意を抱いていたマコトさんが立っていた。
「マコトさん……驚かせないでよ」
「ごめんね。考え込んでいるみるくんを見てたら、どうしても驚かせたくなっちゃって」
さっきの言葉がマコトさんに聞かれているかもしれない。と焦っている僕とは対照的に、マコトさんは目を瞑りながらクスクスと笑っていた。この大人びた落ち着いた容姿で、子供らしい無邪気な態度をとる矛盾しているような彼女に僕は確実に惹かれていた。
「そういえば何でマコトさんが学校に?」
僕は帰っていったはずのマコトさんが学校にいる理由が気になり彼女に問う。すると、
「忘れ物を取りに来たんだよね。そっちも何してたの?」
「僕が何をしてたって?」
まさかのカウンターを食らってしまい、嘘をつくことすらできなかった僕はどのような言い訳をしようかと考える。しかしその必要はすぐになくなった。
「マコトー遅いよー」
その時教室の扉の方から女子生徒が現れ、マコトさんを急かした。
「あ、ごめーん。いまいくー」
どうやらマコトさんは友達を待たせていたようでマコトさんはハッとした表情を見せた後、彼女は友達の方に歩き出した。そして去り際に一言。
「あとミルくん、もしこの辺で変なのを見つけたら私に教えてね」
と、当時の僕は彼女にどのような意図があってそのようなことを去り際に言ったのかを理解できなかった。そうしてまたこの教室に一人僕は残されてしまう。
「ちょっといいこともあったし帰るか」
そうしてマコトさんと話して浮ついた僕は、教科書を入れすぎたせいで重量が増したリュックを持ち上げて教室を後にした。
学校から出て数分。僕は気づく、自分がマコトさんと話したからといって家族に温かさが生まれることはないということを。
「はぁ、帰りたくないなー。マコトさんともっと話したいなー」
そうして僕はまたもや悩みで重くなった頭をガクンと下げて、視界と地面を対面させてしまう。しかしここで立ち止まってしまうのも逆に面倒だなと感じ、依然歩みを止めることも、視線を上げることもなく家に向かうことにする。その数分後に自分の人生を大きく変える特異点に出会うことも知らずに。
「へ?」
視線を下げたまま住宅街を歩いていると、道中明らかにおかしなものが視界の左端に一瞬写った。
「変なもの……」
そこでマコトさんが言った”変なのを見つけたら教えて”、という言葉を思い出した僕はすぐに振り向いて”変なもの”を視界の中心に留めようとする。
「あれは一体なんなんだ?」
そこで目撃したものは、首から上に風になびく美しく可愛らしい白の毛皮、大きくてクリクリしている漆黒の目、特徴的な羽状の耳をもった蚕蛾の頭、そしてそれらと相反するかのように普通過ぎるスーツを着込んだ首から下という特徴を持った”変人”だった。
「れ、連絡しないと」
携帯電話を取り出そうとして視線を下げる。しかしその瞬間、
「まずった」
視界がワントーン暗くなった。それはまるで障害物が自身の正面に立って太陽光を遮っていたようで、僕はその障害物の正体を何となく察しつつも見上げる。
「見えているな」
予想通り正面にいたものは、先程視界に捉えた変人。しかもその人物は僕に対して、”見えているな”などという意図不明な言動と共にコンタクトを取ろうとしていた。しかし、その変人の成そうとすることに危機感を感じた僕はある行動にでる。それは、
「…………」
何も聞こえなかった素振りを見せながら、踵を返してその場から逃走。どうせ会話をしたとしても碌でもないことをされるだろう、と思った僕は静かに帰ろうとした。だが次にその変人が発した声に立ち止まって振り返ってしまう。
「お前の欲しいものを与えてやろう」
変人は両腕を大きく広げながら続ける。
「家族の愛? それとも新しい友人? もしかして、好意を抱いている人物からの好意か?」
変人が発したその言葉は、どれも僕が求めていたものであり、この変人に興味を惹かれてしまう。
