第25話 消失

 目覚めると、俺は落ち着く香りのする空間に漂っていた。

 特別柔らかいわけでもないが、寝心地の良いソファの感触。

 ここ数ヶ月間使わせてもらっていた布地が、陽光に照らされていて眩しい。

 俺は開きかけた目を閉じる。


 ふぅ。


 おそらくはいつもと同じ、平和で幸せな1日の始まりだ。

 元気な太陽の光を見るに、今日もいい天気。


 窓から差し込む光が、布を頭から被ってもなお眩しい。

 いつもなら俺が先に起きて、彼女を起こすのだが、今日は何故だか体がダルい。

 早く起きて、店の掃除をし始めなければ。


 ……こんな日常、いつから当たり前になっていただろう。

 思えば、この世界に来る前は、こんな充実した日がまた来るとは思ってなかった。


 ──全部、彼女のおかげだ。

 こんな俺にも、彼女は勇気を与えてくれた。

 愛を教えてくれた。

 いくら感謝しても、返しきれないほど、恩をもらった。


「フェイ……起きて」


 ──とか考えていると、早速彼女の声が聞こえてくる。


「……こら、実はもう起きてるんでしょ?」


 バレてた。

 どういうわけか、彼女に嘘は通用しない。

 そうだな、さっさと顔を洗って、飼い犬──もとい飼い魔物に餌をやらないと。


 と、わかっていながらも、俺は聞こえないふりで惰眠を貪る。

 もう少し待てば、彼女のいつものセリフが飛び出すはずだから……。


「しょーがないなぁ、もう……」


 ほら、そう言って、彼女が俺を無理やり起こそうと身をかがめる気配がする。

 彼女はツンツンしている時も可愛いが、イジってやる時の顔の方がずっと可愛い。

 表情にすぐ出て、見ているだけでも幸せな気分になれる。


 きっと、俺の肩でも掴んでゆっさゆっさと揺らしながら、少し怒ったように頬を膨らませて、何か小言でも言うのだろう。

 でも、来ると思っていたことは──何もこない。


 代わりに、彼女がゆっくりと俺に近づいてくる気配がする。

 すぐ横で温かな息遣いが感じられたかと思うと──


「……ん」


 頬に柔らかな感触が触れる。

 ……え?

 

 俺は反射的に跳ね起きる。

 彼女の行動に、俺の心臓は早鐘のように鳴り始める。

 

 ちょ、こいつ今何した!?


