第9話

 菊馬と則夫は中学からの同級生で、音楽を始めてから知り合った他のメンバーよりも付き合いが長かった。

 若き日の鬱屈とした感情を昇華する手段として則夫に音楽を教えたのも菊馬だ。

 今のギタリストが入ってきて則夫を追い出そうとした時も、菊馬は強く反対していた。


 簡単に言ってしまえば菊馬とはこういう関係だったわけだが、則夫はあまり素直に奴を親友だとか身内だとは思えなかった。

 あんなにエキセントリックな生き物を他に見たことがなかったし、理解も意志疎通も不可能な相手だ。

 但し、元々灰色になる筈だった青春を彩るきっかけをくれた菊馬は、間違いなく則夫の恩人ではある。


『キクりーん♡』


 菊馬への歓声を聞いて、「なんだ、人気じゃねーかよ」と、何故か則夫がホッとする。

 一応実力はあるのだから、有名バンドの無名ベースでは報われなすぎる。

 手が空いた菊馬に投げキスをされて、咄嗟に首ごと反対側を向いた。


 反対側というと、居るのはギタリストだ。

 人間的に好きかと問われればイエスとは言い難いが、やはり上手い。

 結局あの技術に則夫は服従してしまったというか、あいつの意見までもが正しいのだと思い込もうとした。


 愚かなまでに、則夫はギタリストフェチなのだ。

 なりそこなってボーカルになったからか知らないが、ギターが上手ければ無条件に尊敬してしまう。

 そういえば、熱烈に慕っていた先輩もギタリストだった。


 あまり回顧してこなかったせいか、忘れていた人や出来事が次々と浮かんでくる。

 悪くない記憶まで忘れようとしたのは自分を守る為だとしても、自ら孤独を深めただけだったのかもしれない。


 そうこうしているうちに、身体の自由がきくようになっていた。

 これからアンコールだが、だらだら居続けたら菊馬につかまりそうだから帰ろう。

 案外軽やかな気分で、リリスは客席を後にした。

 不思議と不平不満は湧かずに、耳に残るフレーズも嫌なこびりつき方をしていたのではなかった。


 開始前に買っていた餓郎のグッズやCDなどを取りに、ロッカーへと向かう。

 まだアンコール曲が漏れてくるから、人も歩いていない。


「楽屋来てって、言うたやん」

「菊馬……」


 全ての音が消えたかと思えば、狭い通路で菊馬と出くわす。

 菊馬は壁に手をついて、リリスを通すまいとしていた。


「お前まさか、アンコール抜けてきたのか!?」

「そりゃあ、分身の術とか使えんし?」


 まるで魔法を使えない普通の人間にするかのような質問に、求めている答えは返ってこない。


「……でもお前、黒魔術師なんだろ……?」

「ブハッ!! 黒魔術師やって……あぁ、おかしっ」


 肩を震わせて笑う菊馬の目は、笑っていない。


「ね、ほんとに帰るん?」

「……うん。見に来たの餓郎だから」


 則夫は、菊馬が変だということだけは理解していると自負していた。

 しかし則夫は、菊馬のおかしさの上限値を知らなかった。


「やよねぇー……そうやそうや、KOUクンが好きなんよねぇ」

「なんで……」

「則夫、昔っからああいう男が好きなんやもん」


 組んだままだった手をほどき、菊馬はリリスに手を伸ばす。

 服と肌の隙間に、長細い指が差し込まれる。


「今日はKOUくんに会いに来たんやもんなァ……こォんなビッチの格好してなァ!!!!!」


 菊馬の顔がぐにゃりと歪んだのと同時に、リリスが着ていた胸元の開いたシースルーのワンピースが左右に裂ける。

 菊馬は正真正銘の変人だが、則夫と過ごした10年ばかりの間に、一度も怒りはしなかった。

 だからリリスは、菊馬がどうして激昂するのか、本気で分からなかった。

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