「家族の絆を感じたい。心の友と言える友人が欲しい。マコトさんと付き合いたい……はっ!」
口が勝手に動いてしまい、興味を惹かれたといえど不本意ながら変人の問いに答えてしまった。その不可解な現象に遭った僕は咄嗟に口を両手で塞ぐ。
だが時すでに遅し、この変人は僕に完全に狙いを定めたようで変人は僕のところまで歩みながら話し出す。
「やっぱりそうか、我の見たところお前は孤独だ。それももう耐え切れないって程に、最早自分を失いかけているのだろう? 誰かの誰かになれず、そんな自分に価値を見出せず、人生を退屈にしてるだろう?」
変人は僕の目の前で立ち止まり、悪魔の囁きを続ける。一方、僕は完全にこの変人の話に惹き込まれてしまい、もはや逃げるという考えはどこかに消え去ってしまっていた。
「だがもう孤独に悩む必要はない。何故なら、このマハベルがお前の人間関係を繋いでやるからな」
この変人の言葉一つ一つに僕は何故か安心感を感じており、最後にはもしかしたらこの人物なら自分の悩みを解決できるのではないかとすら感じてさえいた。
実際。この人物こそ僕の人生を大きく変える人物の一人であり、僕にとってのかけがえない悪魔 マハベルだった。
「人間関係を繋げる?」
懐疑的な声で僕はつぶやいた。
「そうだ。我は人間関係を与え、お前は我が一族となる」
「どういうこと?」
マハベルは僕に何か言っていたが、あらゆることがちんぷんかんぷんで意味を理解することが出来なかった。マハベルもそれに気づいていたようで、彼は直線的に話す。
「悪魔との契約。と言えば解るか?」
「あー悪魔って本当にいるんだー」
彼が冗談を言っていないことを理解した僕は悪魔の存在を疑いつつ、俯きながら抑揚のない声を上げる。そのとき、
「当然だ」
マハベルの言葉とともに、僕の眼前に白色に燃え盛る右手が現れた。
「うわっ!」
熱いものを視覚で感知した僕は、反射的にのけぞって尻餅をつかされる。そして見上げると、そこには衝撃的な風景が映し出される。
「孤独から抜け出したいか?」
隠された四枚の羽を露わにしながら逆光に照らされ、白き炎を纏った右手をこちらに向けるマハベルの姿がそこにあった。逆光がうまく作用しているのか、彼の姿は最早悪魔というより僕には天使に見えた。
「あっはい」
「ならば、どうする」
僕が気迫に押されて弱弱しく返事をすると、マハベルは差し出した右手を強調するかのように上下に揺らす。きっとこの燃える手に握手をすれば契約成立なのだろう。
そこで僕は素早く立ち上がり、差し出されたその手を左手で握る。その瞬間、
「契約成────」
「待って!!」
マハベルの声を遮る聞き慣れた女子の声が僕と彼の耳を突き刺し、契約を止めようとする。しかし現在、その声の主の想いとは裏腹に、僕とマハベルの契約は既に完了済み。
「はぁ」
雰囲気を完全にぶち壊されたことに呆れたのかマハベルは、天を仰ぎながら軽くため息をついてからゆっくりと一斉に羽を隠す。
「もしかして……」
「あぁ、もう終わったよ」
声の主が僕の背後から光の元へ現れ、マハベルに詰め寄っていた。そして気づく、声の主があのマコトさんだったということを。
「ま、マコトさん?」
マコトさんも握手している僕に気が付いたようで、彼女はマハベルの眼前に手の平を向けながらこちらに顔を向ける。
「待って……ミルくん?」
「まぁうん……」
この気まずそうな雰囲気に圧倒された僕は小声で返事する。
「何をしているの?」
「何ってそりゃ、見ての通り握手しているだけ」
「ただ握手してるだけ?」
マコトさんは僕の見苦しい言葉を反芻しながら、鋭い目つきをこちらに向ける。このマコトさんの視線が突き刺さり、僕が焦りをより募らせていたことは言わずもがなだった。
「そそそその通り、僕達は健全な握手をしているだけさ」