「お、おまっ……!?」

「……ふふ、やっぱり起きてた」


 イタズラっぽく、にこりと笑う。

 そこには、こっちに来てからほとんど一緒の時間を過ごしてきたいつもの顔があった。

 俺にとって、少し特別な女の子──クリス。


 クリスはらしくない行動をしたせいか、わずかに頬が赤くなっている。

 でも、それ以上に俺が突っ込めなかったのは、いつもの彼女とはどこか違うからだ。

 優しく微笑む彼女の顔が、なんだかやけに輝いて見えた。

 いや、これは比喩じゃない。

 実際に光ってるように見えるのだ。


「クリス……?」


 頭を振って目をこする。

 でも、視界に映るのは変わらない。

 ふわりと漂う半透明のクリス──光でできたような存在が、俺の前に立っていた。


「おはよ、フェイ」

「おはよう…………って……」


 その声はいつもと変わらない、けれど、どこか遠い響きを持っていた。


 目の前に広がるのは白い世界。

 上も下もわからない無重力のような空間で、ただ俺とクリスだけがそこにいる。


「……ここは……」

「うーん、たぶん、夢の中、みたいなものだよ」


 クリスは周りを見渡しながら、微笑みつつ答えた。

 その姿に、言葉を失う。

 俺はこの数ヶ月、ずっと彼女と一緒に過ごしてきたはずだ。

 けれど、何かが違う──何かが、おかしい。


「……えっと、じゃあこれは……夢なのか?」

「ふふ、そうかもね。夢の中だから、少しだけ本音を話してあげる」

「本音……?」


 クリスは俺の目をじっと見つめた。

 その瞳には、温かな光と悲しみが混じっているようだった。


「……今まで、ありがとう」

「……は?」

「えへへ、なんだか恥ずかしいね。でも、伝えたかったんだ」

「何を……?」

「フェイがいてくれたおかげで、すごく幸せだったよ。だから──ありがとう……って」


 クリスの顔は少し赤らんで、だけどどこか切なさが滲んでいた。


 いきなりどうしたんだろうか。

 しかし、そうだ。

 俺も彼女に伝えたいことがあったはずだ。


「お、俺は……」

「……ん?」


 いざ、口にすると思うと、顔が熱くなるのを感じる。

 でも、言わなければ。

 いつも素直になれないクリスが、あんなにあっさりと『ありがとう』と言ったのだから。


「俺は違うんだ……クリス」

「……違う? 何が?」


 クリスは少し首を傾げ、けれどその顔は不安ではなく、ただ純粋に俺の言葉を待っているようだった。

 俺は目をそらし、深く息を吐く。


「俺は……本当はお前の知っているフェイクラント……じゃないんだ。俺は、この世界とは違う、別の世界の人間で、気づいたらこの世界の、フェイクラントの意識を乗っ取っていて……。だから、俺は彼の皮を被った、全く別の存在で……」


 その言葉を口にした瞬間、胸が苦しくなる。

 恐怖のせいで上手く言葉が纏まらない。

 受け入れられられるハズがないと、ネガティブな考えが脳裏をよぎる。


 だが、クリスは一瞬だけ目を丸くした後、すぐにふっと笑みを浮かべた。


「なーんだ、やっぱりそうだったんだ」

「……は?」


 その反応に、俺は思わず呆けてしまう。

 もっと驚かれるか、怒鳴られるか、最悪の場合、拒絶されるとさえ思っていたからだ。


「そ、そんな簡単に受け入れるのかよ? 俺はフェイの記憶や立場を利用して、お前を騙してたようなものなんだぞ。本当に……本当に悪かったと思ってるんだ……」


 罪悪感が押し寄せ、自然と頭を下げる。

 けれど、クリスの声は驚くほど穏やかだった。


「ううん、なんにも怒ってないよ」

「……え?」


 顔を上げる。

 彼女の瞳には優しさが溢れていた。


「だって私、なんとなく、そうなんじゃないかなって思ってたから」

「思ってた……?」

「うん。まぁ、ちょっと変だなぁって思うことがあったの。昔はあれだけ俺は剣士なんだーって言ってたくせに、突然魔術本なんか読み始めるし、オラオラァ、やんのかテメェ、オォン? ……だなんて、聞いたこともない威嚇の仕方もしてたし」

「う……それは……」


 言われて恥ずかしくなる。

 クリスの声はまるで、俺が騙していたことを「些細なこと」とでも言うように軽やかだった。


「そんなこともあるんだね。ってくらいかな。……それにね、あなたはフェイを救ってくれた」

「俺が……フェイを?」


 俺は思わず問い返す。

 クリスは微笑みながら頷いた。


「うん。あなたがいなかったら、きっとフェイは……ずっとあのままだった。自分を責めて、傷ついて、何もかも投げ出しちゃってたと思う。……自分の命すらも……。でも、あなたが来てくれたから、彼はきっと、今もあなたの中で生きている」


 その言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。

 別に、フェイクラントを救おうとしていたわけではない。

 ただ、異世界に来て浮かれていただけだ。


 俺は何も答えられないまま、彼女の瞳を見つめていた。


「それにね……あなたはフェイじゃないって言うけど、私から見たら、どこからどう見てもフェイそのものだったよ。行動も、発言も、違う世界かどこかは知らないけど、ほとんど何から何まで……だから、私はあなたを好きになった。…………フェイと同じくらい……」


 再びポッと頬を赤く染めるクリス。

 その言葉に、俺の心は震えた。


 そうだ、俺も言わなければ。

 クズだった俺に勇気を与えてくれ、愛までもらった彼女に──


「……俺も、さ……」


 震える声で口を開く。

 クリスが静かに首を傾げて、俺の言葉を待っている。

 俺は大きく息を吸い込み、心に溢れるものを絞り出すように話した。


「クリスのこと……好きだ……」


 クリスの顔が見れない。

 今にも心臓は張り裂けそうだった。


「俺は、不器用で、頭も良くないし、正直言って、冒険者に向いてないかもしれない。魔術だって、剣技だって、お前みたいにうまくいかない。きっと足手まといになるだろうけど……」