「おかしいな、何故かどんどん雲行きが怪しくなっているように感じるぞ」
蚊帳の外にいたマハベルが、焦りによって段々おかしくなっていく僕の発言に対して苦言を呈する。しかしそのときのマハベルの顔には薄ら笑いが貼り付けられており、この状況に混乱する僕を観覧して楽しんでいるようにも僕には見えた。正に悪魔といった様子で。
「”健全な”悪魔との契約をしているんでしょ?」
「くはっ!」
人差し指と中指をぴょこぴょこするジェスチャーをとりながら強調された”健全な”という言葉に僕は戦慄し、肺を締め付けられる感覚に襲われ硬直した。
「マハベル」
次に僕を完全に固めたマコトさんは、もう一度マハベルの方へと振り返る。
「ん?」
「まずはその手を放して」
「おぉこれはすまない」
マコトさんに手を放すように促されたマハベルは優しく手を引き、それでも伸ばしたままにしている僕の腕を人差し指で自然な位置に戻して彼女と対面。
「さて、何を聞くんだ?」
「そうね。で、やっぱりミルく……彼は孤独だったの?」
「あぁ、じゃなきゃ契約できないし、我を見ることはできない」
マハベルはマコトさんの問いに静かに答える。
「周りに困っている人がいたのに助けられなかっただなんて……」
マコトさんとマハベルの言葉が、どこか僕の喉に引っ掛かる。
「そう凹むな。天使とて全能ではない」
「ちょちょちょっと待って、天使!? マコトさんが!?」
マハベルの口から放たれたマコトさんが天使だという言葉を聞いてしまった僕の頭の中は、クエスチョンマークで満たされてつい取り乱しながら声が駄々漏れてしまった。
「……!」
僕が声を駄々漏らしたその瞬間。それに反応するようにマコトさんの視線が僕の目の方に向く。マコトさんにとってそれは気づかれたくないことだったようで、マコトさんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を僕に見せ、その場の時を止める。
「はぁ」
その停止した時を再起動させるかのようにマハベルが羽を大きな音を伴って広げ、後ずさりしながら僕に一言告げる。
「さて、我は約束を果たすために去るが、お二人はゆっくり話してるといい。きっと長くなるだろう、関係を繋ぐには十分なまで、な」
「マハベル待って!」
真ん中に入ってくれる役が欲しかったのか、今にもどこかに飛び出してしまいそうなマハベルを制止しようとするマコトさん。しかし、
「我にそんな義理はない!」
マハベルはそう吐き捨てるや否や、その大きな四枚の羽で羽ばたいて視界外にいなくなってしまう。
そのときの彼の表情はニヤニヤしているように見え、マハベルの策略に気づく。マハベルは僕が望んでいるものを叶えようとしていて今のこの状況も、彼がマコトさんと僕を繋げるため作り出していたのだと。
「悪魔ってすごいなぁ」
「飛ぶことなら私にもできるよ」
マハベルの行動の真意に気づいた僕は無意識に声が出ており、それを聞いていたマコトさんがこちらに冷ややかな視線とともに不快そうな声をこちらに向けてきていた。マコトさんも、マハベルがあえて彼女を天使だということをカミングアウトしたことに気づいたのだろう。
「そ、そんなことより、マコトさんが天使ってどういうことなんですか?」
冷ややかな視線に耐えかねた僕は、この視線を向けられないように言葉を発す。すると、
「はぁ……そうね」
マコトさんはハッとした様子を見せ、すぐ近くのブロック壁に寄りかかって、自分に関しての話を始める。
「言い訳をしても無駄だと思うから言うね」
「う、うん」
「でも、これは他言無用。絶対に誰にも言わないことを約束して」
「わかった。約束するよ」
マコトさんがあまりにも真剣な雰囲気を醸し出したことによって、僕も釣られて真剣な表情で返事をする。ちなみにこのとき、冷ややかな視線が向けられなくなって、心の中でガッツポーズをしたのはここだけの話だ。