 言葉が震える。

 でも、ここで引き返すわけにはいかない。

 だから、俺は彼女の瞳をまっすぐ見つめて、伝えた。


「それでも……俺は、フェイとして、お前と一緒に冒険したいんだ。ずっと一緒にいたい。……だから、道具屋が一区切りついたら、一緒に冒険にいかないか?」


 胸が張り裂けそうなくらい緊張していた。

 俺の言葉に、クリスはふわりと微笑んで、頬を赤らめながらはにかんだ。


「……フェイ」


 彼女の声は優しくて、どこか寂しげで──

 その表情を見た瞬間、胸に冷たいものが流れ込む。


「嬉しい。そんな風に言ってくれるなんて……。私もね、本当はずっとそう思ってた。あなたと一緒に、冒険者になって、世界を旅してみたいって……」


 クリスは目を伏せる。

 そして、その瞳から一筋の涙が零れるのが見えた。


「でも……もうできない……」

「……どういうことだよ」


 心臓が鳴り止まない。

 声が震える。


 俺の問いに、クリスはゆっくりと首を横に振った。


「私ね……もう、ここにはいられないみたい。あの時、魔族に肉体は燃やされて、今ここにいるのは、私の魔力の残痕みたいなものなの……」


 その言葉に、俺は思い出す。

 そうだ、確かプレーリーはザミエラに襲われて……。


 同時に、悪寒が走る。

 なんで俺は、今まで忘れてたんだ。

 そうだ……クリスは跡形もなく吹き飛んで……じゃあ目の前にいる彼女は一体……。


 しかし、俺は彼女がどうなっているかなどよりも、"これから彼女が話す内容"について、イメージしてしまった。


 殺されたはずのクリスが今、魔力だけの存在で目の前にいて…………。

 なぜ?

 俺に伝えたいことがあったから?

 それだけ?

 だとしたら、これから彼女が話すのは──


──いやだ。

 

 急に色々な思いが感情を支配して、頭が真っ白だった。

 もはや俺は、止めようのない運命に気づき、どうにもできないクリス相手に感情をぶつけることしかできなかった。


「そ、そんなの……嫌だ! ふざけるなよ! 消えるって……そんなのおかしいだろ!」


 声を荒げた俺の前で、クリスは静かに微笑んだ。


「ごめんね。村はなくなっちゃったけど……もう大丈夫だから……。フェイには、これからも生きてほしい。笑って、幸せになってほしい。だから……」


 彼女は膝をついて、俺の手をそっと握った。

 その手には、いつもしてあったはずの手袋は無く、しかし魔力の残痕という割に彼女の温もりが直に伝わってくるようだった。

 まるで、本当は生きてると勘違いしてしまうほどに。


「マルタローのこと……頼んでもいいかな?」


 その言葉に、俺は思わず反論した。


「む、無理だ! あいつは俺に懐かないし……そうだ! お前がいないと、俺にはどうしようも──」


別に、本当にマルタローの世話に嫌がってるわけではない。

何か言い訳が欲しかっただけだ。

なんともならないと分かっていても、ただ俺は駄々を捏ねるようにクリスを引き止める。

 そんな俺の苦しい反論にも、クリスはただちょっと困ったように小さくため息をつき──


「……もう、最後くらい、私のわがまま聞いてよ」


 と、笑みを作りながら言う。

 その声は優しいはずなのに、俺にはまるでナイフのように鋭く響いた。

 その仕草、言葉の一つ一つが、心に突き刺さる。


「俺は……俺は、ずっとお前と一緒にいたいんだ。いなくなるなんて……そんなの無理だ……」


 気づけば俺の目には涙が溢れていた。

 彼女を失う恐怖が俺を飲み込んでいた。

 顔を隠すようにして両手で目を覆うと、嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪える。


「フェイ……」


 次の瞬間、温かい何かが俺を包んだ。

 腰にをそっと手をまわされる感触。

 

「……クリス?」


 驚いて顔を上げると、クリスは俺の胸を顔を埋めるように抱きしめてくれていた。

 いつもは何故か人に触れられるのを避けていたハズの彼女が、今はそんなことを気にする素振りもなく、俺を優しく包み込んでいる。


「バカね……泣き虫なんだから……」


 彼女の声が震えているのに気づいた。

 同時に、自分の行動が情けなくなる。


 ……そうだ、俺は本当に馬鹿だ。

 今から消えるのはクリスで、本当に辛いのは俺でなく彼女なのだ。

 さっきから俺ばっかり泣いていて、俺は彼女から何を学んだんだ。

 