「マハベルの言った通り私の正体は天使。真実を明かす者 大天使エメット」
「そ、そうだったんだ」
このとき僕はなぜかマコトさんの言葉を簡単に飲み込むことができた。それは常日頃から僕がマコトさんのことを天使のように感じていたりするからかもしれない。今思い起こせばマコトさんの表情は真顔でも笑っているように見えたり、やけに輝いているように見えたり、天使かと思わせる要素はあった。
「…………ふふ」
マコトさんに関する記憶を思い出した僕は口元を緩めてニヤつきを隠せずにいた。しかし次の瞬間、僕の薄ら笑いを抹消させる言葉がマコトさんの口から放たれる。
「ところで聞いちゃ悪いと思うんだけど、ミルくんはやっぱり孤独なの?」
この一言。この一言が僕の腹部にねじ込まれる。
「ガフッ!?」
「マハベルという悪魔と話せる人間には共通点は一つ、全員孤独なのよ。家族がいなかったりね」
「………………」
続けて彼女の口からでる諭すような言葉に僕はいつのまにか視界がぼやけていることに気づき、彼女にそれを悟られないように咄嗟に俯いた。しかし彼女はなおも続ける。
「ミルくんには友達も、家族もいるじゃない?」
「なのに、何で? 私には分からないけど天使として、善人として私もあなたを助けたい」
「…………」
言葉の一つ一つを発するごとにマコトさんの声が優しさに溢れたものになっていく。そしてそれに呼応するかのように僕を守ろうとしていた殻にヒビが入っていき、涙が床を濡らしていった。その瞬間、
「…………!?」
マコトさんが抱擁してきた。
しかしそれと同時に僕は気づいてしまう。マコトさんの優しさは哀れみから来ているものなのだと、そのことに気づいた僕は彼女を突き飛ばす。
「いたっ」
そのせいでマコトさんは尻餅をついてしまった。いつもの僕だったら”うっひょー”などと喜んで、絶対にこのようなことはしなかっただろう。しかしこのときの僕は、何もかもが違っていた。
マコトさんの哀れみに深く動揺していた僕は、頑強な殻で覆い隠していた本心を露わにしており、どうしても理性で行動を制御することができなくなっていた。
「やめてくれ……」
「ミル、くん?」
大粒の涙をこぼしながら、生来露わにしたことがなかった感情を露わにしながら言葉を伝えようとしている僕を、彼女はただ静かに見つめる。
「僕は……君の言うとおり孤独だ。家族も友達もいるけど……家族も家族のように感じないし、友達も求めているものとは違うんだ」淡々としていた声がどんどん荒くなる。「この孤独をどうにかしようとして僕は、人の考えていることが分かるようになった。でもこの見えない孤独から、解決法もわからない孤独から抜け出せないんだ! 誰も僕の本心を見ようとしてくれないんだ!」
「なら、私が────」
マコトさんは僕に何か言おうとしていたが、僕の感情と言葉は止まることを知らない。
「だけど! だけど僕は天使としての君とはいたくない」
言葉が詰まり始め、僕の声は涙ぐんだ声になっていた。
「僕はマコトさんと一緒にいたいだけなんだ」
擦れていく感情を吐き出した僕はどうしようもなくなって、その場から走って逃げる。最早この際どこに着いたって、僕にはもうどうでもよかった。僕はまともに前も見ないで、疲れを知ることもなく何時間も駆け回り、ついにはあれほど湿っていた眼球からは水分が消えてようやくその足を静止させる。
「はぁはぁはぁ……はぁ……はぁ……はぁ」
我に変えった頃に、僕は心拍音が鳴り響く暗黒の街に閉じ込められていた。あれからどれだけ時間が経ったのか正確には分からなかったが、人っ子一人もいないいないことを見るに相当な時を棒に振ったことだけは理解できる。
「これが本当に僕なのか」
そして殻を失った僕は、本音を言うことによってとてつもない開放感を得られていた。しかしそれと同時に、もしかしたらマコトさんを傷つけてしまったのかも、という自責の念が足にまとわりつき、僕は街灯の下で膝から崩れ落ちた。
「僕はなんてことを言っちゃったんだろう」
自身の行いを悔いれば悔いるほど、自責の念は僕の思考の奥深くまで入り込む。
「だから僕は一人なんだ」
「助けてくれようとした人に言っていい言葉じゃなかった」
「もっと他人にいい面を見せないと」
「もっと本心を隠さないと」
そして僕は同じ過ちを繰り返さないために、ぶつぶつと独り言を吐きながらより分厚く、より複雑な殻に籠もろうとした。しかしその時。
「過ちを犯すことも、関係を繋げる大きな一歩となるだろう」
ブオンという大きな羽音とともに、聞き慣れた声が僕の正面に現れる。その声の主は、僕の悩みの種に対して言っていたようだったが、思い詰めて外界の情報を遮断していた僕はぶっきらぼうにため息を吐いてから視線を声の主の顔に移す。
「はぁ、こんな僕を笑いに来たのかい?」
「そんなふうに見えるか?」
「そりゃ悪魔だからそうおも────」
僕の目の前にいたのはやはりマハベル。そのときマハベルは僕に険しい表情を見せており、そこで僕は気づく。彼は僕を心配してここまでついてきてくれていたということに。
「何があったか聞かせろ」
「え?」
マハベルの真意に気づいて黙っていた僕に彼は、静かで威厳のある声で何があったのかを話すように促す。
「…………」
感じたことのない温かみに感激や驚きが混じった感情が押し寄せるのを感じた僕は、この感情の対処の仕方がわからずに口をパクパクさせながら怯んでしまう。
「話したくなければそれでいい、帰るぞ」
それから数秒の時間が経過し、なおも続く僕の情けない様子に痺れを切らしたマハベルは羽を広げて帰ろうとした。その瞬間、
「待って。それを話したら孤独から抜け出せるの?」
弱々しさと恥ずかしさが混じった声でマハベルに問う。
「ふむ、お前がどのような過ちを犯したかによるが」
「わかった。どこから話そうかな……あぁあそこから話そうかな」
急ピッチで感情を整理してある程度声を出せる状態まで回復した僕はマハベルを制止して、彼が去った後に起こったことを事細かに話した。マコトさんが大天使エメットだったこと、マコトさんに哀れみを向けられたこと、そんなマコトさんを突き飛ばした挙句泣きながら本性を晒してしまったことを。
「皮肉だよね。孤独から抜け出したいって言って契約したのに、結局僕からみんなを遠ざけていただなんてさ」
僕の口から出た僕自身の言葉に現実を突きつけられた僕は、自身の不甲斐なさに絶望して顔を上げたまま地をぽつぽつと濡らす。
「本音を言ったのはそれで初めてか?」
すると先程まで黙っていたマハベルがそのように僕に問う。
「う、うん」
「それならばそれでいい、そのままの自分であれば大した過ちでもなかろう」
「どういうこ……」
僕の答えを聞いたマハベルは満足げにそう語る。そしてその言葉の意味を訊こうと僕は涙を腕でぬぐって顔をマハベルの方に向けるが、
「いない!?」
その場からマハベルが消えており、まさかと思い空を見上げるとそこには、羽を大きく広げてどこかに向かっている彼の姿があった。
「どういう意図であんなことを?」
と彼の発言の意味を知れずに困惑した僕だったが、すぐに自分にはまだ問題が残っていることに気づく。それは、
「どうやって帰ろうかな」
ということだった。
*********
それからマハベルに置いてかれた僕は、見覚えのない道を懸命に歩いた。道中は闇に満ちていたが、幸いマハベルの言葉の意味を理解することで必死だった僕は恐怖を感じることもなく歩みを進めることができた。
結果的に日が昇る頃には僕は家に帰ることができたのだが、僕の部屋の扉を開けるとそこには衝撃的な光景があった。
「来たか、そろそろ帰ってくる頃だと思っていたぞ」
「おはよう……」
僕の目の前には足を組んで座っているマハベルと、手を前に組んで気まずそうに佇むマコトさんの姿があった。