 何やってるんだ、俺は。

 今ここで本当に慰めや励ましが必要なのは、俺じゃないだろ──


「…………!」


 俺の行動に、クリスの体は少し硬直する。

 俺は、彼女を抱きしめ返した。

 決して離さないとでも言うように、腕に力を込める。


「……ぅ……く……」 


 その瞬間、俺の腕に収まる小さな体が震える。

 彼女の肩がふるふると揺れ、その顔を埋めた俺の胸元がじんわりと濡れていく。

 涙だと気づいた時、胸が締め付けられるような思いがした。


 どうして気づけなかったんだ。

 これは俺が彼女にしたことじゃないか。

 情けない顔を見せたくないから、笑顔という名の"仮面"を被って、目の前の人を騙す。

 本当は"消える"ということに、こんなにも恐れていたのだ。

 それなのに、今までそれを感じさせず、俺を励まし続けてくれていた。

 でも、それが今、俺に抱きしめられることで完全に決壊したのだ。


「大丈夫だ、クリス……大丈夫……」


 俺は震える彼女の背中をさすりながら、精一杯優しい声で語りかける。

 もはや彼女を助けることなんてできない。

 でも、今だけは、せめて彼女の支えになりたい。


 俺は彼女をさらに力強く抱きしめた。

 どれだけ涙を流しても、どれだけ言葉が足りなくても、今だけは離さないと決めた。


「う……ぅぁああああああぁぁん!!」


 それからしばらく、彼女は俺の胸の中で泣き続けた。

 それはもう、"普通の子供"のように大声で──



---



 しばらく泣いた後、クリスは涙の痕を手の甲で拭いながら、ほんの少し照れくさそうに微笑んだ。


「なんか、誰かに抱きしめられるなんて、初めてかも……」

「……そうなのか?」


 まぁ、母親も居ない孤児だしそういうものなのか。

 イザール神父とかはよく子供達を抱きしめていた気がするんだが、確かにクリスが抱きしめられているのは何故か記憶にない。


「うん。だから、こんなに温かいんだなぁって、びっくりしちゃった」


 そう言って、クリスは恥ずかしそうにクスリと笑う。

 その笑顔はいつもの彼女らしい、けれどどこか穏やかで柔らかいものだった。


「俺も、こんなに全力で誰かを抱きしめたのは初めてだよ」

「……そっか」


 彼女は少しだけ視線を落とし、ぽつりと呟いた。


 ふと、彼女の体が少しずつ薄くなっていくのが目に入った。

 その輪郭が淡く光を放ち、透けるようになっていく。

 どうやら本当に別れの時が来たらしい。


「……お別れだね。フェイ、最後にこんなに嬉しい思いをさせてくれてありがとう……」

「クリス……」


 また涙が出そうになったが、もう泣きはしない。

 俺はぐっと拳を握りしめ、必死で堪えた。

 最後くらい、笑顔でいないと。

 彼女を不安にさせないように。

 

「ねぇ、もしよかったら、最後にあなたの名前を教えてくれない?」

「名前……?」

「うん、フェイじゃなくて、あなたの本当の名前……」


 彼女は俺の正体を知っても、変わらず受け入れてくれ、愛してくてた。

 だから、もう隠す必要なんてない。


「俺の、名前は────」



 ──光がクリスを包み込み、彼女の姿が少しずつ薄れていく。

 消えゆく瞬間、彼女はわずかに微笑んでいて……。


 最後にもう一度だけ抱きしめ、顔をそっと近づけた。

 まるでそれが合図にでもなったかのように、眩い光が俺たちを包みこみ──



 ---



 目覚めると、黎明の光が大地を静かに照らし始めていた。

 もはや廃村と化した荒れた大地の上で、俺は一人、体を起こす。


 俺の腕の中には、全く懐こうとしなかったハズのマルタローが何故かすっぽり収まっていて、スヤスヤと寝息を立てていた。

 ふと目に入ったのは、その毛色の変化だった。

 真っ白だったはずの毛並みは、左耳の部分だけが薄くベージュに染まっている。

 まるで、愛した彼女の面影でも宿したかのように──



 ---



《SYSTEM UPDATE: Access route to “<Goddess Chris’s Mana>” successfully established.》

《STATUS: Primary system remains in a state of disjunction. Synchronization unsuccessful.》

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