「な、なんで僕の家にい────」
「契約が完了しつつある」
「へ?」
マハベルは嬉しそうにしながら僕の問いを遮ってそのようなことを言い、僕は意表を突かれる。なんだって彼は僕が長年苛まれたこの孤独をたった一日で、完了しつつある。と言ってきたのだから。
途絶えた家族の絆。外殻に阻まれる友情。そして踏み出せない領域。それらをどうやって解決しようとしているのかが気になった僕はマハベルに問う。
「ど、どうやって?」
「それはな……」
するとマハベルは悪魔的な笑みを浮かべながら答える。
「まず最初は家族の絆。お前の親父は定型的なトリックに嵌っていた」
「トリック?」
僕はマハベルの言う”トリック”の意味が分からず聞き返した。
「あの男は家族のために身を粉にして働いているが、どうやらそれが狂ってしっまったようで、家族と仕事の優先順位が変わっちまったようだ」
「父さんはいつだって忙しそうだった」
父親の問題を見事に言い当てたマハベルに驚きつつ、僕は何か知っていそうなマコトさんの顔を見つめながら頷く。そこで僕はマコトさんの口角が少しだけ上がっていることに気づき、マコトさんもどこかで一枚噛んでいるのでいることを察した。
「そこで我は、真夜中だというのに会社に残っていた者達と契約し、来週辺りには上の人間に社員全員で、労働環境を見直さなければ一斉退職する。と脅すように画策させている」
「ちゃっかりしてるよね」
多くの人々と悪魔との契約を交わしていたことを平然と話すマハベルにマコトさんは人差し指と中指を自身のおでこに当てながら、呆れている様子で言う。しかしマハベルは続けた。
「次に母親。あの女子に関しては母性本能を少々刺激するだけで十分であった」
「母性本能?」
「子が行方不明であれば、心配せぬ血族は居ぬだろう?」
「は!? 僕をわざとあんなところに置いていったていうこと!?」
マハベルの言い様から、自分が家に帰るまでに課された苦労は彼が計画したことだということを理解した僕は、これまでの苦労をマハベルにぶつけるように声を荒げながらその怒りを露わにする。
「ブッ……そ、そのようなところだ」
怒り心頭な僕の姿を見たマハベルは、吹き出すことに必死に耐えるようすを見せながら答える。その彼の様子は、完全に僕を小ばかにしているようで、僕はプルプルと震えながら心の炎を燃やした。
「わ、笑いやがって……許せねぇ!」
そして僕が、未だに笑みを浮かべるマハベルに掴みかかろうとしたそのとき、
「あっははははは!」
突然大きな笑い声が部屋に響き、その衝撃で僕の心に宿った炎を瞬時に鎮火させる。
「へ?」「む?」
笑い声の中心の方へと僕とマハベルが向けると、そこにはマコトさんがいた。キョトンとする僕達を置いて、顔をくしゃくしゃにしながら笑うマコトさんがいた。
「はぁ面白い、ミルくんホントに笑わせないでよ……あっははははは」
「くっくくくくく」
「え? ……はっははははは」
マコトさんは僕の顔を見た後大きな声で笑い、それに釣られたマハベルは静かに笑う。そのような状況に一瞬だけ困惑したが、全く面白くもないのにも関わらず笑いに耐えかねた僕は、不本意ながらも笑ってしまっていた。
そうしてツボが奇妙な形で押されてしまった僕ら三人は、六分という時間を幸せな過呼吸に費やす。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……はぁ……はぁ……殻は……完全に破られた、か」
「…………はぁ……殻?」
「これでお前には……はぁ……友人ができるだろう」
「ど、どういうこと?」
悪魔なのにひどい息切れを起こしながらも放たれたマハベルの希望に満ちた言葉によって、僕はツボに刺激を与えていた何かを即座に弾き飛ばし、その言葉の詳細を聞く。
「最初にお前を見たときお前の、本心を知られまい。と、いいたげな外殻を見つけてだな。それを取り除かぬ限りは契約を完了させられなかっただろう」
彼の言葉と、自身の過ちの記憶からマコトさんの登場が、僕の殻というものを破るきっかけとなったことを知った僕は咄嗟にマコトさんを見る。
「いひひひひひひ」
「嘘でしょ〜」
「はぁ、まったく」
マコトさんに感謝を伝えようとした僕だったのだが、彼女は未だに腹を抱えて笑い続けており、間の悪さを感じつつ僕はマハベルの方へと振り返った。するとやはりマハベルも同じように笑いを絶やさないマコトさんに間の悪さを感じていたようで、彼はゆっくりと立ち上がって彼女の脳天に手刀を打つ。
「いたっ!」
ふわっと軽く打たれていたであろう手刀から、想像もできないドガッという音が部屋に鳴り響き、僕を驚愕させるとともに口元に綻びを生み出さんとする雑音を消した。
「いきなりなにすんのよ!?」
かなりの衝撃を脳天に食らい、マハベルに文句を言おうとするマコトさん。しかし、マハベルは都合の悪いところのみを切り抜き、丁度のよい場面からやり直そうとする映画監督のように椅子に座りなおす。
「ミル、だったか? さぁ、伝えたいことをエメットに伝えるといい」
「伝えたいこと?」
そして足を組みながら僕に向かって、伝えたいことを伝えるといい。と言う。そしてマコトさんは食い気味にこちらに詰め寄ってきた。しかし、
「も、もういいよマハベル。話を続けて」
「そうか、じゃあ言ってしまうがお前の殻を破るきっかけになったのはそこのエメットだ。感謝するんだな」
感謝の言葉を堂々と伝えない僕に、マハベルは何か言いたげな表情を一瞬僕に見せたが、彼は話を再開し始めた。
「仕上げはこうだな」
マハベルは椅子から立ち上がって僕に歩み寄る。そして彼は目線を僕に合わせ、僕の首のほうに手を伸ばす。
「お前には、自分という存在を保つ力が必要だ」
「どういうこと?」
彼の言葉にピンとこなかった僕は問う。
「妙に良い仮面ばかり表にだして周りの顔色ばかりを伺うのではなく、本当の自分という存在をもう少しより多く表にだせばよい」
単なる好奇心から出た僕の言葉に一言で答えた彼は、僕が着ていたワイシャツの第一ボタンを弾き飛ばした。
「クソまじめも程ほどにするべきだな……。作り物のお前なんて誰も興味を持たぬだろう、だからもっとワガママでいるといい」
「……」
これまでのマハベルの言葉の意味を理解した僕は口をつぐんでしまっていた。
「これで契約は完了だな。エメットもここを出るべきだろう」
次に彼は、マコトさんの方に首を捻ってからそのような言葉を言い残して窓からどこかへと消えていってしまった。そのときのマハベルの表情はどう見たって満足した表情を僕に見せつけており、僕は気づく。
「もう彼には会えないんだな」
と、そしてそれに続くようにマコトさんも窓辺に立って僕に声をかける。
「私もここでお暇させてもらうね。じゃ、明日また学校でね~」
と、言い残し彼女も窓から飛び降りて帰っていってしまった。僕はそんな二人に窓辺で、ただ手を振って、
「またな!」
と言う。その時の僕の心はどこか晴れやかで、きっと優しい笑みを浮かべていただろう。その瞬間。
僕の部屋の扉が勢いよく乱雑に開かれる。
「!」
驚いて僕が瞬時に振り向くとそこには息を切らして顔を真っ赤にする父親と、目を赤く腫らしていた母、ついでにホッとした雰囲気を醸し出す妹の姿があった。
「見人!!」
同じように僕を発見した両親は転がり落ちる勢いで僕の元に駆け寄り、母は右肩、父は左肩、といった様子で僕の肩を両親が鷲の如く掴んだ。
「い、痛いよ」
「連絡もしないでどこに行っていたの!?」
強い握力を肩に感じた僕は静かに静かな声を出してみる。しかし母は僕のその言葉を跳ね返しながら続ける。
「どれだけ私達が心配したことか……」
言葉をつまらせた母さんは膝から崩れ落ち、俯きながら唸りだした。突然なんだと思った僕だったが、ぽつぽつと雫を受ける床の方に目をやってすぐに事を理解した。
「な、泣いているの?」
それは母の涙。母は僕に興味がないはずなのに、僕が丸一日いなくなったことで泣いていたのだ。予想外の展開に僕が心無いことを言いながらポカンとしていると、
「ヒトミ……」
母の涙に気付いた父が、心配そうに母の背を擦る。
「だ、大丈夫。ただ、緊張が切れちゃって」
母の状態を確認した父はゆっくりこちらに首を捻じる。
「なぁ見人。母さんはな、お前を探している間心配してたんだぞ、不審者にさらわれてないか。殺されてないか。とか言ってな」
「……!」
その父の言葉は、僕の意表を突き狼狽えさせる。
「か、母さんが?」
「そうだ。ところで、なんでいなくなったんだ?」
今まで眉を八の字に歪めて、何か思うところがあり気な表情を見せて静かにしていた父だったが、決心を固めたかのような真剣な表情を僕に見せる。
「もし、もしその原因が、私が構ってあげられなかったことにあるのだとしたら改善する。仕事だってやめてやる。家族と仕事、どっちが大切か見失っていた私は大愚か者だ。すまなかった。見人、ヒトミそしてキクコ」
久しぶりに聞いた父独特の言葉遣い、初めて子の為に決心する親の姿を目撃した僕の口は、いつの間にかしょっぱくなっていた。僕はまた泣いていた。母も咽び泣いていた。父も大粒の涙を流していた。ドアのほうに突っ立っている妹も声を殺しながら泣いていた。
だけど僕らには全く悲しみも、寂しさもとうに心から消え去って、心には温かさだけが残っていたように感じる。
そして僕は気づく。『あぁ、僕には家族がいるんだ』と……
**************
それから時が目まぐるしく過ぎて、マハベルの予告どおり父の会社ではストライキが発生し、家族全員が一緒に居る時間が大幅に増えて僕らは家族の絆を感じていった。
そして僕は、僕の本心に従って生きるようにし、気づくといつも周りには心を許せる人が増えて孤独を感じないようになった。
最後に今、孤独に苦しんでいた日々が終わって十四年。現在僕は純白のタキシードで身を包み、周りにはあの日夢見た家族や友人が集まっていた。そして僕が隣に目をやるとそこには、周りの空気すら浄化してしまいそうな程に美しいウェディングドレスを纏ったマコトさんがいる。まるで天使、というか正に天使なのだが。
マハベルとの一件があってから僕とマコトさんは同級生。というだけではなく、秘密を共有しあう二人となっていた。そして高校三年生の終業式、思い切って告白したらオーケーをもらった。マコトさん曰く、私が天使だということを他の人にばらされたくないからよ。と言っていたが、その時の彼女の頬を赤らめていたところを見るに彼女がそれを了承した訳がそれだけではないことを僕は理解していた。
そうして数多の記憶を思い起こして僕がニヤニヤしていると隣から、
「変な顔してどうしたの?」
マコトさんが僕に小声で話しかける。
「ただ、マハベルはいないのかなって思ってさ」
僕は笑みをこぼしながら言葉を返す。
「確かに、あなたはマハベルに色々世話になってたみたいだしね」
「一生の恩人だよ。ほんとうに」
頭の中にマハベルが思い浮かぶ。
「それとなんだっけ、『笑いやがって……許せねぇ』だっけ?」
「それって────」
「あれは今にもなっても笑えるね」
マコトさんは僕の言葉を遮りつつ続けた。
「勘弁してよ」
マコトさんは僕をそういじってはクスクスと笑い始め、また僕もつられるように口元を押さえて、音を抑えながら笑った。すると、
「くっくくくくく」
懐かしいあの笑い声が聞こえてきた。
End.1 僕を救う悪魔
僕を巣食う悪魔 猛木 @moumoku
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